ミリアルテ・ブランシェという少女は決して肝が細い方ではない。むしろ諸々の経験から同年代の少女に比すればはるかに肝が据わっているとさえ言って良いだろう。何せ彼女は帝国で今尚崇敬されている英雄にして最高権力者であるヴァルゼライドに対して真正面から「大嫌いです」とまで言ってのけたのだから。しかし、それはあくまで大事な家族の命の危機という鉄火場であったが故のものであり、平時の彼女は決して豪胆というわけではない。
「やあ、よく来てくれたねミリアルテ・ブランシェ君。こうして会えて嬉しく思うよ」
「は、はい!総統閣下におかれましてはご機嫌麗しく!」
故にこの国の最高権力者を前にして当然のように緊張しきっていた。
それはそう遠くない内にエスペラント技術が他国へと流出するアドラーにとっては紛れもない福音に他ならず、是非とも開発の功労者を労いたいという現総統の鶴の一声によってミリアルテ・ブランシェは
「ああ、そう固くならないでくれたまえ。なんといっても今回のこれはあくまで帝国へと多大な貢献を果たしてくれた君を労うためのものなのだから」
お偉い人からの好意なんてものは往々にして有難迷惑なものだーーー等とかつてぼやいていた義兄の事をミリィは思い出す。その時は好意を向けられて迷惑などという事があるものだろうかと不思議がったものだが、今のミリィは義兄が言わんとしていた事が何となくだがわかる気がした。
好意を向けられる事それ自体は決して嫌なものではないし、それを迷惑だなどと思いたくないとミリィは考えている。だが、それでも落ち着かないし接しているだけでどうしたとて緊張してしまうのだ。洗練された所作が、纏う風格がどうしたとて平常心を奪うのだーーー冷静に考えれば彼女が普段から接している人物とてこの国で5指に入るであろう位に偉い人物なのだが。
それでもチトセ・朧・アマツと接している時のようにいかないのは、それは目前の人物がミリィに向ける好意がチトセとは異なり私人としてではなく公人としてのものだからだろう。今タツヤ・奏・アマツがミリアルテ・ブランシェへと行おうとしているのは軍事帝国アドラー第38代総統として祖国に多大な貢献を果たした功労者への労いなのだ。ならばこそ否応なくミリアルテ・ブランシェは今自分はこの国で一番偉い人と接しているという事を意識せずにはいられないのだ。
「改めて君に心からの感謝を、Ms.ブランシェ。君が提唱した
「いえ、そんな。私がしたことはほんの少しのアレンジですし、師匠の残した研究を見た人ならばきっとすぐに思いついただろう事ですから」
「だとしても我が帝国の頭脳たる
浮かべる笑みは太陽のように朗らかで、ミリィを見つめる眼差しは春の陽光の如き温かさに満ちていた。自然とミリィの中にあった緊張はほぐれていく。
「そして功績に対しては
君にとっては
こちらの内面を見透かしたかのような言葉に一瞬ドキリとさせられながらもそこに咎め立てするような色はなく、告げる言葉は変わらずこちらを慮る優しさが込められていると思える温かさに満ちていた。そしてそれはこの場に招待された時に旧知の仲となったチトセより予め伝えられていた事だった。
奏総統閣下が君の功績を高く評価してその功に報いたいと言っている。何か頼みたい事があるのならば良い機会だから言っておくと良い。こういうものは余り固辞しすぎるよりもむしろ何かしら頼んでおいた方が我々権力者の側も満足出来て丸く収まるものなんだーーーと。
当初ミリィはそう言われても願いらしい願いが浮かばなかった。何せ彼女は名誉や金銭に執着する心が薄い方である。頼みたい事などと言われてもそうそう思いつく事などなくはてさてどうすれば良いのだろうかーーーと思考を巡らせていた時その目に映ったのは大事な家族が「いつか必ず帰る」という言葉と共に残した物。それを見た瞬間にミリィの頼み事は定まった。
「あの……それでしたら、どうか私の義兄に対して寛大なご措置を頂けないでしょうか?」
「君の義兄君、と言うと現在行方不明となっているゼファー・コールレイン
「はい。その……義兄が多くの罪を犯してしまった事は理解しています」
未だミリィは子細を把握しているわけではない。それでも軍により徹底的に管理されている
だが、
「でも、それでも私にとっては」
「優しい義兄だった……か?ブランシェ嬢、貴殿の義兄の罪はそこではない」
少女の精一杯の懇願、それを硬質的な響きを伴った声が遮り切り捨てる。それを発したのは奏総統その人ではなく、その傍へと控えていた女傑アオイ・漣・アマツ大将であった。
「
にべもなく冷たく切り捨てる言葉にミリィはその愛らしい顔を曇らせるが、アオイの方は小動もせず。何せ彼女は大将という高位の地位に就いている要人。その程度の事でいちいち動じているような肝の細さならばとっくの昔に職を辞しているのだから。
「ーーーと、君の義兄の犯した罪について焦点を当てるならそういう話になってしまう。だが罪ばかりを論じて功績を評価しないのもまたそれは
そしてそんなミリィへと第38代総統が助け舟を出す。その声は、真実こちらを慮っているとミリィが思えるような優しさに満ちたものであった。
「そう君の義兄であるコールレイン元少佐にはそれらの罪を償って余りある大きな功績がある。ヴァルゼライド大総統が崩御した一歩間違えば帝都が吹き飛んでいたかもしれない事件に於いて、
実際の真実はより複雑なものであることをミリィは知っている。そして目前の人物がそれを把握しているという事も。だがそれでもわざわざ表向きに流布されている内容を殊更語っているのは、つまりはそれを
「故にどうか安心して欲しい、完全なる無罪放免とはいかないにしてもまあ相応の落としどころになるようにとこちらとしても考えている。少なくとも彼が帰還した途端その罪を以て即刻銃殺刑に処す等という風にはこちらもしないつもりだ。先ほど君の願いを出来る範囲で叶えさせてもらうと誓約したばかりだしね」
「ありがとうございます!」
朗らかに笑いながら告げられたその言葉にミリィは胸を撫で下ろしながら感謝と共に頭を下げる。
「いやいや礼を言うのはこちらの方だとも。改めてミリアルテ・ブランシェ君、君の帝国に対する貢献に心からの感謝を。何か困った事があればどうか気兼ねなく相談してくれたまえ、軍事帝国アドラー第38代総統として力になれるかどうかはわからないが、チトセ君と同様にタツヤ・奏・アマツ個人として力にならせて貰おう」
和やかな空気のままに会談は終わり、ミリアルテ・ブランシェは現総統に対する確かな
・・・
「つまるところ、総統閣下なりにいずれ帰還するかもしれない狼に相応の首輪をかけておきたいという話だったのだよこの件は」
そうして用意されたグラスを空にしながらチトセ・朧・アマツはミリアルテ・ブランシェという少女の後見人を同じく気取っている仲間であるイヴ・アガペーへと今回の一件の意図を説明する。
「そう、やっぱりあの子はあくまでおまけで本命はゼファー君の方だったわけね」
「ああ、勿論優秀な技術者である彼女をあわよくば正式に軍に引き込みたいという意図自体はあったとも。だが流石にそれだけで多忙な総統直々に出張る程ではない。それこそ然るべきやり方で勧誘を続けて、当人が固辞するようであればこれまでのように民間協力者という立ち位置で居て貰うだけでも良いわけだしな」
優秀な技術者、研究者は国の宝だ。故に天才と呼ぶに相応しいミリアルテ・ブランシェという在野の技術者を正式に軍に引き込もうとすることは国の要職にいるものであれば当然の発想だろう。だがそうした勧誘にいちいち直々に出張る程に総統という地位は軽くないし、暇でもない。
「だから本命はあくまで奴を滅ぼしただらしのない冥王の方さ。いずれ帰還するアイツが帝国に仇為す可能性を少しでも下げておきたかった……とまあそういう話だな」
「そう……まあ仕方のない話なんでしょうね。私達はゼファー君がよっぽど追い詰められない限りはそんな大それた事が出来ない子だって知っているけど、この国の上にいる人たちはそうじゃないものね」
「客観的に見ればアイツはあの虐殺の日に任務を放棄し、同僚と部下を殺し、上官であったこの私の片目を抉り、その後5年もの間行方を晦まし、そしてかの英雄をも殺した男だからな。いや改めてアイツがしでかしたことを挙げるとすさまじい危険人物だなこれは」
そんなアイツを庇っている私もアオイの奴に色ボケ扱いされるのもやむを得ないなこれはーーー等としみじみとした様子で呟くチトセに思わずイヴは苦笑する。
「でも、それでもそんなゼファー君が貴方は好きなんでしょう?」
「ああ、そうだとも。私はゼファー・コールレインを愛している。アイツの為ならばそれこそこの国をも敵にさえ回して見せると思う程に。だがそれはそれとして出来得る限り公的な責任とそうした私情を両取りしたいとも思っている。だからこそ今回の総統閣下の提案は私としても断る理由はなかった」
「ゼファー君のアキレス腱であるミリィちゃんからの好意を勝ち取っておく事で少しでもゼファー君がこの国に逆らう理由を下げておきたかった……要はそれが今回の件の真相なわけね」
「ああ、そしてそれをするのは私個人ではなくこの国のトップである総統閣下でなければならなかった……とまあそういうわけだな」
例えばチトセの口からゼファー・コールレインの免罪の件をミリアルテ・ブランシェ及び帰還したゼファー本人に伝えたとしよう、そうなれば兄妹が感謝するのは必然的にチトセとなるであろう。そしてそれはこの国の頂点である総統の地位が空位となっていない現状ではとても危うい事になりかねないのだ。
何せ極晃の力は比喩ぬきに国を揺らがしうる代物だ。それを手に入れたゼファー・コールレインの好意と信頼をチトセ・朧・アマツ
「嫌な話ね。あんないい子にそんな打算ありきで接しないとならないだなんて」
「耳が痛いな。ああ、全く以てお前の言う通りだよ。清く正しく生きたいのだったら政治なんてものには凡そ関わるべきじゃないさ。だがそれでもどうしたとてそれに関わらざるを得ない立場になってしまったのさ、アイツは」
その気になれば国家をも潰すことが出来る怪物、そんな存在を当然ながら国と権力者は放置する事が出来ない。しがらみと社会性を武器にして甘い蜜を以て懐柔しようと図り出す。そうした思惑をイヴもまた多少なりとも理解しているが故にそれ以上の追及はしなかった。だが彼女にしてみればもう一点、確認しておかなければならない事があった。
「ちなみにだけど、もしも帰還したゼファー君があの力を失っていた場合はどうなるの?これまでの話は全部ゼファー君があの力を持ったままだという事が前提よね?」
ゼファー・コールレインに対してそれほどに大甘と言える措置を取っているのはあくまで彼が極晃というその気になれば国をも揺らがしうる強大な力を持った存在になったからに他ならない。だが帰還した時彼がその力を失っていて優れたエスペラント程度の存在になっていたならば?市井の少女とした小さな約束など容易く反故にするのではないのか?それこそが
「その件についてもある程度は話をつけている。無罪放免というわけにはいかないが、それでも帰還して即刻処刑されるなんて事にはならんさ」
ゼファー・コールレインがやった事はアドラーにとっても暗部に当たる部分が大きい。ならばそれをいちいち掘り返しても国にとって益するところは余りなく、逆に処断を強行した場合にチトセ・朧・アマツとイヴ・アガペーの離反という損失が発生し得るとなれば猶更だ。法の公正さという観点から見ればそれは不正義に類する行為だが、そうした綺麗ごとで済まない部分も飲み干すのが
「あの人はこうした分野に於いては私の上を行っている。統治者として綺麗事では済まないような事とてしてきたし、必要とあらばそれが出来る存在だ。故にお前の懸念もわかるとも。だがその上で信頼に値する人さ」
「そう、まあ他ならぬ貴方がそこまで言うのなら私もこれ以上は言う気はないわ。ミリィちゃんには余り関わらせたくないような事だけどね」
「ああ、その件については私も同意だよ。彼女にはこうした事に関わり合いにならずに胸を張って陽の当たる道を歩んで貰いたいものだとも」
そうして二人はともにグラスに注がれた美酒を口にする。味わった苦み毎飲み干すかのように……。
「優しい総統閣下ありがとうで済むならそれが一番無難な解決策だよ」
アオイちゃんが厳しい態度を取ったのは大体良い警官と悪い警官的なアレ。