時刻は午後6時半。深雪は後輩2人に会うために謁見室に向かった。応接室と謁見室の使用の差は、来客の重要性が高いかどうかにある。
深雪も友人たちをこちらに呼びたいのだが、四葉家の営業面としての風習であるため、こういったものはすぐに変えることはできなかった。
謁見室のドアを抜けると、後輩である香澄と泉美がこちらを振り返り挨拶をしてきた。2人の前に座ると泉美が深雪に問いかける。
「お久しぶりです深雪先輩」
「久しぶりね。元気にしてたかしら?」
「魔法大学も卒業しましたので今はそれほど忙しくありません」
近況報告を聞いただけだが、泉美の表情や声音は言葉ほど明るくなく、深く落ち込んでいるように感じられた。それにしても泉美は、未だに深雪のことを先輩とつけてしまうようだ。四葉家当主であるとわかっているが、泉美にとって深雪はいつまでたっても先輩なのだろう。
「それで用とは何か聞いてもいいかしら?」
「私たち2人は七草家当主 七草弘一直々に親子関係の絶縁を言い渡されました」
「…何故?」
「父の考えに賛同できないと言っただけで言い渡されましたので、私たちには詳しく分かりません。これがその証拠です」
香澄が手提げかばんの中から、丁寧に折りたたまれた高価だと思われる白い紙をテーブルの反対側。つまり深雪の前に差し出してきた。深雪は折りたたまれた紙を広げて、書かれた文字を声に出して読む。
「『次女と三女である香澄並びに泉美との親子関係を断絶することを決定した。決定事項に伴い、他家からのご意見にはお答えできかねます。〈十師族〉 七草家当主 七草弘一』。…かなり自分勝手ね2人の御父上は」
深雪が吐き捨てるように言う。それに加えて丁寧な言葉が余計に深雪の怒りを表していた。元から丁寧な口調の深雪だが、わざわざ知り合いの親に対してこのような言葉を使うことはない。それほどまでに深雪は不快感を感じていた。
2人は驚いたように全身をびくつかせたが、深雪は気付いていないようだった。自身の血縁者である娘から、考えに納得できないと言われた程度で、親子関係を解消する自分勝手な行動にイラついていたのだ。
自分自身も親となり、子供への愛情が膨れるのを感じているのも、イラつきの原因でもあった。生後1ヶ月の愛娘を見ると癒されるのだ。言うことを聞かない程度で、愛想をつかすつもりなどさらさらない。
「
「…その通りです」
「何故四葉なの?」
敢えて2人を呼び捨てにする。学生時代の先輩・後輩の立場ではなく、《十師族》四葉家当主としての立場で問いかける。深雪の問いは拒絶を含んだものではない。ただ単に七宝家など〈七〉の数字を持つ家に、保護してもらえばいいのではと思ったのである。
「七草家の配下や七草家と関わりのある各家には、既に周りましたがことごとく断られました。父が手を回したのだと思います」
「用意周到ね。それで?」
「友人宅を訪れようと思いましたが、長居するわけにもいきません。しばらくの間は都内のホテルで過ごしていました。所持金が底をつきかけたので、ホテルを出たのが先ほどのことです」
2人がここに来た理由を、最初のうちにある程度は予想していた。友人宅に行けないのは、家庭の事情があるとはいえ長居はできないから。七草家配下の魔法師や関わりがある魔法師に先に手を回しておくのは、敵の行動範囲を狭める策と同じで戦術の初歩中の初歩だ。
絶縁したとはいえ、そこまでする必要があるのか。過剰に反応しすぎではないかというのが、偽らざる深雪の本音だ。
「いいでしょう四葉で保護します。場合によっては四葉に姓を改めてもらうことになるかもしれないけど。その時はお願いね」
「「ありがとうございます!」」
「白川さん、2人の部屋の準備をお願いします。シルヴィーさんは他の使用人の方々と入浴の準備をお願いします」
「「畏まりました」」
白川夫人とシルヴィーが出て行ったのを確認後、深雪は自ら勧んでお茶を煎れ、香澄と泉美の前に差し出した。2人は深雪の楽にしなさいという気持ちを、ありがたく受け入れることにした。
「深雪先輩、母親となった気持ちはどのような感じなのですか?」
「自分より旦那より。何より大切なものが増えたって感じかしら」
「素晴らしいものなのですか?」
「ええ、自分が生きてきた人生の中でもね」
2人は幸せそうに頬に手をあてて微笑む深雪を、高校時代以上に美しいと思いながら見つめてしまった。
自分たちもいつかはこんな幸せな家庭を築けるのか。疑問に思うが親子関係を断絶された自分たちに、そんなことを求める権利があるわけがないと思っていた。
「克也兄はお元気ですか?」
「っ!」
香澄の何気ない質問に深雪は息を詰まらせた。普段なら克也がこの部屋に現れてもおかしくない。そんなふうに思って聞いただけだった。深雪の予想外の反応に、聞いてはならないことを聞いてしまったと香澄は後悔する。
「…貴女たちなら受け入れられると思います。着いてきなさい」
深雪は立ち上がると、何も言わずにドアを開けて部屋を出て行く。香澄と泉美はどいうことなのか理解できず、その後姿を見つめて深雪が視界から消えたことで我に返り、その後姿を追いかけた。
地下に向かう階段を降りる深雪の後ろに続いて行く2人は、何処に行くのかと不安に駆られていた。何か良くないことが克也の身に起こっているのではないか。もしかしたら最悪である「死」なのではと。
「ここよ」
深雪は〈集中治療室〉と書かれた一室に入っていく。
「克也お兄様、2人が来ましたよ」
深雪が優しく声をかけるが返事のないことに2人は不安になる。深雪の後ろから覗くと目を見張った。
「…深雪先輩、克也兄様に何があったのですか?」
「精神に著しい欠陥が見られたの。水波ちゃんを失って守れなかった自分への怒りが、克也お兄様の精神を直接攻撃して、生命活動を一時的に止めてしまったのよ」
「そんな!」
「…戻ってきますよね?」
「ええ、必ず帰ってくるわ」
深雪が力強く頷いたのを見て、2人は少しだけ安堵したが、「いつ」帰ってくるかを言及しなかったことに違和感を覚えた。
「気が済むまでここにいていいから。終わったらさっきの部屋に来てね」
深雪が〈集中治療室〉から出て行くと、その後ろに香澄がついて行きく。部屋に残ったのは泉美だけだった。 泉美は近くの椅子を克也のベッドの横に移動させて座る。
呼吸器を付けられた克也の頰は痩せこけ、首や腕にはつまめるような脂肪しかついていない。明らかに今の自分より体重は軽いだろう。身長差が30cm近くあるというのに、自分より体重が軽いなどよほどのことがない限りありえない。
「克也兄様がこのような状態になったのは、桜井さんが亡くなったことが大きいのですね?」
目覚めることのない深い眠りについている克也以外、その声を聞く者がいない部屋で、泉美は涙を流しながらポツリと呟いた。四葉関係者と親しい友人以外には、水波の他界は知らされていないため、深雪が話すまで知らなくても仕方のないことである。
克也の左手を握ると、普段から優しく包み込んでくれる温かみはない。ただ今を生きることにすべてをかけている。そんな体温しか感じなかった。
香澄は泉美と違い、恋愛には疎く婚約も結婚もしようとは思っていない。克也のことを1人の男性として見てはいるが、泉美のように〈愛〉という感情を抱いていない。
泉美は誰より克也のことを想っていると思い込んでいるが、泉美と同様の想いを抱いているのは、リーナや亜夜子も同じである。
リーナの場合は、自覚症状がないので具体的な行動には出ていないが。
克也が水波以上に自分を想ってくれるとは考えていない。正室ではなく側室でも愛人でも。克也の傍にいれるのであれば、それ以上には何も求めない。
その想いを込めて克也の左手の甲に口付けすると、一瞬だけ克也の身体が震えたように感じた。
今震えた?もしかしたら私の気のせいかもしれませんけど。
自分でもよくわからない状況に困惑しながら克也の手を離し、名残惜しそうに眠る克也を見つめて、謁見室に戻る道に足を進めた。モニターに示された克也の体温を見れば、克也が震えた事実を確認できただろう。克也の体温はあと一息で目覚めるほどまで戻っている。
だがあと一歩を踏み出すための何かが足りなかった。
何かが…。