時は遡り一年前――土で固められた地面に楕円のように塀や観客席が周りを囲んで天井がない建物で、金属や肉が激しくぶつかり合う音が鳴り響き、時には赤い液体が飛び散る。
その様子に観客たちは興奮し、さらに肉を潰すように要求する。そして、要求通り肉は潰され、地面が赤く染まっていく。
金属と血の臭いが入り混じる闘技場に、場違いなほどに気弱そうな少女――リンゼは会場を見つめる。――この試合が終わったら、次は姉の出番だ。不安でもう既に目尻には涙が溜まり、服の裾を強く握りしめていた。
試合終了の鐘が鳴り、倒れて動かなくなった者を屈強そうな男が引きずって退場させ、小柄で細身の男性たちで血の処理を軽く済ませる。
準備が終わったら、次の試合をする選手が入場する。リンゼは目を凝らして、入場する選手を見つめた。
視線の先には自分とよく似た容姿――双子の姉であるエルゼを認める。彼女は自信満々なのか、堂々とした姿で闘技場の中央へ歩み寄っていく。
両親が急逝した為、自分達で稼がなければならくなり、こうしてエルゼが闘技場で賞金を稼いでいる。しかし、常に彼女の身を危険に晒しているこの稼ぎ方は、かなり反対していた。
それでもエルゼは「頭悪いけど、拳には自信あるから!」と言って、自分にしかできないことだと信じてやまない。迷いなく突き進む姉の姿は憧れでもあるが、今は心配しかないのだ。
リンゼは胸の前に両手を組んでは、目をきつく閉じて祈る。――どうか今日も無事で終わりますように。
試合開始の合図が告げられた。
リンゼの祈りを知ってか知らずかエルゼは、開始と同時に地面を強く蹴り飛び出す。
相手はエルゼよりもはるか高く、服の上からでも分かるほど鍛え上げられた肉体を持つ青年。
だが、エルゼには関係ない。相手がどんなに体格が優れている人間だとしても今まで倒してきた。スピードと拳の威力は誰にも負けない――そんな自信が彼女を支えている。
いつも通り、突進からの拳を突き出す。青年の鳩尾を目指した突きは、真っ直ぐで鋭利。確実に相手の急所を貫くような威力だ。これは勝った――そんな確信すらエルゼにあった。
けれど、彼女の確信や自信は脆く崩れ去る。いとも簡単に避けられたからだ。
彼女の突きのスピードは決して遅いわけではない。むしろ、同い年以上の男性よりも速く、今まで躱せる者がいなかった。
それ以上に青年の反応速度が勝ったのだ。これにはエルゼだけではなく、観客の多くがどよめく。「おいおい、あのお嬢ちゃんのパンチを躱しやがってぜ?」だが、一部の者は「惟真なんだから、あれぐらい当たり前だろ」と一蹴する。
当のエルゼは、驚きつつも既に突き出した右拳を素早く引き、その溜めを使って左のストレートを青年に叩きつけようとする。だが、これも回避されてしまった。
またもや躱されたことに、エルゼは鼻白む。今まで当てて効かないという相手はいたものの、当てられない相手はいなかった。自慢の拳は当たらなければ意味がない。
焦りが彼女の動きを阻害する。力みから先程よりも大振りになり、速さを損なう。当然、当たるわけはなくあっさり避けられて、余計に頭に血が昇る。
冷静さを失ったエルゼは闇雲に乱打するだけで、青年の体に一回も当てられない。しかし、不思議なことに隙だらけのエルゼに青年は一切手を出さなかった。
――舐められている。これもまた彼女の冷静さを喪失させる一端となり、さらなる力みを生む。
力みは速さの最大の障害だ。最初の洗礼した突きを繰り出していた少女の姿はなく、今は力まかせに振り回しているだけ。それは次第にエルゼの体力を消耗させていく。
果ては拳を振るうのが精一杯となる程に息が上がり、筋肉が疲労していた。それでも眼光は鋭く、目の前の青年を睨めつける。
青年はエルゼに睨まれても黒緑の瞳で冷静に彼女を見つめ返す。肩は上下しておらず、額には一切汗を流していない。とても余裕そうだ。
そんな青年の態度が気に入らないと同時に、エルゼの胸の内から悔しさが込み上げてくる。今までどんな屈強な男性をもろともしなかった自分の実力、積み上げてきた自信がいとも簡単に崩れ去ると思っていなかったからだ。
今度こそ絶対に当てる――そんな決意と共に最後の力振り絞って、エルゼは右の拳を振るう。大振りで鈍重な拳、ようやく肉の感触がしたが次の瞬間にはエルゼの視線が低くなっていた。
一体何が起きたか分からないエルゼ。体を動かそうとしても動かない。
右腕が固められていると自覚した頃に、青年の声が耳朶を打つ。「降参しろ」冷たく淡々とした要求。飲み込めるはずがなく、「嫌に決まっているでしょ!」声を荒げた。
「そうか、なら腕一本は覚悟してもらおうか」
拒否された青年は、特に感情を込めずエルゼの右肘を本来曲がらない方向へと力を加える。骨や靭帯が危険信号を発し、エルゼに痛みとして知らせる。
最初は堪えれられた。けど、少しづつ増す痛みと腕が折られる恐怖に屈し、やがて戦意を失った。
「……こ、降参」
微かなに紡がれた言葉を聞き取れたのか、青年は折ろうとした力を緩めていく。そして、審判と目を合わせて「彼女は降参した。もう戦えない」と告げた。
彼の言葉に審判を務めている男性は右手を掲げ、鐘を叩く係に鳴らせる合図を送る。戦いの終結の音は、迷いなく鳴らされた。
場内は歓喜と驚嘆、罵倒が入り混じり騒然と化す。喧噪の中、リンゼ一人だけが安堵のため息を吐いた。
たった一人の姉がほぼ無事でいられたことに。負けてもそれが大事だから。
それからエルゼとリンゼはエントランスで合流した。
「ごめん、リンゼ……負けちゃった」
申し訳なそうに笑みを浮かべるエルゼ。「ううん、お姉ちゃんが無事で良かった」彼女の胸へと飛び込みリンゼは顔を埋める。微かに体が震えていた。
「心配かけちゃったわね。でも、平気よ。右腕は何ともないから」
左手で妹の頭を優しく撫でてながら、固められ、極められた右腕を何事もなかったかのように回す。
先程、青年に向けていた鋭さはなく、柔らかく温かみのある眼差しでリンゼを見つめていた。
「右腕は何ともなかったのか、それは良かった」
聞き覚えのある声、今一番聞きたくない声がエルゼの耳に届く。振り返ると、黒緑のウルフカットのようなショートヘアーに髪と同色の瞳、タレ目ながらも目つきが悪い長身で筋肉質な青年――先程の対戦相手が立っていた。
エルゼは眉間に皺を作り、嫌悪の表情をそのまま彼にぶつける。「何であんたがいんのよ!?」口調も必然と厳しい。
姉の反応にリンゼは顔を上げ、青年と顔を合わせた。「あ、あなたは……」エルゼと違って敵意はなく、目を大きく見開いて驚くだけ。
「いや、さっきは流石にやりすぎたなと心配で来て……って、お前ら顔似てんな」
「そりゃ双子だもん、似ているでしょ。そんなことより、さっきはよくも……!」
エルゼの目は吊り上がり、眉根がさらに寄る。リンゼを解放し、大股で青年へと歩み寄っていく。瞳の奥はプライドをへし折られたことによって憤怒の炎が燃え上がっていた。
「ああ、だから腕をやったことはあや」
「違う! 何で本気で戦わなかったの!?」
腕よりもまともに戦ってもらえなかったことに激憤するエルゼ。今までの相手は、容赦なく向かってきた。それが当然の場所だから。けれど、この男はひたすら避けて、まともに戦おうとしなかったのだ。
それが最も許せなかった。立派な拳闘士だと自負していたからこそ、この敗北は大きい。
対して青年は、自分の胸辺りもあるかないかぐらいの少女から目を逸らさず、じっと見つめる。短いの沈黙の後にため息を吐いた。「何で俺がお前に本気を出さなきゃいけないんだ?」衝撃的な一言がエルゼの胸を突き刺す。
「なっ……本気の相手に本気でぶつかり合うのが礼儀でしょ! それは子供でも大人でも関係ないわよ!」
一瞬、言葉を詰まらせるが何とか言い返す。だが、内心はさらに今まで積み上げたものが、当然だと思っていたものが崩壊する音を立てていた。
この男はどこまで人を馬鹿にすれば、気が済むのか――ただひたすらに不快な思いが胸を駆け巡る。
「確かにお前の言う通り、本気の相手に本気でぶつかり合うのは当然だな」
「なら、どうしてっ!」
「でも、俺は年端いかない女の子をボコボコにして楽しむ趣味なんてない。悪いがお前と俺とじゃ、あまりにも体のつくりが違いすぎる。とてもじゃないが勝負にならない」
淡々と語られる青年の意見にエルゼは呆然と聞き入れるしかない。言い返せる程、実力がないのは自分がよく理解している。だからこそ、血が出てもおかしくないぐらいに唇を噛み締めるしかなかった。
「大体、子供と大人が戦った時、怪我するリスクが高いのは子供の方なんだぞ。体が出来上がってもいないのに無理して大人の攻撃を受ければ、大怪我どころで済ませらないんだ」
エルゼの気持ちを察してか察していないか青年はまだ語る。これだけは頑として譲らないという強い意志が言葉の端々から感じられた。
「それでも、流石に右腕の事はやりすぎたな。悪かった」
と言って、頭を下げる青年。エルゼは面を食らって、さらに何も言えなくなった。頭の中はもう既にぐちゃぐちゃになっており、言葉という言葉が紡ぎだせない。だから、何かを言おうとしても口をパクパクと動かすだけで音は発せなかった。
自分が今まで生きてきた世界と違いすぎる青年の価値観が、鈍器のように重たく、刃のように鋭く価値観を壊していった。再構築するには時間が欲しいところ。
そんなエルゼから何も言われないことを察したのか、青年は頭を上げて「じゃ、今度また会う時を楽しみにしている」と彼女の傍らを通り過ぎる。だが、彼を引き留める声があった。
「ま、待ってください!」
ずっと黙っていたリンゼが開口して最初に言った言葉。青年は足を止め、リンゼの方へ振り返る。
「あの、その……ありがとうございました!」
おどおどしながらも頭を下げ、感謝の意を伝える。「俺は何もしていないぞ?」青年はリンゼの意を汲み取れず、眉を顰めた。
「ええっと……お姉ちゃんを傷付けないで……無事なままで……」
顔を上げたリンゼはあたふたし言葉が見つからないまま理由を述べる。彼女の言葉に青年は困惑気味に右手で後頭部を掻き、改めて彼女たちに体を向けた。
「まぁ、別に感謝されることをした覚えはないんだが……」
「そ、それでも、お姉ちゃんはたった一人の家族で……だから……」
溜まっていたものが噴き出したのか、リンゼの目からはポロポロと涙が流れていく。今まで怪我または死すらも覚悟していたのだから、無理もない。まだ彼女は齢十二の子供だ。それを覚悟しろと言う方が酷だろう。
「……妹を大切にな」
慰める術を知らない青年はエルゼに目配せをする。エルゼもこの時ばかりは素直に従い、リンゼの頭を優しく撫でていく。
これだけ妹に無理を強いていたのかとただひたすらに恥と悔恨の念がエルゼを支配する。自分より弱いと分かっていたはずなのに、ここまで追い込んでしまって……姉失格だなと。
その姉妹の姿を見て、静かに立ち去ろうとする青年だが、一つあることを思い出し足を止めた。
「そうだ、お前に言っておかなきゃいけないことがあった」
青年はエルゼの方を見て言う。「打つ時は力を抜け。力を込める時はインパクトの瞬間だけで良い」そして、青年は彼女らに背を向け「達者でな」と右手を上げて軽く振る。
「あ、ちょっと待ってください、まだお名前を!」
三度、足を止める青年。「
「土谷……惟真……」
二人は青年の名前を口にしながら、彼の背を見つめ続けていた。今まで出会ったことのない人間として、深く記憶に刻みつけて。