俺たち三人は途中でスーパーに寄り、酒と食い物を調達して由比ヶ浜のマンションにやってきた。
奉仕部の同窓会二次会は、場所を由比ヶ浜が提供し、酒とつまみの材料を買うのに雪ノ下が金を出し、そして料理や給仕を俺がやるというのが通例だった。まあね、三人の中で一番給料安いからね。居酒屋の割り勘も二人から多めに札を渡されて俺が端数込みで払うからちょっと払う額少ないし。
「お邪魔します。由比ヶ浜さんの家に来るの、3か月ぶりくらいかしらね」
「そうだね。ゆきのん最近忙しいみたいだったし。あたし着替えてくるからエアコンつけといてくれる?」
雪ノ下は勝手知ったる我が家という風にエアコンのリモコンを操作し、冷房を入れる。6月ももう下旬だから東京はだいぶ暑い。
俺も勝手に冷蔵庫を開ける。由比ヶ浜は高校の頃から変わらず料理がてんで駄目で、冷凍室を開けると前回俺が使い残した食材がまだ冷凍されていた。
気になるのは、今買ってきた酒とは別に、ストロング系の缶チューハイが何本も冷蔵庫に転がっていることだ。由比ヶ浜はひとり酒はしないと思っていたが、どういう心境の変化なのか。
「由比ヶ浜、冷蔵庫のもん好きに使うぞ」
「いいよー」
料理の用意しつつキッチンのゴミ箱に目をやると、さっきの缶チューハイの空き缶が積み上がっている。
着替えてラフな格好になり、雪ノ下と談笑する由比ヶ浜を見やる。
いつもと様子は変わらないし、雪ノ下も不審に思っているような素振りはない。気のせいか。
由比ヶ浜と雪ノ下はさっそく先ほど買った梅酒を開けていた。この梅酒も、二次会になるといつも飲んでいる。
俺は買ってきたオイルサーディン缶を開け、醤油をちょっと垂らして加熱。いい感じになったらネギを散らして完成だ。簡単でいいつまみになる。俺一人で食うときはにんにくチューブも入れるが、今日はなしだ。
「ヒッキー! 乾杯するよ! 氷ちょうだい氷!」
「はいはい……」
冷凍庫から氷をグラスに入れてオイルサーディンと一緒に持っていく。アイスペール(氷を入れる小さいバケツみたいなの)なんてオシャレなもんはない。
「じゃあ同窓会二次会に、かんぱーい!」
一次会と同じく由比ヶ浜が音頭を取る。冷たい梅酒の甘酸っぱさが五臓六腑に染み渡るぜ。
「うまっ! オイルサーディンうまっ!」
由比ヶ浜がパクパクとオイルサーディンを食っていく。その間に俺はもう何品か簡単なツマミを作る。
雪ノ下と由比ヶ浜は酒が強い。二人に付き合って飲むとあっという間にグロッキーになるので、俺はこうしてツマミ作りに逃げ、飲むときは酒とチェイサーを交互に飲むようにしている。酒を割るときもかなり薄めだ。
こうやって酒が飲めるのもいつまでなんだろうな。まさか一生このままってわけじゃないだろう。
ふとそう考えてしまい、足元がグラつくような感覚に襲われた。もう高校生のときのようにぼっちを気取ることはできなくなっている。
俺たちが30になる頃には、もう二人とも結婚してやらなくなっているだろう。あと5年か。だいたい年に4回か5回くらいやっているから、長くてあと25回。それでこの楽しい時間は終わる。
用意したパスタやら肉やらを持ってこたつテーブルに戻ると、オイルサーディンはなくなり、買ってきたスナック菓子がいくつも開いていた。はえーよ。っていうか俺オイルサーディン食ってないんですけど?
「比企谷くん。死んだ目が腐っているわよどうしたの?」
「あん? ……ちょっと考えごとしてただけだよ」
「へえ。どんな?」
いやにつっかかってくるな。酔ってんのか。
「そりゃアレだよ……小町のこととか」
「出た! ヒッキーのシスコン!」
「もうそろそろ妹離れしたほうがいいんじゃないかしら」
「出た!」とか言うな。正月に会って以来だから寂しいんだよ。小町の作ったみそ汁が飲みたい。
「雪ノ下んとこはどうなんだよ」
話題の矛先を変えようとして言ってしまってから、まずい話題を振ったことに気づいた。由比ヶ浜の顔が一瞬強張る。
「姉さん? 最近また絡んでくるようになったわね。今は母に早く結婚しろってせっつかれているらしいわ」
しかし当の雪ノ下は気にしていないらしい。
「ゆきのん、陽乃さんと最近会ったの?」
「ええ。こっちが忙しくてもお構いなし」
雪ノ下は大学受験のとき、陽乃さんに喧嘩を売った。
水族園での一件の後、雪ノ下には思うところがあったらしい。文系志望から急に理系志望に路線変更し、いつものように陽乃さんが俺たちにちょっかいを出しに来たときに、理転することと日本で一番偏差値の高い大学を志望することを告げた。
雪ノ下は当時「奉仕部でなにもできないでいた自分を変えたかった」と言っていたが、おそらく同じ理系で不本意な進学をした陽乃さんへの当てつけも含まれていたのだろうと思う。
『姉さん。私の保護者面するのは金輪際やめて』
雪ノ下が最後にそう啖呵を切った後、陽乃さんはまたいつものように依存だなんだとあれこれ言っていたが、雪ノ下は黙ってそれを聞いていた。陽乃さんは別れ際に雪ノ下のことを寂しそうに、そして同時にうれしそうに見ていたのを覚えている。
雪ノ下はそれ以来まったく陽乃さんの話をしなかったし、陽乃さんも俺たちの前に現れることはなくなった。雪ノ下も俺たちと同じように陽乃さんとはほとんど関わりがなくなったものだと思っていたが、いつの間にか姉妹の関係はヨリが戻りつつあるらしい。
「それにしても比企谷くん。私が姉さんと一度決別したのを知っているのに、よくも話題に出してくれたものね」
「……いやそれはすまん。言ってからやべって思ったわ」
雪ノ下は挑発的な笑みを浮かべた。
「罰としてあなたがもっとも嫌う話題であるところの仕事の話をしなさい」
「あーあたしもヒッキーの仕事の話ちょっと聞きたいかも。ヒッキー全然仕事の話しないし」
「知ってるだろ。今は教育委員会の事務方。経理みたいなことやってる。書類作って上司のスタンプラリーして会議があったらその準備して……そんなもんだ。まだヒラだしな」
「そっか、ヒッキー市役所入ってまだ2年目だもんね」
「比企谷くん。もっと職場の嫌なこととか腹の立つ慣行とか、そういう話をしなさい」
なんて女だ……。そんなことを話したら本当に仕事のことを思い出して嫌な気分になるだろうが。
「あー……課長が部下には態度デカくてよそにはいい顔するタイプだから、週に3回くらいぶん殴りたくなる」
「うわー……そういう上司あたしの会社にもいるよ……」
あのクソ課長、よそにはヘコヘコして仕事押し付けられて帰ってくるけど、全部部下に投げてテメェは怒鳴り散らして部下にストレスかけてるだけだから本当に許せねぇ……。俺がどれだけ苦労させられていることか。
いや、思い出すな比企谷八幡。あのストレスを晴らすのがこの飲み会だぞ。
「合わない上司は耐えるしかないわね。何年かすればどちらかが配置転換されるから、それまでの辛抱よ」
課長、俺と同じタイミングで今の部署に来てるから、たぶん来年度もお付き合いしないといけないんだよなぁ。事故に遭って何か月か入院してくんねぇかな……。
「ところで比企谷くん。あなたまだ専業主夫の夢は捨てていないのかしら?」
「あ? ……まぁなれるならなりたいけどな」
俺には銀行勤め(1年だけだが)で培った金融知識と、実家だけど事実上のほぼ一人暮らしで培った家事スキルがある。今の俺はカレー以外に肉じゃがも作れるし、掃除洗濯も完全に理解した。だから専業主夫としてやっていく自信は正直ある。相手がいないだけだ。
……という話を前回会ったときにしたら、二人から心底バカにされたのでもうしない。
実際はハチマン家事も資産運用もチョットデキル。スパイス調合するところからカレー作れるし、財形貯蓄なんかしない。デキる男はiDeCoとNISAと外国株投資だ。実家暮らしだから小遣い以外給料全部突っ込んでる。
3月の新型コロナショックでNYダウと日経平均が暴落したときに資産が数百万溶けて何日か有休をとったのは秘密だ。
「でもヒッキーはちゃんと働いてるんだね。えらい!」
由比ヶ浜が俺の頭を引き寄せてわしわしと撫でる。いいにおいがする。由比ヶ浜にこういうことされるのは今までに何十回もあったが、今でも意識してしまう。やめろ。もう大人だから黒歴史じゃ済まなくなる。
「由比ヶ浜さん、その、私も」
「うん! ゆきのんもえらい! えらいよぉ!」
片手で俺、もう片手で雪ノ下の頭をわしわしやりながら、「二人ともえらいえらい」と由比ヶ浜は何度もつぶやいた。
「二人とも、ちゃんと働けてるんだよね。すごいよ……」
由比ヶ浜がグラスの梅酒を一気にあおり、グラスを力なくこたつテーブルに置いた。
「あたし、もう仕事辞めちゃいたいよ……。予算に追われて毎日お客さんのところ走り回って……せっかく受注取ったら工場のミスで在庫揃わなくて迷惑かけて。やっと予算達成したと思っても次の月にはまたやり直し。ヒッキー、こういうのなんて言うんだっけ。賽の河原の……」
「石積み、か」
ストロング系缶チューハイの原因はこれか。
「それそれ。もうなにがなんだかわかんなくなってきちゃった……。最近はね、自分が数字積み上げるだけのロボットみたいな気がしてきてさ。予算達成できてない月はとにかく数字あげなきゃって土日も出勤して、セクハラみたいなことしてくるお客さんをいなして、夜は上司とか先輩の飲み会に付き合って……あたしなにやってるんだろって……」
由比ヶ浜は涙を浮かべ、笑いながら小さくつぶやいた。
「あたし、もう、限界かも……」
雪ノ下が由比ヶ浜を抱きしめると、由比ヶ浜は声を上げて泣き始めた。雪ノ下は由比ヶ浜の背中をあやすように優しく叩き、泣き止むのを待った。
「……茶淹れるわ」
「ええ。お願い」
キッチンの電気ポットで湯を沸かし、インスタント緑茶を淹れる。三人分淹れてこたつテーブルに戻ってくる頃には、由比ヶ浜はもう泣き止んでいた。
「ごめんゆきのん……」
「いいのよ由比ヶ浜さん。私だって泣きたいことはあるわ」
「うん……ヒッキーもごめんね」
「おう、気にすんな。……大変だよな、仕事」
鼻をかみ、ぐしぐしと顔を拭うと、由比ヶ浜はいつもの由比ヶ浜に戻った。
「なんか湿っぽくなっちゃったし飲み直そっか! ヒッキーがせっかくお茶淹れてくれたから、あたし焼酎のお茶割りにしよっかな」
「私はロックで」
お前らの肝臓なにでできてんの? 鋼鉄製なの?
***
由比ヶ浜さんが泣き止んだ後、私はお手洗いに立った。
便座に座って大きく深呼吸する。
私は今日、これから、この奉仕部の同窓会を終わらせる。いつまでもいたくなるこの心地よい時間を、今日で最後にするのだ。
こんなに緊張したことがかつてあっただろうか。大学受験や官庁訪問のときの比ではない。手が震え、歯の根が合わない。
しかしやらなければならない。ここで踏み出せなければ、私は一生後悔に囚われる。
頬を叩き、覚悟を決めてお手洗いを出る。
「ひゃっ!」「うおっ」
扉を開けるとすぐ目の前に比企谷くんが立っていた。
「あんまり出てこないから中で寝てんのかと思ったぞ」
「そ、そう。ごめんなさい」
「……お前、大丈夫か? 顔青いぞ」
「ええ、大丈夫……大丈夫」
リビングに戻ると私はロックの焼酎を一気に飲み干した。酒の力でもなんでも使いたい気分だった。
「ゆ、ゆきのん、どうしたの?」
「由比ヶ浜さん。比企谷くん。話があるの」
私は努めて声を落ち着けて、法案準備室に配置転換されることと、そこに一緒に配属される同期の男性事務官について話した。
「雪ノ下にもついに男ができたか。俺はお前がほとんど仕事の話しかしねーから、てっきり平塚先生と同じ仕事と結婚するタイプかと思ってたけどな」
「ヒッキー……」
由比ヶ浜さんは複雑そうな顔で比企谷くんを見つめ、その比企谷くんは半笑いの表情のまま、いつもの死んだ目で私を見つめた。
比企谷くんは少しも動じていないようだった。彼の中での私は、もうとっくに整理のついたことなのかもしれない。そうだとしたら……。
大きく深呼吸し、息を整えようとする。しかしまったく呼吸は整わず、手の震えは全身に広がっていた。
二人を失うのが怖い。しかし、私は踏み出さなければならない。
「彼とそうなってもいいかもしれないと思うことはあったわ。でもそう思うといつも、比企谷くん、由比ヶ浜さん、あなたたちのことを思い浮かべてしまう」
震える手を伸ばし、二人の手に重ねる。
「結局、私はあなたたちが好き。大切なのよ。あなたたちが『高校時代の友人』になって、だんだん私の人生から遠ざかっていくなんて、耐えられない。だから」
涙があふれてくる。しかし言わなければならない。これを言うために、今日ここにやってきたのだ。
「……だから、『奉仕部の同窓会』はもう今日で終わりにしたいの」
「ゆきのん……」「雪ノ下……」
「そして、私と、家族になってほしい。比企谷くんと、由比ヶ浜さんと、私と、三人で、家族になりたい」
二人の顔を見ることができず、ギュッと目をつぶる。涙が頬を伝っていった。
言ってしまってから、二人に既に相手がいる可能性に気がついた。あるいは二人が交際している可能性に。会話に出さないだけで、私はとうの昔に二人の「高校時代の友人」になっているかもしれない。
拒絶される。
もしそうなったら、私はどうなるのだろう。なにをよすがに生きていけばいいのだろうか。
もう昔のように孤高を気取ることはできない。この二人に出会ってそういう生き方はできなくなってしまった。二人に出会う前に頼みとしていた自分の優秀さへのプライドは、大学で粉々に叩き潰されている。
仕事? 確かに今の仕事は好きだ。やりがいもある。だが、誰のバックアップもなしに、誰のためでもなく働き続けられるほど、自分の心が強いとは思えない。しかし仕事以外に私はなにも持っていない。
そう、私にはなにもない。この二人以外には。
賽を投げてしまってから、いまさらのように猛烈な不安が湧き上がってきた。
「ゆきのん、あたしたちのこと、そんなふうに思ってくれてたんだね……」
由比ヶ浜さんの手が私の手から引かれていった。目を開けると、由比ヶ浜さんはうつむいてつらそうに眉を寄せていた。
「あたしさ、さっきも泣いちゃったみたいに仕事がつらくて……なんのために生きてるんだろう、なんのために働いてるんだろうってずっと思ってた。そのたびに、ゆきのんとヒッキーのこと考えて頑張ってたの」
由比ヶ浜さんは再び私の手を握った。
「ねえゆきのん。あたし、高校の頃からずっとヒッキーが好きだった。気づいてた?」
「……ええ」
「でもヒッキーはゆきのんが好きだった。そうでしょ?」
「いや俺は……」
比企谷くんは言い淀み、しばらく黙ってから大きく息を吐き、また口を開いた。
「……そうだ。俺は雪ノ下が好きだった」
比企谷くんは過去形で言った。
「そうだよね。そしてゆきのんもヒッキーが好きだった」
「……」
「ゆきのん。あたし、今でもヒッキーが好き。だからゆきのんからヒッキーを盗ろうって、ゆきのんがいないときもヒッキーとデートして、ヒッキーといろんなところに行って……いろんな思い出作ったの。ヒッキー、きっとあたしのことをちゃんと好きになってくれたと思う」
「……ああ」
由比ヶ浜さんはぽろぽろと涙をこぼし、私の手を握る力を強めた。
「でも、ヒッキーは今でもゆきのんを見てる。あたし、ヒッキーを独占したかった。ゆきのんとはただの友達になって、あたしだけを好きになってほしかった。でも、できなかったよ……。どんなに頑張っても、ヒッキーはゆきのんのことが好きなままだった。それに」
由比ヶ浜さんはまた泣き笑いの顔になって私を見た。
「あたしだって、ゆきのんのこと、好きだもん。好きな人の好きな人を奪うなんて、できなかったよ……あたし、そんなにズルくなれなかった」
由比ヶ浜さんは比企谷くんの手を握る私の手にもう片方の手を重ねた。
「ゆきのん。ヒッキー。こんなあたしだけど、それでもいい? あたしも、ゆきのんと、ヒッキーと、家族になりたい。仕事して疲れて帰ってきたら、電気がついててさ。ゆきのんがいて、ヒッキーがいて、二人に『おかえり』って、言ってほしいよ……」
由比ヶ浜さんはそう言うと、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽を漏らした。
由比ヶ浜さんが同じ気持ちを持っていてくれたことが心からうれしくて、ほっとした。
しかし話はまだ終わりではない。私の目標は「三人で一緒になること」。比企谷くんもいなければ成功ではない。
私は比企谷くんに目を向けた。比企谷くんも私を見据えている。
「俺は……俺は、社会人としては出来損ないだ。雪ノ下みたいに仕事が好きだったり、由比ヶ浜みたいに高給取りでもない。最初に入った銀行は辞めてるし、今の職場だっていつも辞めたいって思ってる。収入だって知れてる。……雪ノ下。俺はその同期みたいに、頭がいいわけでも仕事ができるわけでもない。ただ食うためにいやいや働いて、目標もなく毎日を過ごしてるだけの、そんな人間なんだ」
比企谷くんが由比ヶ浜さんを見る。
「由比ヶ浜。俺は高校のときからお前の気持ちに気づいてた。そしてお前の言うとおり、雪ノ下のことが好きだった。でも選んでしまったら、この三人の関係は確実に壊れる。それに、雪ノ下が俺のことをどう思っているのか、俺には自信が持てなかった。俺には選べなかった。だからあのとき、お前の提案に乗った。……怖かったんだ。俺が選ぶことでまた一人に戻るのが」
比企谷くんの目にも涙が浮かび、嗚咽を漏らし始める。
「そんな俺でも、雪ノ下、由比ヶ浜、お前らは受け入れてくれるのか? お前らになにもしてやれない俺と、自分勝手な理由であのとき選べなかった俺と、家族になりたいって思ってくれるのか?」
彼は期待を裏切られることを、そしてそれ以上に自分が相手の期待を裏切るかもしれないことを恐れている。自信が持てないでいる。
だが、今の私は彼にかけるべき言葉を知っている。
由比ヶ浜さんの気持ちを聞いたことで、私の震えはいつの間にか止まっていた。
「比企谷くん、あなたは思い違いをしているわ。まず1点目。由比ヶ浜さんもそうだと思うけれど、私はあなたには立派な社会人であることも、稼ぎがいいことも、仕事ができることも、頭がいいことも期待していない。ただあなたにそばにいてほしい。家に帰ったときに出迎えてほしい。同じ食卓を囲んでほしい。困難に突き当たったときに一緒に悩んでほしい。あなたと肩を並べて生きていきたい。そういうことを求めているの」
まだ泣いている由比ヶ浜さんに目を向ける。由比ヶ浜さんも泣きながら何度もうなずいた。
「その上で2点目。あなたがこれまで私に、私たちにどれだけ多くのことをしてくれたか、肝心のあなた自身がまったく理解できていない。高校のとき、奉仕部の依頼を実質的にこなしていたのはあなただった。私はただ手をこまねいていただけ」
比企谷くんも由比ヶ浜さんも、涙をこぼしながらじっと私の話に耳を傾けている。
「それだけじゃない。比企谷くん、覚えているかしら。私が大学に入った後、どれだけ努力したところで自分はその他大勢の一人にしかなれないと知って落ち込んでいたとき、手を差し伸べて胸を貸してくれたのは比企谷くん、あなただった。あのときあなたに支えられて、私がどんなに助けられたか。今の私があるのはすべてあなたのおかげなの」
もう一度比企谷くんを見据える。最後の一押しだ。
「最後に3点目。
比企谷くんの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。きっと私も同じだろう。
比企谷くんは空いた手で顔を拭い、潤んだ目で一瞬だけ私と由比ヶ浜さんを見やり、テーブルに視線を落とした。
「……俺も、お前ら二人とこうやって会って、飯食って酒飲んで、あのときみたいにバカな言い合いするのを楽しみにして、今までやってこれた。いつまでもこの関係が続いてほしいと思ってた。でもいつかは終わるって思うと、おかしくなりそうで」
比企谷くんが目線を上げ、私たち二人を見つめる。
「俺で、いいのか? 俺なんかで」
「ヒッキーがいいの。ね、ゆきのん」
「ええ。あなたがいい。あなたでなければだめなの」
私たちが重ねた手に、比企谷くんはさらにもう片方の手を重ねた。
「俺も……お前らと家族になりたい。ずっと、一緒にいてほしい」