薫風が幼い双子の姉妹の銀髪を撫でていく。髪が短い方の少女は長い方の少女にしがみつき、小さく悲鳴を上げる。普段、外に出ることが少ない故にか、そよ風程度でも驚いてしまう。
それには長い髪の少女も苦笑い。でも、そんなところも可愛い妹だから、守ってやらねばと思っていた。
――いつだって、そうだ。リンゼは気が弱く、すぐにいじめられる。だから、その度にあたしが守らなきゃって、思って戦ってきた。
――おかげで、女の子らしい服も似合わない女子になって、リンゼを羨ましいと何度だって思った。だけど、それでも愛しい妹を守れるならそれでいい。でも、あたしはさっき……。
エルゼの視界に入ったのは木目調の天井だ。今さっきまで見ていたものは夢だと知る。いや、過去の記憶とも言うべきか。
だが、それよりも彼女は知りたいことがある。連れ去られたリンゼの行方だ。
上体を勢いよく起こし、急いでベッドから足を投げ出して妹の元へ向かおうとするが、鈍痛が頭に響く。後頭部を強く殴られた影響がまだ残っていた。
殴られた箇所を触ってみると、たんこぶができていた。脇腹にも痛みが走る。骨にヒビ――いや、もしかしたら折れているかもしれないと痛みで顔を顰めた。
「おっ、目が覚めたか」
左手側のドアから見慣れた青年が姿を現す。エルゼが打倒すべき相手である――土谷惟真だ。
彼の手には二人分のカップがあり、そこから湯気が出ている。温かい飲み物でも持ってきてくれたのだろう。
「アンタ、何でここに!?」
「そりゃ、俺が借りている部屋だからな。主である俺がいてもおかしくないだろ」
と言いつつ、エルゼにカップを手渡す。中身はコーヒーだ。「安心しろ、砂糖とミルクはたっぷりと入れてある」でも、エルゼは首を横に振って受け取らなかった。
惟真は拒否されても特に気にせず、ベッドの傍らにある小さなテーブルに彼女に渡そうとしたコーヒーカップを置く。
そして、泰然とした顔でコーヒーを啜る。「マスターの入れたコーヒーはやっぱり美味いな」わずかに微笑む。
「……妹のことか?」
沈痛な表情を浮かべて俯いているエルゼを見て、惟真は問いかけた。
彼の言葉にエルゼはバっと顔を上げる。少しだけ眉根を寄せている彼の表情が目に映った。近くにリンゼがいないことで察したのだろう。
エルゼは静かに首肯する。「……リンゼが攫われた」視線は再び自身の足元へ向けられた。「あたしが弱かったせいで……」姉としての責任感と守れなかった無力感が彼女を責め立てている。
「……そうか」
彼女のか弱い言葉を聞いて、惟真はそれだけに留めた。それから惟真は壁に寄りかかり、エルゼの次なる言葉を静かに待つ。黒緑の瞳は冷静に事を把握しようとしていた。
長い沈黙が二人の間を支配する。こうしている間にもリンゼの身に刻一刻と危機が迫っているのに、エルゼは何も行動できないでいた。
連れ去れた場所も分からなければ、自分一人で助け出せるかも分からない。大人たちは自分の話を聞いても信じてくれるかも不明。それどころか誰かを巻き込むことなんて、絶対にしたくない。
様々な感情が渦巻いて、彼女を迷わせる。そして、紡ぐべき言葉を喉元で留めてしまう。
「はぁ……仕方ないな、少し出かけくる」
エルゼが閉口して少し後、惟真が呆れ気味にため息を吐く。それからまだ熱いコーヒーを飲み干して、空になったカップをエルゼ用のカップの隣に置き、ドアに向かって歩き出した。
「待って! ……どこへ行くつもり?」
慌てて惟真を引き留めるエルゼ。まさかだと思うが、リンゼを助けに行くつもりだろうか。
だが、自分たちの間柄はそんなに親しいものでない。それどころか、エルゼの方は敵視と言っていいほど彼のことを快く思っていない節があるほどだ。実力は認めているが。
「野暮用を思い出した」ドアノブに手を掛けて、惟真は答える。「お前はそこで休んでいろ」冷たく鋭い語気でエルゼを突き放す。
「あ、あたしにも手伝わせてよ、その野暮用ってやつ……」
声は震え、言葉尻が萎んでいくがエルゼはそれでも振り絞って口を開いた。縋れるものなら縋りたい……誰か助けてと叫びたいという悲痛な思いが、今にも泣き出しそうなエルゼの表情を作る。
振り返って彼女を見つめる惟真の顔は険しかった。「駄目だ。そこで休め」身も心も凍てつくような冷たく淡々とした言葉。「お前が倒れたら、それこそ意味ないだろ」もはや嘘は意味を為してない。
冷たく淡々として突き放すような物言いに、エルゼは鼻白む。けれど、目尻に涙を溜めながら気丈にも惟真を睨めつけて言う。
「リンゼはあたしの妹なのよ! だから、助けに行きたいの!」
姉としての責任感だけがエルゼを支えていた。これ以上、肉親を失いたくない。
だから、リンゼを助けたい。苛まれたり、迷いを生んだりと自分を苦しめた思いが、今は原動力となっていた。
両者、睨み合う。やがて、惟真が諦めたかのように目を逸らしため息を吐いた。
「そこまで言うなら、分かった……さっさと準備しろ、妹を助けに行くぞ」
一方、男性たちに誘拐されたリンゼは石造りの薄暗い部屋の中、天井に繋がれた拘束器具により両手を縛られ、冷たい地べたに座り込み静かに待っていた。
待ち人はもちろん姉であるエルゼだ。彼女はきっと助けに来てくれるだろう。だが、あの怪我で果たして来れるのだろうか……。
――私が弱いせいだ。私がもっと強ければ、お姉ちゃんがあんな目に遭わなかった。
自責の念で押し潰されそうになる。独学で覚えた魔法を使うことができず、ただずっと姉が痛めつけられる光景を目に焼き付けていただけ。そんな自分の弱さを恥じた。
――お姉ちゃんは、いつも私が守ってくれた。だから、今度は私が助けなきゃいけない番なのに。
不意に悔し涙が零れた。非力な自分はどうして守られてばかりだろうと忸怩たる思いが込み上げてくる。
そんな彼女をよそに鉄製のドアが重々しく開かれた。部屋の中に入ってきたのは、先程自分たちを襲ってきた男性たちだ。
「ありゃ? 泣いてじゃん」
リンゼの涙に気付いたブロンドの髪の男性は、いつもと変わらぬ軽薄な笑みを浮かべて彼女の元へ近寄る。「安心しろよ、オレたちは何もしないさ」彼女の意を誤解しているようだが、何も手出ししないというのなら幾分か安心だ。「ボスは初物じゃなきゃ、駄目だからな」まだ幼いリンゼにはそれがどういう意味なのか分からなかった。
「姐さんのお墨付きだからな、丁重に扱わねえと」
茶髪の男性はニヤニヤとした気味の悪い笑顔で言う。ブロンド髪の男性も「何にもなけりゃヤれたんだけどなぁ」と調子よく笑った。
リンゼはその二人の会話を聞いて、自分の未来が良くないと察する。詳しい内容自体は理解できてないが、どうなるかという想像ができるほど彼女は聡明だ。だから、血の気が引いていく感覚に襲われた。
そんな中、一人の足音が響く。リンゼたちのいる部屋に近づいている様子だ。
誰だろうかという全員共通の疑問はドアの方へと向けられる。そこにはボサボサとした紺髪を逆立たせたショートヘアに深紅のレザージャケットが目を引く長身で筋肉質の男性が立っていた。
藤黄の瞳は猛禽類を思わせるような力強さがあり、腰に提げている剣は大剣と言って差し支えないほどの大きさで存在感を強く示している。
「何だぁ、ヴァンの旦那かよ。姐さんかと思ったぜ」
ブロンド髪の男性は紺髪の男性――ヴァンに視線を合わせた。紺髪の男性の方が背が高いため、自然と見上げる形になる。
「わりぃな、あのババアじゃなくて」
「それ、絶対姐さんの前で言うなよ? マジギレされたら、洒落にならねえから」
「そん時は叩きのめすだけさ。それなら文句はねえだろ?」
茶髪の男性の警告を不敵な笑みで返すヴァンの瞳には、己の力量に対する絶対的な自信が宿っていた。
二人とは違う雰囲気を醸し出すヴァンにリンゼは別種の恐怖を感じる。今いるのは肉食獣そのものだからだろうか。ハッキリとした死への恐怖が腹の底から湧き上がってきていた。
「んで、そこのお嬢さんが今回のエサか?」
ヴァンはリンゼに気付き、剣が引っかからないよう器用に体を動かし、部屋の中へ入っていく。
武骨なブーツが鳴らす音は極めて不躾で、恐怖を駆り立てるようだった。
「ふーん、もうちっとデカくなったら、美味くなりそうな女だな」
リンゼの目の前へと歩み寄ると片膝をつき、彼女とできるだけ視線を合わせる。そして獲物を見定めるような目で彼女を観察した。
それに対してリンゼは体を強張らせ、小さく震わせる。今まで感じたことのないオーラに圧倒され、恐怖を感じ、覿面の男性に今すぐ食べられてしまうのではないかとさえ思ってしまっていた。
「んで、何でヴァンの旦那がここに?」
ヴァンの背に間の抜けた声で問いかけるブロンド髪の男性。茶髪の男性もどこか気の抜けた表情で見つめていた。
「あん? テメェらが勝手しないように様子見てこいってババアに言われたんだよ」
肩越しに睥睨するヴァンに男性たちも顔を引きつらせ、体を強張らせてしまう。「さ、流石に手出ししないってですってば! ボスが魔力が高い純白な女性じゃないと駄目なのは、分かっていますから!」言い返すブロンド髪の男性の声は上擦り、震えていて情けない。
「まぁ、俺は興味ねぇからどうでも良いけどな。んじゃ、帰るわ」
そう言って、ヴァンは立ち上がり踵を返して来た道を戻って行く。その背を三人は見つめているだけしかできなかった。
――怖いけど、あの二人とは違う。
リンゼは去り行くヴァンの背を見て思う。彼の瞳からは二人のような悪意ではなく、まさしく肉食獣と言っても相応しいほどに闘志を感じていた。純粋に戦うことが好きな人種なのだろう。そんな料簡を立てる。
それとは同時に彼の存在により、エルゼの命が危機に晒されることに気付く。
――どうか、お姉ちゃんが無事でありますように
今、リンゼができるとしたら、祈りを捧げることしかなかった。