「小破じゃ済まなかった、ってことか……」
俺は顔を歪め唇をギリッと噛み締める。日が暮れる直前に帰投した涼月の入渠は、今もまだ終わっていない。
地形を利用し、なだらかな丘それ自体を巨大な掩体として地下に秘匿された泊地の中核施設。それでも入渠設備や工廠、倉庫などの多くは壊滅的な被害を受け用をなさない。廃墟を拠点とする現実を、最悪の形で思い知らされたのが、今回の戦闘だ。
艦娘の練度と修復に要する時間は比例し、
時刻は既に夜、空には月が輝き、白い光が周囲の濃密な緑を柔らかく彩っている。丘を少し上ったあたりに体育座りで膝を抱え、ぼんやりと待つ俺。
言うまでもなく、俺は涼月を待っている。無事を確かめたい、その思いに嘘はない。そしてそれ以上にぐらぐらと沸き立つ明確な怒り。彼女にではない、自分に対しての。
右の拳を左の掌に叩きつけた時、丘の登り端に設けられた重いスライド式の扉が、ずりずりと鉄を引きずる音と共に開き、人影が一つ現れる。姿を確認した瞬間、俺はがばりと立ち上がり、差し掛かった陰に涼月が視線を上げる。
夜の作る濃い陰影に浮かぶように立つ、冴えた月明りをきらきらと銀髪に纏う涼月の姿は、ただ美しかった。入渠明けだからだろうか、インナースーツとコルセットなしのセーラー服姿で、小脇に折り畳んだ布地を抱えている。
一瞬だけ顔を綻ばせた涼月だが、すぐにぎこちなく目を伏せる。少し躊躇った後で、彼女は丘を登り俺のすぐそばまでやってきた。抱えていた布地を置くと、その上にお尻を載せちょこんと体育座り。そうか、その布は……いつも肩に羽織っているジャケットか。俺の視線に気づいた涼月が、俺から目を逸らしたまま話し始めた。
「いつも羽織ってるジャケットですけど……今回の戦闘でボロボロになっちゃいました。……………………ごめん、なさい…………」
何に対して彼女は謝っているのか? 修復の見込みもないのに戦闘に出たこと? 入渠設備の問題を伏せていたこと?
「二度と……二度とこんな事……」
語尾が震えているのが分かる。二度とこんな事にしないには……どうすればいい? この泊地での、曖昧だが心地よい日々に、俺は甘えていた。
特務がどうとかじゃない、俺は涼月にこれ以上傷ついてほしくない。いや……綺麗事を言うな、俺が涼月を傷つける事、自分のせいで彼女が傷つく姿を見る事から逃げていた。それは……間違っている。彼女に決断をさせて、生じる結果の責任を負う事への躊躇い。
それも終わりだ。今まで口に出さずにいた事に正面から向き合おう。
――涼月、俺は君を傷つける。だから、その傷は俺に背負わせてくれ。
「ここには過去しかない。取り返せない時間のために……これ以上自分を磨り減らすな」
ぐらり、と涼月は頭を揺らすと、顔を膝に押し当ててしまい表情は伺えない。けれど大きく震え始めた肩と続く嗚咽は、言葉よりも雄弁に彼女の心を語っているのだろう。だが……長い沈黙の後、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた涼月が口にしたのは、俺の想像とは違っていた。
「敵機の襲来……知らせを受けて、真っ先に思ったのは……安曇さん、貴方を守ること、でした。貴方がこの島に来てからの日々は……とても暖かく、自然に笑っている自分に気付きました。
一旦言葉を切った涼月は、無理ににっこりと微笑むと右手を顔に近づけ、細い人差し指で涙を拭った。少しだけ、俺の方に距離を縮めるように体勢を直し、今度は俺から目を逸らさずに話を続ける。
「でも……やっぱり私はこの泊地の艦娘で……それは忘れては、いけないこと……。ここで育ちここで戦い、ここを守るため散華した多くの仲間がいて、私達を導いてくれた司令官がいて、一番大事な時に守れなくて、それでも生き残って……その全てが涼月、なんです。たとえ取り返せない時間だとしても……無かったことには、できない……」
涼月が抱えるのは、元司令官への思慕だとか、
記憶は美しい程、鮮烈な程、そして悲しい程、心が囚われる。囚われた心は、変化を否定する。だから俺は、その否定を否定する。これが正しいのかは分からない、それでも俺は涼月に向き合うしかない。彼女の方へ向き直り、俺からも近づく。手を少し伸ばせば届く距離。
「俺には俺の目の前にいる涼月だけが全てだ。答えてくれ、君を育み形作った過去がここにあるのは分かる。なら、君の未来はどこにあるんだ? ……涼月、俺と一緒に行こう。君には帰るべき海が必ずある」
赴任先の無い指揮官候補に過ぎない俺だが、言いながら唐突に理解した。
俺に足りないのは能力でも努力でも運でも経験でもない。ただ一つ、覚悟だ。
涼月がこの孤島でただ一人戦い自分の居場所を守ろうとしたように、絶対にやり遂げる、死に物狂いで勝ち取る、という断固とした意志。
半端な努力で手に入るのは、やはり半端な結果……それが今までの俺だった。涼月の帰るべき場所を作る事……彼女に生き方を変えろと俺は言っている。その責任をどう負うか、今の俺にはそれしか思いつかないが、必要な努力なら惜しまない。
不意に両肩に力がかかる。涼月が俺の肩を掴んで力を込めている。震えながら俯いていた顔が持ち上がり、穏やかな彼女にしては稀な、はっきりと激情を載せ吠えた。
「任地も無い貴方とどこに帰ると……? 適当な事を……言わないでくださいっ! ……でも、そんな言葉を嬉しいと思ってしまう……自分が、嫌……」
一転、頼りなく消え入りそうな言葉の後半とともに再び顔を伏せた涼月。俺の肩を掴んでいた手もだらりと滑り落ちる。華奢な肩に夜風がそよぎ、それでも涼月は身じろぎ一つせずにいる。
ささやかな、ひょっとしたらこの環境下だから生じた気の迷いなのかもしれない。それでも自分の心に起きた、あるいは起きつつある変化に戸惑い懼れ、これまで自分を支えてきたものに頑なに縋ろうとする、悄然と項垂れた儚げな少女が、俺の目の前にいる。触れれば壊れてしまいそうな、このまま月明りに溶けて消えてしまいそうな、そんな危うさが怖かった。だから――――俺は手を伸ばす。
「あっ……」
涼月の右肩を抱き自分の方へと引き寄せる。短く一言だけ発した涼月だが、抵抗することもなくされるがままに、柔らかな体をそのまま俺に預けてきた。頬に触れる髪、強張った体の硬さと温もりが、存在の確かさを教えてくれる。
「……単純な事なんだ。俺は君を……涼月を失いたくない。ただ、それだけなんだ」
装飾をそぎ落とした思いを、言葉を、はっきりと伝える。それきり俺は何も言わず、涼月も何も言わないが離れようとはしない。徐々に涼月の体の強張りは解け、おずおずと俺の肩に頭を載せてきた。不意に左肩の辺りに気配を感じ、ちらりと視線を送ってみる。
涼月の左手が、俺の背中越しにもぞもぞと動き、俺の左肩に止まろうか止めようかと、行ったり来たりを繰り返している。だから俺は左腕を畳み、彼女の手を摑まえる。
ぴくり、と俺の肩に載せた頭が揺れ、ようやく落ち着いたように涼月が呟いた。
「私……弱くなったんですね……。こんなにも……ほっとするなんて……」