チョットマイタ
──ある日、◼は選んだ
それは、産まれた時代が正しかった。
それは、育った地域が適していた。
それは、都合の良い肉体だった。
それは、◼に逆らう未来が無かった。
選ばれ、動き、役目を果たす。
そういう舞台装置として期待され、それは正しく役目を果たした。果たしたはずだ。
ならば、ならばどうして、どうして、◼はまだ、今もまだ、
アレを見ているのか
◆
「──参ったな」
困ったことになってしまった。心底そう思って、思わず口から漏れてしまう。
庭園は静まり返り、月明かりが目の前に敷かれた魔術陣を照らしている。
ここに愛歌はいない。儀式に必要だという血を取りに、一旦屋敷の方に戻っている。
だが彼女が戻ってくれば英霊とやらを召喚し、聖杯戦争なるものへ参戦すると思うとおもわず身震いしてしまう。
──聖杯戦争。
七人七騎による殺し合い。聖杯を手に入れるための大儀式。過去に活躍し、歴史に名を刻まれた英傑を召喚し、使役して争う呪われた聖戦。
訳の分からない事態だと言えばそこまでだが、確実にいままで人生に絡んできた喧しい声を解決するにはいい機会だった。
だからこそ、愛歌に令呪を渡すという選択はなかった。
彼女は確かに自分よりも優れているかもしれない。
彼女は確かに自分よりも知識があるのかもしれない。
彼女は確かに、自分を慮ってくれている。
それに甘えてはいけないと思ったのだ。理屈ではなく直感で。もっと抽象的で文学的、非科学的な言葉で言うならば魂が。
今も、戦えと叫んでいる。
声は聞こえない。脳を割るような痛みも、心臓が破裂しそうな焦燥もない。導かれているような不快感もなかった。
きっと、これが自由というのだろう。
気づいた時には語りかけてきた声のない世界は思いの外、恐らく一時的なのだろうけれど、あっさりと手に入っている。
聖杯が真に万能の願望器であるというのならば、あの声を黙らせることも出来るはずだ。
だから勝とう、勝って
沙条愛歌を殺せと叫ぶあれをどうにかしない限り、いつか次の自分が産まれてくるという妙な確信がある。
人はきっと、あれを◼と呼ぶ。
あの時、瀬戸際で抗えた理由は分からない。分からないけれど、あの殺意は沙条愛歌だけに向けられていた。
必ず、何があろうとも。殺せるならば殺さなくてはならないと、強い強迫観念のようなものを感じた。
あれはきっと
「どうなんだろうな」
理由があるはずだ。明確に殺意を抱き、排斥せんとする理由がどこかにあるはずだ。
けれど見た目より大人びているだけで、中身は普通の少女のように思える。実年齢的にはむしろ見た目が追いついていないのか?
身体的なあれこれを詮索するのはやめておこう。宜しくないことだ。
思考を戻す。
果たして、沙条愛歌を殺さなくてはならない理由はなんだろうか。
特別強力な力があるわけではなさそうだ。マジックとかその辺の比では無いくらい魔術は扱えるし、その才覚も極めて優れていると言っていた。実際、虚空から鏡を出してきたのはかなり驚いたが、あれは置換魔術というものらしい。よく分からん。
問題はそれが彼女を殺さなくてはならない理由になるかどうかだ。
ならないだろう、普通。
置換魔術なるものが使えて、他にも色々な系統の魔術が使える。なるほど凄そうだ。
だが、それがなんだ?
世界を救えと叫ばれるほどに危険なのかと問われれば、それは断じて否と言える。
むしろ核弾頭を撃てるどこかの国の大統領とかの方が危険度としては遥かに高い。
ならば何故だ。何が、悪い。
産まれてきたのが過ちか? 生きているのが罪深いか? ◼◼◼は何を考えている?
ああ、まったく以て、───
「……なんだ?」
明らかに愛歌のものではない靴の音に思考を打ち切る。規則正しい足音はこちらが振り向くよりも先に、庭園の中心であるここに辿り着いていた。
「君は──」
澄んだ男の声に振り返る。その声は困惑しているように聞こえた。
振り向いた先に映るのは青いフードで顔を隠した男だった。背は高く、体格は良い。
悪寒がする。背筋の震えが止まらない。寒さではなく、肉体が目の前の男に対する恐怖で震えている。
自然体であるはずの彼がこの世の何よりも恐ろしい。今すぐにでも逃げ出したい。
動悸がする。心臓が騒ぎ立てながら血液を送る。呼吸が浅く繰り返される。口の中が渇き、視界が狭くなる。
自分の身体に起きている恐怖から来る異常を全て認識しながら、それでも二本の足で立って彼の視線を受け止める。
「君に向ける敵意を私は持ち合わせていない」
「……信じられるか」
言葉の一つ一つに心が篭っている。誠心を持って接し、相手に対して敬意を絶やさない姿がある。
だからこそ怖かった。
きっとこの男は相手を敬愛し、讃え、心の底から認めた上で殺すのだ。何ともまあ、騎士らしい。
「サーヴァントがマスターを前にして敵意を抱かない理由はないはずだ」
「……君はまだサーヴァントを呼んでいない。私に無力な人を斬る趣向はないよ」
「ならばなぜ来たのか答えて欲しい。ここに、沙条の家でもこの庭園まで来た理由はなんだ」
「…………」
答えはなかった。ならばそれが返答だ。
この男は、この得体の知れないサーヴァントは何か明確な目的を持ってここに現れた。
間違いなく、俺の命を狙って現れた訳では無い。殺すつもりなら初手で殺している。その気になればいつでも、その右手に握る聖剣で俺の首を過たず刎ねるだろう。
見事な剣だ。素晴らしい美しさと悍ましさだ。気味が悪いとさえ感じる。
セイバーのサーヴァント、愛歌によれば最優の英霊。アーチャー、ランサーと纏めて三騎士と呼ばれる強力な召喚枠にあって、最優を謳われる存在か。
ならばそれが態々ここに現れた理由がわからない。
アサシンならばまだ分かる。
バーサーカーでもまだ分かる。
なぜセイバーが単騎で、マスターも連れずにこんなところに足を運んだ。
「──立ち去れ、セイバーのサーヴァント。無関係の幼子を巻き込むのがお前の望みか」
「無関係の幼子、か……」
宝石のような青い瞳を伏せて思案する素振りが見える。フードを被っていても整っていると思わせる空気を纏う男はそんな素振りすらどこか洗練されていて、同時に奇妙な確信を抱かせた。
愛歌か綾香か。或いは沙条の血縁か。魔術師としてあるこの家を、彼は目的としてここに来たのだ。
──深く息を吸う。
思考を冷やして加速させる。震えを気合いで抑え込む。心臓の音がやかましい。
戦おうなどと考えてはダメだ。殴りかかっても一瞬で殺される。どう足掻いても勝ち目がない。
「──
「ああ、そうか」
──コイツはダメだ。生きていてはいけない。なんとかして排除しろと叫ぶ心を理性で抑える。
知らず、拳を握り込む。
ああ、最悪だ。どうしようも無い。これでは詰みだ。救いようがない。
サーヴァントなんてものはいない。特別な武器もない。立ち向かえば死ぬ。情け容赦なくあれは斬ってくる。
けれど、もしかしたら。もしかすれば、勘違いなのかもしれない。
感じたことは勘違いで、交わした言葉は空虚な虚言であったという可能性はある。だから戻ってこないでくれと願うけれど、足音はもう聞こえてくる。
少し浮かれたような軽い足音。コンコンとなるそれは入り口からこちらに向かって真っ直ぐに向かって来ている。
歯を食いしばる。心の火を燃やす。拳を痛みを感じるほどに握り込む。
戻ってきた愛歌がセイバーと向き合うこちらの姿を視界に入れ、
「真人、その人は……?」
青い騎士を見て硬直する。
フードを被る装いからは隠しきれない迫力がある。それに圧されたのか手に握っていたフラスコが地面に落ちた。
騎士が振り返る。その表情も何もかもわからないけれど、それが致命的なことだった。
愛歌を正面に捉えたかれの気配が揺れ、次の瞬間には肌を突き刺すような硬さに変わる。剣を握る手が僅かに揺れる。
愛歌の怯えた顔が視界に映る。
身体が動いた。
「──恨んでくれても構わない」
「ふざけんなクソがァ!!!」
迷わず踏み込む。
「なっ───」
振り向きながら振り抜かれる剣を深く、獣のように踏み込んだことで結果的に回避する。
殴れるか、いや殴る。必ず殺す。ここで殺す。命を懸けることに躊躇いなどない。
這うような体勢から、拳を振り抜く動作とともに浮上する。このままいけば顎を打ち抜く。脳が揺れたところにマウントをとってそのまま殴り殺す!
「───ガ、ァ」
視点が宙を向いている。肉体の感覚が薄い。足が地面に触れていない。呼吸が出来ない。
これは、あれか。殴り飛ばされたのか。肉薄して剣の下に潜り込んで殴る動作を行う前に左の拳で殴られたのか。
何が起きたのかを頭が凄まじい速さで理解してくれる。状況を気持ち悪いほど正確に認識できる。
「────」
受身も取れずに地面に転がる。口から血が溢れる。腹の感覚がない。たぶん、内臓がイカれた。漫画や小説でしか有り得ないと思っていたが、まさか体験することになるとは思わなかった。
麻痺しているのか痛みはない。ただ起き上がろうと腕を立て、えずくようにして血を吐いている。
「真人っ…!」
こちらを見ながら立つ騎士の横を走り抜けて愛歌が駆け寄ってくる。
やめろ、逃げろ。狙われてるのは俺じゃなくて君だ、なんて言えなくて。無様に血を吐きながら騎士を睨むことしか出来ない。
血溜まりの中に躊躇いなく膝をついて縋る少女が泣いているのが分かる。
こちらを見る騎士の瞳から迷いが消え、決意が宿るのが見える。
──ここで終わる。終わってしまう。
坂上真人の◼◼◼に絡まれ続けた人生が終わる。ようやく変われそうだったのに終わってしまう。
昨日の夜に沙条愛歌に出会って強烈に干渉され、それを越えて導いてくれる被害者の女の子を泣かせて。その子を助けることも出来ずに。
無様だった。無力だった。悔しかった。悲しかった。苦しかった。
──
黄金の剣が振り上げられる。
──
振り下ろされればそれで終わりだ。
──
背中が熱い。心が熱い。身体が燃え上がる。
時間が止まったようだった。身体が動く、血を吐くだけの役立たずが機能する。
背中の令呪が燃えるように熱い。焼印を押されるような痛みを感じる。
腕で無理矢理持ち上げた身体に力を入れて、脳裏に浮かぶ言葉をありったけの力を込めて叫ぼう。
手を貸してくれるなら応えてくれ。俺はこんなところで終わるわけにはいかないんだ…!
だから──
「──来い、ランサァァアアアア!!」
──炎が、溢れ出た。