その日。キルシュは以前から考えていた逃亡計画を実行した。逃走経路を何度も何度も確認して、自身が持っているコネを有効活用して、海外へ逃亡するつもりだった。
ずっと、不満だったのだ。キルシュはより多くの人間に絶望を与えたくて研究者になった。自分が作った化学兵器で、世界中を恐怖のドン底に落としてやりたかった。だからこそ、後ろ盾が必要だった。それも、金があるデカイ組織の後ろ盾が。
ようやく見つけた後ろ盾は、確かに金があった。……最初のうちは。
最近になってどうも、この組織は金払いが悪くなってきた。それに、いつまで経ってもキルシュが一番やりたかった、テロを引き起こせるぐらいの化学兵器の開発ができない。いつもいつも、別の研究しかやらせてくれない。
どうやら、組織の研究部はキルシュが仕方なくやっているこの研究に力を入れているらしい。……キルシュにとってはどうでもいい研究だったが。そんなにいい物なのだろうか。
キルシュはそんな物よりも、海外に渡って別の組織の後ろ盾を得て、人々を絶望させる化学兵器の開発に勤しむ事を決めた。そして、逃亡計画を実行した。
組織を抜けるために行動を起こし、あとは海外に逃げるだけだという段階まで来た現在。キルシュは必死で逃げていた。
逃走経路中の港近くまで車で来た時、突然背後からサイレンが聞こえてきて、気がつけばキルシュは囲まれそうになっていた。慌てて港内へと逃げたものの、袋小路まで来てしまった。咄嗟に車から飛び出して、目についた小道に逃げ込んだ。
(何故だ……何故私の計画がバレた!?それも警察に!一体、何故……!!)
自身の天才的頭脳で考えても、答えは出なかった。
(逃げなければ……!――しかし、どこへ?)
そう思ったその時、キルシュの真上から影が差し、ただでさえ真夜中で暗いというのに、キルシュの周りはさらに暗くなった。思わず振り向き、真っ先に目に入ったのは……
――黒いフード付きのジャケットに、黒いカーゴパンツという、全身が真っ黒の何者かが、自分目掛けて真上から飛び降りて来る様子だった。
悲鳴を上げる間もなく、キルシュはその何者かに組み敷かれた。
「――捕まえた」
妙に色気のある低い声でそう呟いた何者かは、ジャケットで口元まで隠していた。その分目立っていたのが瞳だ。
爛々と輝く緑の瞳が、
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
……やがて、秀一が拘束したキルシュを担いで連れて来て、俺の目の前に落とした。
もう1度言おう。落としたんだ。ドサッと。……いくら組織の人間であっても一応は人間なんだから、もう少し丁寧に扱えよ……
俺は呆れながらも秀一を見たが、秀一は逆に目を輝かせて俺を見ている。
「……和哉さん。命令された"取って来い"は完遂させましたよ」
「あぁ。……うん?」
"取って来い"って、何の事だ?
「だから、褒めて下さい」
「あ、あぁ……よく、やったな?」
「はい!」
秀一は、ニコニコと満面の笑みでご機嫌な様子だ。……そんなに褒められたかったのか?
「…………これは、あれね。飼い主が飼い犬に物を"取って来い"って命令して、飼い犬が持って来た物を飼い主の目の前に落として、褒めてって催促している図ね!」
「そのままですね……」
「そのまま言うしかない程、再現されているのよ……」
おい、聞こえてるぞそこの2人。俺は飼い主じゃない。……いや、そんな事よりも。
「ボスと風見に連絡を入れよう。作戦は成功した、と。それからすぐに撤収だ。組織の追っ手が来る前にな」
「「「了解!」」」
秀一、ジョディ、キャメルに続いて部下達も返事をした後、それぞれ作業を始めた。さて、俺も撤収準備だな。
そう思い、とりあえず拘束されたキルシュ――何故か白目を剥いて気絶している――を連れて行こうとしたその時……
――赤色の光が、急にキルシュの心臓部分に現れた。
(……レーザーサイト!?)
それに思い至った瞬間、俺の体は勝手に動き、キルシュの体を突き飛ばした。
「うぐっ!!」
案の定、銃声と共に俺の背中に銃弾が当たった。その衝撃で地面に倒れ込む。防弾チョッキのおかげで肉体にまで貫通はしていないものの、痛いものは痛い……!
いくつもの怒声が聞こえる中、FBIの古参の数人が俺の安否を確かめに来る。痛みはあるが、肉体には貫通していないから問題ないと伝えたら、安心した様子を見せた。そいつらの手を借りて体を起こすと、周辺の状況が見えてきた。
まず、仲間達に取り押さえられている、見知らぬ男達が数人。……おそらく、こいつらがいつの間にか紛れ込んでいた組織の追っ手で、この中の誰かがキルシュを撃とうとしたのだろう。
次に、そこから少し離れたところでFBIの古参の1人に羽交い締めにされ、さらに周りを取り囲まれている秀一。こちらの方が追っ手の男達の方よりも動員されている人数が多い。……いや、何で?
『離せ!離しやがれ!そいつらぶん殴ってやる!!』
『おい!暴れるなっ!!』
『シュウ、落ち着いて!』
『落ち着いて下さい!赤井さん!!』
『っやべぇ、力、強過ぎだこいつ!おい、もう1人手を貸せ!!』
『分かった!』
『落ち着けよ、シュウ!カズヤは無事だって!』
『んな事は分かってんだよ!それでも、それでも一発殴ってやらなきゃ気がすまねぇ!!当たり所が悪かったらあの人が死んでたかもしれない!この――――――がっ!!』
『おい!お綺麗な顔でなんて言葉を吐きやがる!?』
……秀一の口から今、普通は言っちゃいけないスラング英語が吐かれた。そういえば、普段から秀一と2人きりの時は日本語で話してるから、そう言う言葉もなかなか聞けない。レアだな。しかし、教育には悪いだろう。英語もしっかり理解できる江戸川がここにいなくて良かった。
……なんて、現実逃避している暇はないらしい。そろそろうちの連中が秀一を押さえられなくなっている!
そう思った俺は、咄嗟にこう言った。
「――秀一、
すると、秀一はピタッと動きを止めて、大人しくなった。そして、顔をこちらに向ける。
何故だか分からんが、チャンスだ!
「
呼ぶと素直に寄って来た。よしよし。
「
あまりにも素直だったから、つい頭を撫でてしまった。成人男性にこれはまずかったか?
……と、思いきや。秀一はむしろ頭を押し付けて来て、さらには俺の肩に頭を乗せて、動かなくなった。いつの間にか、俺の腰に腕まで回している。……動けない。というかまだ背中が痛いから元々うまく動けない。八方塞がりだ。
「……あー悪い、お前ら。撤収作業は任せたわ。これじゃあ動けないから」
「いいえ!お任せ下さい!!」
「むしろシュウを任せるわ!」
「そのまま狂犬の手綱を握っとけ、飼い主!!」
「頼んだぜ飼い主!」
周りにいた連中は次々にそう言って、撤収作業を始めた。いや、だから俺は飼い主じゃ……って、待てよ?
さっき、俺は咄嗟に英語で秀一を呼び寄せたが……
…………。
「……俺、いつの間にか秀一の飼い主になってる……!?」
「え、今さら!?」
偶然通りかかった古参の1人に、そう突っ込まれた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
―――
――――――
―――――――――
とあるビルの屋上に、1人の男がいた。
男はライフルを手にしており、そのスコープ越しに普段は人気のない港で起こった出来事の一部始終を眺めていたのだ。
「……キルシュの殺害は失敗か。……まぁいい」
ふと、男はもう1度スコープの中を覗いた。その先には黒フードを被った人間が、誰かに頭を押し付けている様子が見えている。
男は読唇術が使えた。だからこそ、港にいる人間達が黒フードの人間を何と読んだのかが見えていたのだ。
「――赤井、秀一…………くくっ……生きてやがったのか……」
ニヤリと嗤った男は、スコープの標準を移動させる。
「……1度俺の手で、お前の大事な物を壊したが……今度はお前の目の前で……それも、より絶望的な場面で、もう1つ大切な物を壊してやったら……お前はどんな顔をするんだろうなぁ……赤井秀一」
スコープを移動させた先にいたのは、黒フードの人間が頭を押し付けていた、女顔の男だった。
男は、この女顔の男の名前も読んでいた。
「――荒垣和哉、か」
スコープ越しに覗いていた男――ジンは、そう呟いて凄絶な笑みを浮かべた。
・遂に自覚した師匠兼飼い主
どっちが優秀かだって?どっちも優秀に決まってんだろ、俺よりも(真顔)。自分がどれだけ殺し文句を言ったのかを自覚していない。重度の鈍感(自分に対する好意限定の)であり、人たらし(無意識)。
キルシュを庇って撃たれるが、防弾チョッキに助けられた。大事な情報源は守らないとな。
しかし、それがきっかけで赤井が暴走するとは予測できなかった。まさか、あいつの口から放送禁止用語が飛び出すとは……(遠い目)
咄嗟に止めるために出てしまった言葉から、ようやく自覚に至った。俺が自分から飼い主になってどうすんだよ……Orz
今後、意識してそう見えないように行動するが、既に無意識に取る行動がそう見えてしまうため、手遅れ。赤井が積極的に犬のような振舞いを見せる事も、それに拍車をかけている。
・激怒した弟子兼忠犬
俺の師匠が尊い(赤面)。一生ついて行きます……!オリ主が人たらしである事をよく知っているため、誰彼構わず無意識に口説かないように、できる限り目を光らせている。FBI内でもオリ主はよく引き抜かれそうになるため、その度に全力で阻止していた。
無論、公安にも渡さないからな!
オリ主が撃たれてぶちギレた。絶対に許さねぇ!この(ピーーー)!!これでオリ主が死んでたらコンマ1秒で銃の引き金を引いている。無事だったから殴るだけで済ませようとしていた。……それでも半殺し、いや4分の3殺しだが。
しかし、オリ主の命令に従った。ご主人様の命令は絶対!実は、この時点ではまだ正気に戻っていなかった。オリ主に従ったのはほぼ条件反射。オリ主に頭を撫でられて、その肩に頭を押しつけてから徐々に正気に戻っていった。
さすがに頭に血が上り過ぎたな……反省しよう。