コハクがマグマに投げられた瞬間一番に声を上げたのは意外にも銀狼であった。
「ああっ、コハクちゃん下なんか穿いてた! 下着じゃなかったなんて!」
訂正、意外でもなんでもなかった、ただのスケベ心だった。
「貴様は何を口走っているんだ!」
そして、当然ながら金狼に殴られた。
しばし痛みに悶える銀狼、しかし、彼のスケべ心は不滅だった!
コハクが湖に落ちたのが見えた時点でマグマの勝利が告げられる。
マグマの雄叫びが上がり歓声とマグマに賞賛の声がかかる中、彼はハッと何かに気づく。
湖に落ちる、つまりびしょ濡れ……! 濡れた体、落ち込むコハク、……チャンスでは?
「僕ちょっと行ってくるね〜」
「どこへ行く気だ、銀狼」
気づいてすぐに飛び出そうとするが、即金狼に襟首を引っ掴まれた。
「ぐえっ! ケホッ、ケホッ、酷いなあ! 僕は純粋にコハクちゃんの身を案じてね!?」
「そうか、それ自体はいい心がけだな。だが、その必要はない」
「はあっ!? なんでよ、……違うよ? べつに濡れれば透けるんじゃ、とかぴったりと体に服が貼り付いて~なんて考えてないよ?」
「……お前、そんな事を考えていたのか……」
自分の弟がそんな事を考えてばっかりだという事実に少々ショックが大きい金狼。
金狼が呆れ返っているのが理解できた銀狼はお説教が来る前に慌てて別方向へと話を変えようとする。
「そんな事よりも! なんでコハクちゃんを助けに行くのが必要ないの?」
「ああ、それか。舟を出すのは南女史と花田女史がやっているし……、大体、投げ飛ばされた時点で司は湖に飛び込んで助けに行っている。俺たちの出る幕はない」
コハクは湖に落ちる瞬間こそ本能的に動けたが、落ちた後は全く動く事が出来なかった。
自分は圧倒的に優位に立って居たはずだ、あそこからの逆転劇などほぼほぼ有り得ない。
せいぜいが自分の体力がつきるぐらいで他に負ける要素などなかったはず……。
だが、蓋を開けてみればこの体たらくだ。
これでは父が止めるのも当然ではないか、きっとこうなると父には分かっていたのだろう、だから出る事を止められたのだ。
そんな事実は一切合切ないし、コハク自身も無いなと切って捨てられる思考である、普段であったなら。
いや、最悪の精神的コンディションでも無ければ一笑に付す程度の物でしかない。
しかし、今のコハクの精神は圧倒的優位からの逆転劇を受けたという思いで一杯であり、控えめに言って人生最悪クラスの精神状態であった。
ここまで悪くなったのは姉の病が判明した時と、母が亡くなったあの時ぐらいだろうか?
だが、あの時は自分に何かできた訳でもないし、自分の行動に原因があった訳でもない。
だから、何くそと気合いを入れてやればいいだけの話だった。
しかし、今回のこれは完全に自分だけが原因である、言い訳も利かない。
だから、彼女はきっと人生で初めて呆然自失となっているのだろう。
湖の中でそれはあまりに迂闊であったかもしれない。
落ちた場所がかなりの高さがあったからその分沈む深さも深い。
その深みで完全に力が抜けた体を水圧が襲う、一人だけであったらそのまま命を失っていたかもしれない。
一人であったならば、であるが。
茫然自失状態だった彼女が気づいたのは、力強い腕に抱えられ水面へと向かう途中でだった。
抱えられていることに気づきその腕の持ち主が誰なのか、誰が自分を抱えているのか気づいた時、驚きと納得が同時に彼女の胸に去来する。
「司……」
「少し、遠くにまで投げられてしまったようだからね。お節介だったかもしれないが、助けに来てしまったよ」
水面上に出て少しした後呟けばそんな答えが返ってくる。
「私は、負けたんだな……」
「残念ながらね。だけど、落ち込むことはないぐらいに良い勝負だったよ」
「最後で油断して罠にはめられてしまったのだ、無理にほめなくていい」
「傍で見ていた俺も手に汗握るぐらいの、白熱した一戦だった。
誇りに思えど否定する必要はないよ、実戦だったならマグマのあの戦法は使えなかっただろうしね。
いくつも受けた傷からの出血で倒れるのがオチさ」
司はそういうがあれは試合であったのだ。
そういうルールの元にやっていたのだ、負けは負けといえる。
それを理解しながらもそう慰めてくれているのだろう、そう思うと少し甘えたくなる。
横抱きにされている状態から司の首に手を回しその首筋に顔を埋める。
「コ、コハク?」
「すまない、しばらくこのままでいさせてくれ」
そこでようやく司は気づいた、コハクの体が震えていることに。
考えてみれば彼女は負けたこと自体何回あっただろうか?
模擬戦でもマグマや金狼相手に負けたことすらほぼなかったはずだ、まして真剣勝負、何かを懸けた戦いに負けたことなどあったかどうか……。
司自身負けた記憶などほぼない、だが、一番敗北感を覚えた経験、妹の手術前に首飾りを渡せなかった経験があるのでその悔しさは想像できる。
だから何も言わずに彼女の震えが収まるまで、そのままでいることにしたのだ。
しばらくたった後、ようやくコハクの震えが収まり顔を上げた。
「すまない、面倒をかけてしまったな。もう大丈夫だ、ありがとう」
「気にしなくていいよ、つらい時は誰にだってあるさ。また辛くなったときはいつでも受け止めるさ、それが男の甲斐性とやら何だろう?」
「まったく、そんな言葉をどこで知ったのだ。だが、ありがたく甘えさせてもらおう、今日のように辛い時は、な」
そこまで言った後なんだか可笑しくなって二人で笑い出す。
ひとしきり笑った後ふと思い出した、まだ一回戦の途中である事を。
「……司! 試合は!? お前の試合はどうしたのだ!」
「ああ、その事かい? 大丈夫だよ、次の試合は金狼が出ているからね、戻るまで終わらせずにいてくれるさ。
それに万一終わってしまっていても俺が不戦敗になるだけだからね、問題はないよ」
「だが、マグマとの試合をあんなに楽しみにしていたというのに……いいのか?」
「いいに決まってるでしょうが、というかそろそろ水から上りなさいよ。
いつまでも密着状態を続けるんじゃなくて、舟の上で話したら!?」
「へっ? ……南、いつからそこに?」
「貴女がつかさんの首筋に顔を埋めたあたりからよ、いーからさっさと上りなさい!」
「は、はい!」
慌てて舟の上に登ろうとするがまだコハクは司の腕の中だ。
「つ、司、離してくれ、一人で舟の上にぐらい上れる!」
「君一人ぐらい抱え上げるのなんて朝飯前だよ、ほら」
いうが早いが船上に上げられるコハクの体。
南からタオルを受け取りながらも彼女のジト目が怖かったとは後のコハクの弁である。
一方試合会場では金狼対アルゴの第二試合が始まろうとしていた。
「いいか、金狼! 余所者からなんだかんだと教えてもらってたようだがな! そんなもんは必要ねえんだって教えてやるぜ!」
吠えるアルゴに対し金狼はむしろ首をひねるばかりだ。
「なあ、アルゴ。俺の記憶が確かならば、桜子の料理教室の後とても喜んで料理万歳といっていなかったか?」
「うぐっ!」
図星を突かれたとばかりに動揺するアルゴ、しかし金狼の無自覚な追撃は続く。
「千空の誕生日プレゼントの天文台の時も張り切って手伝ってくれていたし、この間の宴の準備も喜び勇んで手伝ってくれていたはずだが……、何か他の事で不満があったのか?」
「な、なんでそんなとこまで見てんだテメエ!」
「何故といわれても、あれだけ張り切って動いていたら嫌でも目に入るが……」
ここまでの会話を聞いて頷く者数名。
「なるほど、手の届かない葡萄は酸っぱいか、いや、どちらかというと照れ臭かったのかな?
どちらにしても一言お願いすれば訓練つけてくれたんじゃない?」
「ええ、尾張貫流槍術はちゃんとするのならばいつでもその門戸を開いていますよ。
一声かけてくれれば喜んで指導したんですがねえ……」
「教える楽しさに目覚めてます?」
「歴史とは、伝統とはそういうものだと教えてくれたのは君でしょう」
「否定できないですけど、ちょっと意外だったので。もちろんいい意味で」
この会話は当然試合会場の真ん中にいる二人にも聞こえている。
「だ、そうだが、お願いしなくていいのか?」
「う、うるせえ! この試合に集中しろってんだよ!」
「それもそうだな、審判、開始の合図をお願いする」
「もうよいのか? では第一回戦第二試合、金狼対アルゴ、始め!」
開始の合図とともに一気に突きかかってくるアルゴ。
相手に何もさせない先手必勝の考えであろう、実際悪くない選択である。
「甘い!」
「な!?」
ただし、相手に読まれていなければであるが。
アルゴの繰り出した一撃はあっさりと金狼によって打ち落されていた。
「槍術の基本、ここで全て見せてやろうアルゴ」
「くっ、そんな大道芸で勝ち誇ってんじゃねえぞ!」
しかし、アルゴの繰り出す攻撃はことごとく地面に打ち落とされていく。
突きは側面をたたかれ、払いは上からたたかれ、振り下ろしは威力が乗る前に下からの一撃で止められる。
それらはアルゴに自分と金狼の差を突き付けるのには十分だった。
だが、彼を一番イラつかせていることは、金狼の意識がこちらに完全には向いていない事だった。
(ちきしょう、俺なんぞ片手間で十分とでも言いてえのかよ!)
実際完全に対処されている現状では文句もつけられない。
だが、このまま舐められっぱなしでは終われない、そう決心し次の一撃に全力を込める準備に入る。
全力で突けば怪我では済まない事態も起きるかもしれない。
それがどうした、その程度さばけないのに意識をそらした方が悪いのだ。
一撃をはじかれ手元に槍を戻す、そして一瞬の溜め、全力の突きをそうして解き放つ。
金狼はまだ気づいていないはず、その証拠に奴の目線はまだ自分の槍に来ていない。
これは片手間に対処できるものではない、必ずこの一撃は金狼に届く、そう言う確信の元全力の一撃を放つ。
「なあっ!?」
だが、その確信は一瞬で砕かれた。
全力を込めた突きをアルゴが放った次の瞬間、金狼は振り下ろしの体勢に入っていたのだ。
「かあっ!!」
そして裂ぱくの気合とともに打ち下ろされる槍、ぶつかり合い叩き落されるアルゴの槍。
そして、アルゴの槍のみが砕け散った。
「そんな、お前の目は確かに槍を見てなかったのに……」
「確かにお前の槍は見ていなかった、だが、そこまでの気合を見せられて気づかないほど鈍くはない、それだけの話だ」
完全に負けた、そんな敗北感がアルゴの全身を襲う。
ガクリと膝をつきうなだれながら力なく宣言する。
「参った、俺の負けだ」
「第二試合勝者金狼!」
アルゴの降参の声を受け勝者をジャスパーが告げるのと司達が戻ってきたのはほぼ同時の事だった。