【完結】シルヴァリオサーガRPG実況プレイ   作:ライアン

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IF含めて最後まで描いた事でようやく作者の中でタツヤ・奏・アマツという男がどういう男なのかが腑に落ちたところがありますのでその辺をつらつら描いたあとがきになります。何分最期になって作者自身気づいたみたいなアレになりますので、ちょこちょこ作中描写と矛盾が発生している部分があったりする部分があるかと思います。
うおおおおおおお作者がそういう解釈載せたらそれが正解って事になるじゃねぇかあああと思われる方は読み飛ばすなりガハハハなんか作者が勝手な事を言ってやがるぞ位の心境でお読みいただければ幸いです。


あとがき(勝利からは逃れられない)

 

 まずタツヤ・奏・アマツがどういう男だったかかというとおそらく

・ギルベルトと同様の先天的な「綺麗なもの、理路整然としたものを好み愛する」気質

・ギルベルトに引けを取らないレベルの人類史でも有数と言えるレベルの優れた才覚

・クロウ・ムラサメのような「己が描いた理想値から自分が外れる事が我慢ならない潔癖さ(子どもっぽさ)」

・アマツとしての身内に対する情愛の深さ

 

 これらが総てミックスされた事により己に課したそこから外れる事は許されないとされた理想値が「他者に対しても寛大で慈悲深い理想的な貴種」となった男だったのではないかと思われます。

 

 これに沿った形で順を追ってタツヤ・奏・アマツの軌跡を振り返っていきます。まずそれなりに腐敗してはいるし貴種らしい選民意識もあるが取り返しのつかないレベルで腐り切ってはいない身内に対しては非常に愛情深い、アドラー有数の名門奏家の嫡男としてタツヤ・奏・アマツは生を受けます。当然こうした名門の嫡男として生まれた以上はいずれ一門の当主となる事を期待されますので相応の英才教育を受けて育つ事となるでしょう。

 実情が腐敗していたとしてもこの手の英才教育で教えられる事は理想的な貴種となるよう基本的には「正しい」事が教えられるでしょう。無論貴種の当主となるべく育てるものなのでそこにはナチュラルボーン上から目線となるスメラギ教皇猊下の教えでも示されていたような、下々の者をある種の駒や数字とみなして潤滑油へと変えるような精神性を養うようなものも含まれているでしょうが、それでも基本的には下の者から畏敬の念を抱かれるような人物となるような教えが施されていく事でしょう。それが実践できているものが果たして現実に何人いるのかというのは置いておくにしても。

 そしてタツヤ・奏・アマツは秀才の極致にしてその生きた見本とでもいうべき男なのでそれらの教えに抵抗を抱く事もなくすんなりと受け容れて「自分は皆を導き模範となるべき貴種である」という自覚が己がアイデンティティの根幹へと組み込まれます。先天的に「正しさ」を愛する気質と理想値通りに生きられないと我慢できない子どもっぽさ(この時期は真実まだ子ども)の理想値がこうして幼少期の英才教育によりある程度定まったわけですね。

 もちろんこの時のお兄様はまだまだ子どもも良いところです。そして子どもというのは基本的に親に愛されたい好かれたいと思うものです。ましてお兄様の両親は貴種特有の選民意識こそありますが、当然待望の第一子にして嫡男でもあるお兄様にその選民意識の悪い部分は出ません。アマツとしての情愛の深さもあいまって深い愛情を注いでくれる両親の事を自らもまた大切に想うようになるのは必然と言えるでしょう。

 

 そうして「民を導くに足る理想の貴種」と成る事を己が理想と課した少年タツヤ・奏・アマツは幼年学校で運命の出会いを果たします。そう自分と同等、あるいはそれ以上のレベルで以て「綺麗なもの、理路整然としたものを好み愛す」ギルベルト少年です。自然と両名は親友同士となり胸襟を開いて己が理想を語り合います。当然のように意気投合して盛り上がり合ったわけですが、此処でおおよそ順風満帆の勝ち組街道を驀進していたタツヤ少年は人生で初めての矛盾と葛藤に直面します。そう目前の親友と語り合っている事を徹底的にやった場合自分を愛してくれている自分の両親もまた処断の対象に成り得るという点に。

 既に社交界へのプレデビューを果たし次期当主の嫡男としてあちこちに顔を出し始めていたタツヤ少年はその聡明さ故に気づき始めていたのでしょう、今のアドラーがそうした理路整然とした綺麗さとは対極の腐敗と停滞が蔓延している事も。また自らの両親が自らが理想とする「民を導くに足る理想の貴種」とは程遠い存在である事からも。

 その葛藤と矛盾に直面したタツヤ少年はおそらく当人すら意識していない無意識の内に理想の修正を行います。すなわち自らが正しくあろうと努める事自体は素晴らしき行いだが、そうした正しさを盾にとって他者に対してあるよう強いる行為は正しくない。故に本当に正しいのはそうした弱さに対しても寛容さを持ちあくまで導となる光となり遅咲きの花を見守るように努める、それこそが本当に“正しい”存在であり貴種なのだという正しさのアップデートです。これならば彼は彼の愛する両親を必ずしも処断する必要はありません。正道へと立ち返るようにこれから説得を行っていけば良いのです。そして自身と同等からそれ以上に“正しさ”を愛する親友がこちらの“正しさ”を認めてくれたことも相まってタツヤ少年の中では完全にそれが“正しい”生き方として己が人生の指標、新たな理想値となります。

 

 そして皮肉にもこの人生で初めての公人としての正しさと私人としての情の対立と葛藤によって生まれたそれは実際にとても“正しい”内容です。それこそまだ理性が正常に働いていた頃のギルベルト少年をして親友の方が“正しい”のだと認めるにもやぶさかではなく、これから先に出会うクリストファー・ヴァルゼライド、アルバート・ロデオン、チトセ・朧・アマツ、アオイ・漣・アマツといった数多の傑物達をして心からの敬意を抱くに足り、それこそゼファーさんのような闇サイドをして「自分にはとても無理だけどそれが出来る人は実際立派だし賞賛されるべきだと思うよ」と思われるような模範とするに問題ない正しき人生の指標なわけです。

 もちろんそうやって己に理想の生き方を課しても本来であればそうそう人生は自分の思い描いた通りに行かないという“現実”と直面するわけですが、あればあるほど良いの体現者であるタツヤ・奏・アマツという男はその総合力の高さ故にそうした“現実”を時に相応の辛酸を味わいながらも乗り越えて行ってしまいます。何せ自分よりもはるかに不遇の身でありながらそれを跳ね除けている英雄とそんな英雄に続かんとする親友が居るのです。そんな彼らと共に歩むためにも自らもまた正しく理想通りの己であるように努める事は当然の事です。英雄の追従者ではなく真に肩を並べんと望むのであれば猶更です。

 

 そしてそんな風に“理想の貴種”足り得る事を己に課している男とクロウ・ムラサメという己に“最強の剣”である事を課している男の相性が良いのも当然です。何せ最強の剣である従者の忠誠に応えるために主君であるお兄様はそんな剣に相応しい主君であるよう努めます。そしてそんな主に相応しき剣であるようムラサメ師匠も務めるわけですから。通常ならどちらかが相手に付いていけないという形で破綻する関係性もどちらもその才覚と精神が最高にかみ合っているわけなので破綻を起こさず互いに対するいい刺激として双方の成長を促す形で続くわけです。

 クリストファー・ヴァルゼライドとアルバート・ロデオンという心の底から尊敬する自分よりもはるかに不遇の身から這い上がり腐敗したアドラーを変えんとしている者達、そして初めて心の底から共感し合い理想を共にする事が出来た無二の親友ギルベルト、自らへと忠誠を捧げてくれる最強の剣であるクロウ・ムラサメ、誰もがタツヤ・奏・アマツを今のアドラーでは珍しい“高潔なる理想的な貴種”として認めて讃えてくれるのです。この生き方こそが“指標となる正しい生き方”なのだという確信はお兄様の中で極めて強固なものとなり、そうあるよう己に課す想いもまた強まる一方だったでしょう。

 これでそうした想いがどれだけ強くても肝心の器が付いてこないというのであれば遠からずパンクして終わっていたでしょうが、何せタツヤ・奏・アマツはギルベルト・ハーヴェスを相手にしても引けを取らない人類史でも有数と言えるレベルの才覚を持ち、それを驕らず磨いている男なのです。どこまでも順当に成長を遂げて行き、成長をすればする程よりその総合値は高まっていき、立ちはだかる“現実”は彼にとってその時点では無理だったとしてもいずれ成長して乗り越えるもの、踏破するものとなっていきます。

 

 そんな最中理想的な歯車のかみ合いを見せていた彼の誇る“最強の剣”は主君よりも一足先に理不尽な現実へと直面します。すなわちエスペラントという人を星に選ばれた超人へと変える新技術、それに自分が適応する素質を持たぬ側であったという現実にです。主君の最強の剣であるという己が理想とする生き方を奪われた慟哭はタツヤ・奏・アマツにとっても到底無視し得ぬ嘆きとしてその心に響きます。

 何故ならばクロウ・ムラサメが主君であるタツヤ・奏・アマツを誇りに思っていたようにタツヤ・奏・アマツもまた己が剣であるクロウ・ムラサメを誇りに思っていたからです。彼が剣士としては依然自分よりもはるかな高みに位置している事も、こと剣術という分野のみに限れば自分よりもはるかに努力を重ねていた事も彼は知っているのです。それらの差がエスペラントとしての適性があるのかどうかという一事のみでひっくり返ってしまったのです。それが血統派との派閥闘争で勝利するのに極めて有効な技術である事も、国益の観点からも秘匿するという選択肢などあり得ない絶大な恩恵を齎すものだと理解していてもどうしても心の中にある種の疑念が生じた事でしょう。クリストファー・ヴァルゼライドは目先の勝利の為にこの世に新たな格差を生み出してしまったのではないかーーーと。

 

 その優れた才知故にヴァルゼライド閣下が何か得体のしれない巨大な存在(カグツチさん)と繋がっている事にも薄々勘付き始めたでしょうし、その疑念はアスクレピオスの余りにも怪し過ぎる様子でピークとなった事でしょう。副総統へと就任した直後のお兄様はそんな風に尊敬する戦友を信じたい気持ちと拭い難い疑念の狭間におり、だからこそ同じ想いを抱くおっちゃんの相談を受け、二人で直談判するという選択を取ったのでしょう。

 万が一、ヴァルゼライドが自らの権力欲を満たすためだけに総統となった野心家という“正しくない”存在であった際にはチトセネキにも協力を依頼し処断して、「スラム出身の男が腐敗したアマツを打倒し新たなる秩序を築いた」という血統主義に風穴を開ける事となる“最善の未来”と比較して「立派なアマツが腐敗したアマツと自らの立身出世の為に民を犠牲にした邪悪な野心家を処断して国を立て直した」という“次善の未来”となってしまう事を百も承知で自らが総統の座へと就く事も視野に入れながら。この時点でのタツヤ・奏・アマツはクリストファー・ヴァルゼライドを尊敬しながらも同時にいよいよとなればヴァルゼライドと対立する事も辞さない極めて冷静な傑物だったと言えるでしょう。 

 

 しかしそんな風にしてヴァルゼライド閣下の下を訪れたお兄様は慮外の真実を打ち明けられ、第二太陽を掌握するという大望を打ち明けられます。おそらくタツヤ・奏・アマツがクリストファー・ヴァルゼライドという男に真に敵わないと思い知らされたのはこの瞬間だったのでしょう。アストラルの発生源である第二太陽の掌握、それを為せば無論帝国に千年の繁栄を齎す事が出来るでしょう。ですが当然出来る事はそれのみではありません、閉塞したこの世界の未来を真に拓く事が出来るのです。正しさを愛すればこそいつしか抱くようになっていたこの世界は正しくないという想い、さりとて世界とはそういうものである以上はその中でベターな未来を最大限模索していくしかない、それこそが“正しい”生き方なのだという極めて真っ当な思考をしていた正しさを愛する傑物は文字通り雷霆に打たれたかのような衝撃を味わったのでしょう。

 チトセ・朧・アマツが評したようにそれは国の命運どころか下手をしなくても世界の運命さえ一個人に委ねる完全なる丁半博打です。後に当人自身が述懐したように副総統という責務を思えば止めるべきです。タイマン勝負でやり合えばヴァルゼライド閣下には到底敵わないと言っても、後にずっ友相手の勝ち方を見てもわかるようにそもそもタツヤ・奏・アマツは数を揃えて囲んで叩く戦法こそ人類の持つ最強戦術だと思っている男であり十八番でもある男です。タイマンで敵わないのであればチトセ・朧・アマツの協力も仰げば良いのです。裁剣天秤に自身を裁く権利を与えたのは他ならぬヴァルゼライド閣下なのですから。

 ですがお兄様はその選択を取りませんでした。何故かといえばヴァルゼライド閣下の語るその理想に魅了されてしまったからでしょう。幼い頃より覚えていた世界を覆う閉塞感、それを吹き飛ばし世界の未来を拓く大偉業だと信じたからでしょう。何のかんのとおっちゃんを説得する際に色々と理由は付けましたがそれらはその聡明な頭脳により導き出されたアルバート・ロデオンを説得し得る後付けの理屈だったのでしょう。彼がクリストファー・ヴァルゼライドへと協力する事にしたのは何よりもその理想に魅了され、ヴァルゼライドという男ならばそれをなし得るいいやこいつに為せないというのであればそれこそ誰にも為せないだろうーーーと思わされてしまったからだったのでしょう。

 

 おっちゃんにとっての黄金時代はおそらく東部戦線時代であったと推測されますがお兄様にとっての黄金時代はおそらくこの時から英雄の落日に至るまでの5年間だったのでしょう。心底この男には敵わないと思い知らされた尊敬する英雄から、後事を託す後継者として見込まれ、尊敬する朋友として頼られてその大偉業を達成するべく助力する日々。自分という存在はこれを為すためにこそこの世に生を受けたのだーーーとそんな錯覚さえ抱いたのかもしれません。

 そして英雄を深く敬すればこそ、そんな英雄に冷めた目を向けるイヴさんやルシードに対してはどうしても隔意を抱いてしまったのではないでしょうか?自分の好きな存在を否定してくる存在に隔意を抱くのは人間の性です。死体を実験台にされて勝手に兵器にされた彼らにしてみれば自分達をそうした張本人である英雄とそれに助力した自分達へと隔意を抱くのは正当かつ当然なものであるとその聡明さで理解し、長らく己に課し続けた他者に対しても寛容な貴種という生き方がもはや魂にまで染みついていればこそ、それは表に出る事はありませんでしたが両名のお兄様に抱く感情が決して良くないのと同様にお兄様の両名に抱く感情も決して良いものではなかった事でしょう。

 ですがそれらを表に出す事は決して正しい事ではありません。堂々たる様子でその嘆きと怒りを正当なるものだと認めて受け容れる事こそが高潔なる強者というものです。そしてそうした高潔なる強者の振る舞いがとことん板についているのを越えて、そもそもそういう振舞いしか出来ない雄々(かな)しき存在がクリストファー・ヴァルゼライドという男です。闇側にとっては逆に嫌悪を抱く事になるその振る舞いも“正しさ”を愛する男にとっては敬意を抱くに相応しいものです。そんな男が英雄の朋友として恥ずかしくない振る舞いを己に課すのは必然と言えるでしょう。かくして各々の事情は異なれどどっちも思うところはあれどそれを表に出す事はないままに時間は過ぎて行きます。ルシード辺りは時折チクリと嫌味を言ったかもしれませんが、その辺の嫌味を受け容れる事こそ“正しい”と信じればこそお兄様は気にしません。気に等していないのだという形で本人の中では処理されるわけです。あるいはその程度の嫌味や罵詈雑言は聞きなれている立場なので真実気にしていなかったのかもしれません。その手の恨みつらみ嘆きならばそれこそ血統派から改革派に転向した時、正確にいえば自分が元々改革派であった事を明かした時に聞き飽きていたでしょうから。

 

 そうして現実とはあくまで踏破していくものであった持てる者の筆頭についに真の意味でままならぬ“現実”へと直面する事となります。心の底から勝利を信じていた英雄の敗北という現実にです。それもカグツチという英雄と雌雄を決する事になると想定していた相手にではなく、ゼファー・コールレインという彼が好きになる事が出来ない責務から逃げた脱走兵の逆襲劇によってです。おそらくこの時の彼の心境は神祖に完敗して帝国が滅亡寸前にまで追い込まれた時のようなパニックに近い心境だった事でしょう。

 かくして全く予想だにしていなかった顛末となった聖戦だったわけですがどれほど嘆いてもクリストファー・ヴァルゼライドという破格の英雄をアドラーが失った事には変わりありません。当然急場をしのぐ為に副総統であったお兄様は多忙を極めます。ある意味ではその多忙さが心の中で渦巻く動揺を誤魔化してくれたのでしょう。そうして英雄の竹馬の友にして自身と同じく共犯者でもある男アルバート・ロデオンへと接しているうちに気が付きます。未だに納得のいかない思いが渦巻いている自分とは違い、おっちゃんはその敗北を真に受け止め()()しているという事に。自分は親友をきちんと止めてやるべきだった、裁剣女神(アストレア)のいう事は何もかも正しかったと心底悔いているという事に。

 それを目の当たりにした時のお兄様の心に過ぎったもの、それはおそらく焦りだったのでしょう。ずっと行い続けた高潔なる強者、理想的な貴種としての振る舞いはもはや演技だとか仮面だとかそういう領域を飛び越えてタツヤ・奏・アマツの素顔そのものと言って良い状態にあります。そしてその聡明な頭脳故におっちゃんの態度こそ真に高潔な態度というものだと理解出来てしまう。何故ならば自分達は失敗したのです。目的を達成する事は出来ずクリストファー・ヴァルゼライドは死んだのです。しかも極晃なんていう自分達がまるで想定していなかったものが誕生するおまけつきです。これを失敗と認めないのは誤魔化し以外の何物でもありません。そしてそれは余りにも幼稚でみっともない行為で高潔な強者、民を導く理想の貴種の振る舞いとは程遠いものです。

 だからこそお兄様は自分でもおそらく意識さえしないままに自らへと課した“正しい"振る舞いをしてしまったのでしょう。「自分達は間違えた、総統閣下をお止めする事こそが自分の為すべき事であった。その責務を怠ってしまった」と。根っこの部分で自分達は“正しい”事を為そうとしたのに何故だ!と納得などまるで行っていないにも関わらず、真に英雄の敗北を受け容れる事無く、もっともらしい理屈で以て自分自身さえも誤魔化して。

 自分自身さえそうやって誤魔化してしまった以上おっちゃんとの酒の席でもぶっちゃけ話で愚痴る事も出来ません。何せ自分はクリストファー・ヴァルゼライドという英雄の敗北を受けとめて、彼を止めなかった事を悔いて反省しているのですから。ゼファーさんがマイナ姉ちゃん相手に「本当は怖かった」と本音を言う事が出来ずに「贖罪」だとかそういうもっともらしい理屈で誤魔化したのとやっている事は極めて近いと言えるでしょう。

 

 ですがそれでも皮肉な事にそれは確かに自分を戒めて正しく在ろうと努めているという点に於いては自制心の発露と言われるものであり、公人として紛れもなく“正しい”行為ではあるのです。だからこそ正しさを愛するギルベルト・ハーヴェスは特にそれを糾弾する事もなく、むしろ親友の振る舞いこそが“正しい”と認めたのでしょう。

 グレンファルト・フォン・ヴェラチュールは千年の経験値からタツヤ・奏・アマツがある意味では光狂い以上にそうした“正しさ”に囚われているが故の傑物である事を見抜き、だからこそその己に課した“正しさ”に縛られた男が自分達の慮外の手を打ってくる事はないと確信したのでしょう(なおずっ友とスフィアに至ったIF世界線)。

 本気おじさんは多分その辺を見破ったとかではなく好き勝手に吼えていただけだと思います。あの人はそういう方ですし魔星になって完全に頭がパーになった状態でしたし、お兄様のそれはもはや仮面だとか欺瞞だとか言えるレベルではない素顔とほぼ一体化したものでそんな状態の本気おじさんが見抜けるような代物ではないですから。

 シズルさんとかナギサちゃんはその辺気づけなかったのでしょう。何せお兄様は基本的に私事と公事を混同する事を強く戒めている男です。故に仕事上の悩みを家庭に持ち込むような事はなく、家庭に於いては善き夫、善き父、善き兄として振舞うからです。自分は夫(兄)に対してして貰えているだけのものをちゃんと返せているのだろうか?みたいな事を時折不安に思いながらも、出来る事は自然とそんな善き夫(兄)に相応しく在れるように自分もまた善き妻(妹)で在ろうと務めようとする事位だからです。

 

 かくして極めて強固な自制心で以て己を律しながらも真の意味では自省出来ていなかった男はその優れた才知と仲間の協力を得た事で見事にクリストファー・ヴァルゼライドという英雄の空白を乗り越えてアドラーという国を軟着陸させる目途が出始めたところで誤魔化し続けていた己の心の深奥からの叫びに直面したのでしょう。すなわち何故“第二太陽”の獲得というこの世界の未来を拓く“正しい”行いを諦めなければならないのか?という叫びです。

 何せタツヤ・奏・アマツは本当の意味で英雄の敗北を受け容れる事が出来ていないのです。その敗北に納得できていないのです。さも反省しているようなポーズを取って当人自身も自分は敗北を受けとめて反省したと思い込んでいますが心の底では納得できないと叫び続けているのです。

 勝って勝って勝ち続けてきた、時に辛酸を舐める事はあれどそれはいずれ乗り越えるための前段階に過ぎず、その優れた総合値から失敗とてリカバリーする事が出来ていた男にとってそれは人生で初めて味わう理想の挫折であり、心を軋ませる激烈な痛みです。それこそ「自分達はまだ負けたわけではない。失敗したわけではない。人が本当に敗北するのは往く事を諦めた時だ。理想に向かって進んでいる時人はその時点で現実に勝利している」等と言った一見雄々しく思えるようなそれらしい理屈で以てその心を覆わねば耐えられぬ程に。

 

 そうして理想という酔いに浸る事を選ぼうとした男はあと一歩のところで踏みとどまる事が出来ました。この時彼を踏み留めたものそれはそうするのが“正しくない”からといったそういう理屈ではなかったのでしょう。彼を踏み留めたもの、それは自らがそうする事を選んだ時に快諾するであろう親友以外の自分の大切な人々がどう思うか、果たしてどんな表情を浮かべるのか、それが心に過ぎったのではないでしょうか?ですが同時にタツヤ・奏・アマツの心には依然として燻ぶりが残り続けたのでしょう。そうした身近な存在の幸福と安寧を以て往く事を止めるというのならばそれは結局のところ自分達の為した事は血統派とさして変わらないのではないのか?いやある意味ではより悪化させてしまったのではないか?という想いが。

 英雄の示した第二太陽の掌握という理想に魅せられていたが故に。その理想を成就した果てに黄金時代をもはるかに上回る約束された繁栄が新世界にて齎されると信じていたが故に。英雄と共に自分達がその大偉業を為すのだと一心不乱に駆け抜けていた時代に確かな充実感を覚えていたが故に。それを阻止したゼファーさんが責務から逃げ出した脱走兵という好きに成れない人種であった事も相まって英雄の敗北に納得できないという想いが燻ぶり続けたのでしょう。

 

 神祖の存在をリベラーティから教えられた時、彼の心が共感していたのはきっとリベラーティよりも神祖の方だったのでしょう。心情的にはむしろ神祖に同情さえしていたのかもしれません。こんな理屈にすらなっていない“正しさ”からは程遠い逆恨みで以て千年もの積み重ねの果てに成就させんとしている大望を邪魔されようとしているとはなんとも可哀想にーーーと。それでも彼は軍事帝国アドラーの総統です。かつてグレンファルトを相手に語ったようにアドラーの繁栄とアドラーの民の幸福を最上位に置くのが彼の責務であり務めです。

 かくして踏み切った神祖滅殺に於いて彼は完膚なきまでの敗北を喫します。神祖の慮外の手を打つ事が出来ず亡国寸前まで追い詰められた、まさに完全無欠の大敗北です。それでも抗うと決めた時の彼を突き動かしたもの、これもまたおそらくそうするのが総統としての務め等と言った理屈ではなかったのでしょう。ただ自分を信じてくれている者達がいる、共に戦ってきた戦友達が未だ諦めず抗わんとしている、このまま戦わなければ自分が大切に想う者達の未来が奪われる、人が戦う理由等どれか一つでも十分だというのにそれら総てが揃っているのだから戦う以外の選択肢などありはしないとそんな心境だったのでしょう。それが自分達が多くの者達に強いてきた事に対するあるいは報いと呼ばれるものであったとしてもそんな事は関係ないのです。極限状況に於いて人を突き動かすのは理屈ではないのですから。

 

 そうして待てども待てどもその時が訪れずリベラーティから事の次第を粗方聞いた時、タツヤ・奏・アマツはおそらく周囲の者が心配になるような大笑いをしたことでしょう。神祖の為そうとしていた神天地という今の世界に苦しむ弱者を救い得るという点に関しては否定する事が出来ない理想、更にはそれを止められた際の次善策まで用意していたという用意周到さ(勘違い)、それらはタツヤ・奏・アマツにとって“正しい”と認めるに相応しいものです。だがその正しき理想に轢き潰されそうになった時彼の心に去来した想いはなんだっただろうか?そうこんな終わりは認められないという想いです。無論轢き潰されそうになる時彼らはその理想を知りませんでしたが仮に知っていたとしてもやる事は変わらなかったでしょう。こんな終わりは認めることが出来ない納得できないと叫びながらきっと抗う事を選んだでしょう。無論神天地を否定する理屈自体はその聡明な頭脳から色々とひねり出す事は出来ますが、それらはあくまで後付けのものとなるでしょう。絶望的と称する状況下で自分を突き動かしたもの、それはそうした理屈等ではなかったのですから。

 

 この時ようやくタツヤ・奏・アマツはゼファー・コールレインの事を認める事が出来たのでしょう。自分達に抗い英雄を打倒した彼の行いが正当な行為だと自分に言い聞かせるのではなく心の底から認める事が出来たのでしょう。そうして認める事が出来たからこそ同時に気づきます。自分は本当のところでは彼の行いと存在をこれまで認める事が出来ていなかったという点とそれを正当だと認める事が出来るようになったにも関わらず「いやそれでもやっぱり納得出来ねぇわ」と叫んでいる自分がいる事に。つまりはまるで英雄の敗北を受け容れる事も、まして反省する事も出来て等いなかった自分がいる事に。

 

「なんだ……ただの餓鬼だったのか、俺は」

 

 ひとしきり大笑いした後彼に去来したのはそんな想いだったのでしょう。誰もが自分を高潔で立派な大人だと讃えていた。自分自身もそう在るべきだと務めていた。でも何の事はない自分は多くの者が大人に成るに際して経験する現実の辛酸というものを本当の意味で向き合っていなかった。それを散々歳を取ってからいざ突きつけられたが故にそれと向き合いたくなどないと駄々を捏ねていた大人の振りをした子どもに過ぎなかったのだーーーと。

 此処で似たような拗らせを抱えていたムラサメ大尉は剣の道にこそその生涯を抱えていたが故にこの気づきを得た際に自分は結局何をどう生きても苦しむのだろうという諦観と自嘲と共に自分を見放したわけですがお兄様は気づきます。そんな自分を信じ支え続けてくれた数多の存在が居る事を。だからこそ自分もまたそうしたみっともない部分のあるただの人間に過ぎなかった事を受け容れ再び歩み出す事が出来たのでしょう。かつては吐露する事は出来なかった自分の中にそうした想いがある事さえも認める事が出来ていなかった「実は自分は英雄の敗北に納得仕切れていない」というみっともない想いをおっちゃんへと吐き出す事が出来るようになったのでしょう。

 

 「“勝利”からは逃れられない」ーーーそれは生まれが高貴で、家族友人含めた周囲の関係性も良好で、人類史で有数と言える才覚を持ち、顔立ちもハンサムな上に人付き合いが良く、それでいて高め合える好敵手も欠かさず、トドメとばかりに実現させたい高貴な理想があるようなあればあるほど良いの極致と言える成功者であっても例外ではない。何故ならば多くのままならない他人がいるのが現実なのだから。それと向き合わぬまま積み重ねた“勝利”は否応なしにいつか自らが積み重ねた“勝利”の影で生まれた数多の敗者の嘆きと向き合う事を強いてくる。その時にその痛みとどう向き合うかを問われる時がきっといつか訪れる、とそういう事なのでしょう。

 その嘆きに向き合いこのままならなさこそが現実なのだと受け容れ、その上で自分を立派な大人だと信じてくれる者達のためにもそう在ろうと努める事を選べたのが本編のお兄様で、もっともらしい理屈で以てその痛みから向き合う事から逃げてスフィアという力で以てそうしたままならぬ現実を砕き、自らの耳に入れたくない嘆きの声を封殺する手段を取った傲慢なる太陽神に成り果てた雄々しいようでその実かなりみっともない恥知らずこそがスフィアルーラーであったというわけです。

 

 

 ……とまあそんな具合に原作のテーマをより強調する事が出来る良い感じに纏まったところでアレなのですが、これをどうにかしてしまえる一種の答えこそがグレンファルトの掲げた神天地なんですよねぇ。誰かの勝利が誰かの敗北を生むのは現実世界が多くの人の寄り合い所帯であるが故なので。

 各々が自分の好きに出来る神天地であれば各々がどれだけ好き放題勝利を掲げてままならない現実を砕く事を選んでも特に問題はないわけです。もちろん原作でも指摘されたように多くの問題があり、加えて結局それはグレンファルトの掲げた勝利で以て世界を塗り替えるある種のグレンファルトの勝利の押し付けであるという大前提はあるわけですが。それでもいつスフィアルーラーみたいな光狂いのツインドライブで数億単位の犠牲が出るのかわからん世界やぞ問題や、そもそも十氏族だのが平気で君臨している世界だしアドラーとか明らかに数多の嘆きを量産している側やろ問題などが立ちはだかる事を思うと「そうやって否定できるのはお前達が最終的には今の世界を肯定出来る程度には恵まれた側だから言える事だろう?」と言われてしまえばまあどうしても返答に窮する類ではあるというか。やっぱり伊達に千年間統治者やっていたインテリが考えて考え抜いた末に至った人類救済の方策ではないというか。

 ただまあ神天地にはグレンファルトが最高責任者であるという不可分の欠陥があるのでやっぱりそこの部分こそが最大の問題にはなって来ると思います。グレンファルト・フォン・ヴェラチュールは千年の歩みの果てに自らを神だと勘違いした九条榛士の残骸であって決して無謬の神ではないので。人は神には成れない。いるとすればそれは自らを神だと勘違いするようになった傲慢な恥知らずに過ぎない。そして生まれながらの超越者が居たとしてもそれはすなわち逆にいうと多くの人が持っている人間らしさを持たない存在でもあるという事なのはクリストファー・ヴァルゼライドという英雄が示した通り。結局人間を救えるのはどこまで行っても同じ人間なのだーーーとそういう事なのでしょう。

 

 

 最後に前回乗っける予定だったのに乗っけ忘れていた炎奏と他の極晃が激突したらどうなるかをお互いの相性含めて記したいと思います。炎奏は第二太陽を掌握する前想定です。

 

 

・天奏

 

 多分第二太陽を掌握せんとする炎奏の前にカグツチがよみがえって立ちはだかったとかそんな感じの流れ。カグツチの性格上英雄の意志を継いだ後継者としてスフィアルーラーへと言祝ぎと共に多分大喜びする。「おお、英雄よ。やはり貴様は真なる光であった。お前の意志を継ぎその背に続いた者がこうして己の前に現れた!(尚特異点のケラウノスはry)」みたいな感じで。そしてあくまで大和の為に戦うカグツチ相手であれば帝国民は当然のようにスフィアルーラーを支持しますので、始まるのは光と光の最終決戦である聖戦。どんな極晃だろうと神天地は崩せない!と豪語していた神祖は聖戦の余波で吹き飛んで終わる事でしょう。どんな極晃でも神天地は崩せないって本当?

 

・滅奏

 

 最悪オブ最悪。真の不俱戴天と呼ぶべきは滅奏と天奏ではなく滅奏と炎奏であるというべきレベルで不毛なレスバを繰り広げる事必須な互いの間に敬意等微塵も存在しないであろう嫌悪の応酬が為される組み合わせ。ただ散々描いたように炎奏は「うおおおおおおお多くの責務を背負った支配者を自分のエゴで打倒しておきながらその責任から逃れるような真似は許さねぇぜえええ」という滅奏が光の勝利を台無しに出来ると同じく滅奏側の勝利を台無しにしようとする光の癖にねちっこいところがあるスフィアなのでそのレスバは全帝国民へと公開中継される。そして炎奏はその辺を一見すると雄々しい感じの言葉で誤魔化すスキルに関しては自分自身さえも誤魔化すことが出来るレベルで習熟しているので突かれると痛いところがいっぱいあるゼファーさんでは帝国民からの支持を獲得できないので厳しい。

 天奏を仕留めた道連れアタックもずっ友がうおおおおおお二度も逆襲等に指標となる光を奪わせてたまるかあああああとその身を犠牲にして庇う事で防ぐ。多分光を尊ぶ守護の盾としての務めを完遂して満足気に逝く糞眼鏡とそんな親友の献身に涙を流しながら「友よ!お前の事を決して俺は忘れない!!」と決意を固めるシルヴァリオ恒例自分達を主人公だと思っているラスボス共の光景が繰り広げられる。とはいえ光を踏み躙るためならば手段を選ばない点こそ最大の武器と原作者に称されるゼファーさんがどこかの「この世は力こそパワーレベルを上げて闇をぶっ放せば大体なんとかなるよな!」思考の子のように光に同じ手段を出してくるとは思えないので、善良な小市民である作者には思いつかないような手段で以てスフィアルーラーの勝利を台無しにして相討ちには持っていくはず。ただし自分達の奉じる光を屠った存在としてゼファーさんの存在を帝国民は記憶する事になるので多分帝国には戻れない(何しろゼファーさんの過去のやらかし部分も含めてスフィアルーラーはねちっこく公開しているので下手にネキが庇うような真似をすると今度はネキの信用問題にもつながってくる)。ゼファーさんはきっと英雄が如何に良識と良心のあるタイプだったのかをしみじみと実感する。

 

・界奏

 

 どこまでも優しい対話の力を以てスフィアルーラーへと熱狂する多くの帝国民を正気に戻す事が出来るのでスフィアルーラーの真骨頂である光の共鳴を防ぎ戦いの規模を抑えることが出来て相性は極めていい。ただし界奏は数あるスフィアの中でも最弱であるという点とスフィアルーラーはぶっちゃけ二体の光の魔人が共鳴している時点で十二分に強いという地力の問題が立ちはだかってくる。その優しさを以て傲慢なる太陽神に成り果てた義兄を人に戻す事に出来るかが最終的な分水嶺になってくるのではないかと思われる。正気に戻った場合はある意味でスフィアルーラーにとってはそのほかのスフィアに負けるよりも一番の罰になるのではないかと思われる(散々酔っぱらってやらかした後に正気に戻ってそれを直視するって一番辛いよね)。

 

・烈奏&閃奏

 

 聖戦に至る事無く炎奏の完膚なきまでの敗北で終わる。雄々しさと誠実さで炎奏を上回る高潔なる光は帝国民の支持を持っていく。ケラウノスは憐憫と共に傲慢なる神に成り果てんとしたかつての友を斬り、二体の光の魔人は恍惚としながら逝く。神天地が開闢する前に炎奏が生まれていたらほぼこの展開になったと思われる。

 

・人奏

 

 ラグナの方はグレンファルトと相対する時と同等レベルの嫌悪感でいっぱいだろうがスフィアルーラーの方のラグナへの評価はかなり高い。人類の可能性を示すその極晃へと言祝ぎを送りながら至上天界の顕現への協力を依頼すると思われる。とはいえラグナがそれに乗るはずもないので当然のように両者は激突。イザナやスメラギ君に対してやった事、グレンファルトの「阿鼻叫喚怨冥大釜」への対処方法を思うに界奏がやるような手法で以て炎奏の覚醒をある程度封じる事は可能だと思われる。ただ人奏は人造スフィアなためある意味で極めて無機質で合理的な極晃なので一際共鳴度合いが強いタイプまでも正気に戻す事は難しく減衰効果は界奏には及ばないものと思われる。そして原作者曰く人奏の同じ極晃への戦い方は現実の戦争よろしくどれだけ準備して相手をメタれるかが大事という事だが、そうした土俵で競い合う場合スフィアルーラーと審判者は人類史でも有数の天才であり同時にあの時代におけるトップクラスの戦争巧者という諸々が立ちはだかってくるので厳しい戦いになると思われる。

 

・神奏

 

 光の覚醒連発で食い下がるが御先を人質にしていないのでグレンファルトが追い詰められたタイミングで御先が原作と同じ事をやり「無限の希望も絶望も重ねた総てが俺の力だ!光しか誇れぬ貴様に穿てる道理はないと知れ!!!」の名言と共にスフィアルーラーに完全勝利した絶対神UCとなる。多分スフィアルーラーは「見事だ!勝者よ!!!」とどっかの歯車だけが友達さな男と似たような事を言って割と満足気に散っていく。




お兄様は生まれながらの貴種のシルヴァリオ的光属性で自制は滅茶苦茶出来てしているけど本当の意味での自省が出来ていなかった人。
ゼファーさんはスラム出身で闇属性の究極で自省は出来るけど自制は出来ない人。
実はヴァルゼライド閣下以上にゼファーさんと対極と言える存在だったんだなって。
ちなみに作者はお兄様を当初煉獄さんモチーフで作り始めたはずだったのに何故かこんな新西暦でもトップクラスにめんどくさい気質のハイブリッド(結果としてなんか良い感じにバランスが取れている)になってしまった模様。

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