戦の鉄則   作:並木佑輔

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第60話 鉄則

凍えるような冷たく哀しい風が、焼け野原と化した丘の草を優しく撫でている。

魑魅魍魎共が支配する完全実力主義のこの世で、これまで幾度となく行われてきた命のやり取り。

その全ての終わりを告げるかのように。

 

重く鈍い二つの打ち合う音が、丘を震撼させる。

中に溜まっている赤い水を揺らし、骨が軋む嫌な音を立てながら、二人の少年は拳を振い続ける。

一発、一発、また一発と二つの拳は交差し合い、互いの肉と骨を壊し合う。

幾多の打撃を交換し合った二人の顔と身体は、既に青痣と内出血でパンパンに腫れている。

無論、全身各所の骨も粉々に砕けている。

もはや戦いなど、命のやり取りなど出来る身体ではない。

 

それでも、二人は止まらない。

瞳の奥に宿る微かな火を燃やし、足を前に出し拳を握り締め、眼前に立ちはだかる壁を壊す為に突き出していく。

互いに譲れないものを、火が消えるその時まで貫き通す為。

先生や仲間達が眠っているこの墓標の地で。

 

一人の少年の足がフラつき始めた。

先に限界が来たのは、人志からだった。

当然、この機を怪童が見逃すはずはなく、一気に畳み掛ける。

一発、一発、一発、人体の各位に存在する急所を的確に刺し穿つ。

眉間に、こめかみに、喉に、人中に、丹田に、金的に、膝に。

急所を突かれ骨を砕かれ、人志の全身に耐え難い電流が走る。

だが屈せず、歯を食いしばりながらも不敵に笑う。

 

想像も付かぬほどの痛みに痩せ我慢している親友に、怪童は眉間に皺を寄せ、掌で顔を覆い被せて押し倒した。

そして親友に跨り、怪童は血が滲むほど歯を食いしばりながら、顔面に拳の雨を降らす。

何度逆境に叩き落とされようとも、何度苦痛に苛まれようとも、何度失おうとも、その度に立ち上がり逆境を覆そうとする。

そんな親友が誇らしかった。

だから、怪童は呻いた。

もういい…もういいんだ…と。

 

暴力の雨は止んだ。

顔は青紫色に染まり、草と土は人志の鮮血を吸って赤く染まった。

そして怪童は跨るのを止めて立ち上がり、人志の胸を踏んで固定し、残された片腕に手を伸ばす。

4年前、橘茜と子供達の魂が眠るこの丘で起こったあの惨劇を、怪童はまた繰り返そうとしている。

 

「これで分かっただろ?お前じゃ、俺には勝てない…」

 

あの頃と変わらぬ無情な目で、傷だらけの少年は親友の残された一本の腕を持ち上げ、引き千切らんとする。

幼き頃から孤児院カモミールで共に育ち、競い合った親友とのこれまでの青春。

その全てを終わらせる為に。

 

しかし、片腕を引き千切ろうとするその手は、まるで時間が静止したかのように突然止まった。

 

「…………ッッ!!」

 

決意の揺らぎを表すように、親友の片腕を持つ手は震えている。

怪童は再び思い出した。

4年前のバサラ来襲後、墓標の丘で初めて衝突したあの時の事を。

親友の腕を引き千切った、今も手に残り続けている不快な感触を。

山にこだまするほどの親友の悲痛の叫びを。

血潮が飛び散り、それが顔にかかったあの熱い感覚と気味悪さを。

怪童は今になって後悔し、そして手放したのだ。

勝負を決める一手を。生殺与奪の権利を。

 

人志は意識が朦朧としながらも、この千載一遇の機会を見逃さず、怪童の金的に蹴りを放った。

 

本来の怪童なら急所攻撃など当たるはずも無いが、今の精神的に弱っている状態では効果覿面、そのまま命中した。

 

「グガァァッッ!!」

 

苦痛が迸る電流が身体中に流れ、怪童は堪らず前屈みに倒れ膝を突いた。

生理的苦痛は、いかに怪童といえどひとたまりもない。

 

「へっ…今更後悔するぐれえなら、ハナっから腕なんざ千切んじゃねえよ…」

 

人志と怪童、二人の本気のぶつかり合いは白熱しながらも、着実に終わりに近づきつつある。

その証拠に二人の能力は消耗で実質使用不可、もはや使える武器は己の両の拳のみとなっている。

しかし、それでもなお二人の差は埋まらない。

これまでの能力や技巧のぶつかり合いで一見互角に渡り合っているように見えども、実際に戦いを制しているのは怪童。

人志に万が一の勝ちの目はない。その事を人志は誰よりも把握している。

それなのに、人志は未だに不敵な笑みを崩さない。まるで、苦難の先にある勝利を見据えているかのように。

 

「…………気に入らねえ」

 

何度でも立ち上がり立ち向かおうとする親友への思いを、怪童は歯軋りしながら口にする。

 

「……てめえはガキの頃からいつもそうだ…勝てねえと分かっているくせに…何度も立ち向かってきやがる…」

 

蹴られた金的の痛みが治まりゆっくりと立ち上がり、眉間に皺を寄せながら続ける。

 

「前々から思ってた事を正直に言ってやる…人志…てめえが目障りだったんだよ…弱いくせに…人より優れてるものがあるわけでもねえのに…折れずに何度も馬鹿みてえに挑戦してきやがる…

着飾らなくても平然とヒーロー染みた事をしやがるッ…!!」

 

10年…同じ戦災孤児として、親友として共に育った間柄。

親友と大切な人を守り通す。その信念のもと敵を殺し、己を殺してきた。

だがその揺るぎない覚悟が、血で染まった鉄の誓いが、眼前の親友によって揺らいでいくのを、怪童は密かに感じていた。

 

「…なあ怪童、お前…結局何がしてえんだよ?」

 

「…何だ…急に…」

 

「さっきから聞いてりゃよお…ヒーローとか何とか宣ってばかりでよお…なんか今のお前、ブレまくりだぜ…」

 

千鳥足でフラつきながら、人志は口ずさむ。

 

「………俺はブレてなんかいねえッ…!!

 

俺は…俺は全ての妖怪共を皆殺しにして、大妖怪をも超えた絶対的な存在になるんだッ!!」

 

「何の為に?」

 

「俺の弱さで殺してしまった母さんと先生と子供達への償いの為にッッ!!戦士としての使命を果たす為にッッ!!その為に俺は今まで戦ってきたんだァッッ!!」

 

声を震わせ、目に涙を浮かべ、怒りと悲しみが混ざり合った苦悶の表情で、傷だらけの少年は叫んだ。

だが人志には、その叫びが心無しかどこか飾っているように聞こえた。

故に、聞き返した。

 

「それが本当にお前のやりてえ事なのか?」

 

「な…何ッ…!?」

 

「ガキの頃から薄々察してはいたんだよなぁ

"あぁ、こいつは常に何かに囚われている"ってよ」

 

「…ふざけるなッ…!!俺は、俺のやりたいようにやってるだけだッ!!母さんの戦士の教えを守り、妖怪共をこの手で殺してきたんだッ!!人間を守る為になッッ!!

全部俺の意思でやった事だッッ!!俺は囚われてなんかいねえッッ!!」

 

「じゃあ、何でそんな今にも泣きそうなツラしてんだよ?」

 

「ッッ!?」

 

痛いところを突かれたからなのか、さっきまで強張った怪童の顔が崩れた。

 

「本当に自分の意思でやってんだったらよお、そんな目に涙溜めながら必死に反論しねえと思うぜ普通」

 

己の精神的弱さを指摘された怪童は、さっきまで寄せた眉間の皺が徐々に無くなりつつあった。

そして、人志は続ける。

 

「話を聞いた感じだとよお…多分、お前は実の母親から叩き込まれた"戦士の教え"ってヤツを今も背負っちまってるんだ…いや背負わされてるって言った方が正しいか…

やりたくもねえ戦いを小せえ頃から無理矢理やらされて

母親や先生やカモミールの仲間達が殺されたのは、全部自分の弱さのせいだと思い込むようにして

そして、鍛錬と戦いに身を置く事で傷だらけの心身を敢えて追い込む

そんな自傷行為にも似た根源的衝動が、お前の心の逃げ道になるように無意識的に仕組まれちまっているんだ

それが"戦士の教え"ってヤツの正体なんだ」

 

図星を突かれたかのように、怪童は親友の話に耳を傾けた。

 

「なあ、もういいだろ?これ以上てめえ自身を追い込まなくても

お前をそんなにまで歪めたのは、他でもねえお前の母親だ」

 

親友の言葉を全て聞き届けた怪童は、目の奥に押し殺している涙を遂に解放し叫んだ。

 

「違う…!!違うッ…!!違うッッ!!母さんは何も悪くねえッ!!俺だッ!!俺のせいなんだッッ!!俺が弱いから母さんは妖怪に四肢をもぎ取られて凌辱されて死んだッッ!!

俺が弱いから先生が庇って死んだッ!!

俺が弱いから仲間達が喰い千切られて死んだッ!!

俺が弱いからお前と陽菜に不幸な目に遭わせちまったんだッッ!!

俺が強ければこんな事にはならなかったんだアアァァッッ!!!」

 

心の奥に封じ込めていた本音が、ピキッと音を立ててヒビ割れつつあった。

生まれた時からずっと縛られてきたものが、一人の親友との対話によって徐々に解き放たれつつあった。

 

「もう一回聞くぞ怪童…お前は何がしてえ?」

 

睨みつけるような真剣な眼差しを送りながら、人志は優しい声で親友に語りかけた。

その黒い目は、親友の傷だらけの心を見透かすかのように一切の汚れは無く、鏡のように透き通っていた。

 

怪童は、身体をビクビクと震わせながら立ち尽くす。

実母からの鍛錬と妖怪から負わされた全身の古傷が、親友の問いかけによって疼き出す。

緊張でも悪寒でもない言い表せない衝動に、怪童は己の身体を両手で抱き抱えて踞る。

 

「………ウグゥッッ!!」

 

傷だらけの少年の心は、もう既に壊れつつある。

水が溢れて零す寸前まで満たされた器のように。

 

「ァァッッ…!!!」

 

親友の曇りなき黒い目に、怪童は無意識的に救いを求め始める。

もし、今からでも遅くないのなら…間に合うのなら…と、目を涙で歪める。

多くの命を奪った血塗れの手を、目の前に悠然と立ち尽くしている親友へと、震わせながら伸ばした。

 

「俺は……」

 

だが、少年の精神に深く刻まれている戦士の教えがそれを許さなかった。

 

「ヴヴヴッッ!!?」

 

突然頭蓋と脳がビキビキッと割れるような痛みが、怪童の脳内に音を立てて襲いかかった。

 

そして、一つの声が響き始めた。

 

「逃げるな

投げ出すな

放棄するな

私を置いて逃げたくせにまた逃げるのか?誰がお前をここまで育てたと思っているんだ

私がどんな思いで腹を痛めてお前を産んだと思っているんだ」

 

その声の主は、怪童の実母。

どんな怪物をも殺せる童であれという想いを名に乗せ、歪めた元凶そのものである。

迷い悩み傷付き苦しむ我が子に、母は亡霊に化けて忌み言葉を吐き続ける。

この世から妖怪を一匹残らず消すという、己が願望を成就させる為に。

 

この忌み言葉は、怪童が母を失った4つの頃からずっと響き渡っている。

己の弱さで殺した罪悪と自責が、亡霊となって怪童の脳内に顕現したのである。

 

「あの時は凄く苦しかったぞ?妖怪共に四肢を千切られ、何の抵抗も出来ずに犯されて…射精と同時に首を刎ねられたからな

あの時は凄く辛かったぞ?手塩にかけて育てた息子に見捨てられたからな

私には分かるぞ…お前が今、何を思っているのか…何がしたいのか…

"それ"が、私の教えを破ってまで生きたい理由だという事をな

今ならまだ間に合うぞ?ここで考えを改め直し、戦士の使命を果たすと再び誓うと言うのなら、私は許そう

だが、ここでまた私を裏切ろうと言うのなら…私は一生お前の心に住みついてお前を殺し続けてやる

お前がこの世の怪物共を一匹残さず殺し尽くさぬ限り、ずっとな

お前を一番理解しているのは、母であるこの私だ

こんな友の皮を被った下らぬ弱者の下らぬ戯言に耳を貸す必要などない

お前は私の子だ…私の教えた事を、私の願いをきっちり果たせる自慢の息子だ

さあ、分かったら早く殺れ…目の前の友を騙った弱者をその手で屠れ

お前に、友は必要ない」

 

亡霊は未練たらしく我が子にしがみ付き、ひたすら怨み言を発し続ける。

母の身勝手な願望と使命を受けて生まれた子は、過去の無念に苛まれ続ける。

 

「かッ…!!母…さんッッ……!!…なさいッッ…!!!ごめんな…さいッッ…!!!ごめんなさいッッ…!!!

先生ッッ…!!みんなッッ…!!ごめんッッ…!!ごめんなさいッッ…!!」

 

心身共に傷を負いすぎた少年は痛みに耐えきれず、遂に地に膝を突き倒れようとしていた。

このまま地に沈めば楽になれる。このまま倒れて眠ってしまえば、己自身も、たった一人の親友も、これ以上傷付けずに済む。

と、心中で呟きながら、巨躯は頭からゆっくりと倒れようとしていた。

 

傷だらけの少年はゆっくりと目を閉じ、全身から力を抜く。

生まれ落ちた瞬間からずっと背負ってきた責務と傷を、全て手放すように。

だがその時、巨躯の肩に一つの手がぽんっと、優しく置かれた。

 

「ッッ!?」

 

閉じた目を開けて見上げると、そこには隻腕の親友の優しい笑顔が、怪童の目に映った。

深くドス黒い沼に沈み切っている親友を救う為に、隻腕の少年の顔は、青紫色のパンパンに腫れた痣と血で塗れている。

人に仇なす怪物達を全て殺す為に己を殺し続けた少年には、それはとても眩しく、とても見るに堪えないものだった。

 

人志には、怪童が今まで背負ってきた傷みの数々や使命の重さなど、丸ごと全部分かり切っているわけではない。

今までどんな思いをして苦しんで、生きて、戦ってきたのか、その全てを知る由もない。

しかし、もうそんな事は関係ない。

目の前に、苦しんでいる親友がいる。

"助けてくれ"と叫びたくても、本音のままに叫べない親友がいる。

この意志は、決して揺らぐ事はない。

 

「──────怪童」

 

と、人志は心からの笑顔で壊れた親友に手を差し伸べた。

 

生気の無い少年の真っ黒な瞳孔に、親友の青痣だらけの笑顔と、傷と血で塗れた左腕が映る。

こんなに弱く、救いようがなく、どうしようもない自分を、それでも救ってくれる親友がいる。

まだ、親友と認めてくれている。

その事実が、少年の傷を少しだけ和らぐ。

 

しかし、それでも耳元で囁く呪いは消えない。

 

「いいのか?このまま終わっても────」

 

呪いは、母から在りし日の幼年へと姿を変え、怪童の耳に近付いて囁く。

 

「今やめてしまったら、これまでのお前の犠牲が全て台無しになるぞ?

忘れたのか?

目の前で母さんが、妖怪共に犯されて殺されたあの時を

目の前で先生と子供達が、圧倒的な怪物に命も夢も尊厳も踏み躙られたあの瞬間を

腐臭で反吐をぶち撒けながら、必死にみんなの亡骸を埋めたあの時を

みんなの墓の前で誓った、あの覚悟を…

忘れたとは言わせねえぞ?」

 

全身傷と血に塗れ、口元を吐瀉物で汚している幼年は、最強の怪物に成った未来の自分を必死に諭す。

 

「母さん、先生、みんなの無念を晴らす

この世に蔓延る化け物共を、一匹残らず殺し尽くす

人志と陽菜を生かす為に、死ぬまで戦い抜く

これは、他の誰でもないお前が立てた誓いだ

さあ、いつまでも蹲ってねえで立てよ

無様でも前を向け、拳を握れ」

 

眼球が飛び出るほど目を見開き、血を走らせながら、幼年は迷う少年を戒め導く。

声を低く太く濁らせて、幼年は囁いた。

 

「─────────鉄則を果たすんだ」

 

傷だらけの少年は、再び立ち上がる。

無数に刻まれている傷だらけの肉体と、ヒビ割れて元に戻らない心を更に追い込んで。

 

「怪童……」

 

血で染め尽くしたその手で、親友の差し伸べた手を払い除けた。

己の鉄則を果たす為に、ただ一つの救いを拒絶してのけた。

 

「そうだ…俺には……"果たさなきゃいけないもの"が…あるんだ

その為に俺は

────俺を殺し尽くす」

 

眼球を血走らせ、眼球が飛び出るほど大きく開眼しながら、怪童は笑った。

唾液と血の糸を引かせて口角を上げたその顔は、不気味ながらもまるで霧が晴れたかのように清々しいものになった。

心の底から出た笑顔は常軌を逸しており、それはこの上なく、怪童の今を表していた。

 

人志は、親友の躊躇いの無い答えとその笑みを見て、目と皺をほんのちょっと狭めて察した。

もう、今の怪童にはほんの少しの迷いもない。

今度こそ、本気で自分を殺すつもりだ。

そう察した人志が、導き出した答えは一つ。

─────親友として、最後までこいつの面倒を見る。

 

「怪童!」

 

底無しの闇を前に、人志は変わらず親友として在り続ける。

怒りも憎しみも哀れみも無い屈託の無い笑顔で、拳を握り締めて心臓にぶつけて、親友に言い放つ。

 

「ばっちこいッ!!」

 

たった一人の親友から発せられた言葉を受けて、怪童は目の奥に殺した涙を解き放つ。

その屈託の無い笑顔が、鋼のように固く握り絞められた拳が、ブレない佇まいが、言葉以上に力強さと頼もしさを醸し出していた。

 

眼前に立ち尽くす親友の確固たる決意を見た怪童は、己の胸に手を伸ばし五指を立て、胸筋と胸骨を貫き始めた。

そしてそのまま手を胸の奥底へと沈め、中に秘蔵されている心臓を掴み、握り締める。

握ったまま引っ張り、全ての血管と胸骨を破りながら、己の心臓を無理矢理摘出した。

 

ドッ…ドッ…ドッ…ドッ…と、心臓は怪童の掌の上で一定のリズムで脈打っている。

掌の上で踊っている心臓の鼓動と共に、怪童は意志のままに言い放つ。

 

「お前に…俺の真髄を見せてやる」

 

そう言い放った刹那、怪童は己の掌に乗っている心臓を握り潰した。

当然、中にパンパンに溜まった赤黒い水は、まるで水風船が割れたかのように勢いよく弾けた。

赤黒い血潮は、焼け野原と化した丘一帯に宙を舞って飛び散る。

それだけに留まらず、飛び散った血潮は空高く上昇。

どこまでも広がっている曇天の灰色の空が、赤黒い血潮で余す事無く染められた。

 

────────────────────

 

長い茶色の髪を靡かせながら、一人の少女が森林の中を裸足で駆ける。

地に落ちている木々を踏み、出血と痛みに耐えながらも、少女は見知った丘に向かって走る。

自分の命よりもずっと大事な家族同然の親友二人を、止める為に。

 

樹と愛菜も、茶髪の少女の背中を必死に追う。

激情に駆られて自ら死地に向かう愚かな仲間を、死なせない為に。

 

「陽菜さんッッ!!」

 

「陽菜ちゃんッッ!!」

 

魔都・東京から数千里離れた山岳地帯、地面に散らばる木々や凸凹の多い獣道に慣れていない樹と愛菜は、呼吸を荒くしながらも陽菜の背中に追いついた。

 

「陽菜さんッ…!!一体何考えてるんですかッ!?今人志さんの元に向かうのは自殺行為もいいところだッ!!自分からみすみす殺されに行くつもりですかッ!?」

 

「そうだよッ!!人志の事が気になる気持ちは痛いほど分かるけど、一旦冷静になってッ!!引き返そうッ!!」

 

人志と怪童、二人の少年の力の衝突は、この丘から数千里離れた魔都・東京にまで影響が及んでいる。

樹と愛菜は、言葉では言い表せられないほどの二つの力の衝突を肌で感じた。

そして、嫌でも理解させられた。

少しでもそのエリアに近付けば、逃れようの無い死が襲いかかる事を。

その事を、樹と愛菜は陽菜の肩に手を置き、必死に訴えた。

 

「────嫌だ」

 

陽菜は背を向きながら肩に乗せられた手をガシッと掴み、振り解いてそう呟いた。

今日まで共に戦い抜いてきた仲間達の手を、拒絶した。

 

「え…?」

 

「陽菜ちゃん…?」

 

樹と愛菜は、陽菜の突然の豹変ぶりに酷く動揺している。

共に苦難を乗り越えてきた仲間の一度も見たことのない側面に、二人の表情は氷のように固まった。

そんな二人をよそに、陽菜は背を向けながら続ける。

 

「人志と怪童は、私の大切な人…家族同然の友達…私の命よりも大切な存在…もう、失くしたくない…あんな思いは、もう二度としたくない……!!」

 

人志、陽菜、怪童。

三人の少年少女は同じ戦災孤児であり家族であり親友である、6歳から16歳まで10年の間柄。

並大抵の言葉では言い表せられないほど、三人の関係は深く濃い。

その深淵にも似た想いを丈に、陽菜は樹と愛菜の方へ振り向いた。

 

「だから、私は二人のところに行って止めるのッ…!殺されたって構わないッ!!」

 

涙を散らし、茶色の長髪を靡かせ、光を失った真っ黒な瞳で陽菜は叫んだ。

虚飾の無い心からの言葉と表情に、樹と愛菜は喉に何かがつっかえたかのように、何も言い返す事が出来なかった。

 

「邪魔するんだったら…樹さんと愛菜ちゃんが相手でも、私…容赦しないわよ…?」

 

光を失くした黒い瞳を大きく開かせながら、陽菜は剥き出しの敵意を露わにする。

それは本来、共に協力し合い苦難を乗り越えてきた仲間達に決して向けていいものではない。

 

樹と愛菜は、陽菜の目を見て察した。

この目は、本気で自分達を殺すつもりだと。

仲間に向けられた敵意と殺意に二人は一瞬怯むも、諦めずに眉間に皺を寄せながら説得し続ける。

 

「確かに、大切な人達を失くした傷みは言葉では言い表せられないほど辛いです…もしかしたら、その傷みはどれだけ時間をかけても一生残り続けるかもしれない…

けれど陽菜さん…これだけははっきり言わせてもらいます

今だけは、こんな事をしている場合じゃないッ…!!」

 

「私も同じッ…!ねえ陽菜ちゃんッ!私達と一緒に戻ろう?人志なら全部何とかしてくれるよッ!今までだってそうだったじゃんッ!!だから、ほらッ!!」

 

樹も愛菜も陽菜と同じように、心の奥底に深い傷を負っている。

 

弱かった自分を救い、導いてくれたかつての親友が、心も身体も怪物へと変わり果ててしまい、救えずに殺してしまった傷み。

 

自分達家族を育て、守り、愛した人間の父と鬼の母が、圧倒的権力の下に首を晒された傷み。

 

鋭利な刃物で抉られたような傷みに見舞われながらも、少年少女は決して諦めない。

これ以上自分達のような者を、後の世に増やさない為に。

その意思を込めて、二人は陽菜に手を差し伸べた。

 

だが悲しい事に、二人の思いは陽菜に響かなかった。

黒い瞳の奥には、失われた光が未だに戻ってこないままでいる。

幼き頃から共に育った二人の少年への激情が、少女の脳を完膚なきまでに焼き尽くしている。

二人の戦いを止めない限り、少女の闇が晴れる事は無い。

 

そうこうしているうちに、突然、灰色の曇り空が塗り潰された。

怪童の最後の切り札が発動されたのだ。

 

「な…何だッ…!?空の色が急にッ…!!」

 

血のような生々しい赤黒色が、全ての空を余す事無く塗り潰していく。

様々な異能の力が蔓延る妖怪社会の中でも理屈や原理が何一つ分からない、今までに類を見ない力。

樹と愛菜は事態を何一つ理解出来ずに、ただ空を見て震えながら立っていた。

 

「でも何だろう……?この空の色…どっかで見た事があるような……」

 

恐怖による寒気で身体を震わせながら、愛菜はそう呟いた。

 

ただ一人、陽菜だけは直感的に悟った。

この空を血で染めた者が、誰なのかを。

 

「怪童ッ………!!」

 

ドクッ…ドクッ…ドクッ…ドクンッ…と、心臓が少女の胸骨の奥で暴れ始める。

緊張で指先が震え、口の中は唾液が分泌されずに渇き、光を失くした瞳の奥は、涙で熱くなっている。

激情が、残酷なまでに少女を侵食した。

 

「は…陽菜さんッ!!」

 

「陽菜ちゃんッ!!待ってッ!!」

 

少女は激情に従い、再び走り始めた。

当然、樹も愛菜も後を追うべく、大地を強く蹴った。

だがその瞬間、二人の中の何かがプツンと切れた。

 

「ッッ…!!?」

 

バサラを始めとした大妖怪達、それらをぶっちぎりで超越したヒスイ、元凶の後藤博文、Beyond、そして怪童。

他に類を見ない化け物達との死闘で負った負傷の数々が、樹と愛菜のキャパをオーバーし、二人は倒れ伏した。

 

(クソッ!!動けッ!!動けッ!!今動かなきゃ、陽菜さんがッ!!)

 

樹と愛菜の奮起も虚しく、陽菜の背中は見えなくなるまで遠ざかってしまった。

 

───────────────────────────────────────────────────

 

戦々恐々。

全てを抉り殺す右手の他に隠し持った、怪童のもう一つの能力にして最後の切り札。

妖魔帝国本部にて、人志達が陽菜奪還を懸けてバサラ達大妖怪との死闘を演じた最中、鬼神ヒノマルとの戦いで使ったもの。

能力は、妖怪・鬼・吸血鬼といった、人に仇なす怪物達の全能力を無効にして喰い殺し、喰った者の全能力を我が物とする。

能力発動の際に己の命そのものを捧げる事を条件に生み出した、いわば諸刃の剣。

 

心臓を握り潰して弾けた赤黒い血は空を余す事無く染め、赤黒く染められた墓の数々が、橘茜と子供達が眠るこの丘の周囲に建てられた。

それだけでなく、怪童の背後には一本の夜桜の木が生え、空には人間の眼球のような満月が浮かび上がっていた。

そして眼球の満月は大きく見開き、血を走らせながら怪童を見下ろし、滝のような血の涙を流した。

流れた血は色鮮やかなピンク色の夜桜を余すことなく汚し尽くし、怪童はそれを甘んじて全身で受け入れた。

己の弱さと極限にまで向き合い、その度に呪い続け、心と命を擦り減らして生きてきた。

異常なまでの強さの執着が、このドス黒い世界を生み出した。

 

人志はこのドス黒い世界に戦きながら、改めて思い知らされた。

生まれた時からずっと抱え込んで生きてきた、親友の傷の深さと闇の強大さに。

だが、人志は何処かこの世界に既視感を感じていた。

この赤黒く染まった世界そのものというより、怪童の後ろにある夜桜に。

 

「その後ろの桜の木は…あの時の…」

 

齢11の時分、満月の光に照らされた夜桜の下で、怪童は陽菜に誓った。

もう誰も死なせない、もう誰も苦しませない、もう誰にも悲しい思いはさせない。

果たせなかった大切な人との誓いが、美しさの欠片もない血塗れの夜桜となって顕現した。

 

「懐かしいだろ?あの時、お前は俺らにちょっかいかけてきて、俺らに好き放題ボコられまくったもんなあ…あの頃は、本当に楽しかったよなあ…………」

 

眼球の満月の血涙に塗れながら、怪童は物思いに更けて微笑んだ。

平穏だったあの頃を、子供らしく過ごせていたあの日々を。

 

「説明がまだだったな…この世界は俺の心が生み出した…いわば心象風景ってやつだ

俺の心臓を差し出す事で実現した────俺だけの世界

この世界で俺はあの鬼神ヒノマルを喰い殺し、命も力も全部奪って強くなったんだ」

 

眼球の満月の赤黒い血の涙に塗れながら、傷だらけの巨躯は笑いながら話す。

この世のありとあらゆる弱者と怪物達をその手で殺し尽くし、傷と血と屍を積み上げてきた本物の怪物。

人志の目には、そんな風に映った。

 

「へえッ…こんなもんを今まで俺に隠してたのかよ…呆れちまうぜ…全く…」

 

人志は片手を自分の顔に被せて、下を向きながらクスクスと笑った。

 

「やっと諦める気になったか?」

 

赤黒い血で淀んだその目で、怪童は親友を揶揄うように笑って言った。

この言葉を受けた人志は、顔に被せた手を離し、ゆっくりと顔を上げて睨みながら言った。

 

「違えよクソバカ───こんなもんをてめえ一人で全部抱え込んで今まで生きてきた、てめえのその腐りきった性根に呆れたって言ってんだよ」

 

腹の底から出た、呆れと哀れみと怒りが混ざり合った言葉だった。

 

──────────

 

─────

 

──

 

赤黒く染められた血の世界に、静寂が流れた。時間にして30秒~40秒ほどだった。

しかし、その静寂も二人の決着の為に破られるべくして破られる。

 

「先生とみんなが殺されてからもう4年か…お互い、変わったよな…」

 

血の空を見上げながら、怪童はそう呟いた。

 

その1秒後、怪童の身体に異変が生じる。

丸太のような傷だらけの右腕の筋肉が、突然肥大化した。

 

「ッッ!!?」

 

怪童の突然の右腕の変貌ぶりに、人志は冷や汗をかきながら驚愕する。

そんな人志をよそに、怪童は筋肉をとめどなく膨張させ続ける。

ボギッ、バギッ、グギャッ、メギャッ、と、耳にするのも嫌な音を立てながら、右腕は悲鳴をあげた。

 

肉と骨の互いのせめぎ合いは20秒を経過、右腕は遂に完成する。

195cm以上ある怪童の巨躯を遥かに上回るに至るまで、右腕は極限にまで肥大化した。

骨は鋭利な刃となって肉を突き破り、血管は複雑に絡み合った電線コードのように右腕全体を包み込んだ。

 

「俺には、死んでもやり遂げなければならない事があるんだ──────だからさ、そこをどいてくれよ

お願いだから、いい加減諦めてくれよ──────親友」

 

心象風景の眼球の満月と重なるように、怪童は目から血の涙を流して微笑んだ。

定めた誓いを果たすには、いま目の前に立ちはだかっている親友を殺さなければならない。

孤児院カモミールがあったこの丘の上で、6年間共に競い合い、学び合い、支え合って生きてきた────そんな存在をこの手で消さなければならない。

如何ともし難いジレンマが、醜い凶器を形成した。

 

人志は、親友の計り知れない傷と闇をこれでもかと触れてきた。

深淵よりも深く、暗闇よりも暗く、地獄よりも地獄的な世界を、辟易するほど味わってきた。

それでも、この意志が腐る事はない。

心臓に位置する胸に手を伸ばし、負けじと命の残り火を燃やす。

そして心臓から手を離し、掌に生み出した赤い炎の華を握り潰し、拳に炎の華を纏わせて構えた。

 

「嫌だね

そんなにどかしたきゃ、てめえでどかしてみろよ

そんなに諦めさせたきゃ、絶望させてみろよ

俺を嘗めんな」

 

頭から血を滴らせ、不敵に笑いながら人志は静かに言った。

 

妖怪達が創り出した完全実力主義の地獄の世界。

この世のありとあらゆる痛みと傷み、理不尽と不条理、恐怖と絶望─────血反吐を吐きながらも、それら一切をねじ伏せ乗り越えた一輪の炎の華。

怪童の目には、そう映った。

そんなかけがえのない親友を、どんな強者よりも強く気高く生き抜いてきた炎を、消さなければならない。

誰にも計り知れない激情を胸に抱えながら、怪童は異形の拳を握って構えた。

 

互いに拳を握り締めて構える二人の姿は、まるで合わせ鏡のように重なった。

片腕を失くした少年は、眼前の壊れた親友を救う為。

壊れた少年は、人に仇なす怪物達を一人残らず殺し尽くす為。

先生と仲間達の魂が眠るこの地で誓い、定めた戦の鉄則が、二人を突き動かした。

 

血で塗れた大地は蹴り破られた。

炎の華を纏わせた小さな拳と、醜く肥大化した血と傷の拳が、赤黒い火花を散らして衝突した。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!」

 

「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!」

 

赤黒い心の世界に亀裂が生じる。

全てを余すことなく乗せた二つの拳は、互いに悲鳴をあげながらぶつかり合う。

 

「グウウウゥゥッッ!!」

 

先に限界が来たのは、人志だった。

怪童は一切容赦する事無く、拳を前に突き出し続ける。

ここで手を抜く事は、親友の覚悟を踏み躙る事になる。

 

「ウゥゥゥッッ!!」

 

小さな拳が押し戻され、徐々に亀裂を生じていく。

炎の華が、少しずつ消えてゆく。

しかし、それでもこの意志は折れる事はない。

瞳の奥に微かに煌めく灯火は、胸の奥にある蝋燭の火は、絶対に消える事はない。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」

 

咆哮を乗せた炎の拳は、異形の拳を燃やし尽くした。

炎は衰える事なく右腕をも燃やし尽くし、遂には怪童の胸をも貫き、この果てしなくドス黒い心の闇をも焼き尽くした。

ほんの少しの意志の差が、二人の明暗を分けた。

 

────────────────────

 

赤黒い血で染まった曇天の空は晴れた。

拳を前に突き出して立ち尽くす隻腕の少年に、色鮮やかなオレンジ色の夕日が差し込んだ。

 

「ハァッ…!!ハァッ…!!ハァッ…!!ハァッ…!!」

 

文字通り全てを出し尽くした少年は、丘の焼けた草地にとうとう膝をついた。

激しい衝突を経て強大な闇を捩じ伏せたその拳は、肉と骨が焼け落ち、骨を曝け出すにまで至ってしまった。

人志は息を荒げながら、自分の唯一残った武器の今の惨状を見て、静かに笑っていた。

 

膝をついて下を見ている人志に、何かが音を立ててゆっくりと近づいてくる。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…と、草地を重く踏み抜くような重い足取りだった。

足音の主は、欠損した右腕の断面からぼたぼたと血を草地に滴らせながら、人志の元へと辿り着いた。

 

「へ…へへ…やっぱお前には敵わねえわ…へへへ…」

 

人志は膝をつきながら、傷だらけの勝者の顔を見上げて笑った。

 

「さあ、早くやれよ…この戦いは、お前の勝ちだ…」

 

人志は潔く自分の敗北を受け入れて、介錯を求めるように首を前に差し出した。

夥しい出血をしながら、怪童はただ黙って人志を見下ろしていた。

蔑みでも、憎しみでも、哀れみでも何でもない顔をして、怪童は親友の肩に優しく左手を置いた。

 

面を上げて怪童の顔を見たその時、人志は目を大きく見開いた。

さっきまで狂気と闇に満ちていた顔が、まるで憑き物が落ちたかのように、年相応の少年のように純朴で優しい顔つきになっていた。

 

「お前ッ………!!」

 

幼少の頃と変わらない、傷に塗れた優しい顔つきで、怪童は言う。

 

「あの一瞬……打ち負けて嬉しいと思った時点で……俺の勝ちはない………

この戦いは……お前の勝ちだ………」

 

己の勝利を認めない敗者と、勝利を自ら手放した勝者。

曇天の空から顔を見せた夕日が、弱肉強食のこの世界ごと、二人を優しく照らす。

地獄の中で戦い、生き抜いた二人の少年を、心から祝福するように。

 

 

 

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