からり、と晴れ渡った青い空が、頭上に高く広がっている。波が打ち寄せる涼しげな音が響く中、天を突き刺すように帆柱を立てた船を中心に、野郎どもが船出の準備をしていた。
食料、商売品、それに砲台など様々な品が運び込まれていく最中、船の主たる俺は日本地図を手に、船の針路を決めているところだった。
「♪ふふん、ふふんふふん、ふふん♪~」
鼻歌を歌いながら、外国人から手に入れたペンを走らせて線を書き込む。それを横で見ながら、補給はここで、この辺りは賊がうるさい、と口添えしていた義峰が突然、もう耐えられないというように思い切り吹き出した。
「あぁ? 何笑ってんだ、義峰」
いきなり笑い始めたのに驚いて眉を寄せると、義峰は一旦声を引っ込め、それでも我慢出来ない、と言いたげに口元を隠して答えた。
「何、元親様があまりにご機嫌宜しいご様子なので、つい微笑ましくなってしまいましてな」
「機嫌が良い? 俺が?」
「えぇ。先ほどから口笛やら鼻歌やら賑やかですし、お顔が滅多に見ないほど朗らかな笑みをたたえておられます」
「そ、そうか」
指摘されてようやく自分の様子に気づき、顔が熱くなるのを感じた。いけねぇ、浮かれすぎて表情に出ちまってるのか。
「どうやら随分、紫乃をお気に召したようですな」
にやにやと揶揄の笑みを満面に浮かべて義峰が言う。紫乃を嫁にと申し出てからというもの、こいつはことあるごとに俺をからかいやがる。照れ隠しで誤魔化そうとするからいけねぇんだと、俺は赤面を隠すよりもむしろ胸を張ってみせた。
「当たり前だろ、お気に召したさ。何しろようやく、念願の妹背になれたんだからよ」
「ははぁ、左様ですか。元親様がさほどに紫乃を欲しておられたとはこの義峰、少しも存じませんでしたな」
からかうよりも感心したように、義峰が顎を撫でて唸る。だがその口の端にはまだ、にやにやが残っていやがる。
「しかし、なればこそ宜しいのですかな、元親様」
「何がだ」
「それほど恋しい妻を得たのであれば、時も忘れて睦み合いたいのが心情でしょう。初夜の翌日に船を出す事もありますまいに」
痛いところをつかれて、俺は一瞬顔をしかめた。
確かに、紫乃を置いてこれから海に出なきゃならねぇのは心残りだ。戦いの危険がなければ、それに海の神さんが怒らないでくれるんなら、連れて船出してぇくらいだ。だがそいつは、俺の居ない船を出すのと同じくらい出来ねぇ相談だろ。
「馬鹿言うんじゃねぇ。俺無しでお前らを海に放り出せるか。俺ぁ紫乃の夫だが、野郎共だって同じくらい大事なんだぜ。女にかまけて、あいつらを放っておくような馬鹿になるつもりはねぇよ」
そう言って、途中で止まっていた針路の線を再度書き始める。義峰は「ごもっとも、それでこそ御大将というものです」と肩を揺すって笑ったが、不意にその猪首を巡らせて声を漏らした。
「おや、元親様。あれに見えるは紫乃にございますよ」
「何?」
ぱっと顔を上げて義峰の視線を追った俺は、土を蹴散らして走ってくる紫乃の姿を見つけた。
「兄上ーっ、元親ぁーっ!」
紫乃は、俺たちの姿を見つけて声を上げた。懸命に駆け寄ってきて、息を切らして胸元を押さえる。
「あぁ、良かった……まだ、出て、なかった」
「紫乃様。どうされました、さほどに慌てて」
妹とはいえ今は俺の妻となった紫乃を相手に、義峰は一歩下がって臣下の礼を示しながら言う。紫乃は一瞬戸惑って小首を傾げたが、すぐ気を取り直した。肩で息をしながら、
「船出、するって、聞いたから、お見送りを、しようと、思って、来たの」
駆けてきたおかげで頬を紅潮させている紫乃は、頭のてっぺんからつま先まで、いつもより更に可愛らしく見える。青い血管が薄く見えるほど白い肌、そこから漂う汗と香の甘い匂いをかぐと、昨夜の閨がまざまざ思い出されて、ついつい顔が緩んじまう。俺は地図に最後の線を書ききってペンを放り投げ、紫乃に歩み寄った。
「紫乃、もう起きられるようになったのか」
「え?」
ようやく息を整えた紫乃は俺の問いかけに目をぱちくりさせた。俺はニヤニヤ笑って言う。
「いや、朝方辛そうだったからな。少し無理をさせちまったかと気に「キャーーーーーーーーーー!!!!」むぐっ!」
話の途中で紫乃がいきなり俺の口を手で塞いだ。不意打ちに目を白黒させると、紫乃は真っ赤になって更に叫ぶ。
「な、な、な、何を言い出すのよ突然、ああああ兄上の前で!!!!」
「もご、もごもごっ」
そのまま力任せにぎゅうぎゅう押さえつけようとしてくるので、俺は紫乃の桜貝みたいに小さな手をはぎ取って、顔をのぞき込んだ。ニーッ、と口の両端が上がる。
「お前こそ何言ってんだ、紫乃? 俺とお前が結婚したのは義峰も、ここにいる連中も皆承知してるんだぜ。今更恥ずかしがる事ねぇだろ」
「は、は、恥ずかしいに決まってるでしょ!!」
対して紫乃は、かえって人目をひくような大声で怒鳴った。
まぁ言われてみりゃ、昨日まで生娘だった女には少々、あけっぴろげすぎる物言いだったかもしれねぇ。しかしその初(うぶ)な反応が、また可愛いじゃねぇか。
「ま、まぁまぁ、紫乃も元親様も、まずは落ち着かれて。人目を引きます故」
ぎゃんぎゃん騒いでいるのを見かねて、苦笑いを浮かべた義峰が俺たちの間に割って入った。だって兄上、と声を跳ね上げる紫乃を手振りで宥める。
「紫乃、元親様をお見送りに来たのだろう? 喧嘩はよせ」
「わ、私だって喧嘩したいわけじゃ! 元親にっ、……渡すものがあって」
「俺に渡すもん?」
紫乃は懐から取り出したものを差し出す。何かと見れば、四寸ほどの長さで、いくつも結び目を作った麻縄だ。紫乃は上目遣いに俺を見上げ、少し恥ずかしそうに言う。
「……あの、これ。元親のために作ったの。もらって、くれる?」
「あぁ……」
それは古くからあるまじないだった。海で風が無くなって立ち往生した時、その結び目を解くとたちまち風が吹いて進む事が出来るようになるという。船に乗る奴は恋人や妻、家族から渡され、航海の供に懐へ忍ばせてる。確か忠義や義峰も、浮笹や死んだ妻が作った守りを常に持ち歩いていたはずだ。
俺がこいつを、紫乃からもらう日が来るとは。
(本当に俺は紫乃と、結婚したんだなぁ)
紫乃の掌中にある麻縄を見下ろし、しみじみ、実感する。同時に胸がじんわり温かくなって、なぜか涙が出そうになった。慌てて目に力を入れて笑みを浮かべてみせる。
「……ありがとうよ、紫乃。大事にするぜ」
「うん」
俺の言葉にほっとして、紫乃もまた嬉しそうに笑った。
「紫乃……」
途端、ぎゅう、と胸が苦しくなる。頬を染めたその笑顔はこれまで見たどんな女よりも愛らしく輝いて見えて、たまらなく、可愛い。
俺は腕を伸ばすと、麻縄ごと紫乃の手を掴んだ。
「え?」
そのまま引き寄せて、抱きしめて、耳元に口を寄せ、息を吹き込むように囁く。
「俺が帰るまで、閨を暖めて待ってろよ、紫乃。我を忘れるぐらい可愛がってやるからな」
「なっ……」
ぼんっ、と音が聞こえそうなくらいの勢いで、紫乃の顔に血の気が上って真っ赤になった。あぁくそ、たまらねぇな。その小さな耳に軽く唇を当てて、俺は紫乃を離してくしゃくしゃ、と頭を撫でた。
名残惜しいが、いつまでもこうしている訳にもいかねぇ。邪魔すまいと心得て、背を向けている義峰の肩を叩き、
「そんじゃそろそろ行くぜ、義峰」
「はっ」
義峰は絶句して硬直する妹をちらりと見やった後、俺と共に艀(はしけ)をわたって船に乗り込んだ。忙しく立ち働く野郎共に声をかけて回っていると、「元親様、紫乃が何か言っておりますぞ」と義峰が伝えてくる。
「あぁん?」
目を向ければ確かに、紫乃がこの船に向かって叫んでいるのが見える。俺の名でも呼んでるのか、にやけながら耳をすましてみる。と、息を大きく吸い込んだ紫乃が、
「……か、元親、このっ、おおうつけものぉーーー!」
港中に響き渡るような大声で、そう叫んだ。
「……し、紫乃……。さすがに、それは無礼な」
義峰が、そして周りの野郎共も働く手を止め、紫乃の暴言にぽかん、と口を開けて呆れる。
しかし俺はぶはっ、と吹き出し、
「……あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」
そのまま腹を抱えて笑っちまった。あぁ最高だ、一国の主相手にあんな口を利く女なんざ、どこ探してもいやしねぇ。ましてその台詞は、無体を働こうとする俺を殴り倒したあの夜を思い出させて、尚更おかしく、愛しくなる。
「紫乃!」
俺は船縁に足をかけて身を乗り出し、刺すように名を呼ぶ。
「俺の留守は任せたぜ! しっかりやれよ!」
虚を突かれたように目を丸くした後、紫乃は口に手を当てて叫ぶ。
「分かった、任されたわ! 元親、様! 御船に、ご武運のあらん事を!」
「おうよ! ……それじゃあ行くぜ、野郎共! 宝探しの時間だ!」
紫乃の声を背に、俺は野郎共に発破をかける。我に返った連中が「わかりやした、アニキ!」と応えるのを聞きながら、俺はせいぜいと空を見上げた。
からりと晴れ渡った空はどこまでも高く、広い。
その先にある冒険とお宝を手に入れるために。そして、紫乃の待つ港へ、また戻ってくるために。
まじないの麻縄を結わえ付けた俺の船は今、目の前に続く海と空に向けて、意気揚々と出航したのだった。