長曾我部と矢曽木の婚姻話は、瞬く間に国中を駆けめぐり、人々は喜び浮き足だった。
何しろ国主・元親が初めて迎える妻である。また矢曽木家は下級とはいえ武門、しかしながら大らかで目下には寛大に接し、目上には愚直なほど実直に仕える家風で、多くのものに慕われていたので、長曾我部家への嫁入りは大体好意を持って受け入れられた。
そういった後押しを受け、さっそく婚礼の準備が始められたが、嫁入る張本人の娘、紫乃の強い要望で、賑々しい華燭の典は行わず、出来るだけ最小限の事務作業のみで婚姻と成したいと出た。
そういった本人の希望に加え、矢曽木の家格が低い事から側室として長曾我部家に迎える事になり、それならば大仰な儀式も必要あるまい、という話に落ち着き、国中の期待感をよそに、手続きは淡々と進んでいった。
退屈な日常を抜け出し、煌びやかな儀式や、女も羽目を外して楽しめる宴が省かれる事には不満の声が少なからず上がったが、しかし当の本人たる紫乃はまるで他人事のように我関せず、部屋に閉じこもり、終日ぼんやりしていた。
周りのものが何を語りかけても耳に入らぬ様子で、輿入れの日が近づくにつれ、顔色悪しく、ため息ばかりつくようになったので、
「もしや病を得たか」
と心配した兄の義峰は医師を差し向けた。しかし医師は「ご結婚を控えてあれこれと思い煩い、気持ちが沈んでおられるのでしょう。何、ご婦人には良くある事です」と太鼓判を押したので、義峰はそのようなものか、と納得し、紫乃を出来るだけそっとしておく事にした。
一方元親も、元気のない紫乃の様子を終始気にかけていたが、折悪しく瀬戸内に凶悪な海賊集団が現れ、近隣の村々を荒らすのを駆逐して回る羽目になり、顔を合わせないまま、日を過ごさなければならなかった。
そうして若干の不安を孕んだまま、矢曽木の前当主の喪が明けて吉日。
その日いよいよ、紫乃輿入れの日を迎えたのだった。
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ごとごと左右に揺れながら、かごが進んでいく。紐をしっかり掴んで身体を支えながら、私はひっそりとため息を漏らした。
かごは元々好きじゃない。自分の足で歩くか、あるいは馬に乗っていた方がまだ乗り心地が良くて良いと思う。もっとも、花嫁衣装に身を包んだこの姿では、馬に乗る事なんて到底できやしないけれど。
これでもかという程、きつくまとめあげた頭にささる簪(かんざし)のおかげで、壁にもたれる事も出来ない。そして頭はもちろん、私がまとっているものも、婚礼用の仰々しくも重苦しい礼装の着物で、とにかく苦しくて重たい。
おまけに目に痛いほど鮮やかな金襴緞子、これ一枚で矢曽木の家一年分の食が賄えるという恐ろしく高価なものだから、少し動くだけでも異常なほど気を遣ってしまう。
こんな高価なものをどこから手に入れたのやら、兄上には聞いていないけれど、もしかしたらこれから嫁入る家からの贈り物なのかもしれない。
(……あぁ、もう)
着物に緊張するわ、髪を締め付けられるわでずきずき痛むこめかみを揉んで、もう一度ため息をつく。空気を入れようと少し開けた窓の向こうは、目の覚めるような青空で、遠くに海鳴りの音が聞こえた。
こうも晴れがましい輿入れの日だと言うのに、私はどうしてこんなに落ち込んでいるのだろう。
結婚する時、環境の変化や相手の殿方との今後を心配し、女は気鬱になるもの、とあのお医者様は言っていたけれど、これは単に感傷によるものではないような気がする。
結婚が決まってから周囲であわただしく準備をしていたけれど、私は全てが煩わしくなって、部屋に閉じこもってしまった。だから相手の事は、顔、性格、身分どころか、名前さえ知らない。
見知らぬ相手の妻になる、だからこれほど気落ちするのかしら。
でも、それは世の女たちの常。
殿方は家を背負い、戦場でいくらでも名をあげる事が出来るけれど、女は家にこもって男たちをいたわり、主の言うがままに嫁いで子を成し、母となって死んでいく、それが女の一生というものだ。
矢曽木は身分が低く大らかな家だから、そこまで窮屈な思いをした事は無かった。けれど、武家の娘として生まれたのだから、私もそれくらい覚悟していたし、だからこそ、自ら兄上に結婚のお膳立てを頼んだ。
己が身を家のため、国のために役立てたいと思う気持ちは、今も変わりない。
(そうよ、いつまで落ち込んでいるつもりなの、紫乃)
すでに婚姻の手続きも終え、お相手の館へ向かっている今この時にまで、くよくよ考えても仕方ない。
お相手が誰にせよ、真心を込めて精一杯おつかえして、良き子を産んで差し上げよう。それが私の役目なのだから。
腹を決めた私は扇を握りしめ、きっと前を見据える。
と、不意にかごが大きく揺れたので、前に倒れそうになってしまった。
「な、何?」
壁に手をついた私が顔をあげると、ちょうど窓の外が見えた。かごの横についていた女中が、
「姫様、お気になさらず。野良犬が御駕籠の前に飛び出してきたのですわ。今、男どもが追い払っております」
眉根をよせて報告してくる。いぬ? 女中がお顔を出されては、と止めるのも無視し、身を乗り出して前をすかし見ると、確かに薄汚れた犬が一匹、道の真ん中に立って盛んに吠えたてている。
「えぇいひけ、この畜生が!」
男の一人が棒をふりおろすと、犬がぎゃいん、と悲鳴をあげて跳び下がる。そして鼻面をしきりにかきながらしっぽを丸め、甲高い声で鳴きながら、脱兎のごとく逃げ出した。
(しの、下がって)
「!」
その姿を見送った私の脳裏に、幼い声が蘇る。
「おお良かった事。さ、参りますよ、姫様。もうむやみにお顔を出されませぬよう」
女中がぱしん、と窓をしめ、かごが再び動き出す。揺れるかごの中で一人きりになった私は、茫然自失としてしまった。
(しの、下がって)
その声とともに思い出したのは、色白の横顔。紙のように青ざめ、首筋を緊張させながら、それでもまっすぐ前を見据える少年の姿。
(元親)
これは子供の頃の元親。まだ姫若子と呼ばれていた、弥三郎の姿だ。
(どうして急に思い出したの)
己に問いかけて、思い至る。
そうだ。まだ幼い頃、私と元親は山の中で野犬に出くわした。大きな犬が牙をむき出しうなっているのが怖くて動けなくなった私を、元親がかばって助けてくれた。
その後は二人で泣き尽くしてしまったけれど、あの時、青ざめ恐れながら、それでも野犬から私を守ろうとしてくれた元親が急に頼もしく見えて、私はとても驚いたのだ。
(弥三郎)
心の中で名を呼ぶと、弥三郎が振り返り、それが元親の姿に変わっていく。
その時ごとん、とかごが揺れたので、今度は床に手をつく。かごを止めようと口を開きかけ、けれどそうする理由が無い事に気づいて、私は声を失った。
このまま行けば、私は誰とも知れない男のもとへ、嫁入る事になる。
そうすればその男の屋敷に閉じこめられ、兄上にさえ、今ほど自由に会えなくなるだろう。
ならば、元親は? いくら幼なじみとはいえ、国主であり、血のつながりもない元親ならば尚更。もう、顔を見る事も稀になってしまうかもしれない。
「っ!」
そう思ったら急に胸がずきりと痛んで、息が詰まった。
どうしよう。どうしよう。その言葉が頭の中をぐるぐる回り出す。どうしよう。どうすればいい。私は、どうしたい?
(いや)
自身に問いかけた時、真っ先に浮かんだのは否だった。
(このまま元親に会えなくなるなんて、いや)
会って何を言えばいいのか。元親に会えなくなるのが嫌、だから結婚したくないなんて言ったら、元親はどう思うだろう。
私が結婚すると聞いて、諸手をあげて喜んでくれた元親だから、「今更何言ってんだ」と怒るかも知れない。元親だけじゃない、兄上や母上や、この婚礼に向けて準備をしてくれた皆、きっと落胆してしまう。私のわがままに付き合いきれるかと、愛想を尽かされるかもしれない。
でも、いや。
視界が歪み、手の上にしずくが落ちる。化粧が崩れてしまうと顔を上げて涙が落ちないように堪えながら、私は唇をきつく噛みしめた。
いやなの。このまま嫁(い)くのは、いや。
(元親。元親、元親、元親……)
まるで呪文のように名を呼んで、私は目を閉じて祈った。
(お願い、どうか来て。来て、元親!)
本当にそうなったらどうなるかも考えず、一心に祈った。ただひたすら、本当に真剣に祈った。
けれど、その祈りは届かない。
やがてかごの揺れが止まり、扉が横にひかれ、
「紫乃。参るぞ」
裃(かみしも)を身につけた兄上が私に手を差し出す。目を開けた私は一瞬逃げだそうとして、だけど背中が壁にぶつけてしまった。
「紫乃? 何だ、泣いていたのか」
兄上が中をのぞき込み、怪訝な声を上げる。心配そうな顔を見たら声が出なくなった。今逃げ出したら、兄上はきっと罰を受ける。兄上が全部手配してくれたのだもの、ここで花嫁が居なくなったら、責を問われるのは兄上だ。
「い、いいえ。何でもないわ、大丈夫」
私は緊張に引きつった返事をし、兄上の手を借りてかごを降りた。さんさんと降り注ぐ陽光の下に見たのは、海辺にほど近い場所に立つ小さな屋敷だった。
「お前の為に特別にあつらえて頂いた館だ。今日からここが、紫乃の住まいになる」
兄上が誇らしげに館を見上げ、私はますます萎縮した。
さほど大きくはないとはいえ、屋敷を与えられては、いよいよ逃げようもない。兄上に先導され、綺麗に整えられた庭先を歩きながら、私は気の遠くなる思いだった。心の中ではまだ元親の名を呼んでいたけれど、もちろん現れるはずもない。
(どうしよう。どうしよう)
恐れおののきながら私は支度の間へ入り、女中のなすまま化粧や服の乱れを直され、そのまま追い立てられるように(と思ったのは私の気が急いていたせいだろうけど)広間へと向かわされた。
頭痛と吐き気でくらくらしながら中に入って下座に控えると、ついで兄上がやってきて、私の横に座る。ちら、とこちらを見た兄上は、
「紫乃、本当に大丈夫か? 顔色が真っ青になっているぞ」
驚いたように声をかけてきたけれど、私はそれに答える余裕もなく、浅い呼吸を繰り返すのが精一杯。心配顔の兄上が女中に茶を頼もうか、と言ってくれた時、その女中が、
「殿がおいでになられました、お控え下さい」
凛とした声でそういうものだから、私と兄上は慌てて平伏した。途端、きつく締めた帯が食い込み、お腹を圧迫してますます気持ちが悪くなる。
(どうしよう、どうしよう)
頭が痛い、気持ち悪い、苦しい、逃げ出したい。
そんな思いがぐるぐる回って、今にも吐き出しそうになる。私が唾を飲み込んで目を閉じた時、からりと障子が開き、力強い足音が畳を揺らし、上座へ腰を下ろす。
とうとう、来てしまった。私の夫となる人が、すぐそこに。堪えようと思うのに、目の端に涙がにじむのを、もう止められない。
(いや、いや、いや、結婚なんていや)
閉じた闇の中で浮かぶのは、嬉しそうに笑う元親の笑顔だけ。
(元親、元親、……助けて!)
もう我慢出来なくて、いっそ叫んでしまおうかと思ったその時、
「顔を上げな、義峰、紫乃」
聞き慣れた声が、耳朶を打った。
(…………え?)
願いすぎて、幻聴が聞こえるようになったのかしら。そう思ったけれど、
「そう畏まるなよ、今更知らない仲でもねぇんだしな」
続く声もまた、良く馴染んだものだった。兄上がすっと身を持ち上げ、笑いを含んだ返事をする。
「何事も初めが肝要ですからな。けじめはつけなければなりますまい」
「もうここに来るまでに十分、花嫁御寮を見せつけたんだろうが。そろそろ楽になって良い頃だぜ、なぁ、紫乃」
「…………」
まさか。まさか、これって。
「紫乃、どうした。顔を見せて差し上げろ」
平伏したまま動かない私をいぶかって、兄上がつついてくる。私は吐き気も頭痛も何もかも忘れ、信じられない思いで目を見開き、そのままゆっくり、ゆっくり身体を持ち上げた。
まさか、と思う気持ちがあまりにも強くて、顔を上げた後も視線は上座の手前で止まって、動かすことが出来ない。
「紫乃」
私の名前を呼ぶ、少し掠れた、この声、は。
「も…………もと、ちか?」
恐る恐る上げた視界に映ったのは、元親、その人。
私と目が合うと、少し照れくさそうに笑って、
「おうよ。何だ、そんなに見とれるほど男前か、俺は」
それから鼻の頭を掻いて呟く。
「ここんとこ、ずいぶんご無沙汰してたんで心配だったが、……綺麗だぜ、紫乃」
「おやおや、私はもうお邪魔ですかな」
兄上がにやにや笑って腰を上げる素振りを見せたので、元親が赤くなって「ば、馬鹿野郎、変な気を回すな! お前と供のものには酒を用意してあるんだ、ゆっくりしていけ」と手振りで止める。
「いえいえ、私も馬に蹴られて死にたくはありませぬ。元親様が仰られたように、今日より先は何かと慌ただしく、紫乃と元親様、ゆっくり語らう時間もとれず仕舞いでしたからな。これから夜の明けるまで、ゆるりとなさりませ」
「そ、それはお前、あのな」
泡食って元親がぱくぱく、金魚のように口を開け閉めするのを見つめて、私はようやく頭が動き始めた。
(え、え、え、つまりどういう事、今私が居るのは輿入れ先の屋敷で、私は夫となる人と対面するはずで、それは今ここに来るはずで……そこに元親がいるって事は、つまり、つまり……)
つまり、元親が私の……おっと、という、こと?
「…………え、えええええええええ!!!!?」
次の瞬間、私はあらんかぎりの声で、驚愕の叫びを上げ、
「うわ、紫乃!?」
「どうした、しっかりしろ!」
びっくりして慌てる元親と兄上の呼びかけを聞きながら、すーっと意識を手放してしまったのだった。