何か叶えたい願いはないの?
何か叶えたい願いはありませんか?
何か叶えたい願いはないの?
年も明け、我が家の恒例行事である大掃除により慌ただしく皆が動き、家中をほこりが舞っていた。
私はほこりを吸うとせきこんでしまうので、外にある物置を率先して片付けた。
最後に、いらないものをかき集めて、これはいるか、それとも捨てるものなのかと言う会議を始めた。
私の家族は皆淡白な性格で、大抵の物はばっさりと切り捨てられた。
その中に、奇妙な手鏡があった。
中央の鏡は綺麗な円形をしているものの、それを覆う黒い縁があまりに不規則な形をしているので、なかなかに禍々しいものとなっていた。
「これはいらないだろう」
私は即座にそう判断した。
しかしながら、家族全員がそれに反対した。
全員と言っても、父と母、それに居候(いそうろう)の桃子だけであったが。
「それはあなたが拾って来た物でしょう」
母はそう言って、横目で桃子を見た。
私もつられて斜向かいに座る桃子を見たが、尖った耳と尖った尻尾を生やした少女に、特段おかしな点はなかった。
「ああそうか、思い出した」
すっかり忘れていたが、彼女はこの手鏡から出てきた悪魔だった。
もう長く一緒に暮らしているせいで、すっかり意識からぬけ落ちていた。
それは私が小さな頃。
確かランドセルを背負っていたから、小学生だったか。
奇妙な手鏡を道端で拾ってきた。
それを部屋に置き夕食を食べていると、2階にある私の部屋のドアが開く音がして、誰かが階段を降りてきた。
リビングに平然と表れたのは、へんてこな見た目をした少女だった。
尖った耳、尖った尻尾、まっすぐに流れる長い黒髪。
顔立ちは日本人とは違うのかもしれないが、この頃からこうだから、見慣れてしまってよく分からない。
とにかくそんな少女が、勝手に家に上がり込んでいるというのに、母は「あら」とだけ言ってもう一人分食事を用意した。
夕食を囲みながら、その少女に事情を聞いたところ、自分が悪魔なのだと言い張った。
「私は冥界から来た悪魔なの」
私が拾ってきた鏡が冥界とやらに繋がっていたらしく、そこからこの珍妙なものが出てきてしまったらしい。
食事が終わり部屋に戻ると、その悪魔は私の後を付いてきた。
「なにか用か」
「それは私が聞きたいの。何か叶えたい願いはないの?」
どうやら彼女は願いを叶えてくれるそうで、叶えられない願いはないと言う。
「その代わり、願いを叶える度にあなたの魂をいただくわ」
「ならば金をくれ」
この悪魔を信頼していなかったので、あしらうようにそう言うと、彼女は急にそっぽを向いた。
「欲に塗れた願いね。やっぱり願いを叶えるのは止めたわ」
ほら見たことか。
願いなんて叶えられやしないじゃないか。
こうしてそっぽを向いた悪魔は、日がな一日ごろごろと暮らし、やたら飯を食う居候へと落ち着いた。
気づけば両親は彼女を桃子と名付けていて、私もつんとした猫が一匹増えたくらいにしか考えていなかった。
それから何事もなく暮らしていたが、私が中学校に入った最初の夏に、母が倒れた。
父は仕事終わりに毎日母の入院する病室に行っていて、ほとんど家にいなくなった。
母の容態は良くないのであろうと、父の様子から推測できた。
私は気持ちが落ち着かず、母の顔を故人のように思い浮かべるばかりだった。
すがる藁もなしに淀んでいると、我が家の悪魔が目に入った。
「おい桃子。願いを聞いてくれないか?」
桃子は黙ってこちらに顔を向けたので、私はそのまま願いを伝えた。
「母の病気を治して欲しい」
「それが自分の魂の一部を捧げてまで、叶えたい願いなの?」
「そうだ」
「わかったわ」
桃子はそう言うと、なにか特別な力を使った気配も見せないまま、テレビをつけていつものように自堕落になり始めた。
ああ、向かいの老夫婦が庭に撒いた、除草用の藁にでもすがればよかった。
翌日、信じがたい事が起きた。
母の病状がけろりと良くなったのだ。
病気は治ったのではなく、消え去ったらしい。
担当医はその非現実的な出来事に驚き、私の母が重い病気をまだ患っていた昨日と言う日を疑っていた。
これを機に、桃子の力は本物なのだと確信した。
そして桃子にも変化があった。
「あなたは悪い人間ではないようね」
長く一緒に暮らしていたので、私が悪意に塗れた人間ではないのだとわかっていたのだろう。
桃子は私を信頼したらしく、前みたいに横柄な態度を取らなくなった。
私としても、野良猫が懐いたみたいで、彼女に可愛げを感じていた。
桃子の私への態度は、以前と比べると別人のようであった。
ずっと一緒にいるせいか、随分仲良くなったからかもしれない。
私の話を相槌を打ちながらよく聞き、隣にいて欲しい時は横にいてくれる。
16歳にもなると、外見は私の方が年上になったので、桃子を妹のようにあやした。
そういう日常の中で、桃子は時々聞いてきた。
「何か叶えたい願いはないの?」
その時は叶えたい願望がなかったので、いつも「ない」とだけ答えていた。
ふと、願いを叶え続けた場合、最後にどうなるかが気になった。
「願いを叶えるには、魂の一部を代償とすると言っていたが、魂をすべて捧げるとどうなる」
その質問に桃子は丁寧に説明した。
「悪魔は元来ここには存在できないの。ここに存在し続けるには人の魂を喰らう必要があるわ」
人の魂を取り込む事で、その人の寿命分、冥界に帰る日を遅らせる事が出来るらしい。
「なら君は私の魂を喰うつもりなのか」
「いいえ、私はあなたを喰らうつもりはないの。あなたの魂を持って、冥界に帰りたいだけだから」
私の魂が相当お気に召したのか、彼女は夢見心地でこんなことを語った。
冗談じゃない。
どちらにせよ、私は死ぬという事ではないか。
そうはさせてなるものか。
高校に入り、日常を満喫していたが、友人からは付き合いが悪いと言われていた。
それはその通りで、私は学校が終わるとすぐに帰宅し、桃子とばかり遊んでいたからだ。
最近の桃子は私に願いを聞く頻度が増えてきている。
「何か叶えたい願いはありませんか?」
今の彼女からは、どこか必死さが見て取れる。
しかし桃子があまりに下手(したて)に出るものだから、なんだか面白くなってきた。
「願いならある」
「なんでしょう」
「お前の唇にキスがしたい」
「それは、悪魔の力を使わなくても叶えられてしまいます。それではあなたの魂をいただくことはできません」
「願いを聞いてきたのは君だろう。もしかして嫌なのか」
「いいえ。わかりました」
そのまま体を寄せてきたので抱き寄せると、柔らかい体の曲線にぎゅうと力が入るのが感じられた。
全く抵抗しない桃子に、唇を重ねると、徐々に体の力が緩まった。
一度唇を離すと、今度は桃子の方から顔を寄せてきて、また唇がかさなった。
私というろくでもない思春期の男は、桃子が願いを乞う度、こういう悪戯をしていた。
桃子もますます嬉しそうに身をすりよせてくるものだから、時には抱いてやったりもしたものだ。
この頃になると、桃子が私に対し、一人の男として好意を抱いているのだと確信していた。
それは嬉しいやら、おかしいやらで、とにかくもっと桃子に悪戯してやりたくなった。
「同級生にとても美しい子がいてね。中学が同じで、一時期同じクラスだったんだが、最近ひょんな切っ掛けで仲良くなった」
そう自慢げに話すと、桃子は「そうですか」とだけ言って少し俯き、悲しそうにするだけだった。
私に好意を抱いているのなら、てっきり感情的にでもなるものと思っていたので、これは面白くなかった。
ならばと思い、今度はその同級生と2人で遊びに行くのだと伝えた。
「そう……ですか。早めに帰ってきてくださいね」
すると桃子は、そう言ってまた難しい顔をするのであった。
私がたぶらかすふりをしていたのが、佳代(かよ)という同級生。
美人だが派手さはなく、室内で居るのが似合う少女だった。
彼女とは中学の時も同じ学校で、お互いそれとなく声を掛け合う仲だ。
これは桃子に気を揉ませるにちょうどいいと思い、週末空いているかと尋ねると、驚いた後に恥じらうような仕草をして「いいよ」と短く答えた。
するとすぐに佳代は友人の元へ駆け寄り、やいのやいのと始めたものだから、これはやってしまったと思った。
私は彼女とどうこうなるつもりはなかった。
週末に佳代と出掛けたものの、公園をただ歩いたり、出店を見つけては買って食べたりと、おおよそ男女のすることではなく、友人同士のようであった。
それでも佳代は、なんとか私に自らの気持ちを悟らせようと、女性らしく振る舞っていた。
それがなんとも不器用で、いじらしくて。
桃子と重なって見えた。
これはもう駄目だと思い、夕方ごろには佳代と別れることにした。
悲しそうな佳代の表情を見て、謝ろうか迷ったが、これからは彼女に気を持たせないよう立ち回ればよいと考え、なにも語らなかった。
家に帰り、自室に戻ると桃子の姿がなかった。
どうせいつものようにうだうだとした後、どこかで眠りこけたのだろう。
母が夕食を用意した頃になっても、桃子は姿を見せなかった。
これはおかしいと言う話になり、家族総出で屋中を探していると、突然母が泣きだした。
何事かと見に行くと、その先には桃子が来た冥界と繋がる歪な手鏡が落ちていた。
その黒い手鏡は、鏡の部分が割れていた。
桃子が必死になっていたのは、時間がなかったからだった。
ひび割れた鏡を見ると、もう冥界に繋がっていないのが分かる。
桃子が冥界に帰ってしまったのだとしたら、もう会う事はできないのであろう。
自分のことながら馬鹿だと思う。
私は桃子を愛していたのだと、今更ながらに気がついた。
それから1月ほど経ったが、私はなにをするにも身が入らなかった。
そんな中、佳代から呼び出され、男女の交際を申し込まれた。
私は桃子を忘れることができない。
佳代には悪いが、ここは断ろうと口を開くと「わかった」と言って頷いていた。
どうやら私は、自分が思っていた以上に薄情な奴らしい。
そうして始まった佳代との交際であったが、私は彼女を好きというわけでもないし、進展などないはずだった。
しかし、佳代から何かを頼まれると、どうしても「わかった」と答えてしまう。
そうしてずるずると関係が続いていた。
そんなある日、佳代から結婚を申し込まれた。
馬鹿馬鹿しい。
私たちはまだ学生だ。なにより私にその気はないのだ。
そう思って口を開くと、これまた不思議と「わかった」と答えてしまった。
佳代はというと、「叶った。全部叶った。私の願い」と言って、涙を流し喜んでいた。
そんな光景をぼうっと見ていると、彼女は私の目をじっと見上げてこう問うた。
「何か叶えたい願いはないの?」
答えはもう決まっていた。
「君みたいな、尖った角と、尖った尻尾を持った、へんてこな悪魔と、いつまでも一緒にいたい」
ただ嬉しそうに、小さな体で私にすりよる彼女の様子からは、もう前みたいな焦りは見られなかった。
桃子は佳代の魂を喰ったのだ。