夜暮れて、深更。部屋の隅に置かれた香の匂いがやんわり漂う中、元親はあぐらをかき、眉間にしわを寄せて難しい顔をしていた。頭痛を堪えるように額へ手を当て、
「……はぁ~~~~っ」
深いため息をつく。それを見て、布団の上に正座をしていた私はますます肩身が狭くなる思いだった。
「……そ、そんなに怒らないでよ、元親」
一度倒れはしたものの、横になって休んだおかげで気分は良くなった。だけどきまりが悪すぎて、私は不機嫌そうな元親に声をかける。けれど返ってきたのは、
「怒っちゃいねぇ。呆れてんだ。ったく、今日の今日まで何で気がつかねぇんだよ。相手が俺だって事によ」
心底呆れ果てた、と言いたげな言葉。うう、そんな風に言われたって。
「だって私、お相手の話、聞いてなかったし」
「義峰や浮笹と、縁談の話をしたんだろうが」
「それはそうだけど、その時も名前なんて出なかったもの。元親だって、それらしい事全然言わなかったじゃない」
「何言ってんだ、俺は……」
むっとして言い返そうとして、元親はふと動きを止めた。間をおいてから、ばつの悪そうな顔になる。
「そういや確かに、お前自身にはっきり言った覚えはねぇな」
「そうでしょう」
「俺は、お前がもう話を全部承知して、その上で結婚するつもりなんだと思ったからよ」
「私は、全然知らない人のところに嫁ぐものと思ってたわ」
「…………はぁあ~~」
疲れが押し寄せてきた、という風に、元親はがくーっと肩を落とした。ど、どうしよう、ここまでへこんでる元親なんて初めて見た。そう落ち込まないで、と私が言うのもおかしいし……。
どうしたものかとおろおろする内に、元親は気を取り直したみたいで、顔を上げた。
「で、どうするよ、紫乃」
「え?」
「お前が倒れたから、あれよあれよという間にここまで来ちまったが、今さっき相手を知ったばかりで、結婚なんて出来るのか?」
「そ、それは……」
言われてはた、と改めて実感する。広間で気を失ってしまったので、私は寝所に運び込まれて、寝間着にさせられていた。もちろん元親も同じように着替えて、向かい合ってる状態で……。
(え、うわ、ええええ!?)
その事に気がついたら、体中の血が一気に逆流した。そ、そりゃ、子供の頃は一つの布団で一緒に寝た事もあるけど……大人になってからは勿論ないし、ましてやこ、こ、この状況って……!
「…………」
言葉を継ぐ事が出来なくて、あわあわする私をじっと見つめた後、元親は鼻を鳴らした。あぐらの上に頬杖をついて、
「止めるか」
ぼそっと呟く。
「……え?」
意外な言葉にびっくりして目を丸くすると、元親が渋面のまま頭をかく。
「お前は相手が俺と知らなかったんだ。他の男ならまだしも、小せぇ頃からずっと一緒だった奴をいきなり夫と思え、なんて無理があるだろ。俺はそんな無理を強いるつもりはねぇ。お前が嫌ならこの結婚、止めりゃいい」
「元親……」
「何、今から家に帰って、俺に乱暴されかけて逃げたとでも言やいいさ。義峰に話を通しときゃ、お前の名も傷つかねぇだろ」
「元親は乱暴なんてしないじゃない!」
思いがけない提案に面食らって、声がうわずる。元親は苦笑した。
「そりゃ、するつもりはねぇがな。何事もなくお前を帰したら、口の悪い連中が何言うか、知れたもんじゃねぇ」
「あ……」
元親に気に入られなかったと噂が立てば、私の女としての体面が汚されてしまう。そうなれば今後、どこへ嫁入るにしても、その噂が障害になってしまうかもしれない。だから元親は敢えて、自分を悪人にしようとしているんだろう。
(元親)
その優しさに気づいたら、どきり、と鼓動が高鳴った。
突然、元親が相手と分かって動転してしまったけれど、そもそもこの結婚は元親から申し出た話。元親は私を妻に欲しいと、そう思ってるという事。それなのに今、私の気持ちを考えて、止めにしようと言ってる。
それは、私を思いやっての事なのか、それとも元々、さほどの情熱を持って私を求めたわけじゃなかったのか。
(っ!)
そう思ったら、胸に刺すような痛みが走った。それはここに来る途中、元親と会えなくなったら、と考えた時と同じくらい、痛い。
「…………元親」
「何だ」
震える声で名を呼ぶと、元親は優しく答えてくれる。私はその目を見ていられなくて、床に視線を落とした。小さな声で呟く。
「…………私、いいわ」
「あん?」
「私。…………元親が相手なら、いい。結婚、する」
「…………」
しん、と沈黙が落ち、灯台のろうそくが燃える音まで、大きく響いて聞こえた。ややあって、元親が足を組み直し、
「本当に良いのか? 紫乃。俺と結婚しても。自棄になってんじゃねぇだろうな」
改まった口調で問いかけてくる。頬が熱くて、顔が上げられないまま、私はこくりと頷いた。
「……私、ここに来るまでの間、やっぱり知らない人に嫁ぐなんて嫌、元親が助けに来てくれれば良いのに、と思ったの」
「…………」
「元親がお相手と分かって吃驚したけれど、でも、元親なら、嫌じゃないわ」
「紫乃」
元親が不意に動いて、私の手を取った。びくっとして見上げると、元親が怖いくらい真剣な表情で私を見つめていた。色白の頬が少し、赤い。
「紫乃。お前、俺をどう思ってる」
「どう、って?」
「だから、男としてこの長曾我部元親をどう思う、と聞いてんだ」
「男としてって……」
言葉が見つからなくて、目が泳ぐ。私が困って黙り込んでしまうと、私の手を握る元親の手が、かすかに震えだした。元親も緊張しているんだろうか。この場で不安になってるのは私だけじゃないんだと思ったら、逆に少し気が楽になった。言葉が口からこぼれる。
「分からない、わ」
「っ、おい、紫乃!」
「だって、元親は元親よ。そんな事私、これまで考えもしなかったもの。元親はどうなのか知らないけど」
「……俺は」
元親の頬の赤が急に増す。一度咳払いをしてから、元親は真っ直ぐ私の目を見て言った。
「ガキの頃からずっと、俺にとっての女はお前だけだ」
「!」
「嫁にするなら、お前以外考えられねぇ」
「ど、どうして?」
「それを言わせんのか、今更」
「だ、だって今更って、そんなの初耳だもの!」
「だから、俺が……」
手にぎゅっと力を込めて、元親は低い声で囁いた。
「俺が、お前に惚れ込んでるからだ。それ以外に理由があるかよ」
「……!!」
はっきりした言葉に鼓動が弾み、呼吸が止まりそうになる。
「も、もとち」
かろうじて名前を呼ぼうとしたらその前に、突然視界が歪んだ。えっ、と元親が焦った声を上げる。
「ちょ、ちょっと待て、何で泣くんだ紫乃!」
「え、あっ……」
驚いて空いた方の手で顔に触れたら、指先に冷たいものが伝い落ちる。やだ、どうしてこんな風に涙が出るの、泣きたいわけじゃないのに。慌てて泣きやもうとしたけど、勝手にぼろぼろこぼれて、止められない。
「うっ、ひくっ……」
「おいよせよ紫乃、泣くなって、おい……あああ、面倒くせぇ!」
「むぐっ!?」
声を張り上げた元親がいきなり私を抱きしめたので、ぎゅうと顔が元親の肩に押しつけられた。鼻がつぶれて息が出来なくなって、
「も、もと、ちょ……」
腕を掴んで引っ張ったら、元親は「あっ、すまねぇ」と慌てて力を緩めてくれた。そのまま離してくれるのかと思ったけど、元親は私を抱きしめたまま、
「……泣いてくれるなよ、紫乃。泣いてる女は苦手だ」
弱ったような様子で囁く。低く響くその声が耳近くで響いて、私は思わずどきっとした。ううん、声だけじゃない。がっしりした腕を回されて、私と元親はほとんど密着してしまって、着物越しにすら元親の引き締まった身体の感触を感じる。
(まるで、あの夜みたいに)
それを意識したら心臓が跳ねて、耳元で鳴っているかのように激しく動き出して、体中が火のついたように熱くなってきた。
(や、やだっ)
こんなにくっついていたら、どきどきしてるのがばれてしまう。狼狽えて離れようと思ったけど、でも、そこでふと気がついた。
(あ、あれ?)
どくん、どくんと大きく鼓動する胸元、その音は一つじゃなくて、二つ。服ごしに伝わってくる熱い身体と激しい動悸は、元親の、それだ。
「も、とちか」
「何だよ」
元親の腕が許す限り、少し身体を離して見たら、元親の弱り切った顔は、今や耳まで赤くなって、汗まで浮かんでいた。困っているような、恥ずかしがっているようなその表情を見たら、鼓動が更に早くなってきてしまう。
……も、元親もすごく、どきどきしてるみたい。
(ど、どどどどうしよう!?)
時は深夜、場所は寝所、新婚初夜となれば、この後どうなるかは承知している、けどけどけど、やっぱり元親相手なんてどうしたら良いのかわかんない!
焦った私は突然、不自然なくらい首をねじまげて顔を背け、
「も、元親ったら、結構女に慣れてるのね」
そんな憎まれ口を叩いてしまった。あぁ!? と元親が不満の声を上げる。
「お前言うに事欠いて、新床(にいどこ)で何て事抜かしやがる」
「だ、だってそんな台詞、これまで泣かした女がいたからこそ出てきたんでしょっ。それにそれに、あの時だって」
「あの時?」
「だからあの、あの夜!」
酔っぱらった元親が私を……した夜!
「あの夜だって元親、随分手慣れてた!」
「うっ……あ、あれはだな、そのう……」
急所を突いたのか、元親はぐっと言葉に詰まって目を白黒させた。言い訳しようと口をぱくぱくさせて、それでも言葉が出てこない様子なので、私は更に言い募る。
「だ、大体、元親はあの夜の事だって謝ってないじゃない!」
「あぁ?」
「わ、私、あんな事されるの初めてだったのに、酔っぱらった勢いで無理矢理されて、とっても悲しかったの! なのに元親ったら謝りの文一つ寄越さないで、いきなり結婚しろなんて、無体もいいところじゃないの!」
「うわっ、紫乃落ち着け!」
言葉を重ねるうちにどんどん興奮してきてしまって、思わずぽかぽか叩くと、元親はあっという間に私の両腕をさらって捕まえてしまった。そのまま歯をむき出しにした必死の形相で、
「そりゃあお前、俺も無茶しちまったと合わせる顔が無かったんだよ! それにその後すぐ、義峰にお前の嫁取りを申し入れたんだ、それで俺の気持ちも分かると思うだろ!」
「分かるわけないでしょ、元親がお相手だなんて知らなかったんだから!」
「それは俺のせいじゃねぇ! 紫乃がうっかりなだけだ!」
「何で私のせいなのよ! そもそも元親が自分で言いに来れば、私が誤解する事も無かったんじゃない!」
「だからそれは……くそっ、もう良い!」
「きゃ!」
言い捨てた元親はまた私をぎゅっと抱きしめた。言い合いで弾んだ息の下、唸るように言う。
「紫乃、やり直すぞ」
「えっ……」
「俺達ぁどうも、最初がいけねぇんだ。このまんまじゃにっちもさっちもいかねぇ。それなら最初(はな)っからやり直すしかねぇだろ」
元親の手が私の肩を掴んで、力がこもる。
「その気はあるか、紫乃」
「っ……」
低い声が体中に、心地よく響く。そうしたらまた身体が熱くなって、鼓動がどんどん早くなってきた。血が上ってくる音が聞こえたような気がして、私は元親の肩に顔を隠して呟く。
「わ、私、元親の事好きなのか、分かんない」
「そうかい。なら、この先一生賭けて、俺に惚れさせてやる。だから」
断固とした口調で言って、元親はぐい、と私を離した。両肩を掴んだまま、私の顔をのぞき込んでくる元親は、あの夜のように濡れたように輝く目をして、低く掠れた声で囁く。
「紫乃。ただ一人、俺だけの女になってくれ」
(元親)
名を口にしようとして、けれど元親の目に射すくめられて、その声に身を縛られて、声が出ない。
(嘘みたい)
元親がこんな目で、こんな表情で、私を求める日が来るなんて。元親に気圧され、おまけに鼓動が高鳴りすぎてくらくら目眩がしてくる。どこか現実とも思えないまま、
「……はい」
かろうじてその一言だけ囁くと、元親は、ふっと顔を緩めた。
「紫乃」
そしてその腕に優しく引き寄せられ、広い胸に抱きしめられた私は、やがて訪れた闇の中で――
――長曾我部元親の、妻になった。