全3話か4話くらいを予定しています。
箸休め的な気分で書かせて頂きました。
女の声がする。
しっとりと艶がありながらも、芯の通った力強さを備えた美しい声だ。
声の持ち主は白寒い蛍光灯の明かりの下、朗々と己の弁を続けている。
「——というわけで、被害者の水戸さんは鏡を使った錯覚に惑わされ、本来ないはずの道を進んでしまった。その結果、足を踏み外して高所から転落。そのまま亡くなったわけです。天罰でも呪いでも霊能力でもなんでもありません。奇術を使った卑劣なTRICK(トリック)です。ですから犯人は——」
指が動く。人差し指が鋭く中空へと伸ばされた。
白い指が向いた先には、白粉で顔を染め上げ、お歯黒を口元から覗かせた黄金色が栄えた和装束の奇怪な姿の男がいる。彼はそんなまさか、と驚愕に表情を歪めていた。
すっと、息が一つ吸われる。
「イッチジョー・キミ・マロー、あなたです! あなたのしたことは全部まるっとぎゃりっとお見通しなのです!」
おじゃっ! と巫山戯た声を漏らした男は、だぼだぼの和装束の袖を翻して身体を反転させた。
女は袖が眼前を通ったことに驚いて、反射的に顔を背けてしまう。
その様子を目にした男はどたどたと自身を追い詰めた女から脱兎の如く逃げ出した。
どこにそんな俊敏さが隠されていたのかと言わんばかりの見事な逃げ足である。
だが、女が復活するよりも先に、彼女の背後から畳みかけるような怒鳴り声が飛んでくる。
「秋葉、ホシを確保や! 逃がすな!」
不自然な髪型を装備し、チンピラ風味のスーツに身を包んだ男が部下を叱責した。言葉を受けた縮れた長髪の男は不格好な小走りで犯人——イッチジョーを追い始める。
「待ちなさーい!」
何ともしまらない声を上げながら長髪の男——秋葉原人はイッチジョーと共に部屋の外へと消えていった。犯人確保に一抹の不安を抱いた女は背後に立っていた余りにも不自然な髪型の男へと向き直る。
「矢部先輩、秋葉先輩に任せても大丈夫なのでしょうか。イッチジョーはあんな馬鹿みたいな格好してますけど、多分バリバリの武闘派ですよ。一人目の被害者は物理的に絞め殺してますし」
「別にかまわへんやろ。秋葉やったらなんとかするわ。ところでまたワシの輝かしいキャリアに功績が一つ刻まれてしもうたな! 本庁の人間がどれだけ頭悩ませても解決できひんかった事件が一発解決や! これは昇進も近いで!」
特に何かをしたわけでもないのに、うきうきと小躍りする矢部を見て、女は呆れることをしなかった。むしろそれでこそ先輩ですと言わんばかりに尊敬の眼差しを送ったのである。
「さすが矢部先輩です! 捜査ではまったく役に立たなかったのにその切り替えの早さ! 是非見習いたいです!」
「おいお前喧嘩売っとんのか。しばくぞ」
ぱっ、と矢部が鉄拳制裁の拳を握りしめた。だが眼前にいたのが男の秋葉ではなくただの女であることを今更思い出し、拳を解いて髪をぐしゃぐしゃと撫で回すに留める。
女も矢部から殴られることがないことがわかっていたのか、臆することなく矢部の手を甘んじて受け入れていた。
「ほんま腹立つのー。なんやこの長すぎる艶々な髪は。自慢しとるんかワレ。ま、ワシも自慢のヘアスタイルではあるんやけどな」
「——小躍りでズレてますよ、先輩」
女の視線は矢部の額よりも少し上に固定されていた。
そこに広がる不可思議な光景に釘付けである。
「ちゃちゃちゃうわ! ズレるとかそんなん関係あらへんし! これは頭皮から直接生えてるもんですからズレたりはせえへんのや!」
慌てて不自然に歪んだ髪を整える矢部。女はその様子をニコニコと微笑ましげな表情で眺めていた。
「ところで上坂、お前、よくあいつのトリックがわかったの。お前の語り口、まるであの胡散臭い貧乳マジシャンを見てるようやったぞ。知り合いかなんかなんか?」
矢部の問いに女——上坂はいいえ、と首を横に振った。
「私にはマジシャンの知り合いはいませんよ。ただ、学生の頃にちょっとだけ嵌まってサークルに参加していたくらいです。ほら、」
ぱっ、と矢部の眼前に上坂が拳を突き出す。
なんやこれ、と訝しげに矢部が注目したその瞬間、彼女は拳を開いた。
「こんなことくらいしができない、素人アマチュア凡人マジシャンですよ。本職は警官ですけど」
拳からこぼれ落ちたのは、本来ならば頭頂の上でその役割を全うしている筈の髪の塊——つまりはカツラだった。ふぁさ、と柔らかく床に落ちたそれを見て矢部は目を剥いた。
「おっ、お前なんちゅうことをしてくれんねん! 冴えない庶務から部下に抜擢してやった恩を忘れてやったんか!」
「いいえ、忘れていませんし、だからこそ一生先輩に尽くさせて貰いますよ。だからほら、上、うえ」
言って、上坂は矢部の頭頂をちょいちょいと指さした。そこには相変わらず、防御力の低すぎる主の絶頂を守り続ける沈黙の髪があった。
「へっ? あれ?」
「これはイッチジョーが変装に使ってた小道具です。さっきそこのソファーの下から見つけたんですよ。もしも見苦しい言い逃れをするようなら、突きつけてやろうと思って」
「ややこしいことすなや!」
ぱしんっ、と小気味好い音を立てて矢部が上坂の後頭部をはたいた。だが十分に手加減されたそれは全く痛みを感じさせず、むしろ上坂をますます上機嫌にさせていく類いの気持ちの良い突っ込みだった。
「くそ、お前とおったらやっぱ調子狂うわ。はよ帰ってのんびり英気を養わせてもらう」
「先輩ったらまるでたくさん働いたような口ぶりですけれど、この旅館の温泉にずっと浸かってただけですもんね! でも私、そんな先輩のために帰ったらお茶をいれてあげます!」
姦しい声を上げながら矢部の進む三歩後ろをついていく上坂。
そんな二人に、ちょうど旅館をでたタイミングで犯人確保に成功した秋葉が追いついていた。
彼は滝のような汗をしたたらせ、「待って下さーい」と山間部に木霊する声をあげていた。
いつからか三人で動き回るようになった彼ら。
矢部を中心に、いつも一緒にいる彼ら。
その中で、上坂だけがふと背後に広がる事件現場となった旅館を見ていた。
ただ彼女の視線は、矢部に向けていたものとは全く違う色を持った異質なものである。
暖かみのある信愛の情ではない、もっと無機質なもの。
それは諦観を極めた、あまりにも冷たすぎる眼差しだった。
/01
髪が薄いっていうのは、そんなに罪深いことなのだろうか。
ちょっとした体毛の多少で人はそこまで差別されなければならないのだろうか。
歴史上の栄えある英雄達にはそんな些細なこと関係なかったというのに。
カエサルは、ダビンチはナポレオンは、レーニンはすべからく頭頂を光らせていたというのに。
上坂英美里は一つ前の人生の苦々しい思い出を夢に見る。
若くして頭頂部の守護を失ってしまった彼女——いや、彼は行く先々で人々の笑いものだった。
飲み会やパーティーでは無理矢理壇上に登らされ道化を演じさせられた。誰かの引き立て役として連れ回され、あらゆる女性に笑われる毎日だった。
密かに思いを寄せていた同僚の女性からは、影で生理的に無理と吐き捨てられていたことも知っている。
人よりたくさん努力して、スポーツも勉強もその他の教養も人より抜きんでいたというのに、頭頂部が光っているというだけで言われなき中傷を受け続けていた。
間違いなく、人よりも精神が摩耗し続ける毎日を送り続けていた。
地獄と言ってもいいくらいには、碌でもない人生だった。
ただ、そんな彼にも一つだけ熱中することのできる趣味があった。
心が少しずつ、でも確実に蝕まれていた彼は手慰みとしてマジックに手を出していたのだ。
誰よりもちょっとだけ器用だった彼は誰にも披露する機会がないというのに、日々その練習を続けていた。
切っ掛けは恐らくテレビで見た自分と同じ頭を持つマジシャンの存在だった。
彼は時にはその薄毛をチャームポイントに変えながら人々を驚かせ、楽しませ、そして魅了していた。
彼にできているのだから自分にもできるに違いない。
そんな希望を抱きながら真面目にコツコツとマジックの腕を磨いていた。
ようやく人に見せられるレベルになったと総括した彼はある芸能事務所のオーディションを受けることになった。
世間は件の薄毛のマジシャンのお陰か、ちょっとしたマジックブームになっていたのだ。柳の下の二匹目のドジョウを掬うべく、様々な業界がマジックの腕を持つ人材を求めていた。
無事に書類審査を通過した彼は、マジックの導具達ともに愛用の軽自動車を運転して事務所を目指した。埼玉の地方に住んでいた彼は、都心を目指して車を走らせたのである。
ただ、彼は絶望的に運がなかった。
人より髪を守る遺伝子が脆弱だったことに加え、圧倒的な間の悪さを持っていた。
国道の信号待ち。
二台の大型トラックの間。
後ろのトラックの操作ミスだったという。
彼の軽自動車の存在に気がつかなかったドライバーが必要以上に車間を詰めてしまった。
少しずつ二台のトラックにプレスされていく車内で彼は必死に助けを求めた。
幸い、彼を潰しきる前に気がついた後ろのドライバーがトラックを止めた。
しかしながら、無事車内から救出された彼は四肢が折れていた。
救急搬送された先の病院で彼は両手が以前のように思い通りに動かせない可能性を通告される。
しかも事故で受けることの出来なかった芸能事務所のオーディションは当然のように不合格になっていた。
なんかどうでもよくなった。
多額の慰謝料も得られたし、腕も日常生活に支障をきたさないくらいには回復する見込みもあった。
ただ漠然と心が砕けてしまった実感だけがあって、彼はこれ以上の努力ができない気がしていた。
最後の一言はもういいや、だったように思う。
気がついたら鳥のように飛んでいて、気がついたら出来の悪い生け花のように地面に赤い花を咲かせていた。
人よりちょっと違うだけでこうなってしまった自分の人生を最大限恨みながら。
そして今。
上坂英美里は二度目の人生を歩んでいた。二回目は女だった。どうして前の人生の記憶を引き継いでいるのかはわからなかったが、一度人生を投げ捨てた身としては果たしてどうでもいいことだった。
前の人生ではどれだけ欲しても手に入れることのできなかった美しく艶のある黒い髪も思い入れなどない。日々惰性で生きているだけであらゆることに対する欲求など殆どない。
容姿も最上級のものを神から与えられていたが、そこには頓着しない。
金も地位も名誉もまるで興味がなかった。
だからこそ、そんな娘の無気力さに畏れをなした警察官の両親はレールを牽いてやるべく、警察学校に彼女を放り込んでいた。
一応、命じられたことを人並みにこなすだけの感情を持ち合わせていただけに、彼女はいたって平均的な成績でそこを卒業した。だが言ってみればそれだけで、昇進も賞賛も存在しない事務方としての毎日を歩んでいた。
押しつけられた伝票を整理し、上に持って行くだけの仕事。
彼女の姿形に惚れ込んで、声を掛ける男達も数え切れないくらいいたが、男としての記憶があることと、そもそも恋愛なんて一切関心がなかったが故に全て袖にしてきた。
ただただ灰色の毎日を呼吸するだけの葦となっていたのである。
そんな彼女に劇的な転機が訪れたのはある男との接触だった。
「おうねーちゃん、これ決済しといてくれや」
突き出された領収書にはカラオケ店の明細が印字されていた。別にこのまま通しても良かったが、機械的に彼女はその意図を男に問うていた。
「これを私たちが引き受けなければならない理由を教えて下さい」
「おん? 頭硬いのう。これはな、ある重大な潜入捜査の必要経費や。ワシはカラオケの交流を通して大物組員を見はっとるんや」
そんな阿呆な、と内心関西弁で突っ込んでいたが、ここで押し問答するのも面倒なので上坂は黙って領収書を受け取った。
「ではあなたのお名前を」
その時になって始めて、ただの交際費を公費で落とそうとする不届き者の顔を見た。
瞬間、彼女の——いや彼の世界はついに動き出した。
「お前、ワシをしらんのか! 公安のエリート刑事、矢部謙三とはワシのことやんけ!」
偉そうなことをのたまう男の髪がずれていた。
恐らく何かの拍子に動いたのだろう。蛍光灯に反射する頭頂部が上坂には後光のように見えた。
「あ、あの」
ハゲにそれを言ったら駄目なのは分かっている。
事実自分はそれで以前立ち直れないくらい傷ついたこともある。
だが矢部の勢いに押されていた上坂は禁句を口にしていた。
「髪が家出してます」
その時の矢部の絶叫と、上坂の歓喜は一生忘れることはないだろう。頭頂の業を背負いながらも、威風堂々、傍若無人、傲慢不遜に振る舞う矢部謙三に上坂は夢中になっていった。
恋愛感情では決してなかったが、間違いなく憧れに近いものが彼女の中に芽生えていった。
薄いのに面の皮は分厚く、
少ないのに不祥事が多く、
足りないのに満ち足りた人生を送る矢部謙三。
彼女は直ぐさま転属願いを上司に押しつけ、矢部の部下のポジションに転がり込んでいた。
そこから先、彼女の捜査の鋭さはあらゆる事件を切り捨てていった。
もともと髪の量以外は人より秀でていた彼女である。
頭も切れ、身体能力も高い彼女はあっという間に公安のトップエースになっていた。
同時期に矢部の部下になった秋葉原人の趣味に対しても寛容だった彼女は、彼とも良好な関係を築いていった。
気がつけば、扱いは難しいものの、送り込めばどんな難事件でも解決していく三人組として警視庁内で周知されるに至っていったのである。
02/
「で、今度はどんな事件なんですか。矢部先輩」
矢部が私物化している取り調べ室の一角で、上坂は矢部の肩を健気に揉み続けていた。その視線は矢部のちょこちょこと動く髪に固定されている。
「あん? そんな大したもんやあらへんわ。ある新興宗教を抜け出した信者が二人死体で見つかってんねん。その事の真相を捜査したらええんや。ま、ワシにとってはあまりにも簡単すぎて仕事にもならへんけどな」
「さすがです! 自分は全く働かず、私と秋葉先輩に押しつける気満々ですね!」
「じゃかましいわ! ワシみたいなリサールウェポンは最後まで動いたらあかんねん!」
「それを言うならリーサルウェポンですよ。リーサル」
幾ら学のなさが露呈しようと、上坂は決して矢部を馬鹿にはしない。何故なら彼は彼女が前世に取ることのできなかった選択肢を選び続けることができる男だからだ。
髪の量を気にして、卑屈な最後を取った自分とは格が違う。
「——ところで秋葉の奴はどこにいったんや? もうそろそろ昼休憩も終わりやろ」
「ああ、秋葉先輩なら年休をとって秋葉原にいかれましたよ? なんでもどうしても手に入れたいCDがあるんだとか」
「あいつのオタク趣味も大概やの。まあええわ。ほなお前だけ今から取り調べに付き合えや。さっき伝えた宗教団体事件の重要参考人が運ばれてきとるんや」
徐に立ち上がった矢部に上着を手渡し、上坂はそのあとをとことこと追いかける。
「あら、事件の犯人はもう捕まってるんですか?」
「いや、宗教団体の周辺をきょろきょろと嗅ぎまわっとった奴やねん。ただ、二人目の被害者を殺した疑いがあって連行されとる」
「へー」
暖房で温められた室内に二人が足を踏み入れる。すると、中の机に腰掛けていた女が矢部を見て声をあげた。
「矢部! 何かの間違いだ! はやく私を解放しろ!」
「げっ! でたな詐欺師! 遂にお前殺人までやらかしたんか!」
顔を合わせた瞬間に罵り合う二人を見て上坂は困惑した。だが至る所で威張り散らしている矢部のことだ。いらぬ因縁をあちこちにつくっていても仕方がないと一人納得する。
「私は殺してない! いつの間にか長熊さんが殺されていたんだ! 私は無実だ!」
「ほな証拠はあるんかい! アリバイがあらへんのやったらお前が犯人やろが!」
「上田は!? 死体を見て気絶した上田はどうした!? あいつと一緒に私はいた!」
ぎゃあぎゃあと怒鳴り合っている二人を尻目に、上坂は取調室に連れてこられた女の私物を一瞥する。ややくたびれたバスケットが一つだったが、手にしてみるとそれなりに重い。
何が入っているのかと疑問に思った上坂は、そっとそれを開けていた。
「あっ、こら! 勝手に触らないで下さい!」
女の抗議を無視して上坂は物品を手に取る。どことなく見覚えがあるのはそれらが主にマジックに使う道具達だったからだ。つまりここに拘束されている女はマジシャンと言うことになる。
上坂はその時点で初めて女に興味を持った。
「これ、裏の模様が偶数の数字と奇数の数字でちょっとだけ違うトランプですよね。こんなもの普段から持ち歩いているんですか?」
「私ほどの天才美人マジシャンならいついかなるときもマジックの披露を求められるんですよ。言わばプロとしての嗜みですね」
絶壁の胸をやけに張る女を見て、上坂は元男ながらなんとも言えない気分になった。事実、気まぐれでこちらも胸を張ってみれば女は食い入るようにこちらを見て、歯を食いしばっている。
「アホ、お前も何張り合っとんねん。しょうもないことすなや。——ところで山田、お前が犯人じゃないってんならうちの小娘になんか手品してみい。それでこいつがタネを見破れんかったらお前の勝ちということで釈放したるわ」
こいつは何を言っているんだ、と女——山田は矢部を見た。上坂も若干驚きに顔を染めて矢部を見つめている。
「ちょっ、ちょっとどういうことですか矢部先輩」
先に動いたのは上坂だった。彼女は矢部に詰め寄ると、山田には聞こえないように顔を寄せて矢部に問うた。矢部はあからさまに溜息を吐くと、一瞬だけ山田に振り返って上坂に向き直る。
「お前はしらんやろうけどな、この貧乳詐欺師に関わると碌なことにならへんねん。この前なんか山火事の中、檻に閉じ込められて焼き殺されかけたこともあるんや。上田先生ならともかく、この女はとっとと追い払った方がええわ」
妙に実感のこもった言葉だったが、珍しく上坂は素直に矢部を肯定しなかった。さすがに参考人をこちらの一存で釈放することに引っかかりを覚えたのだ。
「で、でももしこの人が犯人なら」
「そんな度胸、こいつにはあらへんわ。どうせ張り込みでヘマこいてうちの署員に捕まっとんねん。ほんまに関わらん方が吉やで」
本気で嫌なのか、矢部は顔を顰めて「えんがちょ」と手刀を切った。
「それにここでお目こぼししといたら、上田先生からの覚えもようなるやろしな!」
上田という人物がどんな人間なのか上坂は知らなかったが、矢部の媚びようをみてどこかの権力者だろうとあたりをつけた。
矢部はとことん自分より地位の上の人間に弱いのである。
こうなったら言うとおりにするしかないか、と腹を括る上坂だったが、そんな彼女に矢部は無意識のうちに爆弾を放り込んでいた。
「ま、お前やったらあの詐欺師の手品くらいすぐに見破れるやろ!」
それは上坂の心に火を点す、まさに必殺の口説き文句だった。
03/
「——これ、数学の問題ですよね」
ぽつりと上坂が言葉を漏らしたとき、明らかに山田は動揺した様子で視線を反らした。上坂は懐からボールペンを取り出すと、卓上に置かれていたコピー用紙にそれを走らせていく。
「九九でいう九の段は十の位と一の位を足すと答えは必ず9になります。ということは私が言った数字から9を引けば、私が最初に思い浮かべた数字になるわけですね。高校の数学教師が生徒に披露して悦に浸る、良くあるマジックです」
山田の行ったマジックは「相手の思い浮かべた数字を必ず的中させる」というものだった。上坂はそれを前世での修行経験を頼りに、一つ一つタネを解き明かしていった。
彼女は息を一つ吐き出すと、様子を見守っていた矢部に静かに向き直る。
「ところで先輩、この勝負私が勝ちましたけれど、この人はこのまま拘束でいいんですか? 先輩は『私が負けたら釈放する』と言いましたけれど……」
尊敬する矢部に焚き付けられたことからやる気に燃えていた上坂だが、ふと冷静になったとき、自分が勝ってしまっては駄目なのではないか、と思い始めていた。矢部は山田を追い出したがっているのに、勝っては拙い方を応援してしまっていたのだ。
矢部が期待してくれることは素直に喜ばしいことだったが、彼のナチュラルな論理破綻に付き合ってしまったことを後悔する。素直にここでマジックのタネがわからないフリをしていれば山田を追い出すことができたのだ。舞い上がってタネを解き明かしてしまったのは完全な悪手である。
矢部も矢部で自身の発言の破綻を意識していなかったのか、「やべっ」と妙な声を漏らして頭頂部を押さえていた。反動で少しずれたナニかを上坂と山田はめざとく視線で追いかける。
「矢部さーん! 大変です! 例の学者先生が署まで来てましたよ!」
気不味い沈黙が室内を支配してはや十数秒。
空気を入れ換えたのは物理的に開いたドアと、飛び込んできた秋葉だった。彼は両手にフィギュアやCD、DVDボックスが詰め込まれた袋を引っさげて、滝のような汗を振りまきながら矢部に縋り付く。
「第五十三万番目の部下が手違いで連行されたようだから迎えにきたと!」
秋葉の背後に人影がある。のそり、と足を踏み出したそれはしっかりと取調室の入り口の上部に頭をぶつけながら、ただでさえ人口密度が過密な室内を圧迫した。
「お久しぶりです。矢部警部補。私の愚鈍でどうしようもない部下がご迷惑をお掛けしたようで申し訳ありません」
「馬鹿上田! お前が気絶するからこんなことになったんだぞ! 毎回毎回いい加減にしろ!」
「シャラップ! 俺の高貴でハイスペックな頭脳がフル回転した結果、休息が必要だと判断したんだ! そんじょそこらの凡人と一緒にするな!」
椅子に腰掛けたまま上坂は大きな人影を観察する。
がっちりとした体躯に、品の良い眼鏡と少しばかりの髭を蓄えた男は、何処かで見たことのある男だった。はたしてそれが何処だったのだろうか、と頭を捻っていたら目ざとく上坂の姿を見定めた男自ら名乗りを上げていた。
山田に対する態度とは打って変わって、膝をつき視線を合わせてくる仕草は不気味なくらい丁寧だった。
いや、実際正体不明の巨漢にいきなり近づかれた上坂は不気味さをしっかりと感じている。
「これはこれは随分とお美しいレディ。うちの貧乳が無礼を働き大変恐縮です。私はこういうものでして、何かお困りのことがあれば是非ご連絡を」
いきなり名刺を手渡されたものだから、上坂は咄嗟に何も言葉を返すことができなかった。気がつけば連行されてきていた山田とその男は取調室をさっさとあとにしていた。警察としてこれはどうなのだ、と思わなくもなかったが、結果的に矢部の願いは叶えられたので、「まあ仕方ないか」と無理矢理自分を納得させる。
「いやー嵐のように去って行きましたね。ところで矢部さん、僕たちはお二人が調べていた新興宗教の件、調べなくていいんですか?」
「ええねん、ええねん、そんなめんどくさいことせんで。所轄のやつらが適当に処理してくれるわ。ワシらみたいなエリートはのんびり英気を養って、いざというときに出動するもんや」
いつの間にか矢部は取調室の椅子にふんぞり返ってくつろいでいる。秋葉はそんな矢部の肩をあくせくと揉み始めており、最早見慣れきったいつもの光景というものがそこにはあった。
上坂は何処か引っかかる何かを感じ取りつつも、直ぐに自身をその光景の中に埋没させていく。
ただその安寧は長くは続かなかった。
僅か4日後の朝。
3人目の犠牲者がでたという通報を受けて、彼らは再び表舞台に引き摺りだされることに相成ったのである。
というわけでまさかのTRICKものでした。
二話は半分ほど書き上がっているので、ぼちぼち上げていきます。