『ごめんなさい、奉仕部の同窓会には行けません。今、庁舎にいます(午前3時)。リニア新幹線建設の答弁書を作っています。本当はあの頃が恋しいけれど、でも今はもう少しだけ、知らないふりをします。私が答弁を書いたリニア新幹線も、きっといつか誰かの青春を乗せるから』
「雪ノ下、やっぱり忙しいってよ。ほれ」
俺は夜のうちに来ていた雪ノ下からのメッセージを由比ヶ浜に見せた。
「うーやっぱり今回もかぁ……ぶふっ、ゆきのん……」
2020年。
俺たちは高校も大学も卒業し、社会人になっていた。
三人で水族園に行った高2のあの日、俺と雪ノ下は由比ヶ浜の提案を受け入れた。俺たちは三人の関係を変えないまま、結論を出さないまま、この8年間を過ごしてきた。
東京オリンピックまであと1か月ちょっととなった6月の休日に、俺は秋葉原駅近くのカフェチェーン店で由比ヶ浜と茶をしばいていた。東武伊勢崎線沿線住民の由比ヶ浜と総武線沿線住民の俺が落ち合うのにちょうどいいのが秋葉原だ。
由比ヶ浜は就職して後ろ髪全部を団子にまとめるようになった。明るかった茶髪も、就活時の黒髪を経て今では暗めの茶髪になっている。以前由比ヶ浜のママさんに会ったことがあるが、ママさんにだんだん似てきている気がする。
雪ノ下からのメールを(俺たち三人はこの2020年にまだメールだ)見て笑う由比ヶ浜からスマホを取り返し、俺は雪ノ下に返信を書いた。
『お前、けっこう余裕あるだろ』
『4年目の若手なのに国会会期中に余裕などあるはずないでしょう』
意外にも即座に返信が来た。今はちょうど13時。少し遅い昼休み中なのだろう。今日は日曜日だが。
『さいですか。次いつ頃なら空いてる?』
『来週には国会が終わるから、再来週の週末なら』
「雪ノ下、来週国会が終わるから再来週の週末には暇作れるってよ」
「そっかー大変だねゆきのん。じゃあそこでまた集まろっか」
『じゃあ再来週の週末だと。時間と場所はいつもどおりでいいか?』
『ええ』
『了解』
「ゆきのん、国会やってるといっつも忙しいね。興味ないのに最近は調べるようになっちゃった」
「天下のキャリア官僚さまだからな」
雪ノ下は日本で一番偏差値の高い東京の大学に受かり、大学在学中にいろいろあったが国家公務員総合職に合格。国土交通省に技術職として入省した。
「由比ヶ浜は仕事どうだ?」
「う、うーん……競争厳しいからねー……。楽ではないかな」
由比ヶ浜は駅伝でよく見るCのマークが特徴的な私立大学を出た後、ビールメーカーに就職した。本人は経理や人事などバックオフィス志望だったようだし、在学中にもそういう資格を取っていたものの、いざ就職してみると配属されたのは営業だったらしい。
「あ! でもね、この前大口のお客さんが『由比ヶ浜さんが営業に来てくれるなら』ってウチに扱い替えてくれたんだよ! それで課長に褒められちゃった!」
由比ヶ浜がえっへん、と大きな胸を張る。
まぁビールなんてどこも同じくらい美味いし、店としては値段が一緒なら巨乳でかわいい営業が来てくれるほうがいいよな。
「ヒッキーはどうなの? 前会ったときは『もう辞めたい……』って言ってたけど」
「俺は……まぁ辞めたいけど、辞めちまうと生きていけないからな。それと天秤にかけたらまだ耐えられる」
俺は都の西北の大学を出た後、赤いメガバンクに就職したが、金融の生き馬の目を抜く勤務に「将来の夢は専業主夫」と言っていた奴が耐えられるはずもなく、1年で退職。地方公務員上級職試験を受けて千葉市役所に再就職した。今年で2年目のヒラ職員だ。
安定感は抜群だが、キャリア官僚の雪ノ下や大企業勤めの由比ヶ浜と比べると年収は低い。大手携帯キャリアに就職した小町にも負けている。でも「男ってのは年収で決まるんじゃない! ハートで決まるんだ!」ってブルース・ウィリスも言ってるからね(言ってない)。
「あーそういえばこのまえ市役所で平塚先生と会ったぞ。今年度から学校の先生じゃなくて市役所勤務なんだと」
「へー、高校の先生も役所勤めすることがあるんだ」
「飲んだときに『まぁエースだからな。私も出世してるのだよ』って言ってたわ。結婚はしてないみたいだけど」
「先生……」
平塚先生、飲んだ後ラーメン屋で「もうアラフォーだし、婚活にも疲れてな……そういえば最近大型犬を引き取ったんだ。毛がもふもふのかわいいやつでなぁ……買ったマンションがペットOKでよかった」って言ってたんだよな……。
俺と由比ヶ浜はしばらくお互いに近況報告し、その後いつものように由比ヶ浜がこう切り出した。
「ねえヒッキー、この後時間あるよね? デートしようよ!」
「え、いやアレがアレだから……」
「ちょっと流行遅れだけどタピオカ飲みに行こタピオカ!」
「由比ヶ浜さん? 話聞いて?」
***
比企谷くんには茶化したメッセージを送ったものの、私は連日の国会対応で睡眠もろくに取れない日々を過ごしている。リニア新幹線建設はさまざまな利権が絡む大きなプロジェクトなので、与野党問わず追求が厳しい。
国会会期中は24時間いつでも議員からの質問に回答する答弁を準備しなければならないため、霞が関は文字どおりの不夜城となる。私のいるオフィスも昼夜問わず慌ただしい。
今年25歳の私の肌には吹き出物が目立ち、入省と同時に手入れする暇がなくなって短くした黒髪はギシギシになり、化粧を直す暇もなく働いている。入省1年目のときはお手洗いに行ったときに鏡の中の自分にぞっとしたものだが、4年目の今ではすっかり慣れてしまっていた。
「雪ノ下! 答弁書できたか!?」
「もうできます!」
今書いている答弁書は事前に準備していなかった内容のため、過去のデータや議論の洗い直しからやっているものだ。新型コロナウイルス関連の対応を先日やったばかりだが、立て続けに、しかも今回は作業量的に重い質問が当たってしまった。しんどい。
しかし書いている私もしんどいが、実際に国会で答弁するまでに関与するすべての職員も同様かそれ以上にしんどいのだ。ここでへこたれるわけにはいかない。
千葉の実家は建設会社をやっているが、そこを継ぐ予定の姉がうらやましくなることが最近ある。姉は29歳にして取締役になり、毎日黒塗りの高級車で送迎され、私の年収の数倍の役員報酬を得ているのだ。
一方の私はと言えば、神奈川県にある築数十年の公務員宿舎から毎日寿司詰めの列車に揺られ、昼は庁舎内の牛丼チェーン店で牛丼をかき込み、野菜ジュースを飲みながら残業をこなし、帰宅すると日付が変わっていることも少なくない。
「雪ノ下!」
「できました!」
返事をしながら答弁書を課長補佐に回す。この課長補佐は軍人のような風貌で押しが効く。部下としてはその点でありがたい存在だが、それがこちらに向くとなかなかつらい。
私が書いたこの答弁書は関係各所と調整の上、課長補佐から課長、局長まで回され、さらに大臣官房を経て、明日の国会開始前の朝に秘書官から大臣に内容がレクチャーされ、国会で大臣が答弁することになる。
どこで差し戻されるかわからないので、書き終わったら終わりではない。国会対応で止まった普段の仕事もこなさなければならない。今日もおそらく朝帰りだが、明日は答弁作成者として国会で控えていることになっている。
しかしこれを乗り切れば比企谷くんと由比ヶ浜さんに会える。会ったらまた愚痴をたくさん聞いてもらおう。そう思うと、仕事をこなす馬力が湧いてくる。
「雪ノ下! 修正!」
「はい!」
***
「ゆきのん、お仕事お疲れさま!」
「ありがとう。由比ヶ浜さんもお疲れさま。比企谷くんも」
「おう。お疲れさん」
土曜日、俺たち元奉仕部の三人は行きつけの居酒屋で顔を合わせた。時刻は19時。「奉仕部の同窓会」はいつもこの時間にこの店でと決まっている。
「ゆきのん、大丈夫? 目がヒッキーみたいになってるよ……?」
「さすがに午前様が何日も続くとね……徹夜もしたし」
「どういう意味だよ……」
いつもの冗談だが、確かに雪ノ下の目には輝きがなく、厚く塗ったファンデーションでも誤魔化しきれない疲れが顔から見て取れる。今回は特にひどかったらしい。
「今回はさすがに倒れるかと思ったわ。だから来月1週間夏休みをとってあるの。骨休めに旅行にでも行こうと思って」
「旅行いいね! どこ行くの?」
「まだ決めていないのだけれど、どこがいいかしらね。新型コロナウイルスの件もあるし、海外より国内かしら」
「旅行、あたしも行きたいな……」
「休みを合わせてくれるなら一緒に行く?」
「うー……行きたいけど、もうすぐオリンピックだからねー……忙しくて休めないかな」
そんな二人を眺めていると、お通しの茹でピーナッツと酒が出てきた。俺はハイボール、由比ヶ浜はカルーアミルク、雪ノ下は冷えた日本酒と、いつも頼む酒はバラバラだ。
由比ヶ浜はビールメーカー勤務だが、ビールは絶対に頼まない。「仕事で嫌ってほど飲むから」らしい。
「じゃあ奉仕部メンバーの再会を祝って、かんぱーい!」
由比ヶ浜がいつものように音頭を取って乾杯する。俺はジョッキの半分くらいまで一気に飲んで喉の渇きを癒した。やっぱりちょっと高いお店だとハイボールがウィスキー濃いめで美味い。
「そういえばゆきのん聞いた? ヒッキー、今は平塚先生と同じとこで働いてるんだって」
「平塚先生が今年度から市役所勤務になったんだと」
「あら、そうなの。元気だった?」
「ああ。飲みにも行ったしラーメンも食ったぞ」
「ラーメン……懐かしいわね。ほら、修学旅行のとき」
俺と雪ノ下が話している横で、由比ヶ浜が料理を受け取っていた。
ここは焼鳥が美味い。特につくねだ。あと鶏レバーペースト。トーストしたバゲットと一緒に出てくるが、バゲット自体も美味いのにさらにレバーペーストが絶品で、いつも由比ヶ浜と取り合いになる。
「そういえばあんときも平塚先生に連れてかれたな」
そうだ。帰りに雪ノ下に「一緒に帰って友達に噂されると恥ずかしいし……」みたいなことを言われたんだった。
「……っておい、誰だトマトサラダを頼んだのは」
「あら、なにか問題でも?」
「お前か」
「ほら比企谷くん、取り分けてあげるわ」
「いらんわ」
「好き嫌い言ってると大きくなれないわよ」
「小学生か俺は」
一息ついて、雪ノ下もいつもの調子が戻ってきたようだ。雪ノ下とこういうやり取りをすると、実家のような安心感がある。今住んでるのは実家だから毎日感じてるはずなんだが……?
「そういえばさ、この前いろはちゃんに会ったんだ」
「あいつ今なにやってんだっけ?」
「化粧品メーカー勤務と言っていなかったかしら」
「そうそう! すっごい綺麗になっててさー! それであたし、いろはちゃんに化粧品選んでもらっちゃった。今日もそれ使ってるんだけど、どおヒッキー?」
「いやどうって言われても……ベースがいいからな。化粧品が変わってもあんまよくわからん」
「そ、そか……」
由比ヶ浜は頭のお団子をくしくしとかいた。
一色は「あすなろ白書」の舞台として有名な青山の大学に入った。ウチの大学まで電車で数駅だから一色によく絡まれてたんだよなぁ。俺と同じ大学だった戸塚とのデートをよく邪魔されたもんだ。
一色が就職して以来あまり顔を合わせることはなくなったが、元気でやってるようでなにより。
「なんかさ、こういう話すると、みんなそれぞれの道に進んでる、って感じするね」
「そうね。高校卒業からもう7年以上だから、当たり前と言えばそうだけれど」
「なんか優美子とか姫菜にも会いたくなってきちゃったなぁ……」
「俺も戸塚に会いたくなってきちゃったなぁ……」
「ヒッキーほんとさいちゃん好きだよね」
戸塚は俺と同じ大学に進学したため、俺の大学生活はバラ色だった。なんなら戸塚と一緒に留年したいくらいだったが、二人とも無事に4年で卒業してしまい、戸塚はスポーツ用品メーカーに就職した。
去年までは毎月飲みに行ったり遊びに行ったりしていたが、今年から新潟に転勤してしまったので全然会えていない。寂しい。
「比企谷くん、あなた、仕事はどうなの? 前に『もう辞めたい』って言っていたでしょう」
「ああ……この前由比ヶ浜にも聞かれたが、まぁ辞めたいけどそれで食えなくなるなら我慢できるってとこだな」
「そう。じゃあまだ
「辞めた後も食えるならな」
雪ノ下はなにやら意味深な、こちらをバカにしたような挑戦的な笑みを浮かべている。なに。なんなの……。
「由比ヶ浜さん、この後はいつものように宅飲み二次会でいいかしら」
「うん!」
「じゃあこれを食べたら河岸を変えましょう。ほら、比企谷くん」
「やめろ。俺にトマトを勧めるな」
***
「法案準備室、ですか」
「うん、ウチの課からも人を出せって言われててな。雪ノ下、今年4年目だろ? 次の異動で係長だし、そろそろ経験しとくといいよ。大変だけどいい経験になる」
「はい」
奉仕部の同窓会を翌日に控えた金曜日、私は課長補佐に法案準備室への配置転換を告げられた。
法案準備室は文字どおり法案を作成する5,6人程度のプロジェクトチームで、ほとんど泊まり込みのような状態で寝食を共にしつつ作業を進めていくことから「タコ部屋」と呼ばれる。私のような若手がやるのは雑用だろうし、数か月は省内に泊まり込むことになるかもしれない。
正直に言えば、体力的に持つかかなり不安だ。大学時代に倒れそうになりながらもフルマラソンを完走できるくらいの体力はつけたが、それでも耐えきれるかというとかなり分が悪いだろう。
その旨を伝えると、課長補佐は苦笑いした。
「まずは抱え込みすぎないことだな。ヤバいと思ったら周りを頼れ。できないことをできないと認めて人に頼るのも仕事のうちだ。本当にヤバいと思ったら倒れたり飛び降りたりする前に担当の課長補佐に言え。言いにくかったら俺でもいい。それにほれ、よく飲みに行ってたあいつも一緒に出すらしいぞ。あのーなんつったっけ……お前の同期の。あいつとうまくやってくれ」
課長補佐から出てきたのは同期の男性事務官の名前だった。同じ大学出身で、よく食事や飲みに誘われる。実際、二人で何度か昼食を共にしたこともある。
彼と一緒に仕事をしたことはないが、話した感じや周囲の評判からすると、相当仕事ができるらしい。
(やりにくい……)
しかし今の私にとっては感情面であまりありがたくない相手だった。
彼が私に好意を持っているのはわかっている。好意もないのに部署の違う同期を何度も食事に誘う男はいないだろう。
そして私も、彼のことが嫌いではない。基本的には善人で話も合う。人間関係に少し不器用なところがあるが、それも許せる範囲。顔だってアイドルや俳優とまでは行かないけれど、まあ悪くない。
数か月も過酷な勤務を共に乗り越えれば、おそらく彼に惹かれるだろう。しかしそう考えるといつも、奥にひねくれた優しさを隠したあの死んだ魚のような目が頭をよぎり、いつだって私たちを正しく導いてくれたあのお団子頭が思い出され、胸がつまる。
だが同時に、自分が同期からの好意を知りながら返事を留保していることに、とんでもなく不誠実な人間であるとも感じられてしまう。今まで異性から好意を向けられたことなど山ほどあるが、気持ちを知りながら明確な意思表明をしないでいることに心苦しさを感じるくらいには、同期の彼のことを好ましく思っている。
私はどちらかを選ばなければならない。選ばないままでいられる時間は、もうすぐ終わる。
「雪ノ下、それでいいか?」
「はい。不安はありますが、最善を尽くします」
きっと、自分の青春の名残に決着をつけなければならないときが来たのだ。