しとしと、御簾越しに雨の音が聞こえる。
「……はぁ……」
板敷きの上に横たわり、その音に耳をすませながら、私は何度目かのため息をもらした。
気が滅入っているのは、雨のせいじゃない。
ここ数日頭から離れない、元親のせいだ。
『あの夜』から日が経ったけれど、元親は全然顔を見せない。家督を継いでからずいぶん忙しくなって、気軽に遊びに来られなくなったのは分かっているけど、それにしたって。
(乙女に狼藉を働こうとしたのだもの。一言、謝りの文でも寄越すのが筋じゃない?)
今はいい加減で大雑把に見える元親だけど、もともとは人一倍気を遣う質だ。悪いと思ってるなら、酔いが醒めた時点でやってきて、土下座でもしそうなものなのに。
(もしかして、あれを悪いと思ってないのかしら)
ごろっと寝返りをして、お行儀が悪いけれど、親指の爪を軽く噛んで考える。
元親が元服してからというもの、時折女の気配を感じる事はあった。衣から、自分では絶対つけない香の匂いがしたり、兄上とどこの女が評判だ、なんて噂話をしてたりもした。
元親だって、いつまでも私が知ってる姫若子じゃない、もう大人の男だ。だから女の扱いくらいとっくに心得ているはず。あの夜の事だってただ戯れてみせただけ、わざわざ謝るほどの事でも無いと思っているのかも知れない。
……そう思ったら、何だかイライラしてきた。私は反対側に寝返りを打って、爪を噛むのをやめた。その指が唇に触れて、不意にかぁっと頭に血が上った。『あの夜』の事を、急にまざまざと思い出してしまったからだ。
「……初めてだったのに」
接吻は勿論、あんな風に抱きしめられるのさえ、初めてだったのに。
絵巻物では、互いに恋い慕う二人が情熱的な文をかわし、その思いを胸に一夜の逢瀬を……というのが普通だ。
それが現実そのまま、というのはさすがに夢を見すぎだと思うけれど、よりによって酔った勢いでなんて、最低過ぎる。それも相手があの元親だなんて。
しかもそれを気にしてるのが私だけなのだとしたら、自分にも元親にも腹が立ってきた。
(元親の、ばか。間抜け。変態)
心の中で毒づいたら、苛々がどんどん募ってくる。何で元親の事で、こんなに嫌な気分にならなきゃいけないんだろう。
決めた、元親がこれからどれだけ謝ってきたって、もう絶対許してやらない。乙女の純情を汚した罪は打ち首獄門に値するくらい、重いのよ。
なんて事を、床板に拳を打ち付けて決意していたら、
ドスドスドスドス! ガラッ!
「紫乃、いるか!」
「きゃあっ!?」
地震のような勢いで廊下を渡ってきた兄上が、いきなり戸を開けたので、飛び上がってしまった。
「紫乃、また床に寝転がっていたのか、はしたない」
「そ、そんな事言うなら兄上だって、ちゃんと取り次ぎしてから来て頂戴!」
「細かい事は気にするな」
「気にするわよ! 礼儀はきちんとわきまえて、といつも言ってるでしょ!?」
普通、兄妹であっても女人の部屋を訪れるのであれば、先触れくらいするものだ。噛みつくように叫ぶと、兄上は気圧されたように上体をひいて、口を曲げた。
「随分機嫌が悪いな、紫乃。何かあったか」
「……何もないわよ」
兄上なら元親から聞いて知ってるかもしれないけど、わざわざ説明したくない。そっぽを向くと、兄上は腰を下ろして笑った。
「まぁそう拗ねるな。お前の機嫌も直る良い話を持ってきてやったぞ」
「良い話?」
脇息に頬杖をつき、我ながら不機嫌な声で答えると、兄上はぽんと膝を叩いて前に身を乗り出した。
「かねてより話のあったお前の縁談。ようよう、お相手が決まったぞ」
「…………え」
簡潔な言葉に、頭がついていかなかった。
理解できずにぽかん、と口を開ける私に、聞こえなかったのか、と兄上が繰り返す。
「だからな、今日、お前の輿入れ先が決まったと言ったんだ」
輿入れ、先?
言の葉がしみこみ、体が強ばる。舌が凍り付き、ざぁっと音を立てて血が下がる音がした。
一瞬目の前がぐらりと歪み、脇息にしがみつく。
「っ……」
「おう、何だ。言葉に出来ぬほど驚いたか、紫乃?」
兄上は私とは正反対に上機嫌のまま、話を続ける。
「こういった話は良縁に恵まれ、とんとんと決まるものだな。事は父上の喪が明けてからだが」
「あ、兄上」
「矢曽木(やそぎ)家が娘の祝言だからな、派手に行わねば。何しろ、こたびのお相手は」
「兄上!」
つらつらと話を進める兄上を、私は大声で遮った。驚いて目を丸くする兄上に言いつのる。
「兄上、どうして私に黙って決めたの!?」
「ん? 何を言う紫乃、縁組に関してはわしに一任すると言うたではないか」
「そうだけど、でも、でも、こんな急すぎるわ! 決める前に私に一言、言ってくれたって良いじゃない!」
「いや、しかし」
気色ばんで言いつのる私に、兄上は困惑した様子で首を傾げた。それはそうだろう、兄上が言ったように、自分の縁談は全て任せる、と言ったのは私なのだから、こんな風に責めるのは間違ってる。
「相手が誰でも構わぬ、随意にという事だったと思うが……何だ、紫乃。縁談が今更いやになったか」
けれど、その刹那。稲光のように元親の顔が頭の中に浮かんでは消え、途端、カッと体が燃えた。
「馬鹿!」
「へ?」
面罵されて兄上はきょとん、と目を瞬く。その間の抜けた顔が更に苛立ちを煽って、腹立たしい。
「私の気持ちも考えないで、いつだって自分だけで物事を進めて……兄上も元親も勝手よ!」
「元親様? おい紫乃、お前何を言って」
「出てって! 出てってよ!」
「うわ!」
手に触れた脇息を力任せに投げつけると、兄上はそれを避け、慌てて部屋の外へ逃げ出した。ぱしん、と閉められた戸を、肩で息をしながら睨み付けた私は、目眩をこらえて唇を噛む。
(皆、私の事なんてどうでも良いと思ってるんだわ!)
それが子供じみた癇癪に過ぎない事は分かっていた。それでも我慢出来なくて、私はその場につっぷした。
(兄上も、元親も、大嫌い!)
目が潤み、熱くなる。縁談という言葉と、思い浮かんだ元親の笑顔が、胸に重くのしかかってくるようだった。