……って……待ってよ、しの!」
視界一杯に広がる緑をかき分けると、生い茂る木々の合間から太陽の光が差し込む。陽光に目を細め、息を切らしながら名を呼ぶと、前を行く少女が肩ほどの髪を翻して振り返った。
「遅いよ、弥三郎! 早くしないとひなが巣立っちゃう」
しのは弥三郎をせき立てて更に足を速め、道泣き道をどんどん進んでいってしまう。弥三郎はうう、と唸って後を追う。
しのは自分より小さな女の子なのに、どうしてああも元気なのだろう。後を追って潜り込んだ茂みは予想より厚く、しなやかな枝に何度か体を叩かれて泣きそうになる。ぐっと唇を噛んでこらえ、やっとの事で抜けると、しのが獣道の真ん中に立ち止まっていた。
「しの」
待っていてくれたのか。追いついてその肩に手を置いた時、
「!」
弥三郎はぎくり、と体を強ばらせた。少女の向こう側、道の先に、犬がいたのだ。
(や、野犬!?)
それは屋敷に居る飼い犬とは、まるで違った。あばらが浮くほどやせ細る身体は一回りも二回りも大きい。飢えた目をギラギラ光らせ、食いしばった歯の間からよだれがしたたり落ちる。喉の奥でくるくる鳴きながら、野犬はちらりと弥三郎に視線を送ったが、すぐしのへ視線を戻した。
(う……うぅ……)
痺れたように身体が凍り付き、動けない。からからに乾いた喉にごくり、と唾を流し込んだ時、弥三郎はハッとした。軽く触れた手の下で、少女の身体が細かく震えている事に気がついたのだ。目を動かして見下ろすと、しのは真っ青になって硬直している。
(しのも……怖い、んだ)
考えずとも当たり前だ。自分よりも大きな野犬が牙をむいてこちらをにらみ据えているのだ。こんな小さなしのが、怖くないはずがない。
(……ま、守らなきゃ)
獣は怖い。今すぐ走って逃げ出したい。けれど今、しのを守れるのは他でもない、自分だけだ。
(守らなきゃ!)
心の中で叫ぶと、肝が据わった。震えが止まる。
「……」
息を殺しながら、弥三郎は野犬を刺激しないようにそっとかがんで、地面に膝をついた。指で辺りを探ると、その先に石が当たる。手のひら大のそれを握りしめ、野犬を睨み付ける。
野犬はまだ、しのに狙いを定めているようだ。
(まず、弱い方を狙うつもりなのか)
あるいは。自分のように背ばかり高くてひょろひょろした子供なんて、相手にもならないと思っているのかもしれない。
「……!!」
そう思ったらカッと腹の底が熱くなって、首に力がこもった。
「……しの、下がって」
低く囁くと、しのがびくっとしてこちらを見た。不安に揺れるその目に、頼もしく映れば良いのに、そう思いながら頷く。しのはぎゅっと唇を横にひき、一歩後ろに下がった。その動きに反応して野犬が頭を下げ、前に出る体勢になったところへ、
「……やっ!」
弥三郎は振りかぶり、力任せに石を投げつけた。目の辺りに狙いをつけたはずが、力の入れすぎで手元が狂い、石は犬の鼻先に当たった。
「ギャンッ!!」
だがそれが良かったのか、野犬は悲鳴を上げて跳びすさった。明らかに怯んだその様子に勇気づけられたのか、
「弥三郎!」
硬直から解放されたしのが声をあげ、その場にあるものを手当たり次第に投げつけ始めた。しのに押されるように、
「や……やぁぁぁあ!」
意味のない叫び声を上げながら、弥三郎も野犬に向かって石つぶてをいくつもぶつける。次々と降るように浴びせられる石や枝に野犬は怖じ気づき、ヒンヒン鳴きだし、やがて尻尾をまいて逃げ出した。
「……はっ、はっ、はっ……」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
石や枝を握りしめ構えた弥三郎としのは、野犬の姿が見えなくなってようやく、その場に崩れ落ちた。息を荒げたまま、顔を見合わせる。しばらく、お互い惚けた状態で見つめ合った後、不意にしのの顔がゆがみ、
「う……わぁぁぁん!」
喉が裂けるかと思うほど大きな声を上げて泣き始めた。大きな瞳から大きな涙の粒をぼろぼろ落とす様につられて、弥三郎の視界も揺らぐ。
「うっ、う、うわぁぁん!」
「ああーん、あーん!」
少女と少年は抱き合って泣き続ける。二人の声が静謐な森の中に響き渡り、近くの木に止まっていた鳥が飛び立った……
「…………」
ふ、と開いた隻眼はぼやけ、しかしすぐに焦点を取り戻す。瞬きをして、薄闇に沈んだ天井を見上げた後、ぐいっと身体を起こした。まだ寝ぼけてるせいか、頭がぼーっとする。
ぼりぼり頭をかいて、俺はふう、とため息をついた。掛布を引っぺがして立ち上がり、障子を開ける。
まだ夜明け前だ。しん、と静まりかえった朝の空気は張りつめて冷たい。俺は廊下に踏み出し、濡れ縁に腰を下ろして頬杖をついた。
(懐かしい夢を見たもんだぜ)
あれはまだ俺が姫若子なんて呼ばれてた頃だ。紫乃は昔っから気が強くて、俺や義峰を引っ張ってあちこち走り回ってたっけ。
(あん時もそうだったな)
巣立ち間近のひな鳥を見に行こうと、いつものように紫乃へ連れて行かれた山で、野犬に出くわした。勇気をふるって、やっとの事で追い返したはいいものの、二人とも泣いて動けなくなって。
(後で迎えに来た義峰にさんざんっぱら、叱られたっけな)
ふ、と口が緩み、ついで横にひき結ぶ。
(あん時初めて、紫乃を守らなきゃならねぇ、そう思った)
それまで自分より強いと思っていた紫乃が、何よりもか弱く思えて。
「こいつを守るために俺が強くならなきゃならねぇ。そう決めたんだ」
呟いた言葉は誰の耳に届くでもなく、朝の静寂の中に吸い込まれて消える。
「…………」
俺は目を細めて空を見上げる。天は紫から赤に塗り変わり、太陽がその姿を見せ始めていた。