「罠だよ」
マリアは新聞に目を通し、開口一番そう言った。
「俺もそう思う。東方の一地方の情勢が、南方にまで伝わってくるはずがない」
アレンは西方第二位の称号を得ていながら東方では誰もそのことを知らなかった。なので、海を越えて情報が伝わることの有り得なさをよく理解していた。
「あの泥棒猫が、アレンをおびき寄せるために出した偽情報だよ。無視しよう」
「……それはできない」
「え?」
深刻そうな表情のアレンに、マリアは首をかしげる。
「嘘だって分かってるんだよ? 行く必要ないって分かるよね?」
「それでも、ほんのちょっとでも家族が危機にさらされている可能性があるなら、俺は行かなきゃって思うんだ。ごめん」
「……まあ、そうだよね。知ってたよ」
マリアは嘆息した。
それでも、アレンのそういうところが好きだった。彼女はアレンの想いを受け入れた。
「いいのか?」
「だって、負けると思う?」
マリアは全幅の信頼を宿した瞳で微笑んだ。
「杞憂だったし、愚問だった」
「うん、そうそう」
愉快そうにマリアは笑う。
「それにこれで、あの泥棒猫をぎったんぎったんにしてアレンの未練を捨てさせられるしね」
「あはは……え、これから修羅場じゃん」
アレンは急に真顔になった。
「むしろゴーストが再出現してた方が良い気がしてきた……」
「アレンがすけこましなのが悪い。責任とって修羅場まで連行していくからね。ちゃんと決着付けるよ」
「あれ? 俺が……あれ? なんでこうなった?」
*
「はい、着いたよ」
そして、二人はスターノールに到着した。
『これから行く』という未来があるならその時点まで早送りすればいいだけなので、マジで秒も掛からなかった。
アレンが南方へ誘拐された時と同じ要領である。
「腕組んでいかない?」
「どうして?」
「あの泥棒猫に見せつけてあげるの」
「怖いから嫌だ」
「この意気地なし」
二人はいつも通りの軽いノリで市内を歩く。全然ゴーストが現れた様子はなさそうだった。
「大丈夫そうだね。アレンの家族が無事で良かった」
「……俺、マリアのそういうところ好きだよ」
「へっ?」
「ほとんど俺のワガママに付き合ってくれて、俺の家族のことまで心配してくれるの、凄く心が広くて綺麗だからできることだと思う」
「……えへへ、ありがとね」
マリアはデレデレと照れながら、手遊びに帽子の角度を直した。
「えい」
そして思いきってアレンに組み付いた。
「ちょっ……ヤバいって」
「いや?」
「リープリに見られたら凄くまず「へえ、良い度胸してるね」
背筋が氷点下まで落ちる。一瞬、血と脳漿が全部凍ったように、頭も体も動かなくなる。
「リープリの前で他の女とイチャつくなんて……そろそろホントに拷問に掛けられたいの?」
ギギギギギと錆びついように首を回し、声の主を振り向く。視界に捉える一瞬まで、どうか別人であるようにと祈りながら。
「久しぶり、アレン」
三年ぶりに捕らえたときと同じ言葉で、リープリはアレンに語りかけた。
やはりハイライトはなく、それどころかより濃密な闇が覗いていた。
「リープリ、ごめ「場所変えよう? 公衆の面前ではいろいろ良くないでしょ?」
マリアは冷静に、リープリへ提案した。
「……別にいいよ」
リープリが頷くと、マリアは指を鳴らした。瞬間、人通りのない草原へとワープする。
「ここなら、いい「ライトニング・スピア」
マリアの言葉を遮るように、リープリが鋭く尖った雷を放つ。アレンは右に、マリアは左に避けた。
「えっ俺ごとなの?」
「その女狐と近いのが悪い。リープリの隣でリープリに加勢してくれるなら生かしてあげるよ」
「アレン、行かないでね。もうあの女ヤバいって分かってるよね?」
「ええと……」
迷うアレンを余所に、リープリが炎を放ち、マリアが水魔法で相殺する。
「大体その女、ゴーストの発生なんて偽情報まで流してるんだよ?」
「え? なにかいけないの? 家族思いのアレンのことだもん。一パーセントでも家族が傷つけられる恐れがあるなら来るに決まってるって信じてたの。だからゴースト再発生のデマで脅したんだよ?」
「うん魔王とおんなじこと言ってるよ君」
アレンはドン引きしながらリープリから距離を取った。
「魔王ってなに? よく分からないけど悪口だよね? リープリのことなんだと思ってるのかなあ?」
炎の螺旋がアレンを取り囲む。
「しまったッ!」
炎の円環は徐々に狭まり、アレンへと迫る。が、その縮小は突然停止したように見えるほどゆっくりになる。
「ナイスだ! マリア!」
アレンは風に乗って宙へ飛び、そのまま炎の檻を脱する。
マリアは満足げに、その連携を誇った。
「どう? これが南方一位二位のタッグだよ。貴女は私たちを罠に嵌めたって思ってるのかもしれないけど、それは勘違いだよ。私たちは、決着を付けるつもりで罠に嵌まってあげたの」
「……うん、確かに勘違いだよ。リープリはアレンを罠に嵌めるんじゃなくて、首輪を嵌めるつもりで来たんだもん」
「何言ってるの? アレンをハメるのは私だよ」
「なあ俺の味方一人もいなくないこれ!?」
どっちも敵に見えてきて、アレンはどちらにも加勢することなく棒立ちになった。
「リープリがいるよ。おいで、アレン」
「元カノなんか忘れて私を選んで、ダーリン」
板挟み、どころか、牛裂きの刑だった。
「俺は……」
アレンの頭はぐるぐると回り、心を器に愛と恐怖が掻き回される。
「アレン、リープリを信じて」
「ダーリン、私、信じてるよ」
「……ッ!」
それでも、アレンは答えを出した。否、本当はずっと自分の本心に気付いていた。田舎に逃げても、南方に逃避行しても、ずっと抱いていた気持ちがあった。
「俺は、リープリが好きだ。今でも愛してる。だから、俺はマリアとは付き合えない」
「うそ……」
マリアは呆然と、たった今世界が滅んだように、絶望の表情を浮かべた。
「なんで、なんでなの? そんなDV女のどこが好きなの?」
「リープリと恋人だった三年間、辛いこともあったけど、幸せだったんだ。リープリと離れてからの三年間、誰とも付き合う気になれなかった。リープリのことを忘れられなかったんだ」
「それは分かるよ。でも、私との八十年は? 前世の思い出は? 私の愛も人生も、たった三年間に負けるの?」
「ごめん。正直タイミングの問題なんだと思う。今世で君に出会うのが先だったら、きっと君を好きになっていた」
「なんなの……それ……」
マリアは口ごもり、それでもまだ逆転の糸口を探す。
だが、心の底では分かっていた。前世を共に過ごした夫婦だからこそ、彼の瞳に宿る凄絶な覚悟を、本物だと悟ってしまっていた。
「納得いってないよ。納得いってないけど」
マリアの瞳から、儚く砕けた愛がこぼれ落ちた。
彼女はまなじりと心とに熱を帯びるのを自覚する。しかし嗚咽をこらえ、せめてもの想いを訴えた。
「来世は……絶対もらうからね」
「ああ、待ってるから」
アレンは『あれそれはアリなの?』という迷いを抱えながらも、マリアのために強く頷いてみせた。
「ああもう……でもアレン、結局その泥棒猫から逃げ出してるじゃない」
「それはまあ……うん、リープリが悪い」
「アレン? おしおきされたいの?」
「ひぃッ……」
腹の古傷が痛む。心に刻まれた恐怖が疼く。
今までのアレンは、正面から堂々とぶつかることなく、心の中で不平を唱えていた。
自分の責任から目を背け、誰かが救いの手を差し伸べてくれるのを祈っていた。
リープリに恐怖した、黙っているだけの日々。
リープリに恐怖し、ただ待っているだけの日々。
だがこの時、アレンは一歩踏み出し、リープリの両肩を強く掴んだ。
「わっ」
「そういうところ! もう重いのは受け入れる! だから、ちょっとだけでもいい! 人権をください! これからの夫婦生活で、お互い変わっていこう!」
被暴力・不服服従のアレンが自分の意思で強く反撃したことに、リープリは驚いた。
けれど彼女は揺らがなかった。
「アレンの態度次第」
「どうしようマリア、雲行き怪しいって言うかもう土砂降りなんだけど」
「やっぱり私にしとく?」
「この女狐やっぱり許さ……じゃない、そっか、ちょっと待って」
リープリはちょっと考え、精いっぱいアレンの期待に答えられる反応をすることにした。
彼の袖をちょこんと引き、涙を湛えた上目使いで、アレンへと哀願する。
「だめ……リープリのこと、捨てないで?」
「うぐぅッ!?!?!?」
心臓を握り潰されるような罪悪感に、一生守ってあげたいレベルの庇護欲が掛け合わされ、アレンの心にとんでもない熱量が生まれる。
「愛してる。結婚しよう」
アレンは全力でリープリを抱きしめ、爆発する愛もそのままに求婚した。
「すごい……付き合いたての時のアレンみたい」
「本気で好きだったからな」
「だった?」
「今も好きだよ」
「うん、リープリも」
マリアが「チッ」と舌打ちではなく明らかに声に出して言いながら、二人を睨み付ける。
「後でやってよ」
「ごめん」
マリアは二人から目を背け、実際に背も向けて、最後の言葉を残した。
「じゃあね、アレン。ときどき不倫しようね」
「検討しておきません!」