久方ぶりにこちらへ戻ってこられた母上が、昼過ぎに私の部屋へおいでになった。修行の日々に勤しんでおられるせいか、お顔の線がずいぶん細くなられたけど、変わらずお元気そうだ。
父上が亡くなられた時は寝込まれて、そのまま儚くなってしまわれるかも知れない、とずいぶん心配したけど、落飾して御仏に心身を預けられたせいか、以前のようにゆったりと落ち着いていらっしゃるご様子。
(良かった、母上がお元気になられて)
案じていた分ほっとして、私は母上とよもやま話に花を咲かせた。母上が居なくなってしまわれてからの事をあれこれ語っていたら、話は自然、私の縁談へと移った。
「義峰から聞きましたよ、紫乃。こたびの縁談を嫌がっているのですって?」
「兄上ったら、もう母上にお話したのね」
「当然でしょう、とても心配していましたよ。全て義峰に任せていたのに、事が決まるとなったら否というなんて、縁談が嫌になったのかしら?」
「そんな事ないわ、母上」
柔らかな声で問われ、私は急いて首を振った。
「昨日は心の準備が出来ないうちに突然言われて、驚いただけよ。兄上は私に良いように計らって下さっているのに、ひどいことをしてしまったわ」
あんな風に、子供っぽく癇癪を起こすつもりなんて無かったのに。兄上にはちゃんと謝らないと。
「では、縁談そのものは良いと思っているのね」
「はい」
迷いなく頷くと、母上はふわり、と美しく顔をほころばせた。
「そう、それは良かったこと」
「もちろん、矢曽木の家のためになるのだもの、良い事に決まっているわ」
「……何ですって?」
途端に母上の表情が曇ったのでどきり、とする。私、変なこと言ったかしら。
「紫乃、あなたは家のために嫁ぐつもりなの? どうしてそんな事を」
問われて、私は居住まいを正した。父上が亡くなられてからずっと考えていた事、母上にもお伝えしたいと思ったからだ。改まって、口火を切る。
「……母上。私は最近、他国の話を兄上に教えて頂いているの。
あの第六天魔王・織田信長ご正室の濃姫や、浅井へ嫁がれたお市様は、戦場(いくさば)へ武器を手に随伴して、お家の為に戦っていらっしゃるのですって。
私、それを羨ましく思うの。戦場へはせ参ぜず、家にこもってただひたすら、戦勝祈願をすることしか出来ないのは、歯がゆいわ」
「何を言うの、紫乃。女の身で戦場へ足を踏み入れるなど、あってはならない事。ましてや己が手で人を殺めるなど……」
「もちろん、私には振るう武器も力も無いから、戦について行くなんて事も出来ない。人の命を奪いたいわけでもないわ。だけど私、兄上や元親の役に立ちたいの」
私は己を鼓舞するように、ぎゅ、と膝の上で拳を握りしめた。
「だから、私に出来る事が何かを考えてみたの。そうしたらどこぞの有力な武将と縁を結んで、矢曽木を強くする事じゃないか、と思ったの」
「まぁ……」
母上は嘆息して、袖で口元を覆い隠した。
「紫乃、義峰が家のために、あなたを犠牲にする事はないでしょうに」
「兄上は呑気に構えすぎなのよ」
兄上を悪く言いたくはないけれど、私はつい語気を強めてしまう。
「今の位が分相応、とのんびり構えて、出世の機会も他の人に譲ってしまって。矢曽木は昔から長曾我部家に仕えているのに、だから何時までもうだつの上がらないままなんだわ」
「言葉が過ぎますよ、紫乃」
母上が困惑顔で窘められたけど、でも本当の事だ。膝の上の拳をぐっと持ち上げて、私はますます強く声を発した。
「近頃では織田や豊臣の勢力がどんどん増して、一国が一夜のうちに滅ぶ、なんて噂も聞こえてくるわ。今のところ四国はまだ大きな戦に巻き込まれていないけれど、いつまでものんびり構えていられないでしょう」
「それはそうだけれど……若様はそのために、南蛮のカラクリ兵器を作っておられるのでしょう?」
「そうみたいね。どんなものを作っているのか、見せてくれないけれど、兄上の話では随分強力なものみたい」
織田信長がいち早く戦に取り入れた南蛮の火縄銃。
その存在を知った途端、元親は方々へ情報収集に走り、外国の技術者をどこかから連れてきた。そして火縄銃を改良し、大砲を船に積み込んで、あっという間もなく、長曾我部水軍に火器を用いた軍略を取り入れた。最近ではそれより更に強大なカラクリ兵器まで作っている。
銃を日の本に持ち込んだのは織田だけど、それを素早く取り込んで兵力とした元親の抜け目なさには、ほとほと感心してしまう。
そもそも、長曾我部水軍は近隣の漁村から集められた荒くれ者達で形成されている。兵と言っても訓練された者達ではなく元は漁師、もめ事が絶えなくて大変だったそうだけど、彼らが強固な忠誠心をもって付き従うようになったのは、元親の尽力によるものらしい。
新しいものを躊躇う事無く受け入れる柔軟さと、人の絆を大切にする優しさ。四国を統一してのけたのは元親がそういう人間だからだと思う。兄上が見返りなどいっさい気にせず、ひたすら元親に忠誠を捧げているのも、その為だろう。
不満に思うところはあるけれど、私は兄上や元親のそういうところはとても尊敬出来るし、誇りに思ってる。だからこそ、私も、何か自分を役立てたい。
「……驚いたわ。まさかあなたがそんな事を考えていたなんて」
一生懸命、自分の考えを説明すると、母上はほう、と息をもらした。
「では、本気なのね。あなたの縁談が矢曽木のため、というのは」
「えぇ。矢曽木が強くなれれば、国のためにもっと働けるもの」
「それはつまり、若様の御為、という事かしら?」
「それは……そ、そういう事になる、わね」
少し前に元親がいかに優れた国主か、と力説していたにも関わらず、改めて母上の口から元親の名が出てきた途端、いきなり顔が熱くなった。
いやだ、どうして赤くなるの。こんな顔、変に思われてしまう。私は頬を慌てて手で隠したけれど、母上にはお見通しのよう。
母上はいざって私のそばに来られた。上体を曲げてこちらをのぞき込み、目を細めて微笑まれる。
「紫乃は、若様をお慕いしているの?」
「え!」
予想外の問いに心の臓が跳ね上がる。は、母上ったら、何て事をお聞きになるの!? 私は紅潮した頬を隠したまま、しばらく声を出せなかった。そしてやっとの事で絞り出した答え(いらえ)は、
「……わ、分からないわ」
だった。母上が首を傾げる。
「分からない?」
「だ、だって、今まで考えたことないもの。元親は……だって、元親だし」
まるで子供みたいに、言葉が要領を得ない。もう少しまともな事を言いたいのに、私の心の中はぐちゃぐちゃで、まとめられやしなかった。
だって、元親よ。もう覚えてもないくらい、ずうっと一緒にいた、あの元親。 もう一人の兄のような、弟のような、友のような。隣に居て当たり前の、空気のような存在。
だけどいつの間にか、背が伸びて力をつけて、大の男でも持ち上げられないような碇槍を軽々と振り回し、四国の長として大勢の民草の上に立つようになった元親。
『ガキの時分にゃ出来なかった事でもするか』
私をからかって、大人の男の顔で迫ってきたから、息が詰まるかと思うくらい驚いて、粗略な扱いに怒りを覚えて。
だけどいつまでも、腕の力強さを、厚い胸板を、濡れたように輝く瞳を忘れられなくて、戸惑って。
「だって……分からないの。分からないのよ、全然」
ここ数日考え続けていた事が急にどっと押し寄せてきて、目が回りそうになる。蚊の鳴くような情けない声でそう呟いたら、母上は少し間を置いた後、私の手を取った。柔らかくて温かい両手で包み込まれ、花のつぼみが綻ぶような笑顔で仰る。
「紫乃。分からないのであれば、若様と語ろうてごらんなさい」
「元親、と?」
でも、こんなに支離滅裂な気持ちで元親と話なんて。尻込みする私へ、母上は穏やかに続けられる。
「分からない、分からないと怖じ気づいているばかりでは、何も出来ませんよ。あなたが本当に己を役立てたいと思うのであれば、一度、全てを吐き出してしまいなさい」
「母上……」
「何事も、語らう事から始まるのですよ、紫乃。恐れず、前に進みなさい。さすれば、あなたの道は開けるでしょう」
母上の黒々とした瞳を見つめ、私はぐっと唇を噛みしめて俯いた。
(元親に、知ってもらいたい)
そう思う気持ちは、確かにある。
元親を実の家族のように思っている事。元親を一国の主として尊敬している事。その力になりたいという事。
そして、
(縁談の事を、何と言うのか)
元親がもし私の縁談話を知ったら、それはめでたいと祝うのか、断れと言うのか。
それを知りたいと思う気持ちがあるのを、見ないふりする事も、出来なくて。
「…………分かったわ、母上。そうして、みる」
私はようよう、頷いた。怖いと思う気持ちはまだ根を張ってしっかり在るけれど、確かに立ち止まっていては何も出来ないのだから。
「紫乃」
母上が私の手をぎゅっと握りしめる。目線を上げると、母上は軽やかな笑い声を漏らして目を細めた。
「案ずる事はありませんよ、紫乃。全ては良き形に収まるものです」
……そうだと、良いのだけれど。母上の言葉も今は、心に淀む不安を取り払う事は出来なくて、私は曖昧に微笑む事しか出来なかった。