残暑も終わっていよいよ秋という気候になってきた10月のある日、俺のスマホに着信があった。あまり出たくない相手だったが、妻の親族という関係上出ないわけにもいかない。緊急の連絡という可能性もある。
『ひゃっはろー比企谷くん。お義姉ちゃんでーす』
幸か不幸か、どうやら緊急事態というわけではないようだった。
陽乃さんとは俺たち3人で家族になってから数年間で何度か顔を合わせたが、電話がかかってくるのは初めてだ。
『突然なんだけど、明日時間あるかな? あるよね?』
「いやアレがアレなんで……」
『あれれー? 雪乃ちゃん情報だとプリキュアの映画見に行くから有休取ってるって話だったけど』
雪ノ下のやつ、俺の行動を勝手にしゃべりやがって……。陽乃さんの用なんてどうせロクなことじゃないし、お断りしたい。
「プリキュアの映画を見なきゃならないんで……」
昼はちびっこが多いから行くのは一番最後の夜の上映だが、ウソは言っていない。それに昼間は映画に備えてブルーレイを見直すなどいろいろと準備がある。
『えー? 比企谷くんは子供がいっぱいいる昼間の上映時間に見に行くとは思えないんだけどなぁ?』
読まれてた。
「いや昼間もいろいろと用事があるんで……」
『ほんとにー? 雪乃ちゃんは「あの男のことだから、どうせブルーレイを見直す大切な用事があるとかそんな言い訳をすると思うけれど」って言ってたよー?』
雪ノ下さんなんでそういうことしゃべっちゃうの……? 配偶者を姉に売るなんて家族の危機だよ? っていうか「あの男」呼ばわりはひどくない? あと陽乃さん、雪ノ下の真似がすげーうまい。
『別に取って食うわけじゃないから安心して。あ、でも比企谷くんに取って食われるのはやぶさかじゃないよ~?』
「食いませんから……それで、なんなんです?」
『ちょっとお出かけ。めったに入れないところに連れてってあげるからさ。どうかな?』
まぁ、妻の親族と友好関係を築いておくのは必要だろう。
翌日、俺は陽乃さんの会社の人たちとともに東京証券取引所のロビーにいた。
「今日はうちの会社が上場する日なんでしたー! すごいでしょ!」
「ええ、まぁすごいですけど……俺みたいな部外者がいていいんですかね」
「部外者じゃないよ、今日だけ比企谷くんはわたしの秘書ってことにしてあるから」
周囲にはスーツ姿の年配男性が5人(中には雪ノ下の父、つまり俺の義父もいた)、同じくスーツ姿のそれより少し若い中年くらいの男女が10人ほどたむろしている。俺もスーツで来いと言われたし、陽乃さんもスーツだ。
陽乃さんの紹介によると、年配男性陣は会社の役員、それ以外は陽乃さんの本物の秘書や幹部社員だという。場違い感がハンパねぇ……。
役員の年配男性陣は雪ノ下のこともよく知ってるらしく、「ついこないだ生まれた子がもう結婚かぁ……年取るわけだわ」とか「ちょっと目はアレだけど、雪乃ちゃんいい男捕まえたな!」とか「千葉市役所勤めなんだって? うちの会社をよろしく!」とかいろいろと言われた。
年配男性陣に揉まれつつ義父の雪ノ下さんとの世間話をしていると、役員陣が東証の人に呼ばれた。応接室で東証の役員と名刺交換会があるという。雪ノ下との関係をうまく取り繕いながら世間話をするのはけっこうなプレッシャーだったので命拾いした……と思ったが。
「ほら、比企谷くんも。今日は秘書なんだからね」
特別応接室はテレビで外国の要人を迎えるときに見るような、豪華な絨毯張りの部屋だった。俺は陽乃さんの本物の秘書の人と並んで部屋の隅っこに立ち、陽乃さんたちが名刺交換と同時にしばらく歓談するのを眺めていた。
東証の役員も全員が中年以上の男性なので、陽乃さんは今日の主役というのもあるが、紅一点として非常に目立っている。
こういう場で社交をやっている陽乃さんは、心の底から有能で温和で友好的な若き女社長に見えた。「今でこそ多くの部分を年配の役員に頼っているが、いずれは確固たるリーダーシップのもとに会社を引っ張っていく将来有望な若社長」という人物像を演じているようにはとても思えなかった。
名刺交換会は15分ほどで終わり、幹部社員の人たちも合流して東証アローズに移動する。
東証アローズはテレビでよく見るアレだ。上のほうで銘柄と株価がグルグルしてるやつ。俺も株をやってるから実物を見てちょっと感動してしまった。
ここで上場通知書と記念品贈呈の式典が行われ、記念写真を撮り、その後はいよいよ打鐘に移る。
陽乃さんが打鐘用の木槌を持ち、鐘の由緒や叩き方を東証の人にレクチャーされる。
陽乃さんは振り返って自分の父親も含めて会社の人たちを一瞥した。
「いきますよー!」
カーン、という大きな打鐘音が東証に響く。続いて義父の雪ノ下さんが力強く鐘を叩く。その後は役員や幹部社員の人たちが数人まとまって代わるがわる打鐘し、セレモニーは終わった。
陽乃さんは涙を浮かべていた。
ここで役員・幹部社員の人たちは解散したが、俺と本物の秘書さんは陽乃さんのインターネット放送出演の様子を東証内のスタジオで見ることになった。
カメラの前に立った陽乃さんはキャスターの年配男性と話す内容を最終確認し、スタッフのカウントダウンが始まると少し緊張した面持ちでカメラを見つめた。
「この時間は、本日東証ジャスダック市場に新規上場となりました、証券コード19XX、株式会社雪ノ下ビルド工業代表取締役社長、雪ノ下陽乃さんにお越しいただきました。雪ノ下社長、本日はおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「今どんなお気持ちですか?」
「はい。ステークホルダーのみなさまのご指導ご鞭撻をいただきまして、本日上場を果たすことができ、身が引き締まる思いです。ここをスタートラインとして、今後はより一層の緊張感を持ち、社員一丸となって企業価値向上に努めてまいりたいと思っております」
「それではまず御社、雪ノ下ビルド工業についてご紹介いただけますか」
「はい。弊社雪ノ下ビルド工業は……」
陽乃さんは原稿もなしにスラスラと会社の説明を進めていく。
事前に練習したんだろうかと思ったが、陽乃さんなら本番一発でこれくらいできそうな気もした。俺が職場で業務改善案の発表したときは、事前に何度も練習したのにあんなにうまくはしゃべれなかった。
「……では最後に、雪ノ下社長からテレビをご覧の投資家のみなさんにメッセージをいただけますか。こちらのカメラから」
「ステークホルダーのみなさまのご指導ご鞭撻をいただきまして、本日上場を果たすことができました。厚く御礼申し上げますとともに、今後も弊社全員が一丸となって『確かな技術・確かな信頼』の理念のもと、よりよい社会への貢献と、それによる企業価値向上を目指してまいりますので、弊社雪ノ下ビルド工業をどうぞよろしくお願いいたします」
「……はい。この時間は、本日東証ジャスダック市場に新規上場となりました、証券コード19XX、株式会社雪ノ下ビルド工業代表取締役社長、雪ノ下陽乃さんにお越しいただきました。雪ノ下社長、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
最後に東証にある記者クラブ「兜倶楽部」で記者会見を行って、今日の陽乃さんの新規上場企業社長としての仕事は終わった。
秘書さんは上場祝賀会に遅れないようにと陽乃さんに釘を刺して、社用車で帰っていった。
「比企谷くんお疲れー!」
「お、お疲れさまです」
上場したのがうれしいらしく、いつも以上にテンションが高い。
「どうだった? 来てよかったでしょ?」
「ええ、まぁ。確かに『めったに入れないところ』でしたし、ちょっと感動しました」
「そっかそっか。よかった! お義姉さんに感謝してくれてもいいんだぞー?」
言いながらバンバンと背中を叩かれる。マジでテンション高いなこの人。
「雪ノ下さん、ちゃんと『社長』やってるんですね。ちょっとびっくりしました」
「えー? どうしたの急に。……社長になったのは去年だし、まだお飾りの神輿って感じだけどね」
陽乃さんはめずらしく自嘲的な笑みを浮かべた。
「やっぱり若い女だとナメられるし、まだまだだよ。インタビューでも言ったけど、ここがスタートラインだね」
そう言うと、陽乃さんはいたずらっぽい顔をして俺の腕を抱えるようにして擦り寄ってきた。
近い。いいにおいがする。柔らかい。ちょっと、既婚者に対してそういうことするのやめてもらえます?
「ねえ比企谷くん。ほんとにわたしの秘書にならない?」
「……え、遠慮しときましゅ」
「ぶふっ、噛んでるし……そっか。それならしょうがないなー」
陽乃さんは俺の腕を放して数歩と歩き、突然立ち止まってこちらを振り返った。トレンディドラマのヒロインかよ。しかもそういうのがめちゃくちゃ様になるんだよなこの人。
「プリキュア、見に行こっか」
「はい?」
「プリキュアの映画、見に行くんでしょ?」
「俺は行きますけど、雪ノ下さんプリキュアわかるんですか?」
「ううん、全然知らない。だから解説して? チケット代出してあげるからさ」
「えぇ……」
最寄りの上映館がある丸の内までは歩いていくことになり、道中は俺が陽乃さんにプリキュアについて解説することになった。日本橋とか銀座の人通りの多いところでプリキュアについて語らされるのってこれなんて罰ゲーム?
あと少しで到着というところで、陽乃さんのスマホが鳴った。
「隼人だ。ちょっとごめん」
葉山隼人。懐かしい名前だ。高校以来まったく話に聞かなかったし、思い出そうとも思わなかったが、どうやらまだ雪ノ下家との関係は続いているらしい。まぁ親の仕事関係らしいし、金でつながった縁はそうそう切れるもんでもないだろう。
「ごめんごめん。早く戻って来いって怒られちゃった」
「……今日はもう帰りましょうか」
「いいよ気にしなくて。ちょっと比企谷くんとデートしたい気分なの」
「いやデートって言われても」
「いいからいいから!」
陽乃さんは図々しい笑顔の下になにかを隠しているようだった。
陽乃さんにチケットを買ってもらい、その間に俺は陽乃さん注文のポップコーンとコーラ2つのセットを買って、客席に向かった。
客席に着くと、陽乃さんはジャケットを脱ぎ、「うーん」と声を上げて伸びをした。俺は目をそらしてポップコーンを食うことに集中する。いや胸がね? 視界に入ってきちゃうっていうか……。
「映画なんて見るの何年ぶりかなぁ……すっごい久しぶり」
「忙しそうですもんね」
「そう。そうなのよ。誘ってくれる人も今はいないし」
えっ、映画館は一人で来るところでは? なんてことは言わない。そういうのは高校で卒業した。大学時代は戸塚や一色と来てたし、就職してからは由比ヶ浜に事あるごとに連れてこられた。たまに一人で来ることもあったが、あくまでたまにだ。
「雪乃ちゃんとはうまくいってる?」
「ぼちぼちです」
「そう言うと思った。……まさか雪乃ちゃんに先越されるとは思ってなかったなー」
「雪ノ下さんだってその気になったらすぐでしょう」
「その気になる相手がいないのよね。筆頭候補は比企谷くんだったんだけど、雪乃ちゃんとくっついちゃうしさー」
「はぁ」
「あー信じてないでしょ。……でもわたしももう30過ぎたし、会社も上場して一区切りついたし、結婚することになったんだ」
「相手はどういう人なんです?」
「気になる?」
「まぁ、義理の兄になるわけですからね」
「素直じゃないんだからー。……隼人だよ。今日の祝賀会で正式発表予定なんだ」
陽乃さんの視線はスクリーンで流れている映画のCMに向いていたが、目にはなにも映っていない。
「だから、最後に比企谷くんとデートしとこうと思って。それで今日呼んだの」
なんだか変な空気になってきた。
しかし現時点では陽乃さんはあくまで冗談として「デートしとこうと思って」と言ったに過ぎないし、時間もまだ16時前。日も暮れていない。まだあわあわ慌てる時間じゃない。ところで俺、誰に言い訳してるの?
「この映画くらいなら付き合いますよ」
「ほんと? うれしい!」
陽乃さんが俺と腕を組み、肩に頭を預けてきた。これ、完全にアウトのやつじゃないかな……。「新規上場美人社長と公務員の密会現場!」みたいな記事出ないよね……? あと胸が当たってるし、いいにおいもするし、ドキドキしちゃうのでやめてほしい。
「あの雪ノ下さん、一応俺、既婚者なのでそういうのは……」
やめてもらえると、という話をしようとしていると、上映時間が近づいたのか、劇場内が暗くなる。
「ねぇ比企谷くん」
陽乃さんが耳元でささやく。心臓の拍動が一気に大きくなった。
「耳弱いんで」という会話を初めて陽乃さんと会ったときにやった記憶が、ふと蘇ってきた。
「雪乃ちゃんがいなかったら、もしかしてわたしにもチャンスあったかな?」
「……雪ノ下がいなかったら、そもそも陽乃さんと知り合ってないですよ」
「ふふっ、そっか」
陽乃さんは俺の拘束を解いて離れた。
このまま取って食われちゃうんじゃないかといろんな意味でビクビクしていたので、全身から力が抜けた。
「そうだよね……いやーもっとわたしのほうからグイグイ行けばよかったなぁ。まんざらでもないみたいだし?」
「家庭があるのにそんなわけないでしょ……」
「家庭がなかったらコロッといってたでしょー? なんならこの後ホテルに行ってもいいよ? お義姉さんとワンナイトラブ、どお?」
「そんなことしたら雪ノ下と由比ヶ浜と小町にコンクリ詰めにされて印旛沼に沈められちゃいますから」
俺がそう答えると、陽乃さんは「そっかぁ……」と大きくため息をついた。
「比企谷くんにフラれちゃった」
「葉山と幸せになってください」
「隼人はねぇ……ハイスペックだけど面白みがないのよね」
「じゃあなんで」
「結婚するかって? まぁ……会社経営上の事情かな。隼人、弁護士になって今は外資系コンサルの会社にいるんだけど、ほら、ウチは地方の土建屋だからそういうハイスペック人間なんてまず採用できないし、わたしと結婚して会社に関わってもらえるとだいぶありがたいのよね。あ、さっき比企谷くんを誘ったのも本気だから。その気になったらいつでも連絡ちょうだいね?」
「いやそれは結構です」
陽乃さんは「そっちでもフラれちゃったか……」と笑った。
「……わたしね、今はウチの会社、けっこう気に入ってるんだ。会社入る前は『ほんとはもっと上の大学行きたかったのに』とか、『会社の付き合いに顔出さなきゃいけないなんて』って思ってたのを、わたしがやれば雪乃ちゃんは自由にやれると思って我慢してた。でも会社に入って仕事してみるとさ、どんどん楽しくなってきちゃって。もちろんつらいことも大変なこともあるけど、チームをうまくまとめて計画どおりにプロジェクトを完了させられるとね、ほんっとにビールがおいしいんだよ!」
そうやって会社のことを語る陽乃さんの顔は薄暗い中でも輝いて見えた。
「なんていうのかな、仕事してると『わたしたちがいい暮らしできたのは社員のみんなのおかげだったんだなー』とか、そういういろんなことが一気に実感を持ってわかってきて、世界が広がってるーって感じがするの。経営者一族だからいろんなことやらせてもらえてるってのが大きいんだろうけど、ちょうど比企谷くんたちが一緒になったあたりからかな、『あ、わたしこの会社に人生捧げたいな』って思うようになったんだ」
劇場がさらにもう一段暗くなり、予告編や映画泥棒のCMが始まった。陽乃さんの子供のように目を輝かせている顔が、スクリーンからのわずかな光で浮かび上がる。
「いいじゃないすか。打ち込めるものがあるって、ちょっとうらやましいです」
「お? じゃあ比企谷くんもウチの会社に人生捧げてみない? お給料弾んじゃうよー?」
「いや、俺はもう人生捧げる先が決まってるんで」
「連れないんだからー。……隼人は面白みはないけど悪い男じゃないっていうのは知ってるからね。それに隼人も今は仕事が楽しいらしいのよ。だから、『じゃあ仕事人間同士、世間体もあるし結婚しちゃおっか』ってことになったの」
陽乃さんと葉山なら人もうらやむ美男美女ダブルインカムパワーカップルだ。しかも片方は上場会社社長、もう一方は外資系コンサル勤務ときた。うわ、金持ち向けの雑誌に載ってそう。
そんなことを考えていると、葉山が俺の義理の兄になるということに気づいてしまった。普通に嫌だな。雪ノ下家の集まりに出たら絶対比べられる。
「あ、わたしが結婚しても雪乃ちゃんとか由比ヶ浜ちゃんに飽きたらいつでもお義姉ちゃんのところに来てくれていいんだぞ? 比企谷くんならいつでもウェルカム!」
「だから行きませんって」
そんなことを言い合っているうちに完全に劇場内の照明が落ち、鑑賞マナーやらプリキュアのこれまでのあらすじやらが始まった。
映画を見終えて映画館を出たところで、俺のスマホが鳴った。雪ノ下だ。
『姉さんとのデートはどうだったかしら、浮気谷くん?』
「俺は無実だ。……上場セレモニーに混ぜてもらってその後映画見ただけだよ。今隣にいるけどかわ「ひゃっはろー雪乃ちゃん! 比企谷くん貸してくれてありがとねー!」
「かわるか?」と確認を取る前に陽乃さんが勝手にしゃべりだし、仕方なくスピーカーモードに切り替える。
『姉さん』
「比企谷くんとあつ~い一日を過ごさせてもらったよ! ねー比企谷くん!」
『比企谷くん。なにがあったか、帰ったらじっくり聞かせてもらうわよ』
「だからなんにもないって」
『そういうわけだから姉さん、そろそろうちの夫を解放してもらえるかしら』
「はいはーい。わたしもこの後用事があるから、残念だけどお食事はまた今度だね」
「え、ええ。そういうのはやっぱり家族が揃わないといけませんしね」
陽乃さんこういうの効かなそうだなと思いつつ予防線を張っておく。予防線を平気で踏み越えてくるタイプだけどなこの人……。
『姉さん』
「なぁに雪乃ちゃん?」
『上場おめでとう。今日だったでしょう』
「覚えててくれたんだ。……ありがとね」
『私の実家の会社でもあるのだし、潰さないでくれるとありがたいわ』
「なんですってぇ~? あっという間に東証一部日経225銘柄まで駆け上がってやるから見てなさい! あ、あとわたし隼人と結婚することになったから」
『はい?』
「もうこんな時間! この後上場祝賀会なんだ。じゃ、またね! 比企谷くんも!」
そう言うと、陽乃さんはさっさとタクシーを止めて乗り込もうとした。
「雪ノ下さん!」
陽乃さんの動きが止まり、こちらを向く。
「今日はありがとうございました。あと、おめでとうございます」
陽乃さんはにっこり笑って手を振り、「ありがとねー!」と言って走り去っていった。
陽乃さんを見送り、俺は有楽町駅に足を向ける。
『まったく、相変わらずね』
「お前もなにも聞いてなかったのか?」
『初耳よ』
二人で同時にため息をつき、それがなんだかおかしくて二人で小さく笑い合った。
「雪ノ下さんに会社入らないかって誘われたわ。秘書にならないかってよ」
『収入は上がりそうね。馬車馬のように働かされそうだけれど』
「それなんだよなぁ……」
とはいえ、子供が成長して手がかからなくなった後の就職口としてはアリだ。
雪ノ下のお腹には今、6か月になる子供がいる。この子が生まれ次第、俺は市役所を辞めて晴れて専業主夫になる予定だが、やはり教育費の負担は小さくない。全部私立なら大学卒業までに子供一人当たり2000万と言われるが、雪ノ下と由比ヶ浜が2人ずつ生むとすると計4人で8000万。いくら雪ノ下と由比ヶ浜が高給取りとはいえ、ちょっとしんどい額だ。もちろん最大でこれくらいという話ではあるが、家計の余裕は心の余裕でもあるし、俺も働きに出なくてはなるまい。
陽乃さんにそういう話しとけばよかったな。今度会ったらお願いしておこう。
『ところで、姉さんとの「あつ~い一日」について聞かせてもらいましょうか』
「俺は無実だ。せいぜい映画館で陽乃さんに抱き着かれたくらいで……」
『ふぅん……? 妊娠中の妻が働いているのをよそに、妻の姉に抱き着かれて鼻の下を伸ばしていたと?』
「ちょっと? 鼻の下なんて伸ばしてないからね? ……俺が鼻の下を伸ばすのはお前と由比ヶ浜にだけだ」
素直に本心を言葉にするのが一番だということを、俺は雪ノ下にプロポーズされたときに学んだのだ。だからこれは俺の本心。そして家族の信頼関係でつながった雪ノ下はわかってくれるに違いない!
『信用ならないわね。家族会議を招集します』
あ、あれ? 家族の信頼関係……。あと家族会議が軍法会議みたいに聞こえるんですけど?
『……だから、早く帰ってきなさい。由比ヶ浜さんももう帰るって連絡があったわ』
雪ノ下は柔らかな声でそう告げた。
「……おう、すぐ帰るわ。じゃ、切るぞ」
『ええ』
電話を切り、俺は大きく深呼吸をして、家族の待つ家に帰るべく歩き始めた。
本当は陽乃の社長インタビューを書きたかったのですが、「俺ガイル二次創作を読む人はそこまで株式投資に興味がない」と思い直し、大幅カットして書き直しました。
社長インタビューはインターネットテレビ「ストックボイス」で平日昼間に放送されている番組「東京マーケットワイド」内の社長インタビュー(さらに言うと岩本秀雄キャスターが担当のとき)をモデルにしています。
その他の上場セレモニーについては株式会社ピアラ企業ウェブサイト内のニュース記事「東証マザーズ上場セレモニーの流れをまとめました。」を参考にしました。