昼まで、普段はやりもしない書類仕事をだらだら片づけた後、ようやく重い腰をあげた元親は、義峰の部屋へ足を向けた。
「義峰、居るか……」
「おや、元親様」
「っと、客か?」
声をかけながら障子を開けたところ、部屋の中に義峰ともう一人尼僧が居たので、たたらを踏む。ゆるりと顔を向けた尼僧を見て、元親はぱっと顔を輝かせた。
「おお、浮笹じゃねぇか!」
「若様、お久しゅうございます」
元親の乳母だった浮笹はにこり、と微笑む。痩せはしたが、百合のごとくと称えられた美貌はそのまま、尼僧姿だとより清らかに美しく見える。
「おいおい、若様はよせよ。俺ぁもうガキじゃねぇんだぜ」
「わたくしも浮笹ではございませんよ」
上座に腰を下ろし、そうだったな、と元親は頭をかいた。浮笹は夫の忠義が命を落とした戦の後、出家をしている。出家後の名前は清心(せいしん)という。
「わかっちゃいるんだが、慣れ親しんだ名ってのはなかなか変えられないもんでな」
「その通りですわね、若様」
「……まぁいいや。で、いつこっちに来たんだ」
「昨夜ですよ、元親様。雨中に突然の事で、私も驚きましたが」
義峰が元親に茶を差し出して、にこやかに言う。ほほほ、と口に手を当てて浮笹が声を上げた。
「紫乃のお相手が決まったと文で寄越されたら、己が目で検分しなければと思うでしょう」
「け、検分しに来たのかよ……」
ひき、と元親の口が引きつった。外見こそ淑やかな女性だが、浮笹はあけすけな物言いをする。浮笹に笑顔でこき下ろされ、元親・義峰のみならず、忠義も何度凍り付いたかしれない。その浮笹が検分するというのであれば、紫乃の未来の夫がどれだけの苦境に立たされるか、考えるだけで寒気がした。
「あー、あーそれはそれとしてだな」
とりあえず目の前の障害から目をそらして、元親は義峰へ顔を向けた。
「義峰。紫乃の事だがよ」
「……はっ」
それまで笑んでいた義峰の顔が緊張に強ばる。そのまま言葉の続きを待ったが、義峰は正座をしたままかしこまって、黙り込んでいるので、
「……もしかして、駄目だったのか」
元親は、我ながら情けない口調でおそるおそる尋ねた。いやそのと目を泳がせる義峰に、浮笹が穏やかに言葉をかける。
「義峰。お答えなさい」
「母上……しかし……」
「こういう事はきちんと伝えねば、過ちを招きますよ。二人の事を思うのであれば尚のこと、正直にお答えなさい」
「……はっ。分かりました、母上」
母に頭を下げ、義峰は改めて主に向かい合った。固唾を飲む元親を真っ直ぐ見つめ、沈痛な面持ちで口を開いた。
「元親様よりお申し出頂きましたお召し抱えの件、紫乃が……その、難色を示しまして」
「…………そうかよ」
義峰の様子から予想していたが、言葉にされると胸に重い。元親は口の端を曲げて目線を下げ、ため息をついた。
「なら、しょうがねぇやな。この話は無かった事に」
「お待ちなさいませ、若様」
胸の痛みを無視するため、早々に話を切り上げようとする元親を、浮笹が手を挙げて止めた。
「一度断られたくらいで諦めるなど、あなたらしくもない。それとも紫乃を求められたのは、さほど軽いお気持ちだったのですか」
「それは……違ぇよ」
以前、義峰に言ったのと同じ答えを返す。
「けどよ、紫乃が否と言ってるものを、無理強いする訳にもいかねぇだろ」
「これは殊勝な事。とても海賊の台詞とは思えませぬな」
浮笹が軽やかな笑い声を立てたので、元親は仏頂面になった。
「笑い事じゃねぇだろ、浮笹。事はお前の娘の話だぜ」
「なればこそ、紫乃にとって善き伴侶を選んであげたい、と願うのが親心でございます。義峰から若様が紫乃をご所望されていると聞いた時はこの浮笹、心躍る思いでしたのに……」
「なんだそりゃ」
義峰が入れた茶で口を湿らす元親。幼い頃から馴染んでいる浮笹と女の、しかも紫乃の嫁取り話をするなんて、緊張してならない。浮笹は目を細めて口元を緩めた。
「昔から紫乃と若様はとても仲よろしゅうしておりましたからね。いずれ娶せれば、良き夫婦(めおと)になろうと思っておりましたのよ」
「母上、言葉が過ぎますぞ」
控えていた義峰が慌てて言葉を挟んだ。
矢曽木家は長曾我部家に長年仕えているが、元々身分低い武門。力をつけるためには戦場で名をあげる、または有力な家筋と血筋を結ぶのが習いである。
その矢曽木家からすれば、主君たる長曾我部元親との縁組はまたとない良縁だが、それ故に妬み邪推する者も少なくない。矢曽木の現当主である義峰にしてみれば、幼年の頃からの野心を匂わせる母の発言に慌てるのは当然の事だった。
しかし母は朗らかに笑った。
「もはや俗世と縁切れた婆の言う事など、本気に取るものがありますか」
「お前だって、紫乃を貰ってくれりゃ嬉しい、なんて言ってたじゃねぇか」
二人の言葉に義峰は苦笑して、居住まいを正した。
「それはそうですが、肝心の紫乃が嫌がっているのであれば、このまま話を進めるわけにもいきますまい」
「…………」
紫乃が嫌がっている、という言葉が不意打ちで効き、元親は思わず脇息にもたれかかった。
浮笹の言うとおり、紫乃とは昔から仲良くやってきた。双方に男女の情があるかと言われれば言葉に窮するが、少なくとも嫌われてはいないだろうとは思っていたのだが、
(やっぱり、あれか。こないだの無理強いで見限られたか)
雰囲気も何もなく、そこいらの遊女のように扱われれば、紫乃が激怒しても無理はあるまい。
だが、だからこそ、今度こそ本気の心を伝えようと、求婚したというのに。
「まぁ若様、そう落ち込まれずに」
脇息を抱えてへこむ元親を見かねて、浮笹が柔らかく声をかけた。
「若様が望んでおられる事、紫乃へ直にお伝えなられましたか?」
「……あん?」
顔を上げて、考えてみる。紫乃の輿入れについては、いっさいを取り仕切る義峰に申し入れたし、あの夜からは顔を合わせるのも気まずく、紫乃の部屋を訪れる事もしていない。
「……そういや、紫乃には全然、話してねぇな」
「こたびのように殿方だけで話を進めては、どんな女でも機嫌を損ねますよ」
「しかし母上。紫乃は私に全て任せると言ったのですぞ」
「義峰、あなたも一度妻を持った身なら、少しは女心というものをお考えなさい」
ぴしゃりと息子を打ち据えて、浮笹は長いまつげを伏せて憂いの表情を浮かべる。
「……これがただの政略結婚であれば、それも致し方のないこと。
けれど、若様が紫乃を好いておられるのであれば、そのお気持ちをまずお伝えなさいませ」
「…………」
脇息を手放し、元親はそりゃそうだな、と頭をかいた。
顔を合わせれば何を言われるか、とつい避けてしまったが、西海の鬼ともあろう男が女の言葉にびくびくするなんて、滑稽に過ぎる。
(嫌がられるか。罵られるか。どっちかしらねぇが、白黒はてめぇでつけねぇとな)
「分かったぜ、浮笹。紫乃とはきちんと話をつけてくる」
腹をくくってそう宣言すると、
「えぇ、若様。わたくしも一度、母として紫乃と話をしてみましょう」
浮笹はにっこり微笑み、小首を傾げてみせた。
「そして今度こそ、わたくしに若様の検分をさせて下さいましね」
「……そいつぁ、遠慮したいもんだぜ」