「……あのクソ店長め……何が『キミの接客はうちの店にそぐわない』よ。この私が働いてやってるってのに、あっさり切り捨てるなんて……そんなの、どれだけの損失になると……」
口の中に漏れる恨み言と不機嫌を持て余しながら、私は夕暮れに差し掛かる街並みを歩いていた。
じんわり染みる夕日と初夏の空気で汗ばむ手の中、つい数十分前に有無を言わさず握らされた手当の茶封筒が、呪詛の余波でくしゃりと潰される。それなりに硬い感触に喉が鳴るも、勝った苛立ちによって乱暴にポシェットの中へ押し込められた。
すれ違う通行人の幾らかから怪訝そうな眼を向けられていることにも構わず、私は盛大に鼻を鳴らした。
「大体、私はただのバイトなのよ?安い給料でこき使ってるくせに責任だのなんだの……なのに自分はクレーマーに媚び売るばっかりだし……ああもう、潰れればいいのよあんな店!」
苦労して見つけたバイト先からの、唐突且つ一方的なクビ宣告。
雑踏のざわめきにも響くくらい、人目も憚らず不平不満をぶちまけた。それでも尚その怒りが治まらないのは、不安が中心に重く居座っているからだった。
これから松田家に奉ずるお金はどうしよう、という。
「……嫌になるわ」
茜色に色付く空を見上げた。
松田と出会い、己が記憶喪失であると知ったあの夜から、もう数ヶ月が経過した。未だに私の記憶も身元も、全く明らかになっていない。
頼みの警察は私の痕跡すら見つけることができず、失踪届も捜索届も掠りすらしなかった。めでたくも、私は桐生が言うところの、一人ではまともに生きていけない状態に合致してしまったのである。
家族も知り合いもいない、天涯孤独の身上。お金も、持ち物すら碌にない、行き詰まった状況。
私は、恐らく傍から見ればそんな危機的状況の中、季節もが移り変わった今日に至るまで夕麻として生きてきた。実際、松田に会うことがなければ、本当に最底辺へ堕ちていただろう。
しかし運のいいことに、私には寄る辺があった。松田家に身を置くことを許されたのだ。故に、身体の安売りなんかをせずに済んでいる。
これほど都合のいい結果になると、当初は思っていなかった。
土下座してでも夕麻ちゃんを泊めてくれるよう頼む、と豪語する松田に続いて彼の家へ向かったあの時、表面上は余裕を崩さなかったものの、やはり頭の中では桐生の言葉が反響していた。まともな人間であれば、素性の知れぬ女などを家にあげ、まして泊めようとは思わない。息子の嘆願があろうがなかろうが、いやむしろあればこそ、警戒心は増すはずだ。だからせめて数日だけでもと、内心では靴を舐めるくらいの覚悟を固めてさえいた。
のだが、思っていた以上に松田の両親は
ドアを開けるなり土下座した息子に戸惑う間もなく、私の境遇を説明されたお母様とお父様。私と、ついでに桐生も続いて頭を下げれば、まず最初にお母様が同情で陥落した。いつまででも居てくれていい、なんて涙ながらに抱きしめられてしまって、さらには肩越しにお父様が男泣きし始めれば、伝染は止められない。結果的にその場の全員で涙の合唱会をする羽目になったことは、まあぎりぎり美談と評していいだろう。
ともかく、松田の覚悟も関係なく、むしろ請われるくらいの調子で滞在を認められた私は厚意に甘えることに決め、以来そのまま居候を続けていた。
だが、その同情が永遠に続くわけもない。戸籍なんかの必要なアレコレを揃えた後も松田家を出る気になれない、なんてことになってしまえば尚のこと。堂々と出て行かない宣言をするわけにいかず、目減りしていく最初の厚意を維持したくとも、哀れで健気な記憶喪失の娘を演じるだけでは厳しいものがある。彼らにいくら媚を売ろうが、それは家のお手伝いの域を出ないからだ。
松田のように、ヤる話がいつの間にか立ち消えても変わらないほど強烈な執着を私の身体に感じてくれればいいのだが、お母様もお父様もその手管は望み薄である上、あまりにも節操なしだと当の松田の心象にも悪影響が出てしまう。もはや彼の心象と居候の許可はさしたる関係性を持たないが、とにかく手持ちのそれらでは駄目だった。必要なのは目に見えない印象などではなく、はっきりした実物、実利。明確に、私の価値を示す必要があった。
つまるところ、その最も適当なものが、お金だったのだ。
だからこそ稼ぐ手段がなくなった今、強い不安と怒りが脳内に舞っている。事情が事情だ。学歴も何も、履歴書に書けることがほとんどない私には、見た目年齢が若すぎることも相俟って、新しい仕事を見つけることが難しい。蓄えも心もとなく、クビになったことを誤魔化すにしても無謀と言える。同情の貯蓄が底を突いてしまう可能性は、到底無視できるものではなかった。
どうにかせねば。あの家を追い出されるわけにはいかない。
脳裏に描いた危機感を以てして、私は己の思考から、邪魔となる焦りをどうにか押し出すことに成功した。生暖かい街の空気で深呼吸し、ふと思い立ってスマホを取り出した。
「……いつもなら、まだまだ働いてる時間よね……」
むしろ今頃がかき入れ時であったはずだ。本来の帰宅時間はまだ遠く、それまでの間が空いたとなれば、ちょっとした遠出をしても気取られはしないだろう。
数十分待ちが常となっている人気の洋菓子店にも入れるかもしれない。
ひとまずはそれをお金の代わりのご機嫌取りとすることにしよう。ポシェットの奥で潰れる茶封筒を一瞥してから、私はスマホの地図アプリを立ち上げた。駒王というこの地方都市、過ごす内に大体の道は覚えたが、縁の薄いお店の位置を諳んじられるほどではない。
だからスマホは必需品。必要な出費だったのだ。手に取るたびに思い出すあの金額と、それを肩代わりしようとするお母様との大激闘に思いをはせながら、私は、旧世代故に鈍間なそれの発熱を待った。
すると突然、男の声が夕方の日差しを貫いた。
「あっ……」
意味をなさないうめき声。というよりはほとんど鳴き声に当たる一音は、私の後頭部にぶつけられたようだった。しかし、その声色に聞き覚えはない。一瞬、後悔したクソ店長が私を呼び戻しに来たのではないか、などという期待をしてしまった自分に閉口し、私はスマホに落としていた視線を少しだけ上に持ち上げた。
視界に入ったカーブミラーには、茶髪の男が映っていた。松田と同じ駒王学園の制服に身を包んだ男子学生。顔は悪くないが、しかし特別良くもないそいつが、魚みたいに口をぱくぱく喘がせて、私の後姿を凝視していた。
ため息が出た。
ここまでの重度はなかなかいないが、その信じられないモノを見る眼は、まあ幾度となく受けたそれと同じものだ。
(美少女すぎるのも、考えものね)
顔が良ければ身体も良い。となれば当然、私は後姿も美しいのだ。女に飢えたけだもの共の眼についてしまうのは、仕方ない。
――そして、これだけ人の目を惹くことができる私を、あのクソ店長はクビにしやがったのである。
(……思い出したらまたイライラしてきたわ)
クレーマーに媚びへつらい、集客にて他の追随を許さない有用性を誇る私を切り捨てたクソ店長。よくよく考えれば、それを止めなかった同僚の女共も大概だ。私の美しさに嫉妬していたのだろうが、しかし変わらない。結局、あの店そのものがクソだったということだ。
やめて正解だった。同時に、頼まれても絶対復帰してやらないことを固く心に誓い、私はようやく起動した地図と照らして脚を動かした。後頭部から踵に至るまで、行ったり来たりに舐める茶髪男の視線を、右に曲がって切り捨てた。
少し行くと、すぐ大通りに出た。買い物帰りに仕事帰り、お疲れ顔で住宅街の方へ歩いていく人々の流れを縫い、遡って洋菓子店を目指す。地図アプリによれば到着予定は数十分後だが、この逆流ではもう少しかかりそうだ。
体力も大分持っていかれるだろう。ここまでして売り切れなどしていたら悲惨だな、などという想像の陰鬱を憂いつつ進んでいると、不意に人の密度が薄れ、周囲が開けた。
赤信号が絶ち切った跡だ。まばらになった人ごみの末に信号待ちらしき集団を見つけ、立ち止まって息を吐く。
疲労で深くなったそれを、たぶん聞かれたのだろう。またしても背後から、今度は聞き覚えのある女の声がニヤニヤと私の肩を叩いた。
「夕麻、あんたこの時間はまだバイトしてるんじゃなかった?」
「桐生……」
なんでこんなところにいるのか。
疲れと混ざって、振り向いた私の表情は大層苦々しげなものだったに違いない。しかし、このところどうにも顔を合わせる機会が多い桐生は、慣れてしまったのか全く怯む様子もなく、人を小ばかにしたようなにやけ顔を継続して言った。
「今日は金曜でしょ?今度のお店は固定制のはずだし、お休み取った?それとも――」
眼鏡を押し上げる、腹立たしい仕草。
「またクビにでもなったの?」
苦々しげどころではなく、たぶん青筋の一、二本が確実にこめかみに浮いた。
「うっさい!アンタには関係ないでしょ!ていうか、なんで私のバイト先のこと知ってんのよ!」
「あー、やっぱりそうなわけ。これで五度目?どうせまた『ゴミカス』だの『死ね』だの言ったんでしょ。全然懲りてないじゃん」
「客がクソで店長がクソで同僚がクソなのが悪いのよ!!」
だって我慢ならないのだ。言うまいと笑顔を保っていても、軽く見られることが、自分でも不思議なほど受け入れがたい。
思わず口をついてしまって、その度クビの憂き目にあっている。桐生からの屈辱も加わりより硬くなった自戒の決心は、これまでとは比べ物にならないほど高まっていた。……三回目も四回目も、同じことを思っていたような気はするが。
「……ほんとにブラックなとこ入っちゃったら警察沙汰起こしそうよね、あんた。やっぱり普通のアルバイトは向いてないのよ。こないだ言った秋葉原の店、紹介する?」
「いらないに決まってるでしょ!そんな下賤な……。今、私は機嫌が悪いのよ。見てわからない?揶揄うために呼び止めたなら、もう失礼するわ。お母様とお父様のご機嫌伺いに新しい仕事探しに、やることが山積みなのよ」
吐き捨てるように告げ、同時に青信号で動き始めた人波に続いて鼻を鳴らした。輻射熱を振りまくアスファルトを跨ぎ、早足に白線を三本ほど超える。けれど、一向に背後に付く気配は振り切れなかった。
「いっそバイトしない方が、色々といいと思うけどね。私は」
とことんまで私を愚弄する気らしい。横断歩道を渡り切るまでは我慢したが、呑み込むことはできなかった。
今度こそ気なんて遣わずにひっぱたいてやる、くらいの苛立ちで、私は大きく息を吸った。が、それは発揮される前に困惑に呑まれ、ただの呼吸に変わることとなる。
先の態度と打って変わって、謝るみたいに桐生が言った。
「私なりに調べてみたんだけどさ、あんたの過去のこと、何もわからなかった」
振り返って、眉尻の下がったその表情を眼にしたまま、数秒固まる。怒気を引っ掻き回された私は何を言おうか散々迷い、結局、ごく短い三音のみを捻り出した。
「なんで……?」
「……意地張るのも、いい加減にしないとと思ってさ」
桐生も少々ためらいを見せてから、自嘲するかのようにそう口にした。
道の真ん中で立ち止まった私たち二人を、訝しげな眼が横を避けて通る。意味をかみ砕き、理解しようと眉を寄せる私は、決意して桐生の手を取り、人の流れの中に戻った。
「意地って……そんな顔されても困るわよ。あんたが私を嫌う、ていうか疑うのは、私が言うのもなんだけど、そうおかしなことじゃ――」
「それもね」
遮り、再度私の足を止める桐生。杭になった彼女に引っ張られ、波の外、細い街路樹の陰に寄る。
二人で淀んだそこで、桐生は深呼吸してから続けた。
「最初は、そりゃあ本気だったよ。あんたは何か企んでて、だから松田に拘ってるんだって。それを明かして追い出してやろう、なんて思ってたのもそう。でもすぐわかったのよ。あんたは、夕麻はまあ、いい奴じゃないけど……嘘つきじゃないって」
苦笑して、桐生は街路樹を掴んでいた手を離す。
「だって、文句言いながら必死にバイトして、稼いだお金を押し付けてくる美人局なんて、そんなのありえないじゃん?それをすぐ近くで見てる松田のご両親も、あんたを信頼してるのはわかるし。だから、私も……あんただったら、別に良いかなって……」
「………」
私は黙って、変な具合に歪み始めた桐生を見守った。
ゆっくり、呑み下すように、頭が下がる。
「つまり……ごめん。あの時、あんたを追い詰めて」
動揺しないわけがない。
どう贔屓目に見ても良好とはいえない私たちの仲。初めて出会った時から嫌い合っているのだから、当然私は憎まれ口以外を利いたことはないし、聞いたこともない。それが最早、普通だった。
だから初めて目にしたその光景、桐生の殊勝な態度は、違和感どころか悪寒すらも私にもたらし、後退りをさせた。そんな己に内心で舌打ちし、ガードレールの縁に腰かけてから、息を吸う。
「だから、謝られても困るんだっての。謝ってほしいなんて思ったこともないし……認めたら、私まで謝らないといけないじゃない。嫌よ私、あんたに頭を下げるなんて、そんな屈辱……」
「ごめん」
言ってやるも、桐生は一向に平謝りをやめない。押しつけがましい誠意は徐々に周囲の注目をも集め、私の良心をキリキリ締め付けた。そうなればもう、負けは決定付けられたようなものだ。
我慢比べを諦め折れた私は、せめてもの抵抗に不機嫌の顔を作り、不承不承で首を傾けた。
「……わかったわよ。許すわよそのことは。もう私は、あんたにイジメられたことを気にしていません。ほら、これでいいんでしょ?」
ようやく、桐生が頭を上げる気配。しかし眼が合う前に、私は彼女から顔を背けた。赦しを告げるよりもはるかに重い口を、苦労してこじ開ける。
「私も……あんたの気持ちを煽って、楽しんでたとこがあったから……悪かったわ……」
攻撃に、対話ではなく反撃を選んだ私にも、幾分かの責がある。内心のそれは、いよいよ認められることとなった。
不服ではあるが、桐生の誠意の手前、致し方ないだろう。こんなつまらないことで悪者になるのは勘弁だ。それに、どうせ大した意味はない。
釈然としない胸中を巡る敗北に、ため息を吐いた。次の瞬間、
「――んでさ、夕麻っち」
思い悩んで苦しんだことがバカバカしくなるような、そんな呼び方が、明るさを取り戻した桐生の口から飛び出した。
「松田の御両親にも、私、引っ掻き回して迷惑かけてたわけじゃない?そのことも謝ろうと思って、手土産も買ってきたんだけど……今から家行っていい?」
その突然のあだ名呼びと、感情変化の激しさは何なのだ。あっけに取られて声に出ない指摘が脳内を飛び、次いで我知らずに桐生へ戻っていた視線が、片手のそれを見る。
見せつけられたその手土産、両手サイズの白い箱には、私が求めた人気洋菓子店のロゴが刻まれていた。
「……もちろん、松田の分も夕麻っちの分もあるけど?」
私の絶句を、桐生の思い違いが通過する。
赤くなっていた信号がまた青に戻るくらいの時間をかけて現実を頭に回した私は、不審から心配に眼を変えた桐生が口を開く前に、その手を乱暴につかんで人の流れに飛び込んだ。
せっかく渡った横断歩道を逆戻りしながら、混乱する桐生に非難がましい眼を送る。
「アポなら私じゃなくて、松田に取りなさいよ」
クラスメイトだろうに。
そもそも私が承知したとて何の意味があるのか。
思考回路を理解しきれない。やはりこいつとの仲良しこよしは中々に困難であると再確認して、私は桐生と共に帰路を急いだ。
松田家にたどり着く頃には、日はだいぶ落ちていた。
はるか遠く、山の峰に太陽が差し掛かり、赤い線を引くくらい。隣を陣取る桐生と、『転校してきた女子二人が嫌に揶揄いやすくて楽しい』だの、『私が居候してから松田の変態性が成りを潜めたとお母様に喜ばれた』だの、適当とはいえ雑談を交わしながらの道中であったために、気付いた時には体感時間と目に痛い西日が一致していなかったが、ともあれ私たちは帰り着き、ちょうど庭に出ていたお母様と対面した。
桐生の同行を不思議がりつつ、早上がりだったのねと、私の帰宅時間には納得してくれたお母様。ぎっしり詰め込まれた保冷剤でまだ冷気が漂う手土産を差し出す桐生の様子に何かを悟り、家に招き入れたのは、その微笑が故だった。
そしてリビングにて、麦茶を片手に桐生の懺悔を聞いた彼女は、やっぱり優しげに首を振った。
「私もあの人も、藍華ちゃんを迷惑だなんて思っていないわ。私たち家族を心配してくれたんでしょう?そのくらいのことは、皆知ってる。それに――」
桐生に注がれていた眼が一瞬私を見て、そして戻る。
「夕麻が悪い子じゃないってことは、わかってくれたんでしょう?なら一層のこと、嫌いになる要素なんてないわ。ね?」
「まあ、それは……そうです」
言い淀む桐生は、お母様と同じくちらりと私を見やって首肯した。しかしそれは中途半端で、眼も微笑ではなく不服そうに歪んでいる。どうせ『夕麻が悪い子じゃない』に引っ掛かったのだろう。揚げ足取りめ。少々イラっと来た。
(こっちに注目向けさせないでよ。アンタのせいでクビの言い訳できなくなったんだから!)
どこからボロが出るかなんてわからない。そんな警戒をやめるのは明日か明後日か、少なくとも、ご機嫌取りの思惑を潰された今日の内はクビになった事実を隠し通すつもりである私は、話を振られる前に麦茶のグラスに口を付けた。氷が崩れ、カランと鳴った。
「……でも、それでも私は、謝りたいんです。あの時、夕麻っちの身元くらい、私みたいな素人でもすぐ見つけられるって……言ってしまったことには、責任を取らないと」
「それは……仕方がないじゃない。警察にもわからないんだから、藍華ちゃんが気負うことは――」
「違うんです。見つけられなかったことは、もちろん心苦しいんですけど……それより、すぐ見つかるなんて希望を持たせて、それを裏切ってしまったことを謝りたいんです。夕麻っちも松田家の皆さんも、いらないストレスで苦しめてしまったから……」
「私たちは……そんな……」
お母様とお父様と、それから松田も、そんなことは気にしていない。だが当事者である私は?
優しいからこそ、言い切ることができないのだ。
だから私は、半分ほども飲み干してしまったグラスを置き、お母様のそれをそっくりマネした笑顔を作ることができた。
「そうですよ、桐生さん。私だって気にしてません」
桐生が僅かに目を見張った。自制の心を漏れた驚きのそれは、まず間違いなく私の猫なで声のせい。けれど構わず、彼女と話す時より数段高い声で、場を丸く収める言葉を並べ続けた。
「それに、この頃は記憶を取り戻したいとか、そういうこともあまり思わなくなってるんです。皆さんこんな私受け入れてくれて、よくしてくれますし……今は居候ですけど、このままバイトを続けていけば、いずれ一人立ちして恩返しもできますから」
欠片も思い入れのない、一向に思い出せない過去になど興味はなく、支障がない以上必要もない。たぶん、それが判明したとしても、私は今の生活をやめたいとは思わないだろう。思い出したくもない、とすら考えるかもしれない。
適当な理由付けと共に不快な妄想を打ち切って、私は笑みを深くした。
するとやはり、優しいお母様は少し怒ったような顔をした。
「もう、またそんなことを言って……。恩返しなんて、そんなこと考えなくていいのよ。そうでなくても夕麻には随分助けてもらっているし……ほら、うちのバカ息子、最近はだいぶまともになってきたけど、それでもお手伝いの一つもしてくれたことがないのよ?だから、そんなのは関係ないの。私はあなたが大好きよ?頑固なのが玉に瑕だけど」
お金の問答を思い出すも、優しさの言葉はそのままの笑顔で受けとめる。連続攻撃で何故か頭を撫でられるがどうにか耐え切り、お母様の困り顔が離れていつもの明るい微笑に変えられるさまを見つめた。
「とにかく、夕麻と藍華ちゃんが仲良くなってくれてうれしいわ。せっかくおいしそうなケーキもいただいたことだし、和解の記念にみんなでいただきましょうか。藍華ちゃんも、おやつの時間にはもう遅いけれど……ケーキの分のお腹は空いてる?」
「え……えっと、もしかして私も食べるんですか?でもケーキ、四つしか買ってこなくて……」
「いいのよ、男連中の分もこっそり食べちゃいましょ。この間、取っておいたお饅頭を勝手に食べられた仕返しだから」
慌てて断ろうとする桐生だが、笑顔のお母様は引かない。私を頑固と言うお母様だが、その実、当人も中々だ。その内桐生も陥落するだろう。
松田はどうでもいいがお父様には心の中で謝っておくことにして、見越した私は楽しそうにじゃれ合う二人をよそに椅子を立ち、飲み干したグラスを手に取った。
二人のそれも回収し、言う。
「それじゃあ私、お茶とお皿を持ってきますね。ペットボトルのですけど、紅茶があったはずです」
「……うん、お願い、夕麻。さすがに、ケーキに麦茶は合わないわよねぇ。藍華ちゃんも紅茶でいい?」
「あ、はい……ありがとう、ございます」
歯切れの悪い桐生に適当な会釈をして、私はリビングのドアノブを回した。
片手のお盆にグラスを乗せたまま、後ろ手に閉める。廊下に出てドア越しに二人の賑やかな声を確認すると、気が抜けた両肩から盛大なため息が飛び出した。
はああぁぁぁ、と。
(ああ、疲れた)
松田家のキッチンは、リビングから少々離れた場所に位置する。とはいえ精々、五、六歩程度でたどり着くが、それでも今はその距離が十分ありがたい。かなりの精神力を要する、桐生の面前での猫かぶり。ここからさらにお茶会までこなすとなると、さすがに覚悟の必要があった。
それを固めるための間。単に息苦しさから逃れたかったという思いも無きにしも非ずだが、とにかく私は桐生を生贄にシンクへ到着した。無駄に丁寧にグラスを洗い、無駄に形のいい氷を厳選してグラスに投入し、無駄に冷蔵庫の上の段から紅茶を探し始める。やっぱり一番下の段に佇んでいた二リットルを引っ張り上げ、わかりきっている賞味期限を調べてからグラスに注いだ。
一ミリの狂いもなく同量にしてやろうと、手段と目的が入れ替わり、そして三杯分が完了した。その直後。
「かーちゃん、ただいまー」
疲れた松田の声が玄関のドアを開いた。
ちらりと一瞬、タイマー代わりに置かれた電子時計へ眼をやる。下校時刻と同時に飛び出し、ケーキを買いに走ったという桐生と違い、最近気になっているらしい写真部の活動でもあったのだろう。かなり遅い。
もう少しで残照と化しそうな夕日を窓の色に感じつつ、私は皿とフォークと紅茶入りのグラスをお盆に乗せ、食器棚を漁りながら応えた。
「お帰り。めんどくさいときに帰ってくるのね」
「お、う……ただいま、夕麻ちゃん。めんどくさいって、なんのことだよ?」
驚きの声にも疑問の声にも元気がない。それどころか、何か別事を思い悩んでいるような覇気のなさは、どうやら単に疲れただけではないようだ。
四杯目の紅茶を準備しながら、私は松田を嗤ってやる。
「またお友達に弄られたの?」
息を呑む松田の気配にほくそ笑んだ。
「覗き友達、確か一誠に、元浜だっけ?自業自得でしょ。誘い断るのに、『彼女ができたから』、なんて言っちゃうんだから」
十中八九童貞で、且つ彼女いない歴=年齢であろう変態三人組。その中に突如彼女持ちが現れればどうなるか。想像するまでもなく、ヘイトが募るに決まっている。
「しかもその彼女ってのが私なんでしょ?断りなく理由にした天罰よ。ざまあないわ」
「そのこと、なんだけどさ」
反論でもなく、背を叩いたのは躊躇の色。振り返った先に見た松田の悩ましげな顔が、一拍の逡巡を呑み込んでおずおずと続けた。
「夕麻ちゃん、これからちょっと……時間ある?」
「……はぁ?」
それを怯えながら訊くのか。
込めた眼光は松田の背をビクリと伸ばした。奴は鞄を取り落とし、大慌てで視線を泳がす。
「ああいや……そ、そうか、バイトがあるんだっけ。ごめんオレ、ド忘れしちまったみたいで……」
「……クビになったわよ、ついさっき」
右往左往が固まって、その額に汗が垂れた。
「自分でお母様に報告するから、告げ口すんじゃないわよ」
「そ、そりゃあ、わかった。で、だよ。つまり夕麻ちゃん、今日はもうやることがないってことだよな……?」
「……そうよ。お母様次第だけど」
重なり、実に屈辱的だが、頷く。ますます縮こまって、松田は上目遣いに私を見た。純粋にキモい。
「じゃあその……よかったら、今からちょっと、外に付き合ってくれない……でしょうか……?」
相変わらず恐る恐る、松田は私の顔色をうかがいながら、その仔細を口にする。
「実はさっき、帰り道で一誠に会ったんだけどさ、すごい剣幕で言われたんだよ、『今すぐお前の彼女に会わせろ』って。今までは嘘だってんで興味なしだったのに、急に名前まで知りたがるし……いや、もちろん隠し通したけどよ……何の事情か知らないけど、ただ顔を確かめたいだけって必死なもんだから……その……つい……」
「……オーケーしちゃったと」
「……そうです」
松田はもごもご頷いた。なるほど、この恐る恐るはそういう理由であったわけだ。
多少のフレストレーションを融かされた私は、思考を実利的な方面へ移行する。すなわち、このお誘いをどうするか。
すぐ一つだけ杞憂を見出し、紅茶の淡い色に眼を落したまま、尋ねた。
「その一誠ってのは、私が記憶喪失なことも、この家に居候してることも、知らないのよね?」
「あ、当たり前だろ?……そんなデリケートなこと、言いふらしたりなんてしねえよ」
となればたぶん、一誠とやらの要件は口出し手出しの類ではないはずだ。以前の桐生みたいに騒がれるのでなければ、問題はないだろう。
だからきっと嫌がらせに違いない。ソイツは一人でやってきた松田を笑ってやる心積もりなのだ。
そのことは、松田が恥をかく分にはどうでもいいが――
「……ホントにバカね」
できうる限りの不満を眉間の皺に乗せ、長々とため息をついてみせる。威圧が染みて、期待と失望の狭間にて顔を持ち上げた松田に、私はさらなる追い打ちをかけた。
「アンタのお願いってつまり、私に彼女のふりをしてほしいってことでしょ?それもつまんない面子のために。極めつけに事後承諾だし、普通そんなの誰も承知しないわよ。……まあでも――」
希望を持たせてからわかりやすく突き落とし、その後また掬い上げる。この表情がたまらない。
片頬が上がった。
「いいわよ、今回は。アンタがまたエロ猿に戻って、それでお母様からの信頼が崩れたら大変だもの」
「……そうなっても、かーちゃんが怒るのはオレだけだと思うけどなぁ」
感情の乱高下の後、最終的に呆れたふうな顔に着地した松田を見るに、最後の一言は余計だったらしい。手からすり抜けた目当ての反応を悔やみ、逆立った気分が腕に伝わり紅茶グラスの氷を鳴らした。清涼な輪唱にお盆の重さを思い出し、しっかり持ち直してキッチンと、松田の眼前を出る。
鼻で笑って、背中越しに言ってやった。
「確かに、怒られはしないでしょうね。でも、いい?アンタが女の尻を追っかけなくなったのは、お母様の中では私の功績なの。夕麻のおかげで、ってね。だからそれが元に戻ったってなると――」
がちゃり。目の前で回ったドアノブ。辛うじてそれが開く前に、私は気ままな己の口を閉ざすことに成功した。一歩引いて内開きのそれを避けると、現れたお母様が「ああ、ごめんなさい」と驚いて口を覆う。が、少女みたいな仕草は、私の後ろに松田を見つけ、母親のそれになった。
「お茶に随分かかるなって思ったら……はあ、帰ってきてたわけね。間が悪いったらないわ、バカ息子」
「久しぶりに聞いたぜ、かーちゃんの『バカ息子』……。ていうか、夕麻ちゃんもそうだけど、『間が悪い』って何だよ。紅茶もそうだし……内緒で何かいいもんでも食ってんの?」
「ご明察」
称賛は私でもお母様でもなく、桐生から送られた。虚を突かれた松田は眉を顰め、ドアとお母様の隙間にその姿と、口の開けられたケーキ箱を見つけて唖然とする。
退いて道を開けてくれたお母様へにこやかな笑顔を送り、お盆の上の色々を配膳しながら、私はそのやり取りを聞いていた。
「な、なんで桐生がうちでくつろいでんだよ!?」
「そんなに驚くこと?ああ、女の子が自分の家に来て、緊張しちゃってるわけね。……冗談よ。謝りに来ただけ。夕麻っち関連で色々暴走しちゃったことをさ」
「それでちょうど和解も済んで、藍華ちゃんが持ってきてくれたケーキでお祝いしようと思ってたところなのよ。おいしいお店のケーキ、せっかくあんたとお父さんの分も食べれると思ったのに……」
「かーちゃん今ひでぇこと言ったな!?今まで色々やったのは認めるけど、最近は真面目にしてただろ!?」
「だってお母さんのお饅頭勝手に食べたし」
「それかよ!だからあれは、オレもとーちゃんも知らなくて……そ、それにオレはとーちゃんから渡されたのを食っただけだし……」
「……お父さん売るんだ」
「う、売ったんじゃねぇよ、事実を言っただけだ!でも、もう聞いちまったぞ!?オレは食ってもいいよな!?」
「仕方ないわねぇ……、夕麻もお皿四人分用意してくれたし」
「やったぜ!夕麻ちゃんありがとう!……って、ああ、そうだ」
桐生の手伝いもあってちょうどお皿にケーキを乗せ終わったころ、松田がそう切り出した。
「かーちゃん、ちょっと夕麻ちゃんと外に出てきてもいいか?一時間もかからないと思うんだけど」
お盆を抱いて、私はにこにこ笑顔をお母様に見せる。懐疑と心配とが入り混じった表情で、お母様は返した。
「外って、今から?夕麻もそのつもりなの?」
「はい。彼にとって大切なことらしいので」
暗にそういうことではないと告げたそれは正しく伝わった。ほっとしたような複雑なような、そんな感情を共有するお母様は、いかにも仕方なしにため息を吐いた。
「じゃあ、ケーキはとっておくわね。すぐ暗くなるだろうから、気を付けるのよ?」
「大丈夫ですよ、お母様。何かあっても彼が守ってくれますから」
「何でもするって言ってたもんね」
桐生との合わせ技は万全に効果を発揮し、松田の顔を夕日の赤色に染めた。それでごく小さくなってしまった声がごにょごにょ何かを呟き、靴をつっかけてドアを押す。私も続き、逃げるようにしてお母様と桐生に背を向けた。
連れてこられたのはいつかの公園だった。沈んだ日が空気に薄闇を垂らし、それを眼にした母親の集団が、遊び疲れた幼子を抱えて帰り支度を始めている。覚えのある電灯がちょうど灯り、その安らかな寝顔を照らした。
ベンチに座ってそれをぼんやり見つめていると、不思議な、感慨に似た感情の揺らぎが脳に昇った。
(家族、か……)
記憶を失う前の自分に未練がないというのは本心だ。身分証でも落ちてないかと、桐生に引っ張られて再訪した時も、この場所に忌諱なんかの隔意を抱くことはなかった。
けれど今は、少し心がざわついた。考えて、それに忌避を感じてしまう。桐生のせいだ。ため息が出た。
居心地悪く、すり減ったひじ掛けをさすっていると、ようやく二人分の足音が後方から近付いてきた。
「お待たせ夕麻ちゃん。やっと一誠の野郎見つけたよ。言ってた通り、ほんとに木の後ろなんかに隠れてやがってさあ……」
やっぱりそう。呼び出して先回りし、一人言い訳を考えやきもきする松田の姿を堪能したかったのだろう。
やってきた待ち合わせ場所に一誠の姿が見えないことを訝しんだ松田へ、教えてやった『かもしれない』、というか私だったらそうするだろうという予想は、見事的中していたらしい。つまり、松田がろくでもないエロ猿であった頃からの友達である一誠は、負けず劣らずのろくでなしであったことが明らかとなったわけだ。
そして私は、今からそのろくでなしに対して愛嬌を振りまいてやらねばならない。松田の彼女を装うことはまだしも、バイトで五度目の失敗をしたばかりの身では、面倒くささもそうだがそれ以上に不安が大きい。
心の中だけで深呼吸してから、私は立ち上がって振り向いた。そのままおしとやかに頭を下げ、貼り付けた定型文の挨拶を口にした。
「初めまして一誠さん。聞いていると思うけど、私、松田くんの彼女の夕麻って言います。よろしくお願いしますね」
我ながら完璧な自己紹介。男受けする女の子、一歩後ろを歩く大和撫子的清純さを前面に押し出した声色と仕草は、私の目指した通りに響いて纏まった。兵藤一誠とやらから好印象を得たと、そう確信した。
顔を上げる。
瞬間、私渾身のにっこり笑顔は、眼前のその眼に引きつった。
「やっぱり、お前か」
どこかで見たことがある茶髪。クビを言い渡されてイライラしていた時に見つけた、あの男だ。
しかしそのことを思い出したのはずっと後だった。私は、彼から向けられる
「『やっぱり』?……一誠お前、夕麻ちゃんのこと、知ってるのか……?」
また怯えるみたいに聞こえた松田の声もが、意識に入らない。だって、本物だと確信したのだ。向けられたその敵意と嫌悪と、はち切れんばかりの害意が。
笑顔を保つことなどできようもない。竦んで、身体も動かなかった。首元を鋭利な爪で掴まれているような、ほんの少しの刺激で容易に弾けて殺されてしまいそうな悪寒が、私の全身を凍り付かせていた。
そんな尋常ならざる眼は、背後で閃いた赤い光と共に、その数を増した。
「どうやら本当に、イッセーの見間違いじゃなかったみたいね」
「そのようですわね。うふふ、どうやって部長の魔力から逃れたんでしょう。ちょっとお尋ねしてみたいですわぁ」
「……わかっていると思いますけど、駄目ですよ?朱乃さん。いくらはぐれ同然とはいえ、和平が結ばれたばかりなんですから」
「そうです。捕まえて、アザゼル先生に引き渡す手はずです」
女と、女と、男と、女。理解できたのはそれだけだ。「冗談よぉ」なんて間延びした声も含め、言っていることはさっぱりわからない。
(逃げた?和平?アザゼル先生?)
突き刺さる眼のその色も、何もかも理解ができない。
松田の声が、私の意識をそっちに向けた。
「あ、あれ……?リアス・グレモリー先輩に姫島朱乃先輩に、木場に小猫ちゃんに……なんで……み、見間違い……?いま、魔法陣みたいなのから、ズズズって……」
「……松田君ね。ごめんなさい、気付くのが遅れて。でも、無事でよかったわ」
赤髪の女が私の眼の端を横切った。松田に近付く後姿。持ち上がり、ちらりと見えた手のひらに、何か、幾何学模様のホログラムのようなものが――
「や、やめ――ッ!!」
突如感じた、形容しがたいほど強烈な嫌な予感は、同時に背後から両腕を押さえられ、手が出なかった。
止められない。
するりと抜けた赤髪の魔法陣が、唖然とする松田の額に触れた。
「――ぁ」
一際強い光を放ち、そして消える。心臓が捩り上げられ酷く痛んだが、碌に意識に昇らない。魂が抜けたみたいにぼんやり虚空を見上げる松田へ、淡々と掛ける赤髪の声を、私は何もできずに唯々聞いた。
「この女と、ここで見たことはすべて忘れて、家に帰りなさい」
胸を突き抜け、弾け飛んだかと思った。
「……ああ……おう、わかった……」
呆然自失に唯々諾々と松田は頷き、そして私に背を向けた。
己の目玉に映ったそれが信じられない。
のろのろと、松田は公園の出口へ向かっている。見慣れた背中がとても遠くを歩き、どんどん離れていく。置いて行かれている。
彼の眼が――私を、見ていない。
私の声帯は、その時ようやく声を張り上げた。
「――松田!!ちょっとアンタ、私を置いてどこ行くのよ!!なんでこいつらの言いなりになってるのよ!!松田!!松田ッッッ!!!」
「無駄よ」
冷たい声に振り向く。軽蔑しきった赤髪の目に、迷子みたいな顔の私が映っていた。
「どんな手を使ったのか知らないけれど、私が掛けた魔力の暗示はそんなことじゃ解けないわ。それに辺りには結界も張ってある。諦めなさい、もう終わりよ」
やっぱり、その意味はまるで理解できない。頭のおかしな連中の相手など時間の無駄だ。
だが今は、それにすら縋りたかった。
「アンタ……アンタなの……?……ッ!アンタが松田におかしな――ッあぐ……!?」
掴まれた腕を払い、易々振り切れたそれに違和感を感じながらも、恐れに突き動かされて詰め寄った。が、一歩と進まぬうちに足が縺れて身体が傾く。さらに気付けば背にまとめられて腕も動かず、私はそのまま地面に身体を打ち据えた。
小石でもあったのか、頬に一筋灼熱を感じた。耐え、何とか身を捩って見上げると、気付く。視界に入った己の身体、手と足と胴に纏わりつく、あの魔法陣。
感触もないのに、確かにその幾何学模様によって私は縛められている。いよいよ混乱が境地に達し、未知なる恐怖に、情けないながらも涙までが滲み出た。
それを眼にした奴の反応は劇的だった。
「また……それ、かよ……ッ!!くそ……クソッ!!何だってんだよッ!!」
『Boost!!』
機械を通したような声がした。と思う間もなく、その左手。
感情を押し込め、今まで黙りこくっていた一誠がそれを爆発させると同時、その左手に赤い小手が出現した。
どこからともなく、前触れもなく、何もない所から突然と。
マジックにしてもたちが悪い。私は震え声になりながらも、口にした。
「あ、アンタら、何なのよ……っ。なんで、私に、こんなこと――」
びゅおっ。
風切り音。風圧が頬の傷をえぐる。
目の前に、あの小手に包まれた拳が静止していた。
私は殴られかけたのだ。
「――ッひ!!」
堪えきれず、身体が震え始めた。
理由のわからぬ嫌悪。暴力。そして何より、松田の眼。
心が折れるには十分だった。そんな私に、赤髪は慈悲もなにもなく、ただひたすら冷やかに、言う。
「『なんで』ですって?まだしらを切るつもり?私でも見抜けないくらい、うまく人間に化けてることは認めるけど、よくそれだけで誤魔化せると思うわね。よりにもよって、イッセーに」
「……間違えるはずがないっす。一度は……恋人だったんだから」
白髪の小娘とシルバーブロンドの優男に止められていた左手を引き戻し、一誠は気味の悪い生物でも見るような眼を私に向ける。怒りと忌避と、そして眉が歪められていた。
咽喉が縮み上がっていた。まともな思考はもうない。私は半ば反射的に、その言葉を繰り返した。
「こい、びと……?」
それが、理性を引き戻す致命となった。
「……ッ!!ああ、そうだよッ!!殺されるまで、俺はお前のこと、彼女だって思ってた!!大切にしようと思ってた!!でも……それをお前は裏切ったんだろ!!なあ!!
――堕天使レイナーレ!!」
知らない。知らないのだ。そんなことは。
憶えていない。記憶にない。そんな力などない。だから、私は悪くない。けれどそんなことは、眼も耳も塞いだ私の言葉では、彼らは承知などしないだろう。
投げ捨てるから、私でさえ『正しい』がわからないのだ。
「――い――ぉい……おい!夕麻ちゃん!!大丈夫か!?生きてるよな!?」
松田の声だ。私は目を開けた。真っ暗の中に月明かりが、安堵する彼の顔を照らしている。
「怪我、してんのか……?……くそ……ごめん、ほんとにごめん、夕麻ちゃん。リアス先輩に頭触られて、そしたら急にぼーっと……いや、それでもまさか、夕麻ちゃんのこと忘れて置いて帰るなんて……最低だ、オレ……かーちゃんと桐生にはっ倒されて、それでようやく目が覚めたんだ。二人とも別の所を探してくれてて、オレは先輩たちのオカルト研究部に……ああ……ちが、違うんだ……そんなこと言いたいんじゃなくて……だから……つまり……夕麻ちゃん、オレと……家に、帰ろう……?」
滅茶苦茶な言葉はいらない。そうだ。最後の、その眼に私が映っているのを見ただけで、十分。……十分だ。
私を拘束している魔法陣に松田が触れると、途端に薄れてあっさり消える。手も足も自由を取り戻し、私はうつ伏せの身体を持ち上げた。垂れた髪の隙間で、松田の唇が動いた。
「夕麻ちゃん……オレ、こんなだけど、まだ――ッッッ!!??」
抱き着いて、唇を奪った。眼と眼が触れ合うくらい近くに、驚く松田の汗まみれの顔。
押し倒し、舌をねじ込んでも、暴れる手足は私を拒絶しなかった。
目の前に銀紗が散るくらい長いキスが終わり、顔を離す。荒い息が重なる。お互いに顔が真っ赤だ。松田は私にへばりついたままの目をわななくように瞬かせ、私はその様子で妖艶に歪んだ。
そして、見つめ合ったまま、口にした。
松田――
「――セックス、しましょっか」
フフフ…S〇X!(余韻破壊)