戦の鉄則   作:並木佑輔

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第62話 人志

 

2022年5月14日──────この日、人妖史上未曾有にして最悪の事件が勃発した。

かつて人間と妖怪の垣根を保っていた、人間社会の最高指導者であった後藤博文。

その者が、人間も妖怪も遥かに超越したまだ見ぬ新しい生命を創る為、魔都・東京にて大規模なテロを起こした。

その手前勝手なエゴと夢の為に、人間も妖怪も数え切れないほどの命が踏み躙られた。

 

だが、惨劇はそこで留まることはなかった。

人の身のまま、己が存在を怪物以上の怪物へと昇華させた唯一の人間──────怪童の復活である。

復活直後、傷に塗れた少年は皆が驚く暇もなく元凶の後藤や、後藤の手で生み出した新生命体Beyondを、その右手で一人残さず抉り殺してのけた。

それだけでなく、怪童は生き残った僅かな妖怪や霊能力者達の前で鏖殺を宣言───────生きとし生ける者の殆どを塵芥へと変えた。

 

魔都・東京────妖怪達が昼夜問わず人間を嬲り、殺し、犯す、享楽に塗れた狂気の楽園。

そんな楽園が今となっては見る影もなく、建物の殆どは倒壊し、数え切れないほどの人間と妖怪達の血と臓物が赤い海となって東京全体を満たした。

 

かつて人間サイドと妖怪サイドの間で勃発された、支配権と生存競争を懸けた全面戦争。

人間も妖怪も、数える指がまるで足らないまでの血と臓物と躯の海が出来上がった。

それに伴い、人志や陽菜や怪童などの戦災孤児達が出てきて、殆どは妖怪達に喰われるか悦楽のままに玩具にされて壊されるか────そのどちらかしかない。

それは実に、言葉では言い表せないほどの光景だった。

 

だがこの日、そんな光景すら上塗りしてしまうほどの赤黒が流れ落ちた。

死者の数、魔都・東京に留めた範囲でもおよそ3398万人。

この数は人間のみならず、もちろん妖怪も含まれている。

しかし日本国内、いや世界各国で見れば、上記の死者数が可愛く思えるまでの死者数になっている。

もはや復興など考えられぬほどに、世界全体の百人にも満たない生存者は絶望に打ちひしがれていた。

2022年5月14日。

多すぎるほど赤黒い血が流れたこの日は後に5-14事件として、人妖史に深々と刻まれた。

 

────────────────────────────────────────

 

事件決着から一週間後────2022年5月21日、午前10時45分。

魔都・東京から約40kmほど離れた山奥に、ぽつんと建っている3階建ての木造旅館”長寿館”。

都心から大きく離れているので客など滅多に来ず、来るのはいつも強者との競争を避けて都心から離れて静かに暮らす…そんな人々を喰い殺す野良妖怪だけ。

だが先の件もあってか、今となっては山に生息する野良妖怪達の数はほぼいなくなり、聞こえるのは風に揺られる木々と鳥のさえずりのみ。

そんなどこか懐かしくも寂しい雰囲気を漂わせる旅館の館内にて、少年少女達は曇った顔で話し合う。

話し合いのテーマはこうだ。

今この瞬間にも、集中治療室のベッドでたくさんの管に繋がれて辛うじて生きている隻腕の少年を、どう延命させるか────────。

 

「ほんの少しだけでいい……勝手な我儘なのは分かっているの……人志にはもっと…安らかなひとときを過ごしてほしい……あいつともっと…友達としての時間を過ごしたい……」

 

と、陽菜は大粒の雫を頬に伝らせて、光を失くした眼差しを仲間に向けて言った。

陽菜は、生まれた時から喪失を繰り返している。

温かかった木の家、両親、孤児になった自分と同じ境遇の子供達と、そんな自分達を救い導いてくれた恩師。

そして、自分や人志を生かす為に怪物を演じて犠牲になった傷だらけの想い人。

16年の人生としては、もう充分すぎるほどの地獄を体験している。

その上で、陽菜はまたかけがえのない人を喪おうとしている。

その人は腕を引きちぎられ、何度も怪物達と不条理に打ちのめされようとも決してブレる事なく、狂気じみたその意志を貫き通し、最後まで自分や怪童を助けようとしてくれた。

そんな隻腕のヒーローを喪ってしまう事に、陽菜の心は地の底の底まで沈んでしまっている。

 

陽菜の光を失った眼差しを受けて、樹と愛菜はただ黙って下を向いた。

二人も、全く同じ気持ちである。

平穏を害する者も、悪意をばら撒く者も、全て捩じ伏せた。

にも関わらず、少年少女達は得も言われぬ絶望に沈んでいる。

身近で大切な人をまた喪ってしまうという喪失感と無力感を、三人は今まで以上に噛み締めている。

 

5月下旬──────春が終わり、徐々に初夏へと近づきつつある季節。

館内には冷房が十分に効いており、少しの蒸し暑さも感じない快適な空間になっている。

だが、そんな快適な空間とは裏腹に、三人の少年少女達の間にはどんな冷気よりも冷たく、どんな暗闇よりも暗く、どんな重石よりも重い空気が漂っている。

 

「おいガキ共!落ち込むのは勝手だが、そんなとこで辛気臭く固まってると客が来ねえんだよ!営業妨害だ!」

 

キー…キー…と、車輪が滑らかな木の床を音を立てて滑らせる。

伊達恭次郎が、眉間に皺を寄せて車椅子を自分で押して、三人の前に現れた。

歴戦の能力者は、先の後藤博文や新生命体Beyond、そして怪童との連戦で黒雷を連発し続けた。

彼の持つ異能”黒雷”の超神速の要である足を酷使し続けた為、遂には下半身付随になってしまい、今となっては車椅子生活を余儀なくされている。

 

「うっせえなあおっさん!そもそもこんな山奥に寂しく建ってる旅館なんかに客なんて来ねえんだから別にいいだろ!少しは感傷に浸らせろよ加齢KY!」

 

伊達のいつもと変わらぬ嫌味っぷりと、愛菜のいつもと変わらぬ強気と口の悪さが、肩に重くのしかかる空気を少しだけ和らげた。

だが、そんな和らいだ空気は、今この瞬間にも峠を彷徨っている隻腕の少年の経過報告と共に一瞬で崩壊する。

 

「あいつの容態は、一週間経った今でも依然変わらねえ…傷の方はうちの医療班の回復術式で手当てはしたが、肝心のバイタルの方は未だに不安定だ…目が覚める兆候もクソもありゃしねえ…

はっきり言うぞ…助かる可能性は、1%にも届かねえ……」

 

報告を受けた三人は、またもや眉間に皺を寄せて表情を曇らせて、ただ黙って下を向いた。

特に三人の中でそれが最も顕著だったのは、陽菜だった。

化け物のような力を持って生まれた自分を、その力のせいで周りの家族や友人たち、数え切れないほどの命を巻き込んで生きてきた疫病神のような自分を。

そんなどうしようもない自分を、嫌な顔一つせずに友人として支え、守り、導いてくれた、最愛の友人にして最高のヒーロー。

そんな人が、助かる可能性が1%にも満たないという紛れもない現実に、陽菜は床に膝をつき、胸に手を当てながら、呼吸を荒くした。

 

「陽菜さん!!」

 

「陽菜ちゃん!!」

 

過呼吸で膝をつく陽菜に、樹と愛菜はすぐさま膝をついて肩に優しく触れる。

尋常じゃないまでの冷や汗が、茶髪の少女の身体から流れ落ちる。

 

“落ち着いて!ゆっくり!深呼吸して!”

 

両肩に優しく触れる二人の戦友の声は、一語一句も少女の耳に届かない。

 

“嫌だ!!嫌だ!!嫌だ!!嫌だ!!嫌だ!!やめてよ!!何かの間違いでしょ!?悪い冗談でしょ!?ねえ!?そうだと言ってよ伊達さん!!

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

また私のせいで人が死ぬの!?お母さんもお父さんも!!私と同じ孤児の子たちも!!茜先生も!!凍哉も!!怪童も!!

そして今度は人志も!!”

 

親友が、ヒーローが、強く優しく暖かい炎が、露と消えてしまう。

助かる可能性は、1%も満たない。

陽菜の脳内に絶望よりも濃く重い感情が、不安定な鼓動と呼吸となって襲い掛かる。

白く細い手が激情に乗せられて、首に爪を立てて絞めようとする。

弱く、醜く、無様な己自身を殺す勢いだった。

比喩でもなんでもなく、本当に自分という存在を殺そうとしていた。

 

“陽菜(おまえ)のせいだ!!陽菜(おまえ)ばかり生き延びて!!何でいつも陽菜(おまえ)ばっかなんだよ!!ふざけんなよ!!今すぐ死ねよ!!無能!!役立たず!!能無し!!死ね!!死ねッ!!死ねッッ!!死ねッッッ!!”

 

透明な汗と濃い血が、ぽたぽたと音を立てて薄い茶色の床の一部を染める。

 

「陽菜さんッ!!やめてくださいッ!!」

 

「落ち着いて陽菜ちゃんッ!!それ以上自分で自分を苦しめちゃ駄目ッッ!!」

 

ヤケになって自傷行為に走る陽菜を見て、樹と愛菜は二人がかりで首にかかっている手を掴み、振り解いた。

 

「ゲホッ!!ゲホッ!!ゲホッ!!ケホッ…エェッ…」

 

冷や汗と涙に塗れ、眉間を皺だらけにして瞳孔が開き切っているその様は、とても齢16の少女とは思えぬほどに負の感情に支配されていた。

そんな醜く無様な少女の姿を目の当たりにした三人は、他人事とは思えずに少女と同じように眉間に皺を寄せていた。

 

妖怪が全てを支配する世界で、共に霊能力を競い合い、共に正道を歩もうとした親友を喪った者。

他種族との交配が禁じられた世界で、人間と鬼、相反する種族間でも愛を貫き通し、子供を作り、家庭を作り、家族を愛した両親を喪った者。

妖怪との生存圏と支配権を懸けた殺し合いの中で、盃を酌み交わし、背中を預け合った戦友達を喪った者。

樹も、愛菜も、伊達も、陽菜と同じく消えない喪失の傷みを心に負っている。

 

冷房の冷たい風が、無情にもこの重苦しい空気を更に悪化させる。

陽菜だけではない…皆、眉間に皺を寄せ涙を殺そうとするも、この果てしなく暗く重い空気に耐えかねている。

その光景はまるで、一筋の暖かな光を失ったかのよう。

 

「…………あとは、あいつの生きる意志の強さに祈るしかねえ……」

 

そう言って、伊達恭二郎は眉間に皺を寄せたまま、車椅子を引いて居間をあとにした。

伊達恭二郎に続いて、樹と愛菜も同じように表情を曇らせたまま、足並みを揃えて去ろうとする。

 

「陽菜ちゃん!行こ!」

 

居間に蹲って涙を流し続ける陽菜に、愛菜はいつもと変わらぬ優しい笑みと優しい声で手を差し伸べた。

しかし、これまで幾度と死線を潜り抜け支えてくれる戦友の声は、喪失と絶望に沈み切っている茶髪の少女の心には無情にも響かない。

ずっと下を向いたまま、嗚咽と共に涙をぽたぽたと床に零す茶髪の少女を見て、半妖の黒髪の少女はどこかシンパシーを感じた。

 

希望の希の字もない地獄の世の中で、共に育ってきた家族同然の親友を喪いそうになっている者と、家族そのものを喪った者。

愛菜は、今の陽菜の弱りに弱り切った姿に、かつて公衆の面前で両親の首を晒されたばかりの幼かった自分を重ねた。

喪失による苦痛は、どんな言葉でも形容し難く、どんな物差しでも測りしれない。

その事を、愛菜は強く理解している。

きっと、どんな言葉を送っても、陽菜の傷み切った心はとても癒しきれないし、響かないだろう。

だがしかし、それが目の前で苦しんでいる友達を放っておいていい理由にはならない。

そんな単純ながらも真っ直ぐな思いを胸に抱いて、愛菜は陽菜を優しく抱きしめて、優しく頭を撫でながら精一杯の言葉を届ける。

 

「大丈夫だよ!あいつは…あいつはそう簡単にくたばるタマじゃないッ…!!絶対生きて、ここに帰ってくるよッ…!!そんで、帰ってきたらさ!目一杯の笑顔とご飯で温かく迎えてやろうよ!」

 

腹の底から精一杯出たこの言葉が、”人志の衰弱死”という無慈悲な現実にいつ打ち砕かれるか分かったものじゃない。

陽菜だけでなく、居間に残った二人も、去ってしまった伊達も、”また喪ってしまう”という不安と恐怖を心の奥底に抱えて苦しんでいる。

だからこそ、愛菜は自分にも言い聞かせる為に、喉の奥につかえている言葉を吐いた。

そんな不器用でありきたりな励ましの言葉が、束の間とはいえ今の少年少女達には充分なほど救いになっていた。

 

 

 

────────────────────────────────────────

 

 

 

ピ…ピ…ピ…ピ…ピ…

と、電子音だけが鳴り響く集中治療室の中で、隻腕の少年は生死を彷徨う。

白く薄暗い部屋には患者の心拍、血圧、酸素飽和、呼吸指示を計測するICUモニターと、その傍らに白いベッドと看護師二人が置かれている。

汚れ一つない白いベッドの上には、人志の身体を伝ってICUモニターに繋がるたくさんのコードと、呼吸器と、人志の人差し指に挟まっている酸素飽和度メーターがある。

 

二人の看護師は表情一つ変えずに、曇り一つない黒い目で少年の治療に専念している。

二人は医療に携わる者として一つ一つの所作にブレが無く、黒い目には一切の澱みが無い。

そう、この世は人喰いの怪物達が支配する完全能力主義の世界。

数え切れないほどの未来ある子供達と若者達が、怪物達の手によって喰われ犯されてきた。

そんな地獄を見て生きてきた人間達にとっては、慣れたくなくても慣れてしまう。

二人の看護師のやる事は、何も変わらない。

ただ目の前の眠っている隻腕の少年の、いつ消えるか分からない僅かな命を預かるだけ。

 

少年の呼吸を補助するマスクに、白い息が吹かれる。

包帯で巻かれた身体にたくさんのコードを繋がれて、酸素メーターで挟まれた指先はとっくに感覚を無くしている。

意識が朦朧としている中、人志は自分の命の終わりがすぐ側まで来ている事を重く自覚した。

"衰弱死"。

そんな覆しようのない恐怖の現実が、死肉を貪る烏のように人志の心身を徐々に蝕んでいく。

しかし、人志はそんな状態に陥りながらも、酷く落ち着いていた。

まるで、こういう事態に何度も経験してきたかのように。

 

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そう、幼少期、家族も名前も無かったあの頃に、人志は数え切れないほど経験している。

物心ついた時に少年の周りにあるものは、妖怪との全面戦争にて倒壊した家と、無数に散らばる人間の死体の山だった。

辺りに立ち込む血の臭いと腐臭、歩けばチャプチャプと音が立つ血と内臓の海。

孤児じゃなくても泣きたくなるような絶望の世界が、少年の目の前に広がっていた。

 

当然、名も無き少年と同じように、およそ十数人ほどの少年少女達が、途方に暮れて大声で泣きじゃくりながら血の海を練り歩く。

その泣き声に妖怪達は反応して、涎を垂らし陰茎を膨らませて襲いかかる。

戦争の衝撃を受けて命辛々生き残った数少ない子供達が、呆気なく喰われ犯され死んでゆく。

そんな光景を何度も目の当たりにした名も無き少年は、泣くのを止めて心を無にした。

無にした心で、まともな食糧など一切無いこの地獄に無数に散らばる死体の肉を貪り、腹の虫を抑える。

そうでもしなければ、到底こんな地獄を生き抜く事は出来ないからだ。

 

飢えと渇きを満たす為に、死体の肉と血を口に入れる…吐く…戻した物を口に入れ直す…。

涎を垂らし陰茎を膨らませて、血眼になって残り物を探す妖怪共から身を護る為に、無数の蝿が集るほどの腐臭を撒き散らす死体の山に隠れてやり過ごす…。

毎日毎日、ただそれを繰り返す…。

妖怪共に頭から喰われたり犯されたりと、死んでいった孤児達と同じ目に遭いたくなかったから。

 

"嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ

こんなクソみてえなところで終わりたくねえ

俺は、まだ生きていたい"

 

そんな想いを胸に抱きながら、名も無き戦災孤児は4歳から6歳までの2年間を生き抜いてきた。

その後に、一人の女に拾われる日が来るまでは。

 

────────────────────────────────────────

 

死体の山だらけの極限のサバイバルを経て、溜まりに溜まった疲労からか、少年は女の背におぶられながら眠っていた。

サバイバルでのストレスと疲労でうとうととしている中、女から発せられる向日葵の香りが少年の心の傷を癒す。

ゆさゆさと揺られ、目を開けたその時、少年の世界は驚くほど変化した。

女に連れて来られた場所は、少年がよく知る赤黒い血の海で満たされた地獄とは打って変わって、頬を撫でるような静かな夜風と、それに揺られる草木でいっぱいの寂しくも優しい世界だった。

その世界の中でぽつんと建っている一戸の木の家に、少年は女におぶられたまま連れられた。

少年は女にされるがままに、ウッドデッキにゆっくりと座らされて

 

「ちょっと待っていてくださいね」

 

と、耳障りの良い一声を発して、灰色の髪の女は少年から離れた。

 

時間にしてざっと2分か3分後、女は食膳を持ち運んでウッドデッキに座って待っている少年の元に戻ってきた。

少年が女に始めに与えられたのは、コップに注がれた綺麗な水と、たった一個のおにぎりだった。

冷めきって腐っていて硬い死体の血肉でも、戻してしまった自分の吐しゃ物でもない。

一つ一つの白い粒に緑色の何かが巻かれていて、温かくて食欲を掻き立てる、綺麗でまっとうな食糧だ。

当然、少年の腹の虫は音がしっかり聞こえるまでに騒ぎ始めた。

目を大きく見開き、涎を垂らしながら、少年は白い米の塊に手を伸ばそうとした。

が、白い米の塊に触れるその寸前で、少年はハッと我に返って手を止めた。

少年は物心ついた時から、生き残った孤児目当てで戦地にうろついている妖怪達の魔の手から逃げ延びてきた。

心の底から信頼できる人間など、ただの一人もいなかった。

だから、少年は手を止めて隣に座っている灰色の髪の女から即座に距離を取った。

 

血と泥に塗れた6歳ほどの子供が、恐怖と不安で身を震わせ、眉間に皺を寄せて剥き出しの敵意を見せる。

その様は、とても苛烈で残酷で悲哀に満ち満ちていた。

そんな少年に、灰色の髪の女は優しく微笑んで

 

「大丈夫」

 

と、ただ一言言って少年の頭に手を伸ばす。

 

言葉と微笑みの中に確かな優しさを感じられつつも、その裏にはどこか哀しみが含まれている。

名も無き戦災孤児は、何となく直感で感じていた。

食糧と水を差し出して優しくしてくれる卯の花色の和服を纏った灰色の髪の女が、孤児である自分以上に苦痛と喪失を味わい尽くしていることに。

女から同類の臭いを感じ取った少年は、不安で震わせつつも女の差し伸べられた手を拒まずに、黙って受け入れた。

 

白くて小さくて温かい手が、少年の血と泥で汚れた頭に置かれる。

髪の毛がわしゃわしゃと音を立てて、優しく丁寧に撫でている。

少年の震えは少しずつ落ち着いて、少しずつ心を許してきている。

その様子を見た女は、少年の頭を撫でるのを一旦止めて、ウッドデッキに置いた食膳を持って少年の手が届くところに置いた。

隣に置かれた綺麗な水が入ったコップと白い粒の塊に、少年の目はもう既に釘付けになっている。

少年は目を輝かせて涎を垂らしながら、食膳の中身と女の順で視線を変えてはしゃいでいる。

年相応にはしゃぐ少年に、女はクスクスと笑いながら

 

「冷めないうちに召し上がりなさい」

 

と、子供をあやす母親のようにそう言った。

 

その言葉を確かに聞き取った少年は、何も遠慮する事なく真っ先に白い粒の塊に手を伸ばした。

始めて触る白い粒の触感と熱さに若干手放しそうなほど戸惑いながらも、少年は勢いに任せてそのまま口の中に運んだ。

柔らかくて、歯触りが良くて、舌がちょっと焼けそうなほどの熱い白い粒の塊が、歯と舌の連携によって嚙み砕かれて溶かされる。

不思議と、味はあんまり感じられなかった…決して不味いわけではない。

今まで生きる為に食ってきた死体の血肉や戻した吐しゃ物のような、いつまでも脳裏にこびり付くあの強烈な食感と味に比べたら、この白い粒の塊の情報はまるで何も脳に入ってこない。

少年は、落胆しながらもゆっくり噛み砕いていく…というか、命を繋ぐためにそうせざるを得ない。

 

そうしているうちに、少年の目から雫が頬を伝って流れた。

吐くほど不味いわけでも、味と食感に不満があるわけでもない。

なのに、涙が止まらなかった。

初めて人に何かを与えられた…初めて死体とゲロ以外のものを食えた…初めて温もりを感じられた…初めてガキらしく泣きじゃくる事ができた…。

名前も家族も居場所も無い孤児にとっては、この上なく嬉しかった。

 

白い粒の塊を食べ終えた後、少年は次にコップに注がれた水に手を伸ばし、コップのふちに唇を当ててゆっくり飲む。

初めて飲む透明で綺麗な液体…これも白い粒の塊と同様、何も味はしない。

けれど、美味い…荒んで傷付いた心が癒される感じがする。

ごくごくと、喉の音を立てて息継ぎを挟みながら落ち着いて飲んでいく。

15秒ほど経って、漸く全部飲み干した後、少年はまた涙を流した。

初めて血と泥水以外の液体を飲めた…その事実だけで、この傷付き果てた心は癒された。

 

涙を流しながらも不安が消えて落ち着けた少年を見て、女は微笑んで少年に語りかける。

 

「名前はありますか?」

 

女にそう聞かれた少年は、黙って首を横に振って答えた。

少年には、元より家族も居場所も名前もない天涯孤独の身。

これは少年だけでなく、戦火を生き延びた他の孤児達も同様である。

女もかつては少年と同じ天涯孤独の身だった故、その事実を強く理解している。

 

女は涼しい夜風に吹かれながら、しばらく黙って考えに耽った。

数秒後、考えを整理させて女はまた少年に語りかける。

 

「人志!人志なんてどうでしょう!」

 

女は自身満々の笑みで、名も無き少年の名前を口にした。

どんな現実にも屈する事なく、どんなものにも流される事なく、自分の意志を貫き通せる人間になれるように。

名前の由来を聞かされるのは6年後、少年が12歳になる頃だった。

 

何も分からぬまま、人喰いの怪物達が蠢く世の中に生まれ落ちた。

何も分からぬまま、死体だらけの赤黒い海を練り歩いてきた。

ただ殺されたくないという気持ちで、死体の血肉を喰って飢えを凌ぎながら怪物達から逃げ延びてきた。

女に拾われて、まともな水と食糧を与えられて、更に名前も与えられた。

今まで堪えてきたものが全部、決壊したダムのように涙となって頬を伝って流れ落ちた。

こんなに与えられていいものなのかと、少年は戸惑いながらも嗚咽を漏らした。

女は、やっと普通の子供らしく泣きじゃくる事が出来た少年を、優しく抱擁して頭を撫でた。

 

────────────────────

 

女の名前は、橘茜。

かつて妖怪との支配権と生存権を懸けた戦争で、妖怪の細胞を取り込んで人間達の安寧の為に戦った人間兵器。

そして、今は妖怪達が蠢く都心から離れた山岳に孤児院を建てて、戦災孤児達を教え導く先生。

孤児院の名前は、花の名前から取ってカモミール。

花言葉は、逆境に打ち勝つ・苦難の中の力を意味する。

女は孤児達から"茜先生"と呼ばれて、まるで本当の親のように慕われていた。

人志も同様、橘茜を恩師としてだけでなく親として慕っていた。

 

カモミールでは、一般教養を学ぶだけでなく、対妖怪の護身術やサバイバル技術を叩き込まれる。

通常、一般の孤児院では18歳まで施設に預けられ、里親と施設との必要な手続きを済ませた後、正式に養子として迎えられる。

だが、それは人間社会に限った話…今は妖怪達が支配する完全なる実力主義社会。

子供や若者は妖怪達にとって食欲を満たすご馳走であり、嗜虐欲を満たす玩具であり、性欲を満たす道具である。

生半可な準備で世に出れば、死ぬよりも残酷な目に遭う事になる。

だから、子供達は日々学習し鍛錬する。

夢を叶える為に、平穏な一生を過ごす為に、弱い自分を変える為に。

 

人志や陽菜や怪童を含めた67人の子供達は、一人の例外なく皆心と身体に消えない深い傷を抱えている。

元から家族がいなかったり、家族を妖怪に喰い殺されたり、家族に都市の移住権の担保の為に妖怪に売り飛ばされたり、妖怪や富裕層に好き放題嬲られたり犯されたりなど、傷の種類は様々である。

皆が皆、自分がこの世で一番可哀想な目に遭っていると、悲劇の主人公を気取っていた。

そして、子供達は自分より弱い者を見つけては憂さ晴らしにいたぶっていた。

救いや希望が一切無い世界で、子供達は自我を保つ為に無意識でそうしていた。

 

人志は、そんな光景を目が腐るほど見てきた。

そうならないように、人志は怪童の肉体的な強さと、橘茜の芯の強さと、陽菜の思いやりの心を見て、模倣して育ってきた。

他の子供達と交流していく中、まだ幼く心も身体も未熟なのもあって些細な事で衝突して互いに罵詈雑言を言い合ったり、殴り合いの喧嘩に発展する事も決して少なくなかった。

それを繰り返していくうちに、いつの間にか子供達との喧嘩やトラブルは無くなっていって、次第に友情を育ませていった。

まるで何回も顔を見合わせて、何回も食卓を囲んで、何回もくだらない事で話し合って笑い合ってきた家族のように。

きっとこの温かい日常がいつまでも続いていって、深く負った傷も癒えていくのだろう。

誰もがそう信じて未来に思いを馳せていた。

 

────────────────────────────────────────

 

人志・陽菜・怪童が12歳の頃、突如何かが轟音と共に山に落ちてきた。

大妖怪バサラとその傍らにいる右腕のザクロが率いる妖怪の軍勢が、孤児院カモミールの襲撃を敢行したのである。

狙いは、陽菜の中に宿っている妖怪の始祖の力だ。

能力は、他者の願いや理想や意思を具現化させる。

バサラは、滅んだ魔界を再興させて且つ自分が絶対的な覇者になるという野望を果たす為に、陽菜の神にも等しい能力を奪おうと画策していた。

 

涎を垂らしながら吐息を吐く妖怪の群れは、女と子供達を一人残らず喰い殺すのに充分な数だった。

醜くも恐ろしい怪物の前に、長い銀髪に褐色の肌にグレーのスーツを着た長身の男が手を高く振り上げる。

皺だらけの邪悪な笑みを浮かべたまま、大妖怪は手を振り下ろした。

その瞬間、大妖怪の背後で大人しく待機していた妖怪の群れが、待ってましたと言わんばかりに奇声を発しながら走っていった。

 

山を揺らすほどの足音と共に、女と孤児達は為す術もなく殺された。

骨ごと肉を噛み砕く咀嚼音と、孤児達の泣き叫ぶ声が、平穏で幸福だった日常の全てを赤黒く染めていく。

人志は、かつてないほどの絶望を味わい、ただひたすらに逃げていた。

怪童は、かつてないほどの怒りに支配され、ただひたすらに反抗していた。

そして陽菜は、かつてないほどの喪失と悲しみに侵食され、ただひたすらに打ちひしがれていた。

 

緑の地が、赤黒い水と臓物で汚されていく。

陽菜の脳内に、恩師と子供達の命が水流のように鮮明に流れてきた。

妖怪の始祖の神の如き力は、命ある者全てをコストに発動される。

67人の子供達と一人の恩師の命は、能力を発動するには充分なコストだった。

神の転生先として魅入られた茶髪の少女は、絶望に身を任せて泣き叫んだ。

陽菜の願いは、既に決まっている。

 

“どうか目の前の現実を全て無かった事にして”

 

と、ただただ声が枯れるまで泣き叫ぶ。

だが残酷な事に、陽菜の思いとは裏腹に別の願いが叶った。

 

“あいつらをぶっ殺せる強さが欲しい”

 

二人の少年の身を焦がすほどのエゴが、少女の願いを上回った。

人志と怪童、二人の少年に異能の力が宿る。

人志には、寿命を代償に全ての傷を癒し、全ての敵を燃やし尽くす炎を。

怪童には、存在を代償に全ての命を空間ごと抉り、無に帰す右手を。

どちらも重すぎる代償の上に、世を支配する怪物達を殺せる充分な強さがある。

二人の少年は、傷つき果てた心と身体の悲鳴を無視し、目の前の敵を殺さんと赤黒く染まった大地を駆けていく。

絶望と恐怖と殺意を、闘志と覚悟と狂気で赤黒く塗り潰していった。

 

────────────────────────────────────────

 

死体の山だらけのサバイバルを経て、名前と居場所と親友を経て、大妖怪による孤児院襲撃を経た。

そして、幾度の敗北と喪失を経て狂い果ててしまった親友に腕を引きちぎられる惨劇を経た。

まさに、敗北と惨劇と喪失の繰り返しの人生。

この時、齢12の隻腕の少年の心身は、まるで打ちすぎた鉄のように傷付き果てている。

いつ崩壊してもおかしくないほどに。

 

"もう懲り懲りだ…こんな希望もクソも無え世の中…"

 

名前が無かったあの頃から、幾度と無くそう思いながら生きてきた。

そんな崩壊寸前の心をギリギリで留めていたのは、生き残った二人の親友への思いと、どうしようもなく非力な自分への激しい怒りだった。

沸々と滾る怒りと悔しさを胸の奥に抱えながら、隻腕の少年は恩師と孤児達の墓標の前で決心する。

化け物が人間を殺して犯し、血と肉と骨を貪り、ゲラゲラと嘲笑うこの夥しい現実を逃げずに生き抜く事を。

片腕を失くした12歳のガキが、苦しんでいる友達二人を助ける為に、まるで物語の中に出てくる主人公のように怪物達と戦って勝つ。

そんな最高の自分になる為に。

これは、誰かに言われた訳でもない…ましてや、神様にそういう運命を背負わされた訳でもない。

他でも無い、自分の意志で始めた戦いだ。

 

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そうして12歳から16歳の4年間、狂気にも似た意志を保ち続け、己の全存在を燃やし続けた。

人智を遥かに超えた怪物達、それらなど歯牙にもかけない超越者、それに並び立つ妖怪殺しにして傷だらけの親友。

立ちはだかる壁は、いつだって乗り越えるのが不可能なほど、絶望的に高く聳え立っていた。

隻腕の少年は、それを乗り越える為に幾度も対価を払ってきた。

涙を拭い、血反吐を吐き、心も身体も傷だらけにし、命を粗末にし、未来をもかなぐり捨ててきた。

どんな壁だろうと、いつだってそれを繰り返し続けてきた。

苦しんでいる二人の親友を救う為に、弱くて情けない自分を変える為に、己に懸けた鉄則を果たす為に。

隻腕の少年は、誰よりも命を燃やして乗り越えてきた。

誰よりも、恐怖と絶望と喪失から目を背けずに生きてきた。

 

──────────────────────────────────

 

能力の代償で筋肉と骨が極限にまで削ぎ落ちて、今にも朽ち果てそうな骨と皮だけの身体に成り果てている。

だが、それでも人志は未だに希望を捨てていない。

 

"あぁ……俺、マジでこのまま死ぬのかな……?

陽菜…樹…愛菜…伊達さん…せめてみんなと一緒の時間を目一杯過ごしてから死にてえなあ…

なあ?それぐらいいいだろ?神様?頼むよ…あと少しでいいんだ…このままだと俺は死んでも死にきれねえんだよ…"

 

今際の際だというのに、笑みを全く崩さない。

自分の死期はここじゃないと言わんばかりに。

今にも消えそうな蝋燭の火は、揺らぎながらも強く鮮やかに燃えていた。

 

 

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