欠陥人生 拳と刃   作:箱庭廻

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もう数話進んだら新作閑話も投稿予定です


四十六話:流れるままに受け入れるしかない

 

 

 

 

 流れるままに受け入れるしかない。

 

 

 

 昼休み。

 日当たりのいい中庭に座りながら、柴田は言った。

 

「はぁ~、マジで動かねぇのか?」

 

「うん」

 

 ヤキソバパンを齧りながら無造作に訊ねてきた友人に、僕は頷く。

 右手一本、それだけで開いた弁当。膝の上に乗せたそれを支えるべき左手は動かず、感覚すらもなくだらりと垂れ下がっているだけ。

 弁当に入ってるウィンナーを右手の箸でつまみ、口の中に放り込みながら呟いた。

 

「思ったよりもね、右手だけってのは……大変だよ」

 

 昨日退院し、こうして再び登校するまでの短い間にも散々苦労をした。

 体を起こすのは腹筋でなんとかなるけれど、左手で食器を支えることも出来ないからご飯が食べにくい。扉を開ける動作にも一々手間がかかるし、お金を取り出すのにも脇で挟んだりして取り出さないといけない、缶ジュースも開けるのが難しいし、ノートを広げるのにも右手をよく使わないといけない。

 まだ二日しか経ってない片腕生活だけど、苦労ばかりでストレスが溜まる。教室にいれば同情的な目線があるし、鬱屈が溜まってしょうがない。

 今までどれだけ両腕があることが大事だったのか痛感する。

 あー肉美味しい。

 

「大変だな」

 

 柴田は同情的な目と態度と、ついでに困ったようにぺしっと額を叩いて息を吐いた。

 その態度に深刻性はない。

 けれど、それは決して僕の状態をどうでもいいように思っているわけじゃない。

 

 ――腫れ物を触るような態度と、普段通りの態度。どっちがいい?

 

 僕の状態を聞いて、頭を掻き毟った柴田がまず一番に発した言葉がそれだった。

 そして、僕は後者を選び、柴田は普段通りの態度を取ってくれた。

 時折気を使うような態度をするけれど、それは彼の優しさだと思った。

 一々気を使われるよりは自然体で相手してくれたほうが気が楽で、救われる。

 

「で、どれぐらいしたら治るんだ?」

 

 柴田はヤキソバパンを食べ終えて、続いてウィンナーの挟まったロールパンを齧り出した。

 僕は一端箸を置いて、紙パックのジュースを右手で掴み、ストローに口付けながら答える。

 

「まだ不明だけどね。リハビリしていくから、一年か、二年か、それぐらいには多分治るんじゃないかな」

 

 下手をすれば一生治らないかもしれない。

 そう言われている事実は伏せる。

 あくまでも精神的なものが大きい不具合だから、もしかしたらすぐに治るかもしれない。

 先行きが不安で、考えれば考えるほど胃が痛くなって来そうだから、僕は一端思考を打ち切った。

 最後に残しておいた卵焼きを掴み直した箸で刺し、口に入れる。うん、ほどよく甘いなぁ。

 

「すぐに治ればいいなぁ。んで、ちょっと気になってたんだがいいか?」

 

「なに?」

 

 モグモグと最低三十回は噛むことを義務付けて卵焼きを噛み砕いている僕に、柴田は三個目のツナマヨネーズおにぎりを飲み込んでから言った。

 

「お前手が動かないんだよな? その弁当どうしたんだ? 手作りっぽいけど」

 

 寮暮らしで親御さんと暮らしてないはずだったよな? と柴田は首を捻るが、僕は簡単に答えを言った。

 

「ああ、長渡が僕の分も作ってくれたから。材料費は割り勘だけどー、助かってる」

 

 僕と長渡はお互い一般常識レベルで料理は出来る、ていうか家事は出来る主夫なのである。

 休日に掃除機を掛ける僕の横で、洗濯物を干したり畳んでたりする長渡の光景など見慣れた日常だった。

 片手使えないから治るまでは長渡の負担がでかくなるのが心苦しいが、腕が治ったらお礼をしようと思ってる。

 

「愛妻弁当ならともかく、親友弁当ってのも微妙だな」

 

「……不毛だからやめてよ。食べられるだけ幸せだよ」

 

 ええい、うるさい。

 一人分作るのも、二人分作るのもぶっちゃけ手間的にはそんなに変わらないんだ。

 ……材料費も安く浮くしね。

 

「可愛い恋人なんて空から降ってくるわけないし、期待するだけ無駄無駄」

 

 彼女なんて出来ません。

 欲しくないといえば嘘になるけど、機会とか奇跡とか巡ってこないと僕らのような非モテ人間が可愛い恋人からのお弁当とか本命チョコをもらえるわけないじゃない。

 万が一空から降ってきても丁重にお断りさせていただきます。

 

「現実は儚ぇなぁ」

 

「人の夢とかいて儚い、からねぇ」

 

 はふんと互いにため息を吐き出して、僕は弁当の蓋を閉め、柴田は最後に口に放り込んだ四個目のおにぎりをモグモグしながらビニール袋を片付ける。

 弁当用の輪ゴムを片手で広げて、通し、適当に最初包んでいたバンダナで覆って鞄にしまった。

 

「で、短崎。お前部活どうするんだ?」

 

「あ~、どうしょうか」

 

 体調自体はあまり問題はない。左腕以外は殆ど治ってると医者からも言われてる。

 片手使えないと、竹刀を片手で持つことになるだろうから多分まともな打ち合いも出来ないだろう。

 防具の着付けもあるし、本来なら休むべきだろうけど……

 

「稽古ぐらいならやっていたいな」

 

 正直体を動かしてないほうが辛い。

 師範の道場に行くにしても土日じゃないと迷惑だろうし。

 

「ならすりゃあいいじゃねえか。部長と顧問には口ぐらいは聞いておいてやるぜ?」

 

「……いいの?」

 

 迷惑じゃないのか、そう訊ねると。

 柴田は一瞬目を丸くして、すぐにゲラゲラと笑い出した。

 

「喋るぐらいだから気にすんな。友達だろ?」

 

 そう笑顔で告げる柴田は、茶髪に染めた不良っぽい外見と口調からは想像も出来ないぐらい良い奴だと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 授業を終えて、いつもと違って教科書を鞄に入れず机に入れたまま席を立った。

 

「短崎ー、一緒に飯でも食いにいかねぇ?」

 

「あ、ごめん。僕部活にいくから」

 

 級友からの言葉に、僕は軽く微笑んで断る。

 

「え? だけど、お前、腕大丈夫なのか?」

 

「竹刀ぐらいは振り回せるから」

 

 心配というよりも疑問そうに僕の左腕を見る友人に、軽く右手を横に振ってそう告げた。

 僕は剣道着などを入れた袋と竹刀袋を左肩に掛け、廊下に出る。

 

「んじゃいくか」

 

「だね」

 

 廊下で待っていた柴田と合流し、剣道場に向かった。

 歩きながら最近のニュースやドラマの雑談をしていると、時間の経過を忘れて剣道場に到着する。

 

「ういーす」

 

「久しぶりでーす」

 

 剣道場に入ると、早々と着替え終わった部員たちや竹刀を振るう先輩たちがいた。

 そして、その中に堂々と挨拶をする柴田と控え目に挨拶をしておく僕。

 視線が集まり、適当に声をかけてくる人たちに返事をしておく。

 

「じゃ、着替えようぜ」

 

「うん」

 

 挨拶を終えて、更衣室に向かおうとしたのだが。

 その時だった。

 

「あ」

 

 こちらを驚愕と動揺の目で見つめる少女の存在に気付いたのは。

 桜咲 刹那。

 彼女の視線を感じながらも、そういえば何時ぶりだろうかと一瞬考えた。

 あの雨の夜に会った気もするけれど、うろ覚えの記憶。

 目が覚めれば病室だったし、長渡から聞いた面子の名前にも彼女の名前は出てない。とはいえ、きっといたのだろう。

 ならば、僕の左腕のことを知っているのだろうか?

 

「短崎、どした?」

 

「いや、なんでもない。さっさと着替えようか」

 

 桜咲から視線を外し、僕は顔を背けるように更衣室に入った。

 同じように着替えている部員たちの間をすり抜けるように自分の位置を確保し、鞄などを置いて害制服を脱ぎ出す。

 片腕だけだとやっぱり着替えに時間がかかり、柴田は先に話を通してくるといって出て行き、僕も遅れて更衣室から出た。

 防具は着けず、竹刀だけ携えて、動かない左腕をぶら下げながら板張りの道場に戻る。

 

「ふぅ」

 

 更衣室から一歩踏み出せば、途端に聞こえだす振動、騒音、熱気。

 裸足で剣道場の中に入る。ひんやりとした床の感触、右手に握り締めた竹刀の感覚が久しぶりの得物だと感じられた。

 軽く視線を巡らせれば、藤堂部長と話をしている柴田の後姿が見えた。

 

「お、短崎。着替え終わったか」

 

「災難だったな、短崎」

 

 軽く手を振るう柴田に、相変わらず背丈の大きい体でこちらを見る藤堂部長。

 ペコリと頭を下げておく。

 

「いえ、大したことないですから」

 

「片腕動かないのが大したことなければ、病院はいらないだろう? 腕以外には問題ないのか」

 

 淡々と藤堂部長が言葉を並べて、訊ねてくる。

 それに僕は慌てずに用意しておいた言葉を吐き出した。

 

「あ、はい。柴田にも伝えたんですが、体は平気です。左腕が肘から先が動かない程度で、他には体調は崩してません」

 

 医者からの保障付き。

 体には問題は無い。あれだけの傷を負っていたのにもう傷跡もないぐらいに治ってる。

 ただ左腕を除いて。

 

「……ふむ。それならまあしばらくは素振りと走りこみぐらいのほうがいいか。片腕だけでどこまで振れるか試したか?」

 

「あ、いえ」

 

 藤堂部長の言葉に、横に首を振る。

 持っていた鍛錬用の木刀も月詠によって破壊されたし、退院したのが昨日なのだ。

 まだ剣を振ってすらいない。

 

「そうか。柴田、お前急いでないなら短崎の面倒を見てやれ」

 

「あ、はい。いいっすけど?」

 

 元からそのつもりだったし、と柴田は付け加えると、藤堂部長は頷いて。

 

「頼りにしたいことがあったら話し掛けてこい。俺は他の奴も見ないといかんしな」

 

 そういって背を向けて、他の部員たちへの指導に戻っていった。

 

「なんだぁ? まあいいや、短崎。とりあえずあっちのスペース空いてるから、体操しようぜ」

 

「わかった」

 

 邪魔にならない道場の隅に言ってから、準備体操をする。

 五分ぐらい時間を掛けて入念に柔軟運動。

 動かない左腕に関しては医者に言われたとおり、軽く揉みほぐす程度の刺激で抑えておく。

 腰を捻るたびに慣性の法則に従って勝手に揺れる左腕の重み、神経は通っているはずなのに不思議と何も感じずただ重いとしか思えないそれ。

 吐き気が湧き立つほどにうざったいそれへの嫌悪感を噛み締めながらも、屈伸を終えて、僕は立ち上がった。

 

「体操終わったよ、ちょっと素振りするね」

 

「お、そうか?」

 

 まだ屈伸体操を続けている柴田の横で、僕は竹刀を右手に握り、軽く構えた。

 小指から折り曲げて絡めるように刀柄を手に収める。

 膝を伸ばし、姿勢を正し、普段は寄り添わせるべき左腕の手順を省いて、右手を振り上げた。

 ゆっくりと上げて。

 

「ふゅっ!」

 

 息を洩らしながら、軽く踏み込むように右手を振り下ろす。

 そして、右手の動きと連動して竹刀の刀身が落下し、孤を描くように振り放たれて――"グニャリと歪んだ軌跡を描いた"。

 

「え?」

 

 手を振り下ろして、振り抜かれた竹刀の手ごたえに一瞬息が止まった。

 動揺して、胸の前で止めることも出来ずに竹刀を振り抜いてしまう。

 

「すぅ、はぁ」

 

 僕はたたらを踏みながらも、再び姿勢を戻して、上段から竹刀を振るった。

 体重を乗せる、思いを乗せる、刃の重みを重ねる。

 それを思い描きながら何度も何度も過去に振るってきた剣撃を放とうとして、ガクリと揺れる竹刀のブレに目を見開く。

 剣速が遅い。

 それ以上に軌道が安定していない。

 僕の斬撃はまるでなまくらの様に無様だった。

 

「……おい、短崎」

 

 柴田の声が聞こえた。

 僕は振り返らないまま声を洩らす。

 

「……なに?」

 

「片手打ちも出来ないってわけじゃなかったよな? 気付いてるか? お前、動きがガタガタだぞ」

 

「え?」

 

 柴田が体操をやめて腰を上げると、僕の右手から竹刀を奪った。

 右手一本、それだけに竹刀を持って。

 

「ちょっと見てろよ」

 

 柴田は握りを確かめるように竹刀を軽く振るうと、姿勢を正した。

 流れるように足を動かし、腰を廻し、肩と腕と手が連動して駆動する流麗なフォームで竹刀を振るう。

 理想的なフォーム、二刀流故の独自の姿勢があるけれど迷いもなく一本の筋が通った素振り。

 

「まあこれが本来での素振りだ。けどな」

 

 柴田が一端こちらに振り向くと、左腕を軽く振り上げて見せ付ける。

 そして、おもむろにだらりと左腕を下げると、右手一本だけ突き出した姿勢。

 どこか重しの付いたような傾いた姿勢で、柴田は上段に竹刀を構えて、息を吸い込む。

 

「りゃああっ!!」

 

 息吹を発す。

 気合を入れながら、柴田の体が駆動する。足を踏み出し、手を動かし、竹刀を振るう。

 激しい動きで、荒々しい風のような剣打。だけどそれは、どこかギクシャクしていた。

 振り抜いた竹刀の軌道はぶれていた。何故?

 左腕を庇うような姿勢、傾いた構えで、脚の動きが硬直して、右腕に力が入りきらない格好。

 だから分かる。

 ああ、それは――

 

「今のお前、こんなんだぜ?」

 

 今の僕はこんなものなのか。

 柴田はバツ悪そうな顔で再現したことを告げる。

 

「左腕を庇ってる、のかな」

 

「自覚してなさそうだな。今日は素振りだけにしておいたほうがいいぜ」

 

「……そうしておくよ」

 

 まともに竹刀も振り抜けない状態だと、基本稽古すら意味が無くなる。

 ゆっくりと竹刀を構え直して、反復練習のようにひたすら振り続ける。

 変わってしまった重心、姿勢、積み上げてきた時間。

 それらが何もかも意味を無くしてしまったような失望感。

 

 それに吐き気と込み上げるような涙を押さえ込みながら、僕は竹刀を振るい続けた。

 

 

 

 

 

 一回振るえば手首が軋む。

 十回振るえば上体が揺らぐ。

 二十回振るえば下半身が硬直する。

 体がバラバラになってしまったようで、ギクシャクとした動きは全身を痛めつけて、それでも喘ぐように素振りを続ける。

 柴田が練習に行って、それでも僕はただひたすらに竹刀を振るった。

 手首が痛い、全身から汗が噴き出す、熱気のせい。

 だけど、それでも体を動かす。

 思い出せ、思い出せ、自分の一刀を。

 竹刀の刀柄を強く強く握り締めながら、ギチギチと軋みを上げるそれを振り翳す。

 熱気の篭った道場の空気を叩き潰し、歪みの無い剣撃の軌跡を目指してただ打ち込む。重くてたまらない感触。

 ポタポタと流れ落ちた汗が足元の板に砕け散る、濡れる、滑る、けれど足の指で足場を掴み、手を駆使する。

 風を斬る音。

 風を叩き潰す音。

 弧を描いて、剣尖が奔り、疲労感と共に竹刀の刀身が上から下に駆け抜ける一撃。

 どれも満足がいかなくて、弱くてたまらなくて、何一つ納得なんていかなかった。

 衰えるならまだ納得がいく。

 鍛えなおせばまだなんとかやれるから。

 だけど、失ったものはどうすればいい。

 取り戻せるかどうかも分からないものを埋め立てるものは、本当に元通りにしてくれるのか。

 動かない左腕、ぶらぶらと動く旅に揺れる重し、それから伝わる空虚な神経感覚。

 例え折れても、例えまた失っても、何も感じないのだろうか。そう思えてくる、無機質さ。

 左腕があるのか、それすらも不意に考えてしまうほどで。

 

「ふっ、ふっ、ふっ!」

 

 息を発しながら、汗を流しながら、刃を放ちながら、僕は素振りを続ける。

 そうじゃなければ泣いてしまいそうだった。

 動いていないと泣き叫びそうだった。

 まだ甘く見ていた、自分の失ったものの重さと悲しさに声を上げたくなる。

 だけど、今は部活中で。

 僕は歯を食いしばり、嗚咽を堪えながら、体を痛めつけることしか出来ない。

 熱が昂る、熱がある、熱気が溢れる。

 夏の近づいた季節は蒸し暑く、涙すらも許さないぐらいに汗が流れ出る。

 手足はバテてきて、気力だけで誤魔化して切れなくなった頃だった。

 

「全員休止! 一端休憩するぞー」

 

 藤堂部長の大きな声と共に、僕は振り抜いた竹刀を止めきれずにたたらを踏んだ。

 ズルリと崩れた姿勢を、少し慌てながらも立て直す。

 

「……休憩?」

 

 見上げれば、道場の壁隅に置かれた時計が既に部活開始から一時間以上経っていることを知らせていた。

 外はまだ夏が近づいていることで夕方のように明るく、晴れ渡っている。

 各々が騒がしく道場の外に涼みにいったり、隅に座って休み、タオルで顔を拭っていた。

 僕もまた息をゆっくりと吐き出すと、手に持っていた竹刀を邪魔にならない場所に置いて、外に出た。

 バラバラと脱ぎ捨てられていたりする共用のサンダルを一つ履いて、道場の外にある水道に行く。他の部員とかも使っているけれど、横に五人ぐらい同時に並べる水道の端っこが空いていた。

 

「あ~」

 

 右手で蛇口を捻り、勢い良く流れる水に右手を付けて、冷やす。

 よく見れば右手は赤くなり、擦り傷にも似た状態になっていた。

 剣を振るって手を傷めたのはいつ振りだろうか。そんなことを考えながら、僕は顔を近づけて、パシャパシャと右手だけで顔を洗う。

 猫のように丸めた手で目元を拭い、器のように変えた手の平に水を貯めて、顔に浴びる。

 目を瞑った瞼に水が心地用て、啜るように口の中に水道水を含み、軽く口の中でもごもごして吐き出す。

 横の部員たちがさっさと手や顔などの濯ぎが終わったのを見ながら、僕は顔を下げて、頭から水を浴びていた。

 

「ぅー」

 

 頭からびしょ濡れになるが、あまり関係ない。

 汗だらけで気持ち悪かった事もあり、むしろ心地良いぐらい。

 そして、十分気が済んだので右手で蛇口を捻って止めて、僕は体をゆっくりと起こそうとした時だった。

 

「あの、短崎先輩」

 

「え? ――ぐぇつ!?」

 

 声がしたので、僕は起き上がろうとして、ガツンと蛇口に頭が激突した。

 

「っ~~~!!?!」

 

 脳天から伝わる痛みに、僕はしばし息をやめた。

 

「あ、あの、大丈夫ですか!?」

 

「だ、大丈夫……」

 

 慎重に頭を水道から引き抜いて、濡れた髪を振り乱しながら顔を上げた。

 ポタポタ、ダラダラと流れる水の感触と濡れそぼった前髪の間から映るのは一人の少女の顔。

 タオルを手に持ち、こちらを心配そうに見る桜咲の姿だった。

 防具などを外し、汗に濡れた剣道着だけでこちらに目を向けている。どこか艶やかな格好、芳香が漂ってきそうな色っぽさ。

 

「桜咲? えと、なに?」

 

「あ、あの、その前に……これ使ってください」

 

 用件を尋ねようとした僕の前に、桜咲がタオルを差し出した。

 質素な飾り気の無いスポーツタオル、乾いたそれに小首を傾げながらも右手で受け取る。

 

「え、いいの?」

 

「あ、はい。ずぶ濡れですし、使っていいですよ」

 

「ありがとうね」

 

 突然の親切に内心驚きながらも、受け取ったタオルで頭を拭いた。

 右手だけでの擦るような拭き方に、顔を拭い、首周りだけ拭かせてもらう。

 出来れば胸とか、腹も拭いたかったけれど、他人の、しかも女の子のタオルでそこまで拭くわけにはいかないだろう。

 拭き終わった後、膝などを使ってタオルを置き、出来るだけ丁寧に折り畳んだ。

 

「えっと、これは洗って返せばいいのかな?」

 

 そして、再び手に持ったタオルをどうすればいいのか迷うと、桜咲が慌てて声を上げた。

 

「あ、いいです! そこまでしてもらわなくてもいいので!」

 

 手に持っていたタオルを、桜咲が取り返した。

 どこか戸惑った態度、ぎこちない光景、違和感を覚えるほどにらしくない状態。

 

「それで、何の用かな?」

 

「あ、はい。ちょっと話したいことがあるんですが……時間を取ってもらえますか?」

 

 真剣な眼差しを浮かべて、桜咲がこちらを見た。

 その瞬間思う。

 嗚呼、何か伝えようとしていたのか。と納得する。

 

「えと、部活の後でいい?」

 

「あ、はい」

 

 お願いします。

 そう頭を下げる彼女に、僕は息を吐き出し、何があるのだろうかと考えた。

 

 

 

 いずれにしてもそれは僕の転機だったのだろう。

 

 ありもしなかった目標を一つ手に入れるきっかけで。

 

 変わらないものなどないことを証明する、たった一つの駆動だった。

 

 

 

 

 

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