夜。
太陽は隠れ、空からの暖かなオレンジがちょうど消え失せた頃。春の肌寒い風が残りわずかとなった桜の花びらを攫って吹き、ざわざわとさざ波のような葉擦れを奏でている。
そんな静謐が流れる無人の公園で、突然、何かが落ちた音がした。
バキバキガサガサ枝葉を突き抜けたそれは植え込みの灌木に墜落し、クッションのように撓めて一際大きな騒音をかき鳴らす。折れ、湿った地面に落ちた騒ぎの一部始終は、しかし木々の壁に吸い込まれ、余人に届くことはなかった。ただ、遠くの街頭から届くおこぼれのようにか細い光だけが、植え込みをはみ出たその姿を照らしている。
うつ伏せに倒れているのは、一人の女だった。
暗がりにぼおっと浮き上がる白い肌。白磁のような滑らかさと相俟って、ともすれば作り物のようにも見える身体には、その美しさを汚す擦り傷切り傷が無数に刻まれている。騒ぎの代償に負ったのだろう。それらの傷は真新しい赤と青紫色をしていた。
だが、どれも深くはない。枝に打たれ、引っ掻かれた程度では、もちろんそう。無数にあることを加味しても、掠り傷の域を出ないものだ。
にも拘らず、女の肌色は死人と見まがうほど血の気の引いた病的な白だ。風に触れた葉先が傷口をなぞっても、ぴくりとすら反応しない。
落下の衝撃だって、木々に減衰されたためにさしたるものではなかったはず。では何故これほど衰弱しているのか。それは背中に見えていた。
血濡れだった。辛うじて背に繋がり、垂れ下がっているそれは、
絶え間なく零れて地に染みる血潮もさることながら、生命を侵す主なる要因は別。潰れた翼のその傷口に残留する尋常ならざる力、
身体に酸を注がれ、じわじわと内から融かし進められている、というのが一番近い表現だろう。『自分』というものがとろけてなくなっていくような、例えるならばそんな恐ろしさが、無意識下の女の恐怖心を揺さぶっていた。やがて高まった根源的危機感によって無理矢理に失神から引きずり出され、得体の知れない強烈な冷たさが巡って意識を灯した女の脳は、ようやく思索の機能だけを取り戻し、思う。
どうしてこうなったのか。
虚ろな目を開け、女は浮かぶ疑問に導かれるまま、自身の記憶を掘り返す。
ほとんど夢現の中で考える彼女、堕天使レイナーレは、歩んでいたはずの栄光への道を思い返し、遡った。
堕天使の長、アザゼル様の命に従い、危険な
それが、たぶん始まりだ。
どんな重症だろうがたちどころに回復させてしまう、強力な回復系神器、
持ち主である小娘は、聖女の身でありながらその力で悪魔を癒してしまったために教会を追放されていた。
そうなった場合、間違いなくそれは、アザゼル様の言う危険な
多少上の命令から外れていても、殺せさえすれば証拠も問題も残らない。
それに、どうせ散る命なら有効に使ってやるべきだろう。理屈と建前で形作り、そのために差し伸べた舌先三寸の手は案の定、何の疑いもなく掴まれた。自らのこのこ処刑台にやってきた小娘は、途中、世話を任せていた配下の人間が勝手をしたせいで不信を抱きはしたものの、結局最後には思惑通りに十字架の上で死んだ。
そうやって得た力で、私は至高の堕天使になれるはずだったのに。
渇望が満たされた確信に歓喜したその直後、それを打ち砕かれる心境は、到底言葉にすることが叶わない。
崩れ始めたきっかけは、何だったのだろう。
――拠点とした教会が悪魔の縄張りの中であると、知ることができなかったからだ。
思ってもみなかった。上に怪しまれる可能性があると考え、調べようとしなかったのだ。
廃れたとはいえ教会があった土地に、悪魔が住み着くと考え難かった故の手抜きであるが、しかしその想像は外れる。一帯を治めるその悪魔は、残された微弱な威光など関係ないくらいの格の持ち主だった。
悪魔の名門である七十二柱の一つ、グレモリー家の娘だ。生まれた時からその将来を約束されている、赤髪の貴族悪魔だったという不運。
だが知っても、変わらず計画は続けられた。
悪魔の敵でもある神の信徒の一匹を、ただ殺そうとしているだけに過ぎないレイナーレ。地位と権力、それに名誉までもを持ち合わせる貴族悪魔は、実害のないレイナーレたちにその重い腰を上げることはなく、きっと敵同士のつぶし合いを傍観することを選ぶだろう、と。
根拠は縄張りであると知る前。気晴らしとカモフラージュを兼ねて
特別おかしなことをしたわけではない。何ら考えず、堕天使としての力を使って殺した。殺せてしまったそのことこそが証明書だ。隠しもせずに実行したそれを止めに来なかったとはつまり、
あるいは単に気付いていなかったのかもしれない。どちらにせよ、差し迫った脅威でない限り、自分には関係ないと思っているのだろう。栄えある堕天使を『カラス』などと称する、傲慢な悪魔らしい愚かさだと思った。
そんな奴らが相手ならば、構わなければいい。どうせ口だけなのだから、その存在をことさら脅威に見ることはなかった。
たとえ、殺したはずの
不運にとどめを刺したのが、こうやってできた強固な思い込みだ。
すべて、打ち破られた。
念のためにと立てていた見張りの配下も、拾い物のはぐれ
ごくありふれた
「……な……ん、で……」
手遅れであったはずなのに。
儀式は成功したのだ。無傷とはいかなかったが、攻め込んできた男の手は届かず、達せられた儀式は小娘の命を奪い、その身に宿していた力をレイナーレへと受け渡した。それでおしまい。抵抗は無意味に終わり、持ちうる者となったレイナーレの、その長く焦がれた念願が叶うと、決定付けられたはずだった。
下剋上など、現実には起こりえない。そうだと知っていた。なのにその時、何もできなかった無能な男は、無力ではなくなっていた。
いや、違う。私がくだらないと嘲笑った男は、端から力無き者ではなかったのだ。
男は身の内深くに眠っていた力、通常の
挙句にようやく手にした力をも剥ぎ取られ、即死はせずとも致命傷。とどめを放った赤髪悪魔の眼を掻い潜り、気付かれることなく転移をしてのけたことだけが、唯一悪魔たちを嗤ってやれる戦果だった。
「……な……、で……」
あんなつまらない奴が、どうしてあんな力を持って生まれたのか。どうして、私にはその力がないのか。
長く苦汁を舐め続け、ようやく得たチャンスにリスクまでもを背負い、得ようと苦心したその力。すべてをつぎ込み、手に入れようと足掻き、誰よりも望んでいた。なのに今、身体は動かず地に這い、何も残らなかった命は消えかけている。
けれど、私がどれだけ求めても得られなかったモノを生まれ持ったあいつは――すべてを、まるでヒーローのようにひっくり返したあいつは――
「………。で……」
奴らには力があり、私には力がない。それだけのことなのに。
この世の中、力の大小がすべてを決める世界。栄光ある堕天使に生まれようが、容姿や身体がどれだけよかろうが、強さを必要とする世界では、ただのレイナーレなど一銭の価値も無かった。
強くなければ、至高の堕天使になれなければ、名すら見てもらえない。才能なき者は、集団を埋める戦闘員Aでしかない。替えが利く消耗品だから、重要とされず、使い捨てられ、光は決して照らさない。
光の下にさえたどり着けない
どこにでもいる、どこにでもある、ありふれたこと。だから、
死ぬ時でさえ、こんなにも静かだ。
「……だれ……か……」
誰にも認められない。誰からも必要とされない。
ならば、この私という存在は――
「……ぁた……し、は……――。……たし、……を……」
だれか
「――み……て……」
光の消えた眼が、遠くに佇む街灯を映す。すべてが尽き果てる直前、熱に惹かれた真白い手が伸び、半ばで果てた。
レイナーレは溶け落ちる。溶けて、ぬるい黒に沈む。
黒い羽根と、腕に巻き付くシュシュの残骸が、風に攫われ夜空に紛れた。
肌寒さが少しだけ薄らいだように感じた。
全身の肌を駆け抜けていた冷たい風が淀み、底冷えがほんの少しだけ和らいでいる。触覚が感じ取ったその変化の刺激で、私は泥のような暗闇から意識を浮上させた。
ゆっくりと開け始める脳内。冷たい呼吸の中に青臭い緑と土と、酸っぱいようなにおいが混ざり合う。嗅覚に引っ掛かったそのにおいは、思考と、耳に流れ込んでくる音を理解するだけの機能を呼び戻した。
聞こえていた雑音は、葉擦れと、男の声だった。
「――し、死体……じゃあないよな……息はしてるし……。でもどういうことなんだこの状況……酔っ払いの……お、お姉さん?な、ならやっぱり、起こすべきだよな……?」
妙に気食の悪い好色そうな声色が、私の肩に触れた。布越しに感じられるのは、熱いくらいに温かい手の温度。
「お、おおお……お、オレ、女の子に触ってる……服が薄いせいでほとんど直の肌の……い、いやいやいや、そんな場合ではなく……お、おーい、誰かは知りませんがお姉さん、こんなところで寝てたら風邪引きますよー……」
「……寝て、ないわよ……それ、やめてくれる?」
おっかなびっくりに肩を揺する温かい手は冷えた身体に心地よかったが、同時に滲んできた手汗は少々気持ち悪くもある。ヌメッた肌触りに対する嫌悪感が半ば自動的に手を払い、戻りきらない平衡感覚のまま、私は乾いた地面に腕を張って無理矢理上体に力を込めた。
まるで生まれたての小鹿のように筋肉が震えた。立ち眩みのような明諦観が続く頭も相俟って、再び倒れ伏しそうになる。それを歯を食いしばって堪え、細い枝葉の中から身体を引っこ抜いて起き上がった。
ふらつく頭を上げ、そこでようやく瞼を震わせた私は、次いで夜眼に浴びた逆光に眇めながら、そいつの姿を眺めた。
坊主頭だ。学生服姿がいかにも野球部の印象を醸しているが、体形はそうでもない中肉中背……いや、少しだけ筋肉質か。ともかく、どこにでもいそうな男だ。
そんな彼が、眼を血走らせて、なぜか私の胸元を凝視していた。
「――お、おおお、おっぱ……なま、生が、目の前に……っ!」
なんだと視線を下げれば、すぐに察した。土で汚れた薄手のブラウス。身に纏うそれに穴が開いていた。偶然にも、胸の部分。
不自然とすら思えるほどの破れ具合が実に都合よく胸を強調し、卑猥な具合に魅せている。間に挟んだ植え込みの灌木は高さが絶妙に足りず、垂れた黒髪は枝に引っ掛かって肝心なところを隠していない。おまけにどうやら背中部分もぱっくり破れているらしく、腕にだけ通っているそれは今にもずり落ちそうだった。
上半身全裸の直前で辛うじて堪えている。なんという奇跡だろうか。つい反応が遅れてしまった。
「……ちょっと、いつまで見てんのよ」
隠しつつ凄んでみせると、でろんでろんに鼻の下を伸ばした男が慌てて両手で目を塞いだ。スケベ面のまま、指の隙間から一秒に一回のペースでチラ見してくるが、まあそれ自体はそこまで悪い気がしないので諦める。もったいつけてため息を吐いてやってから、私は毅然と要求した。
「アンタの服、貸しなさい。私を凍えさせる気?……ほら、さっさと!」
ピンク一色な彼の耳には入らず、催促のために片腕を伸ばす。
途端、スケベ男は鼻血を噴いた。
「おぶっふぉぁあッ!!わ、我が人生に一片の悔いなしッ!!元浜、一誠、すまんがオレは先に行くぞッ!!」
などと、鼻を押さえながら訳のわからないことを叫ぶ変態。片手の隙間から鼻血を漏らし、もう片方を拳にして突き上げるその様子は、歓喜する彼と対照的に、命令をシカトされた分も合わせた苛立ちの火種を私へたきつけてくる。
バカなんだなと笑いはすれど、やはりどうして寒いのだ。特に胸元。片腕で支えるには色々とはみ出してしまうたわわな胸が。
「寒いって言ってるでしょスケベ男!いい加減にしないと殺すわよ!アンタのその着古しでいいから私に寄こしなさいって……早く!」
「あばッ!!は、はいただいま!!」
一喝でひっぱたいてやると、ようやく変態は我に返った。とはいっても言葉が通じたのみであり、獣のようにぎらつく好色の視線はそのままだ。ブレザーのボタンにとられた手は最低限の自制すら忘れ、見開いた目で隠す気もなく私を嘗め回している。
ある意味では悪化だろう。見られるのはまだしも、見放題と思われるのは腹立たしい。
「まるで猿ね、エロ猿。ちょっとは我慢できないわけ?」
「が、がが、我慢と言われましても……お、男の性というか……この見事なプロポーションを目に焼き付けないのは、逆に失礼というか……」
「……ふぅん。まあ、ね。アンタ程度の男じゃ、今後一切目にする機会なんてないだろうし、無理のないことかしら。この私の……栄光ある……栄光……?」
なんだっけ?
ふと意識を撫でた違和感に、思いがけず言葉が詰まった。続くはずの先が、ない。
まだ頭が本調子ではないからだろう。そう考えるも拭えない奇妙な違和感は、しかしエロ猿がようやく寄こしてきた上着の存在に押しやられた。
「ど、どうぞ。今日も覗きがバ……じょ、女子とちょっと追いかけっこしてたから、汗臭いかもしんないけど……」
タイミング悪く吹いた風に鳥肌立ち、注意は耳に入らなかった。違和感の気持ち悪さとごちゃ混ぜになった悪寒に震え、ひったくるようにエロ猿の手から上着を奪い取ると、さっさと羽織って前を塞ぐ。厚い布地に残る体温と肌触りは、キモさよりも安穏としたため息を引き出した。
次いで鼻を突いてきた汗の臭いもその温もりを手放させることはできず、私は努めて昂然と言い放った。
しかし、なんとか態度に張り付けたそれは、すぐに剥がれることになる。
「くっさいけど、まあ我慢してあげるわ。これで本当にボロだったら、間違いなく殺してたけど」
「うぐ……どうしてだ、オレ悪くないはずなのに……でも美少女の罵倒と思うと興奮が……て、ていうかさ、そもそもなんでそんな格好でこんなとこに倒れてたんだ?もしも、え、エッチなビデオの撮影とかなら、その、秘蔵のコレクションに加えたいからいつ発売か教えてほしいなー、なんて……」
「……アンタのこと、エロ猿って言ったけど訂正するわ。猿に失礼だもの。少し考えればわかることでしょ?何を勘違いしたらそんな水商売が出てくるのよ!私は……わ、私……?」
まただ。
何かがない。思うがまま、半ば条件反射的に吐かれる言葉が、その途中でぷっつりと途切れてしまう。
「ご、ごめん!そうだよな!もしそうなら女優さんを泥まみれで放っておくわけないし……でもじゃあ、結局黒髪おっぱもとい!……あー……えっと……」
自分の中の何かがない。自分が、ない。参照するその先が、まるで空白であるかのよう。
今度は忘れ去ることができぬまま、その暗幕は変態によってこじ開けられた。
違和感の正体に、私は気付いてしまう。
「お、お名前を、お伺いしてもよろしいですか……?」
自分の名前が、わからなかった。
「――わからない」
「……へ?」
名前だけではない。自分を形作る自己認識、自分がどういう人物でどういう生を送ってきたのか。自分に関するすべてが、何一つ思い出せなかった。
自分が何者なのかわからない。連鎖的に理解したその事実は、変態のへりくだったスケベ面がキョトンと呆ける、眼前でのその変化さえも眼に入らないくらいに激しく、奈落へ落ちるような極寒を私に与えた。
「うそ……うそでしょ……?なんで……どうして思い出せないのよ……!名前も、なにも……っ!」
頭を抱え、痛いくらいに締め付けても、全く何も出てこない。自分、という型に、中身が入っていないのだ。
空っぽ。何もない。あったかもしれないけれど、今はない。なら見出せる価値だってないから、私は私がわからなかった。赦しも、必要も、何も。
空白である、それ自体が恐ろしい。極寒の吹雪の中、一人立ち尽くすような悪寒戦慄があった。『自分は何者なのか』という問いだけが、脳内をギシギシ軋ませ、延々と巡っていた。
「年齢、は……か、家族……仕事……役目……なんで……なにも、ないのよ……」
なら、どうして私はここで息を吸っている?
頭が痛い。気分が悪い。
混乱の極みにある頭では、考えれば考えるほどに手足の感覚が消えていく。その度に、自分が何か異様な生き物であるような気さえして、一人放り出された絶望感と共にますます吐き気が強まった。
胃液が込み上げ、背を折った。その時、両肩を熱い手が支えた。
「ええと……と、とにかく落ち着けって、な?大丈夫だからさ」
感じ、私は辛うじて吐き気を踏み留めた。男の前で嘔吐などできないと、思い出せない教養が引き留めたのだろうか。そうだといいな、と、顔を上げた。
「………」
植え込みに半身を突っ込んだ男と眼が合った。瞬間、わずかに見張られる。半開きの口が固まり、すぐにはっと我に返ると、続けられた。
「自分のことが思い出せないってことは、要するに……記憶喪失って奴だろ?テレビで見たことあるぜ!そういうのって、行ったことのある場所とか見たことある景色とか、ふとしたきっかけで思い出すことがあるんだよ!」
ほんのりと頬を紅潮させ、身振り手振りでまくしたてる。一生懸命なさまは、ともすれば滑稽にも見えた。
その眼に情欲の陰が見えることに、今は少し落ち着く。
「他には確か……薬とかカウンセリングとか……だったっけか?と、とにかく思い出す方法はいくらでもあるんだよ!もしかしたら案外簡単に
が、その一言で情動が再燃した。考える間もなく身体が動き、肩を掴む男の手を取り返してそのまま押し倒す。
ばきばき、と、男は背で根元近くの枝をまとめて圧し折り、挙句地面に頭をぶつけた。突然の痛みにうめくも、しかし私には些末なこと。息つく間もなく叫んだ。
「アンタ、今
自覚なく、男の襟首を掴んで滅茶苦茶に揺さぶる私。種類の変わったうめき声はガクガクと揺れ、男は制止の声も手も出せずにされるがままだったが、数秒も経たぬうちに私の方に限界が来た。じんじんと来る痺れが腕を縛り、耐えきれずに力が抜ける。
同時に少し冷静になった頭は、落とされ再度後頭部を打ち付けた男の、その答えを予感していた。
「いや、その、つい口を突いちゃったっていうか……えっと……な、なんとなく夕麻ちゃんっぽい雰囲気してるなーって、そう思ってたからで……ご、ごめん……」
知っていれば、そもそも慰めなどしないだろう。
悟ったそれを改めて耳にして、一気に気が抜けた。
「なによ、雰囲気って……。バカみたい」
「う……ほんと、ごめん……」
落胆が心を重くする。だが不思議と波立ってはいなかった。渦巻いていた不安が鎮まり、そこにあるのは緩い諦めのような感情のみ。
私は気まずさに苦り切った男が挙動不審に慌てるさまを、ため息吐いて眺めた。
「ああっと……じゃあ、じゃあさ、新しい名前……ていうか、あの……仮……そう、仮だ!仮の名前考えようぜ!オレ馬鹿だから、決めとかないとまた変なこと口走っちまうかも――」
「別に、いいわよ夕麻で。アンタの頭じゃ決め直してもごちゃごちゃになりそうだわ。……そういえば、そういうアンタの名前は何なのよ?」
「お、オレ?オレは松田だよ。駒王学園二年。でも……そうか……。気に入ったんなら、言うことじゃないよな」
何をよ。と詰りかけるも、松田のその挙動不審具合がキモい方面にシフトし始めたことにより、声にならず失笑が出た。
「そ、それよりもだけどさ、夕麻ちゃん。その……お、オレの上着だけじゃ、さ、寒くない?」
キモいどもりとキモい視線を復活させ、気持ち悪く身体をくねらせる。さらには上目遣いまでもを駆使して一気に私の嘲弄の口角を上げる松田は、若干前かがみの正座にて、気持ち悪く微笑んだ。
「そ、その恰好もアレだしさ、どこか、あ、暖かい所に行かない?お、おお、オレ、の、家……とか?」
バカみたいにぷんぷんにおい立つ童貞臭の前では、落胆の直後とはいえ笑いを堪えることなど不可能だった。
「ぷっ……!ふふふ……!松田、アンタそれ、私を誘ってるつもり?ほんとバカね。今時子供でももっとましな口説き文句を吐けるわよ」
「ごふぅ!!こ、心に突き刺さる嘲笑……。でも……なんでだ、やっぱりちょっと……快感……」
「あら、エロ猿がマゾ猿になっちゃった?可哀そうなことしちゃったかしらね」
「い、いえ……むしろご褒美……」
「ならよかったわ。正直なけだものには、それこそご褒美が必要ね」
私は腰を上げ、若干ふらつきながらも立ち上がった。眼下で座し、見上げてくる松田の視線がたまらなく心地よい。真っ赤になったその顔に、頬がぐっと持ち上がった。
「アンタ、私を連れ込んで何がしたいの?記憶喪失の美少女を家に入れて、何を期待しちゃってるのかしら?」
「ききっき、期待も何も、オレはただ夕麻ちゃんにあったかく――」
「正直に言いなさい。ご褒美が欲しくないの?」
「ごめんなさいちょっとそういういい感じのエッチなイベントがあったらいいなとは思ってました!」
正座から滑らかな土下座。ああ、やっぱり大バカだ。
背を駆けるゾクゾクとした震え。興奮で自分の頬までもが赤熱していることを自覚しながら、私は喉から若干裏返った喜色を吐き出した。
「いいわよ?」
「え?」
だらしないにやけ顔が、私を見て目を丸くした。その先に、私は手を添える。
「そこまで私が欲しいなら、いいわよ?ほら、連れて行って?」
私と手との間、視線を行ったり来たりさせる松田に、最後の一押しでにんまり微笑む。渾身の妖艶は彼の腰を引かせ、割れ物を扱うような緩慢極まる躊躇いをも乗り越え、手を取らせることに成功した。
顔を見ずともその緊張が明らかなほどの手汗には目を瞑りつつ、私は、引けてはいるが腰を上げた松田のエスコートを期待して、その手を少し強く握った。
おずおずと引かれた、その一歩目だった。
「やめておいた方がいいと思うわよ。そいつは」
女の声に、私はそっちへ振り向いた。
茶髪のおさげ眼鏡。気の強そうなその垂れ目と視線がぶつかる。
当然その姿に見覚えはない。が、じとりと私を睨め付ける眼差しは、本能的な部分で少々癇に障った。こいつとは気が合わないと、女の感がざわめいたのだ。
向こうも同じなのだろう。故に前かがみの松田が慌てて反論した時も、私を警戒するあまり、応えに僅かの間があった。
「い、いきなりなんだよ桐生。オレは別にヘンなことしてるわけじゃ……ないぞ……?」
「……聞こえてたから、あんたたちの会話。それにその様、ナニおっ勃ててるようじゃ世話ないわ。ていうか、臨戦態勢だと結構でかいんだ。さすが野獣」
どうやら二人は知り合いらしい。鼻を鳴らして眼鏡を押し上げる女、桐生と、ますます顔を熱くして股間を押さえる松田。彼はちらちらと私の反応を気にしているようで、思わず笑みが零れた。
愉快と不愉快が入り混じる妙な気分のまま、私は桐生にも笑いかける。
「心配どうもありがとう、桐生ちゃん?でも生憎、杞憂よ。この私が、こんな童貞のいいようにされるわけないじゃない」
「本当にそう?どう取り繕っても、あんたは女じゃん。無理矢理襲われてもそんな口が利けるわけ?」
「それこそありえないわよ。このヘタレに自分からそんなことする度胸があると思ってるの?」
「……まあ、それに関しては否定しないけど」
「いや否定……やっぱ否定しなくていいけどよぉ!なんだよ二人してオレを放置しながら罵倒しやがって!ホントに新しい扉開いちゃうだろ!」
とうとう松田がつっかかった。腹に据えかねた反発の割には暴発の度合いが大きいが、もはや止まれぬ彼は続け、桐生に焦点を向けた。
「大体、なんだよ桐生!『やめたほうがいい』って!オレはただ、ここに居ちゃあ夕麻ちゃんが寒いだろうって……そりゃあ、それだけじゃないけど……し、心配まで嘘だって思われるほど、オレって信用ないのか!?それに、じゃあ夕麻ちゃんはどうするんだよ。聞いてたんだろ?」
ぶつけられ、桐生の目がむすっとしかめられる。そんなのわかるだろうと言わんばかりにため息を吐き、私を一瞥して言った。
「下心百パーだって思ってるわけじゃないけどさ、松田、実際どうするつもりだったわけ?この子家に連れ込んで。……どうせあんたのことだから、持ってる女物の服なんてエロいコスプレ衣装くらいでしょ。そんなの着せて警察でも行ったら、それこそ一発じゃん」
「え、エロいだけじゃねぇよ!花弁ライダーピンキーはこう……前衛的な芸術性が……いや、だとしてもなんでわざわざ警察行くことになってんだよ!そりゃ不審者に見られるわ!ていうか、目ぇ付けられてんだよオレ。一回マジに怒られたことがあって……」
「……あんた、まさかほんとにわかってないの?」
胡乱げに眉を寄せると、桐生はまた私をチラ見した。相変わらず疑い深い小娘は、それでも最低限気遣いを見せたが、当の私はどうであれ気にならない。そも憶えていないのだからと、肩をすくめて失笑を深めた。
「
「そ、それって……!」
ようやく理解が及んだらしい松田が息を呑んだ。顔のほてりが消えて、繋いだ手の力がより一層強くなる。何かを堪えるかのように、全身が強張っていた。
オスの独占欲。自分が眼を付けた女がすでにかじられた後だったという屈辱は、目覚めかけの松田にとって強い衝撃だったに違いない。劣情よりも憤りを覚えるタイプだったようだが、中々に期待通りの嫉妬だ。
やっぱり、こいつは揶揄い甲斐がある。単純で性欲第一なおバカであるからこそ、随分と胸がすく。おまけに楽しいともなれば、もう言うことなしだ。突然現れた桐生なる小娘など、どうでもよくなるくらい。
溢れかえる満悦。そのまま、桐生に向けてやった。
だがすぐに、私の上機嫌は崖から突き落とされた。
「正直、私は疑わしいと思うけどね。でもだからこそ、警察には届け出ないと」
合った眼の、冷たさが身を貫いた。
「……疑わしいも何も、憶えてないって――」
「だからそれよ」
桐生が放つ冷ややかな空気に笑みを保てなくなり、私は閉口せざるを得ない。
「記憶喪失って言うけど……悪いけど、どうしても嘘っぽく聞こえるのよね」
だから続く詰問にも、とっさに反論できなかった。
「証のあることじゃないから、口だけでどうとでもいえる。転がされてたわりには目に見える怪我もないみたいだし」
言う通り、私の肌には土汚れ以外、傷らしい傷など刻まれていない。滅茶苦茶になっているのは衣服だけだ。それが、不自然だというのか。
「それに本当に記憶喪失なら、どうして松田の、男の家に行くなんてことを一番に言いだすわけ?……家出の常習犯とか美人局とか、そういうのばっかに思い至っちゃうのって私だけ?ねえ、松田?」
「ねえって……桐生お前……」
唖然とした松田の横顔。桐生はさらに、私の心を凍えさせた。
「だからあんた、服なら私のを貸してあげるから、今日の内に警察に行くべきよ。もし可哀そうな環境にいるのなら力になってくれるはずだし、そうじゃなくても一晩くらいは泊めてくれる。ほら、わざわざ一般人の家に転がり込む必要なんてないじゃん」
喉が引き攣った。
「だ、だからよ桐生!何でお前、夕麻ちゃんが嘘ついてるなんて前提で話してるんだよ!?夕麻ちゃんがそんなことするわけないだろ!」
「つい数分前に出会ったばっかの女の何がわかるのよ。……ていうか、どちらにせよ私たちの手に負えないってわかるでしょ?家も家族も、自分のことすらわからないって、ほんとまともに生きていけないような状態なんだからさ、それをどうにかできるとしたら行政くらいじゃない。あんたも……夕麻でいいのよね?記憶が戻るまで文無しのホームレスする気?」
急速に逆戻りした不安と恐怖に、私は再び満たされる。いや、むしろその底はより深いように感じた。吹雪などではなく、鋭いつららが私の心に降り注ごうとしている。
想像してしまった途端、桐生の眼を直視できなくなり、身体が強張った。
だが、
やっぱりそれを堰き止めたのは、松田の眼差しだった。
「オレん家に泊まればいいだろ!決めつけなくても、他にも、選択肢は、ある」
「あんたが良くても、あんたの家族はどうするのよ!?知らない女連れてきて……一日二日なら同情できても、記憶が戻らなかったら結局追い出すしかないじゃない!」
「親父とお袋に土下座する!」
私への、執着。
「夕麻ちゃんを住まわせてくれるように。それでもだめなら、お宝グッズ売って金も作る。夕麻ちゃんのためなら、何でもする!だってオレは……オレはただ……」
「――ほら、そういうわけなのよ、桐生ちゃん?コレがどうしてもって言うから、もう約束もしちゃってるの。アンタが私をどれだけ怪しんでも、ね」
それだけで十分なのだ。
私は負の余波を嘲りの微笑の中に隠し、羽織った上着を身に寄せなおした。憤りとも諦めともつかない何とも微妙な表情をする桐生を見る。それから、松田へ向き直った。
熱い、熱のこもった眼差しに、私はお望み通りの笑顔を見舞った。
「話は終わりでしょ?なら松田、さっさと行きましょ。アンタの家で、さっきの台詞をもう一回。ああでも、早く終わらせてね。いい加減、寒さに耐えるのも限界だわ」
わざとらしく身震いしてみせる。急かされた松田は面食らったみたいな顔をして生返事を返すと、すぐ我に返って私の手を引き始めた。目の当たりにした桐生も、二人だけとか問答無用で疑われるでしょ!、などと理由をつけて追ってくる。私を監視したくてしょうがないらしい。
けれどもはや、私にはどうでもよかった。
手のひらに温もりを感じながら、私たちは葉擦れが鳴る公園を出た。
最初期から登場してるうえ主人公の親友ポジションなのに名前が発覚してないキャラがいるってマ?
なのにちょっと後に登場した友人の女性キャラには名前あってしかも魔法習いだしたために登場機会が多いってマ?
ハーレムものの宿命だけどもちごめさん悲しい。ヒーローに松田君を選んだのはそういう思いもあってのことでした嘘です。