欠陥人生 拳と刃 作:箱庭廻
一生分の悲しみに哭き叫んでいる。
気が付けば。
阿呆なぐらいに静かな海岸に立っていた。
それはどこまでも遠くまで広がっていて。
それは目に見えないぐらいに透き通っていて。
だけど、底が見えない。
何時かテレビで見た大自然の光景にも似ていたが、頭上でずっと輝く月も無く星一つ見えない漆黒の夜空はなかった。
黒々と視界の全てが闇に覆われていて、目に見えるのは黒に染まっていない輪郭と漆黒だけ。
何故ここにいるのだろうか?
僕は疑問と共に口を開いて。
「 」
声が出ないことに気付いた。
(誰か)
そして、遅れて言葉が聴こえた。
自分の声が、自分の頭の中に響く。奇妙な感覚。
骨震動を通って聞く普段の声とはまるで別物で、思わず僕は顔を歪めた。
(どこだろう、ここは?)
歩き出す。
黒い砂の浜辺を歩く、けれど音がしない。いや、感触も無い。
まるで水のよう。
冷たいのか、熱いのか、それも曖昧な感覚で、どこかふわついている。
ざらめのようなキラキラした砂粒、黒い絵の具を撒き散らしたような色彩の黒空、息を吸おうと思ったけど肺が膨らむ感覚がない。
パクパクと金魚のように口が開いて、閉じてを繰り返すだけ。
想像上の真空の中を歩いているようだった。
昔テレビで見た月面を歩く宇宙飛行士の姿に、どこか似ていた。
歩く。
歩く。
歩く。
どれぐらい歩いたんだろうか。
浜辺に沿って、ずっと歩いているけれど、景色は全く変わらない。
空は相変わらず暗くて、墨汁みたいな海原が広がっていて、その向こうにあるだろう境界線の果ては黒砂糖でもまぶしたみたいに覆われてた。
何も見えやしない。
徒労感が滲み出てくる気がしたけれど、体は全然疲れていないのだ。
奇妙な感覚。
嗚呼。
(そういえば)
不意に思い出す。
(どうして、僕は、ここに)
いるんだ?
言葉にならない言葉に変えて、発しかけた時だった。
――なんだ、お前。
ピリリと頭のどこかが痺れて、引き寄せられたかのように振り向いていた。
向いた先、石油のようにねばついた海の浜辺。
其処で誰かが胡坐を掻いて、座っていた。
その姿を見ようとしたけれど、どんなに目を凝らしても輪郭ぐらいしか目に捉えられない。
だけど、何故か男だと思った。
何の根拠もないけれど、そう感じた。
(誰ですか?)
僕は質問する。
声が届いている保証はなかったけれど、口をパクパクと動かした。
――オレか? オレはただのオッサンさ。
暗い漆黒の中で、僅かに男が手を振った。
残光を曳きながら揺れる手。
まるで蛍のような光を放つ手が、顔辺りを掻いたのが見えた。
――お前こそ誰だ? こんな辺鄙なところによ。
声。
言葉の波動らしきものが飛び込んできて、僕はそれを理解する。
ピリピリと肌が震えて、声が染み込んでくるのだ。
(僕は――)
名前を名乗ろうとして、ブツンと電線が断絶したみたいに言葉が途切れた。
あれ?
名前。
(僕の……名前……)
思い出せない。
一瞬心臓の鼓動が激しくなる混乱が頭の中を駆け巡ったけれど、そもそも心臓が動いている気配もなければ、体温が上がることもなかった。
ただ静寂。
体が、蓋のない金魚鉢になってしまったような気がした。
その事実に気付いた途端、体が落下していくような絶望感。
――名前を置いていっちまったか。
男がどこか皮肉気に哂った様な気がした。
輪郭だけの口元を吊り上げて、彼がゲラゲラと笑いながら横の砂地を叩いて。
――ま、座れよ。時間なら短いようで、馬鹿みたいに長くあるからな。
そう告げたことに、僕は断る理由もなかったので横に座った。
座り、その視線の高さが変わっても海の黒さは変わる気配がない。
見つめているとどこか吸い込まれそうで、ブラックホールにも似た本当の漆黒。
そんな気さえ湧き上がってくる。
(ここは、どこですか?)
つま先から全身に染み込んでくるような恐怖。
それを押さえようと思い、ずっと胸に抱いていた疑問を訊ねた。
――ここか……何に見える?
男が質問を質問で返してきた。
まるで謎掛けのような言の葉に、少しだけ苛立ちが混じって。
(海岸でしょう? 馬鹿みたいに暗いけれど、どこかの海だ)
日本ではないだろう。
どこか知らない外国のような、今まで体感したことのない雰囲気がある。
けれど、思う。
声が出ない、喉から息吹が出ずに、震えることもない真空のような世界。
ここはもしかしたら他の惑星なのかもしれない。
昔読んだことのある古い文庫本。
銀河鉄道の夜、それに出てくる星々の瞬きにも似て、とりとめのない妄想を考えてしまう。
――そうか。お前さんにはそう見えるか。
とても不思議な場所と考えていた僕の思考を読み取ったかのように、言葉が飛んできた。
(どういう意味です?)
――俺には小石だらけの川瀬に"観えてる"。
(え?)
どこに小石があるのだろうか。
黒い星砂のような浜辺が広がっていて、見渡す限りの海原しかないというのに。
――ここは来る奴によって違う風に観える。ふわふわした雲の上だという奴がいれば、花が咲き誇る草原だといった奴もいるし、荒れ果てた荒野のど真ん中だといった奴もいたなぁ。
歌でも歌うように、留まることを知らずに言葉が染み込んでくる。
永遠と凪いだ水面を言葉で震えさせるかのように、強弱のはっきりとした言葉の羅列。
――ここはな、"彼岸"だ。
ひ、がん?
告げられた単語に、一瞬考え込んで。
(……嗚呼)
そうか。
どこか胸に納得するものを感じた。
そうだ、僕は――
――死んだ人間が来る場所だよ、小僧。
……死んだのだ。
死国。
あの世の入り口に、僕は辿り着いてしまっていた。
その後、僕と男の人と長くお喋りをしていた。
ここに来る人間はそう多くないらしく、男の人も退屈をしていたらしい。
いや、正確には通る人間は多いらしいのだが、さっさと目の前の海(彼には河)に身投げするように飛び込むらしく、話をする暇もなかったとか。
河に飛び込めば記憶は全て洗い流されて、転生の道を歩むと、彼は言っていた。
そして、それらを聞く間にも僕もまた何人か飛び込む人間を目撃した。
同じ人間だと思うのだけれど、変な形をしていたり、或いはひたすらに喚き散らしながらドロリと海に溺れていくものもいる。
――そういや水子らしい奴もよく見かけるなぁ。何度か懐かれたが、死神が連れていくんだ。
死神もいるらしい。
正確には海の向こうから船に乗ってやってくる人間の数人を乗せて運ぶとか。
彼は連れて行かれないのかと思って訊ねると。
――いや、あいつは強制しねえんだ。バスの運転手と同じで、乗りたい奴だけがさっさと乗る。
親切なのか、それとも自由意志に任せるのか。
運ばれていった先で乗った人たちがどうなったのかは彼も知らないらしい。天国に行ったのか、それとも地獄か。果てはまったく誰も知らないところなのか。
昔本で見た。
人は産まれる前から全てを知っていて、産まれる時に全てを忘れる。
という言葉があったけれど、人は死んでも何も知らないままのようだった。
死んでも馬鹿は治らない。
ただ死んで反省するかどうかぐらいなのだろう。
何もかも手遅れになった後知っても、まあ空しいだけなのだけれど。
とりあえず僕は急いで海に飛び込む衝動もなければ、死神が迎えに来る様子もなかったので、ずっと取り留めのない話をしていた。
名前以外にはなんとなく憶えている家庭のこと、過ごした環境、覚えていたジョーク、漫画。
それらに男の人は一々頷いては、僕の話すアニメや漫画、ドラマの話に。
――あ? それもう終わったのか。かあ、俺まだ見てなかったんだよなぁ、その前に死んじまったし。
と、どこか悔しそうで、それがどこか面白かった。
そうしてたっぷりとどれぐらい話したのか憶えていないほどに雑談をしていて、景色も変わらないままに不意に思い出したことを話題に出した。
(そういえば、僕剣術を習っていたんですよ)
――剣術? 剣道じゃなくてか。
(ええ)
――そりゃあ珍しいな。
珍しいだろうか。
バラバラに思い出した生活環境を思い出しても、大部分に剣を振るっている自分がいた。
そして、それを教えてくれる先生がいて、一緒に学ぶ仲間がいて、尊敬する兄弟子がいた。
だけど。
(僕は……それに意味があったのか、分からないです)
――意味?
ため息を吐き出そうとして、けれど口から出ることのない息。
そもそも心臓も、内臓も無くて、あるのは虚ろな手足だけの自分を見下ろしながら軽く目を伏せる。
(剣で何をしたかったのか。何を掴もうとしていたのか、何かを護れたのか。僕は強くなれたのか)
なにも。
なにも。
残らなかった。
記憶になく、思い出そうとすれば胸を込み上げるのは。
苦い味。
泣き叫ぶ声。
吐き出しそうな痛み。
ただ胸が苦しくなるような絶望感。
きっと碌な死に方をしなかったのだろう、自分。
無意味で、無価値で、情けなかったのだろう。
発狂しそうな静寂の中で、触れるたびに音も無く崩れる砂を指で掴んで、手で握った。
握力もなく、握ったそれの感触すらも無かったけれど、僕はただ悔しかった。
涙が零れないのが、より辛い。
嗚呼、嗚呼、僕は一体。
何をして、何のために生きて、何のために死んだのだろうか。
――くだらねえな。
その時、冷たい言葉が全身を打った。
――意味なんて知る必要あるのか?
目を上げれば、どこか怒ったように、或いは嘲るような気配を持った男の姿。
断言するような口調に、僕は怒りが込み上げてきた。
(意味を知る必要はある。だって、そうじゃないと)
――死んだ自分が可哀想、とでもいうつもりか。
男が立ち上がった。
一瞬前まで座っていたのに、まるで炎が吹き上がったかのような唐突さで立っていた。
僕を見下ろしていた。
――剣術なんて俺は慰め程度にしか知らんが、戦うってことだけは知っている。
手を振るう。
揺ら揺らと陽炎のように揺れる手で、彼は漆黒に染まった世界を薙いで、そこに構えていた。
背筋が震えるほどに迫力がある姿勢。
威圧感。
それが自然と其処にいる、溶け込むようで、どこか怖くてたまらない。
――立てよ。
(え?)
――立ってみろ。
強い言葉。
それに僕は従うように立ち上がり、見える世界の位置をずらした。
(立って、それで)
どうするんですか?
そう訊ねようとした瞬間、世界が回っていた。
(え?)
空を飛んでいた。
痛みはない、感覚は無い、だけど回転した世界は確かに空を飛んでいることを証明していて。
テレビのモニターで見た飛行風景のようだった。
そして、僕は音も無く浜辺に墜落し。
――カカッ、人は殴れるんだな。死んでもよ。
どこか愉しげに笑う男を見上げていた。
(何を!?)
――むかつくからだ。これ以上泣きべそ書くようだったら、河に叩き込んで、強制的に転生させるぞ、テメエ。
理不尽な言葉だ。
動かない心臓を動かして、僕は出されるはずもないアドレナリンが脳を支配したかのように、怒りを覚えた。
(あなたに何が分かるっていうんだ!)
僕の怒りを。
僕の悲しみを。
僕の、僕の、何一つ得られなかっただろう絶望を。
彼は知るはずもないのに。
――知るか。だけど、言えることがある。
蜃気楼のように彼は揺らめきながら、空に手を上げて。
男は告げた。
――人生の意味は死んだときに考えるな。生きてる間に考えるもんだ。
それは重く。
泣き叫ぶような響きだった。
――死んだら何も残らない。今いる俺たちだって死ぬ直前に見た幻かもしれねえ。
だから。
――死んだときに満足出来るように、ただ足掻いて、一生懸命に笑っていろよ。
その言葉はどこまでも大きく、静かに、響いていた。
陳腐な言葉なのに、胸が引き裂けそうなぐらいに大きくて。
ただひたすらに思っている真実の言葉で。
僕は。
(だけど、僕は――)
――自分を信じろよ。きっと満足して死ねたんだって。
いつの間にか近づいた彼は僕の肩を叩いた。
重さなんてないはずなのに、バシバシと響いたような気がした。
――それにな。
彼は僕を起こして、不意に振り返った。
(え?)
その瞬間、世界が一変した。
色鮮やかな華が咲き乱れていた。
紅く、赤く、朱の彼岸花の花びらがどこまでも舞っていた。
世界がとても綺麗で。
世界がとても美しくて。
僕は泣き叫んでいた。
「なんだよ、これは――え?」
声が届いた。
声が聞こえた。
僕は振り返る。
其処に一人の男性が立っていた。
年は三十ほどで、染め上げた茶髪に、革のジャケットと着古したジーンズを穿いた美男子。
そして、とても人だと思えた。
「ありがとな、アイツの友人でいてくれて」
「え?」
彼が告げる。
彼が笑っていた。
嬉しそうに、とても嬉しそうに。
「俺の馬鹿弟子は生きているんだな、まだ」
「貴方は――」
その瞬間、風が吹いた。
とても強い旋風が吹き込んできて、紅い花びらが視界を埋め尽くし。
「俺は真崎 信司。コウセイの師匠だ」
世界が終わった。
何も見えない。
何もかも紅く塗り潰されて。
「ああ、チクショウ。もうちょい生きたかったなぁ」
あまりにも。
あまりにも解り過ぎる、無念の一言に僕は嗚咽した。
それが僕のこの世界での終わりだった。