全能者の揺籃 作:プロメテア
二話目です。初投稿になります
カチャカチャという音が聞こえる。
時刻は午前十一時五十二分。
あれから家に帰って来た時間を思えば少し寝すぎな気もするが、問題はカチャカチャという音の発生源である。
今この部屋にいるのは俺ともう一人。
昨日連れ帰った少女が料理をちゃんと出来るのかは定かではなく、もし絵に描いたような下手であった場合損害を被るのはこちらである。
そもそもそんなに食材もない気がするんだが、とベットから身を起こしてドアを開ける。
両親の好意で1kの部屋に住んでいるが、ここの扉をこのような状況で開けるのは初めての事だった。
「あら、おはよう。起こしてしまったかしら?」
「いや、目が覚めただけだけど……」
言い、足元のビニール袋に目がいく。
色々と買ってきた痕跡が残っているが、香ばしい香りに釣られて目線をコンロの方にやればフライパンの上に綺麗に焼き上げられたムニエルが見えた。
ゴミ箱のパックから見るに鮭だろうか。
鍋の方は蓋がしてあって分からないが、恐らくスープの類いだろうなと考えたところで、まじまじとこちらを見る目に気がついた。
蒼い双眸は、昨日とは似ても付かない不安に揺れて弱々しい。
何を気にしているのだろうか。
それを口に出して聞く前に、彼女がおずおずの口を開く。
「その、えっとね。迷惑じゃなかったかしら?」
「迷惑?」
「あなたがよく寝ていたから、起きた時には美味しいご飯が食べれるようにと思ったのだけれど、キッチンを勝手に使っているしお米だって勝手に炊いて……」
思わず呆気に取られた。
恥じ入るようにして告げる姿に言葉が出ない。
それはまるで、はしたない姿を恋人に咎められた乙女のように。沙条愛歌という少女は俯いているのだ。
「いや、ありがとう。とても嬉しい。でも、俺にもなにか手伝えることはないかな?」
ご飯を作られるだけなのは、存外心苦しい。そう告げれば、恐る恐るといった様子で顔をあげる。
「ほんとう? 迷惑じゃない?」
「これを迷惑に感じるのはやばいね」
「なら、ご飯をついでもらえるかしら? その間に私は他のものを盛り付けるから」
「了解した」
テキパキと準備をする様子から手馴れているのが伝わってくる。一人暮らしながらあまり自炊をしない自分とは大きな違いだ。
二人分のご飯を盛り付けて炊飯器を閉じ、整理されていた机に茶碗を置く。
大きめの皿には鮭のムニエルを中心にポテトや野菜が彩り良く盛り付けられており、マグカップには野菜のスープが入れられている。
どれも見事な出来だった。
どれも少し量が多い気がするが、些細なこと。全て食べて満腹になるかどうかというところだろう。
二人で向かい合うように座り、手を合わせる。
「その、あまり味に自信はないのだけれど……」
「美味い。めちゃくちゃ美味しいよ」
ほどよく塩気がきいたムニエルはご飯によく合っている。
野菜にかけられたドレッシングは恐らく彼女が作ったものなのだろう。あまり好きではない野菜も美味しいと感じられる。
見つめられながら箸が動く。
ポテトを食し、スープを飲む。ソースのかかったムニエルをご飯にのせて放り込み、味わいながら戴く。
美味しい。美味だ。
母ですらここまで上手く料理していた記憶はない。
気がつけば出された食事は全てなくなっていて、完食したこちらの姿を彼女は嬉しそうに眺めていた。
「ご馳走様でした」
「美味しかったかしら?」
「ああ、とても」
その辺で食べる食事なんかの何倍も美味しく、満たされるものだった。ありがたい限りだと思い、ようやく食事に手をつける彼女を見る。
所作の一つ一つが丁寧で洗練されている。間違いなくそこそこ裕福な家庭で育っており、頭もいいと思う。
服装とか髪の手入れのされ方とか、そういった事にも目がいくが、肝心なのはそんな要素はどうでもいいと言わんばかりの可憐さだ。
妖精だと言われても頷ける可憐な容姿。花が咲いたような笑み。宝石のように輝く瞳。嫋やかな手。
嚥下する度に動く、細く愛らしい首に絞められた跡さえなければ完璧だった。
そうだ、と思い出す。
首を絞めたのは自分だ。あの跡を付けたのは自分だ。
昨夜、忌々しい衝動に駆られて無抵抗の彼女の首を絞め、気を失ったところで正気に戻って連れて帰った。
冷静になってみれば、完全に犯罪者だった。
考えよう。俺は二十一歳である。大学三年生、このまま大学院に進学することも決まった立派な大人である。
対して、彼女はどうか。
自己申告によると年齢は十四。中学二年生らしいがしかし容姿は幼く、小学生と言われても納得のいくレベルだ。
首を絞めて持ち帰りしてなくても割と犯罪である。
更に言えば、彼女がこの姿で買い物に行って帰って来ているのは間違いないだろう。
そうだ。首に、明らかに絞められた跡を付けたままこの部屋から外に出て帰って来ているのだ。
───やばい。
平日とはいえ、一応近所のご婦人方と活動時間は被っている。最悪の場合だと近所に住んでいる知り合いに目撃されている可能性すらあった。
彼女とは連日飲みやらなんやらに行くほど仲は良くなくとも、同じゼミに属する者として面識はある。というかそれくらい浅いからこそ、見られると余計にまずいものがある。
まあまあの出来かしら、なんて呑気に食べ終えた彼女を見る。見つめる。見つめ直す。
見つめ直して、紛れもなく自分が、その白く細い首に絞め跡を残しているのだと認識する。
テキパキと片付けを始めたが、身体が動かない。
上機嫌に鼻歌を歌いながら動く姿は様になっていて、誰が見ても見惚れるに違いない。
水音と食器が触れ合う音だけがしばらく響いた。
食器を拭いて戻ってきた彼女が対面に座り、お茶の入ったコップを置く。
「……なあ」
「なに?」
「なんで俺に近づくんだ。俺は君を殺すかもしれないんだぞ」
今は何も感じない。
出会った時のような動悸も衝動もない。声も聞こえない。むしろ初めて感じるくらいには身体が軽い。
こんなことは初めてだから、これがいつまで続くのかも分からない状態で傍にいるのが恐ろしい。
次、もう一度ああなった時。今度こそ耐えきれない。
決壊した衝動が彼女を殺すだろう。
それは昨日首を絞められた本人である彼女も分かっているはずだ。
意識を失うまでじっくりと、嬲るように苦しめられたのに近づいてくる神経が分からない。
「愛歌って呼んで?」
「は?」
「まーなーか」
「いや、おい」
「まーなーかー!」
「いやだから俺の話を」
「ほら、早く早く!」
「ま、愛歌…?」
「はい、よろしい!」
よく言えましたと満開の花のように笑う。
それを可憐だと思う。
本当に、心の底から嬉しそうにする姿はただ愛らしいだけの少女そのものだ。
殺す理由なんて見当たらない。
もし彼女が世界を本当に危険に晒す大悪党だとして、こんな風に笑う女の子を殺すことは絵本の勇者にだって出来ないだろう。
そう思えるくらいには魅力的だった。
「真人」
「ん?」
「今日は何か用事はあるの?」
「いや、特にはなかったような…」
なかったような気もするが、何かあったような気もする。
ボケてきてるなぁと思いながら携帯を手に取る。
何故か電源が落ちているので起動する。
使い古しているせいか最近起動が少し遅いのが気になる。そろそろ買い替え時かもしれない。
起動してメールを開けば、合コン確定。十九時に新宿。と簡潔に記されていた。
「合コン…?」
それを、いつの間にか隣に来ていた愛歌に見られる。
右手に持ったのを左側から両手を床に着けて見に来るものだから、少女らしい肢体が密着する。
ふんわりといい匂いがした。
「合コン、行くの…?」
ハッとして視線を合わせる。
悲しそうに下がった眉尻、僅かに潤んだ瞳を見た。瞬間、決意は固まる。
「──いや、今夜は空いてる。合コンはない。そんなものはなかった」
すまない友よ。さらば、まだ見ぬレディ。
合コンと首を絞めた罪悪感の残る女の子なら、俺は迷いなく後者を取らせてもらう…!
爆速で体調不良を偽装。超速でそれらしい事をメールに打ち込んで送信した。
「よかった。それなら今日は時間を貰ってもいい?」
「ああ、いいよ」
お安い御用である。
合コンから脱した自分に不可能はない。
時間は有り余り、金銭もまだ余裕がある。
如何なるお願いが飛んでこようとも完璧に対応しきってみせる自信に漲っていた。
やったわ、と。胡座をかいた上に座る彼女が喜ぶのを見て頬が緩む。
かわいい女の子が笑うのはとてもいい。特に愛歌は妖精が現実に現れたような可憐さだ。
心が洗われるような心地だった。
ああ、でも、だからこそ。
その命を奪えと叫ぶ◼◼◼は到底認められないと思ってしまう。
きっと間違っているのは抗っている自分で、正しいのはあちらなのだろうと頭では分かっていても受け入れられない。
間違いなく、彼女は悪では無い。
少なくとも世間一般でいう犯罪者などでは無いし、物語に出てくるような悪役の特性なんて見られない。
少し不思議だが可憐なだけの少女だ。
「その、私たちこうやって出会ってしまったわけじゃない?」
「ああ」
そうだ、出会ってしまった。
出会って、殺せなかった。
首に手をやって、そのまま絞めて、自分が中途半端に抵抗して殺せなかった。
「だからお父さんに挨拶に行こうと思うの」
「ん?」
「昨日は何も言わずに帰らなかったからあれだけど、きっと大丈夫だわ。でも綾香が心配ね。不安で泣いたりしてないかしら」
分からなくなってきた。
そこはこう、俺のこれを解決するために何かしようとかそういう話ではないのだろうか。
なにやらお義父さんに挨拶する流れになっている。
まだ付き合うとか婚約とか以前に告白もしていないしそもそも恋愛対象として認識出来ていないのだが。
「大丈夫? 辛くない? 昨日で逃げれたとは思うのだけれど……」
「何も感じてないよ。ちょっとドキドキするくらいだ」
…まあいいか。なるようになる気がしてきた。
目を輝かせながら話をするのを遮る気にはならない。全身から嬉しそうな空気が出ている。
否定されてしまったらどうしよう、なんて。そんな割と当たり前に立ちはだかる問題に悩む姿を見ていると、少しだけ救われたような気分になった。
相手は十四歳の少女だ。
まだ未来は長く、出会いは多い。これから高校にも通うだろうし、大学にだって通うかもしれない。
たぶん親御さんにぶっ殺されそうなのが今日一番の課題かなぁ、なんて考える。
もう声のことなど忘れてしまおう。
だからもし、万が一あれに耐えきれなくなったそのときは。手が伸びる前に舌を噛み切って死ぬ。
きっと俺はそうするべきだ。
楽しそうに今日の計画を話し始めた愛歌を見ながらそう思った。
最難関ポイント、首に着いた手の跡