俺は何も見えない場所にいる。
いや、見えないと言えば語弊があるか。何も見えないのではなく、暗すぎるが故の勘違いだろう。視線を下げれば自分の身体があるのが分かる。
自分の身体が光を発しているように見えなくもないが、おそらくはこの何も無い〈空間〉と呼べる場所より、自分が明るいのだろう。暑くも寒くもなく、湿潤しても乾燥しているようにも感じない。重力のような自分を抑え込むものも感じない。不思議な〈空間〉で、何故か不安ではなく安心できるそんな場所だった。
「此処は何処だ?」
不気味に自分の声が木霊するが答える声はない。この場所がどんな所なのか分からなければ、脱出するための方法も見つからないのだ。何も考えずがむしゃらに動いたとしても、落胆するのは目に見えている。
『ここは貴方の世界。貴方自身が望むすべてを叶えてくれる空間』
突如涙が滲むような懐かしい声が聞こえた。10年以上聞くことのなかったこの声の音源を見ると、今度こそ涙が溢れた。
「母、さん…?」
『たくましくなったわね克也』
年甲斐もなく、自分より細く華奢で昔と変わらない年齢不詳の容姿の母を抱き締める。ふわっと胸を締め付けられるような香りが鼻腔をくすぐる。
「何故母さんがここにいるの?」
『どうしてか思い出してみなさい。貴方は覚えているはずよ。私が貴方に何をしたのかを』
母さんを抱擁から解放して思い返す。少しばかり考えたところで思い出した。
「もしかして
『その通り。あれは私の魔法を貴方の中に残すための行動だったの。万が一のためにと思って準備していたんだけど、本当に発動させてしまうことになるなんてね』
「そんな魔法があっただなんて知らなかった」
『この魔法を作るためにすべてを賭けていたもの。不発に終わっていたら、私の苦労はなんだったのかしら』
母さんは明るく笑っているが俺は申し訳なくなった。つまり母さんが倒れたのは、俺のためにこの魔法を開発したからだ。そして過労によって亡くなった。俺のためだけに…。
「でも何故そんなものを?」
『貴方は達也と違って深雪ではなく別の女性を愛すると、〈独占欲〉に近い感情が溢れる事が危惧されていたの。その女性を失ったときに、その感情を爆発させる危険性があった。記憶にない?』
感情の爆発に近いことは1回だけあった。それは水波が人間主義者に襲われたときのことだ。怒りにより俺は感情に飲まれ、達也や深雪まで巻き込もうとした。
「あれもその〈独占欲〉からきたものだと?」
『ええ、私もそれを貴方の中から見ていたわ』
「そんなことが…」
『貴方の精神部分に私の精神をコピーしたのだから、見えてもなんら不思議はないわ』
素晴らしい魔法だが、同時に俺は母親に監視されていたことになる。あらゆる行動をしていた間も。
「…俺の行動をすべて見ていたと?」
『覚醒しているときにはよく観察させてもらったわ。大半は眠りの中にいたのだけれど』
「…そ、そうですか」
すべてを見られていなかったことだけは救われた。
「ところで此処は何処なのですか?」
『今の話の流れから分からない?聡明な克也なら分かると思ったんだけど。まあいいわ教えてあげる。ここは現実と死後の世界との境界線にある世界。貴方の【精神世界】とも言える場所かしら』
「俺の精神に書き込まれた母さんのコピーがあるから、今こうして母さんと話すことができるというわけですか」
『その通りよ。この魔法は遅延・条件発動型の複合術式で、私しか使えないある意味【固有魔法】ね』
母が亡くなってしまい、その術式は継承されていないので、この【世界】にいる俺以外に知ることはないだろう。
「この魔法はいつまでも俺の中に残り続けるのですか?」
『この魔法は一度発動すると消える仕掛けになっているわ。克也との繋がりが切れる頃には、私もそしてこの魔法も消える』
「理解しました。俺が現実世界に戻るためにはどうすればいいですか?」
『それはまた後で。それより克也は疑問に思うことはなかった?達也の眼が【理】に対して攻撃はできるけど見えないことに。克也には視えても攻撃できないことに』
確かに何度も思ったことはあるが毎回答えは同じだった。「人には出来ることとできないことがあり、それが自分達の眼なのだ」と。だが同時に不安でもあった。何故俺にだけ視えて、達也にだけ攻撃できるのか。そして2人が魔法演算領域を重ねた時にだけ視えて攻撃できるのか。
『それは貴方達2人の《眼》が、もともとは《1つの魔法》だったから。《
母は俺の驚きを正確に読み取り、その疑問にも答えた。
『貴方達2人は、元々1人の人間として産まれるはずだった。どういうわけか双子として産まれ、《
俺の内心まで見透かせるのは、俺の精神に母さんのコピーがまだ居座っているからだろうか。多くを救ったとはいえ、それ以上に近い数の魔法師を殺している。しかし母の言葉は不快ではなく、心地良く罪を洗い流してくれているようだった。それが影響したのか俺の身体が淡く。しかし確実に輝き始めていた。
「これは?」
『どうやら克也自身の罪が消えて、精神の根源が治ろうとしているようね』
「治ろうとしている?」
『現実世界に戻ろうとしているということよ』
つまり俺の身体はまだ生きており、目覚めようとしているということらしい。生きることに絶望した俺に生きる理由があるのだろうか。
『現実世界に戻る価値が、今の自分にあるのだろうかって顔をしているわね。自分の価値は自分で付けるものではないわ。他人によってつけられるものよ。貴方にはまだすることがあるはず』
俺のやるべき事…。それは深雪・達也・そして水波が愛したあの世界を守ること。それが俺の成すべき事だ。
『腹は決まったみたいね。敢えて今聞くわ。克也は何をしに戻るの?』
「俺が成すべき事を成しに」
俺が答えると光は一層輝きを増し、俺の視界を奪った。
『⚪⚪』
意識が途切れる瞬間、母が何かを言った気がしたが、脳が理解するのを拒否したかのように認識できず消えた。
現実世界に戻ったかと思い眼を開けると、今度はすべてが真っ白な世界に佇んでいた。母のイタズラだったのかと俺は思ったが、こんな手間をかける必要性があるとは思えないので、その考えを却下した。
『ようやく話さなければならないことを話せるときが来た』
「君は?」
『俺は四葉
「四葉…零、もう1人の俺?」
漂白されたような世界から現れたシルバーグレイの髪と浅紫色の瞳。俺と同年代らしき青年の言葉が理解できず、困惑しているとしっかりと答えてくれた。
『この世界には自分とは違う自分が生きる世界が数多渦巻いている。それは【パラレルワールド】と呼ばれているが、存在することを誰も知らない』
「別次元の俺だと言いたいのか?」
『理解が早くて助かるよ克也』
「君の存在が何なのかは理解した。何故俺の精神世界に入ってこられる?」
『何故か。俺も長いこと此処に眠っていたから忘れていたよ』
浅紫色の瞳を真っ直ぐに俺に向けて驚くべき言葉を発した。
『
「生まれ変わり?…なるほど。それでもう1人の俺だと言ったのか」
『俺がここに現れることができたのは、お前の心を閉ざしていた殻が割れたからだ』
「殻だと?」
『その殻の名前は【絶望】。お前は水波を失ったことの悲しみと守れなかった自分の弱さへの怒りによって、精神に直接ダメージを与え深い眠りに落ちた』
儚く微笑む
『克也、人が絶望するのは大切なものを失ったときじゃない。自分自身を見失ったときだ。俺はそれに気付かず、取り返しの付かない過ちを犯してしまった』
俺は
『俺は自分の世界、この世界とは違う別次元の世界を終わらせてしまった。…これは俺の償いだ。克也、頼む。この世界を守ってくれ。俺にはできなかった大切なものを失っても、生きる喜びを与えてくれる世界を守ってくれ』
「言われなくてもやってやるさ。水波が愛した世界を壊させやしない。相手が人間だろうと魔法師であろうと国家であろうとだ」
俺の決意の固さに気付いたのか。ぎこちない中にも嬉しそうな笑みを浮かべて微笑んだ。その身体は残り胸から上だけとなり、猶予は残り僅かだと否応なく教えられる。
『達也と深雪を頼む。俺は深雪を失い、達也の許可を得て世界を終わらせた。この世界の達也は俺の世界の達也の生まれ変わりだから、もうあんな思いはさせたくない』
「必ず守ってみせるさ2人を。この世界を」
『頼んだよ《
だが、決意したにもかかわらずそのひずみに飛び込むことができない。また救えず世界を壊してしまうのではないかという恐怖に襲われるが、背中を優しく押されることに気付いた。1歩ずつ確実に近づき、あと1歩のところまで来て、俺は背後を振り返るが何もない。意を決して飛び込む瞬間、女性と男性の手を感じて声が聞こえる。
1人は深雪そっくりであり、1人は感情が多く含まれている達也そっくり。1人は先程の
『『『『世界を救え。克也!!!!』』』』
その言葉が俺の中に入り込んできた。