聖杯の目の前に辿り着いた瞬間、伸びてきた触腕が少女の胸を貫いた。
「……愛歌?」
胸に赤い花を咲かせた少女を前に、それ以上の言葉は出なかった。分かったのは湧き上がってくる膨大な魔力と怒りで視界が真っ白になったこと。全身を駆け巡る熱のままに崩れ落ちる少女の身体を抱き留め、そのまま権能を以て獣を封じた。人類史を覆すほどの怪物を片手間で封じたことを偉業であると思考が過ぎる中、腕の中で言葉もなく微笑みながら手を伸ばす少女を見る。
「なん、で……」
薄く笑う彼女の心境を理解することは出来ない。その機会は永遠に失われた。名前を呼ぶことしか出来ないままに、腕の中の彼女は瞼を閉じた。それ以上の動作はない。それ以上の鼓動はない。残されたのは温もりと重みだけ。ただの物言わぬ屍に過ぎない。
──最悪な話だ。
腕の中に収まったまま、微動だにしない少女の亡骸を抱えて絶望する。坂上真人、愚かな道化。救世主になってしまったもの。選ばれて、資格があって、抗おうとして、ただそれだけだった。
忌々しい獣によって、全能を封じたままの少女は殺された。当然の話だった。当たり前の話だった。救世主が討つべき獣の前に全能を封じた少女が立ったとしても餌にしかならない。そして、それが鍵になって権能を振るうことで完成する。定められた未来に辿り着く。これは誰かが描いた道であり、過去に過ぎ去った行いの反復に過ぎない。
だから、なんの疑いもなく、なんの誤りもなく、
己の罪深さを呪う。己の愚かさを呪う。己の命を呪う。獣の宿命を呪う。世界の在り方を呪う。
一つの命を糧に世界を救うことを、坂上真人は認められない。それが自らの選択の結末としてそうなったならば兎も角、邪悪であることを宿命とされていることなど認められない。自分が救世主として成立するために彼女が必要ならば、どうしてその逆ではいけなかったのだろう。
自分が獣となればよかったのに。あんな、片手間で封じれてしまうような存在ならば、さほど労することもなく成れただろうに。沙条愛歌に討たれるべき悪として、世界がそう定めてしまえばよかったのに。
現実はそうならなかった。沙条愛歌は討たれる宿命を背負わされ、坂上真人は救世主の業を背負わされた。
その結末が
捻れに捻れた因果の果て。権能による隔離世界。全能者の揺籃、救世主の繭。獣を討つための時間軸は特異点と化し、人理は揺らいだ。過去と未来は捻れ、未来の天文台から観測されるほどに歪な揺籃は、ここに臨界を迎えようとしている。
「……これで最後だ」
揺籃の時は終わった。幾度となく繰り返したのであろう世界は、もはや耐えきれないほどに疲弊している。本来であれば相討ちが関の山だった獣を、こうしている今も片手間で押さえ付けられているのが証明である。
そうして、予定通りに辿り着いたセイバーは排除した。アーラシュによって削られ、カルナによって魔力を吐き出さされた男の頭蓋を踏み砕き、その霊基を霧散させた。今や彼の意識はカルデアに還った頃だろう。どれほど記憶を保持しているかは定かではないが、確かな縁は結ばれたはずである。
故に、残る縁は一つだけ。
「見ているか、藤丸立香」
既に強制送還した花の魔術師のことは気にしない。虚空に向けて投げる言葉に返答はない。確証はないが確信はある。元々ここは、彼からすれば泡沫の夢のような世界だ。肉体ではなく精神のみでの介入でよくここまでとは思うものの、お節介な花の魔術師がいたことを考えると案外普通なのかもしれない。
「ここに、真っ当な聖杯は存在しない。この世界は俺の権能と愛歌の全能によって作られていたものだ」
蓋を開けてみれば、それだけの話だ。ただ、繰り返していただけ。俺も愛歌も毎回記憶を忘れ、定められた道筋を順調に辿って破綻していただけである。絶望と権能を中核に、繰り返される揺籃の中で逢瀬を繰り返す。どちらが始まりの引き金を引いたのかは分からない。一番大切な、始まりの瞬間を忘却している。
それでも、成すべきことは決まっていた。
「だが、それも終わる。権能のほぼ全てを引き出せるようになった今、俺はこの揺籃から羽化してしまえばいい。救世主に至るものではなく、至った者として羽ばたこう」
坂上真人は器だ。救世主として完成するための器。終末を越え、新たなる世界へ至るための十番目。そして、
「羽化を見届け、カルデアへと戻るがいい。未来より訪れたマスター、人類最後の希望よ。お前がどれほどの記憶を保てるかは知らないが、いつか会うその時がお前の終わりだ」
獣を飲み込んだ青い光の柱は、気がつけば小さな箱となって手元に収まっていた。超高密度の魔力であり、相反する属性の混沌である。ただ解き放つだけで、この小さな特異点など跡形もなく消えてしまうだろう。それは困るし、それ以上に利用価値がある。
だからそれを、見せつけるようにして口に入れた。
一口で丸呑みにして、噛み砕いて嚥下する。
意識だけで揺蕩う男の動揺を感じ取りながら、自分の内側に破裂しそうなほどの何かが溢れるのを感じる。それは獣の霊基であり、救世主としての霊基だ。元々存在していた救世主の霊基が活性と肥大を行うのと同時に、獣の霊基がそれと反発して荒れ狂う。
「──ゥ、オ」
腹の内側から何かが飛び出して来そうなほどの圧迫感を感じる。全身がバラバラにされたような痛みを感じる。全身の感覚が失われては戻る。視界が明滅する。聴覚が聞こえないはずの声を拾う。口の中が腐った血で満ちる。自我を塗り潰そうとする二つの奔流を感じる。
明るい、暗い、眩しい、見えない、寒い暑い熱い冷たい熱い痛い苦しい辛い痛い気持ち悪い気味が悪い息ができない目が見えない耳が聞こえない寒い寒い暑い熱い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い寒い、
だから、腕の中の重みを忘れない。
今回もまた、救えなかった命のことを忘れない。何度も失い、繰り返した絶望を焚べて燃やす。腹の中で暴れる獣を殺す。権能にこびり付いた救世の意志を殺す。全てを平らげ、飲み干し、獲得する。
全能の化身、根源の姫を救う者として肉体は内側から変成する。救世主の器に飲み干した獣すら流し込む。かつてないほどの破壊衝動を押し潰しながら、今も動かない少女に口付ける。冷えきった身体を感じながら、心を燃やして完成する。
「──名乗ろう、我が名はカルキ。ヴィシュヌ神の十番目の
そのまま、青の光を以て特異点と化した世界の幕を引いた。暗闇に包まれていた世界が壊れる。岩盤に覆われていたはずの世界は真っ青な空に塗り代わり、存在しない足場に立ったままに呆然とこちらを見る男を見据える。
平凡な男だ。特別強い魔術を使えるわけでも、特別な出生がある訳でもない。触れれば壊れる、ちっぽけな人間に過ぎない。だからこそ、残念でならない。
「カルデアのマスター、彼方の希望よ。ここでお前を殺せないことだけが残念だ」
本当に、心の底から残念でならない。最も警戒すべき者、刈り取るべき希望の光。異なる未来において世界を救うに足る存在。排除すべき障害であり、殺害すべき対象である。だが、殺せない。ここで殺しては意味が無い。必要なことであるとはいえ、それが酷く辛い。
「お前の言葉は届かない、お前の言葉に興味はない、お前の言葉に意味はない。
俺はここにカルキとして完成し、坂上真人として彼女の未来を保証する」
その行為がどれほどの悪であろうとも。その果てに、自分がどのような末路を迎えることになるのだとしても。この先が、どれほどの絶望に満ちていたとしても。何が待ち受けていようと関係ない。
何度でも繰り返そう。何度でも挑み続けよう。何度でも恋をしよう。何度でも彼女を愛そう。何度でも成し遂げて見せよう。何度でも世界を覆そう。
宙ぶらりんになった世界に錨を刺す。何度も繰り返したように世界を型どり、藤丸立香の意識が戻るのを通じて手を伸ばす。手を伸ばし、掴み、固定してしまえばあとは簡単だ。人理に割り込み、丁度起きている異常な現象を真似て構築してしまえばいい。濾過異聞史現象。二つのそれを認識し、世界に刻まれていた過去を掘り返して七つ分の情報を掻き集める。
時間の概念すら存在しない世界で、亡骸を抱えたまま世界を始めるための作業を行う。時間を定義し空間を固定し生命を設定する。過去より現在に至るまでの過程を組み上げて設定し、演算する。
「……きっとこれが最後だ、愛歌」
再構築されていく世界の中で、どう足掻いても最後だと感じた。きっと何をどうしてもやり直せない。何の気なしに行った作業は思いの外に消耗を齎している。身の内にある全能感が薄れていく。苦痛と共に飲み干した権能は、世界を構築するための柱となる。獣はそのまま燃料に、輪廻の権能を以て異聞ですらない世界を始めよう。
君を未来に届けるために。
斯くして、人理崩壊域は成った。
AD.1991 【極東終末領域 シャンバラ】
汝、人理を犯す悪を討て