16. 戻れない海
「はぁ……」
『涼月、また……』
溜息を周期的に零す涼月に、さすがに
作業と言っても洗濯物を畳むだけなので、それほど時間がかかるものでもない。けれど今日の涼月は何かおかしい、とソウの目に映る。単純作業は意外と無心になれるから……涼月はこういうのが案外好きなようだが、衣服を畳む布擦れの音が続かず、遮るように溜息が混じると手が止まり進みが悪い。
やっぱりあの夜の事が……とソウは振り返る。
入渠をきっかけに、涼月は心に押し込めていた感情を打ち明けた。この泊地に寄せる思いや行方不明の司令官への思慕は、涼月自身の在り方そのものだった。分かってたつもりだけど、改めて聞かされたソウの胸は痛んだ。
一方で、不可抗力とはいえこの島に取り残され、一緒に暮らし始めた安曇の存在も、涼月の中で特別な位置を占め始めたみたい。レンが余計な事を言うから……挙句に、雰囲気に流されるようにキ、キスまでしようとして!
まじまじと見つめるソウに涼月は全く反応しない。手にした洗濯物がくしゃりとなっているのに気に留めず、ぼんやりとしている。熱に浮かされたように、涼月は右手の人差し指をそっと唇に近づけ、つつっとなぞると軽く甘噛み。今まで見たことのない、思わずドキッとさせられる雰囲気と仕草。
「そうして、欲しかったのに……」
唐突に涼月の唇から零れた言の葉。それって――――涼月、そこまで安曇の事を……。ソウの視線にようやく反応した涼月はにっこりと微笑んでいるが、表情はどこか切なさの色で彩られる。不思議そうに
「ごめんね……心配かけてる、よね……」
途切れ途切れに、取り留めなく語られる言葉を聞きながら、ソウは自分の間違いに気が付いた。残留か帰還か、元司令官か安曇少佐か、などという二者択一ではない。過去への憧憬も未来への不安も、大理石の模様のように混じり合い絡み合い、涼月自身も戸惑ってどうしたらいいか分からないんだ。
それでも……涼月を連れてゆくと、帰る海があると、真っ直ぐに訴えてきた安曇相手に、揺れ惑いながら涼月も応えようと……いや、受け入れようとしたんだ。きっとまだ涼月は元司令官の事を忘れていない。だから――――。
自分自身を押しやる、強引な
そりゃ涼月が心の底からそう望んで安曇を選んだのなら、それでも構わない。けど……ほんとに、いいの?
「でも……でも……あんなの、恥ずかしくて……もう、できない……」
わっと声を上げて両手で顔を隠して身悶える涼月に、ソウは安堵を覚えてふぅっと息を吐く。
『残りの洗濯物をやっちゃって、アイツの所に届けようよ』
そういう事は、涼月が自分の気持ちをきちんと理解してからでも遅くないよ、うん。そういえば、安曇は何かやる事あるって言ってたけど……?
◇
「おっと……やっちまった」
ぐらりと傾いた机面に、俺は慌てて頬杖を突いていた肘を持ち上げる。破損した部分を切り離し、元のサイズの半分ほどになった元司令官の執務机は脚の長さが微妙に揃っておらず、肘をつく位置を間違えると途端に傾いてしまう。机から落ちかかった書類を揃え、落ちてしまった分を拾って再び机の上に。
何をしているのか? 辛うじて焼け残った書類や資料をかき集め、俺なりに学んでいる。
防衛側の視点でこの海域を俯瞰的に見てみると、絶妙な位置に泊地は設置されている。北方に位置する海域の戦略拠点の前進基地で、主任務は哨戒と索敵に加え攻勢防御を担う。ここに配備されていた戦力は、正面突破には多大な犠牲を払うと深海棲艦側に躊躇させるのに牽制と威嚇の効果を持っていたはずだ。
ただ、この海域を支配する
気持ちを切り替えるように、手に触れた島の地図を机に広げてみる。入り組み複雑な線を描く島の海岸線を指でつつっとなぞり、ふと指を止める。あの夜、冴えた月明りの下で涼月は俺の腕の中にいた。これ以上ない間近で見た横顔……額や鼻梁、唇や顎の描く綺麗なラインを思い出していた。
「似てる、かな………って、俺は何言ってんだ……」
『何気ない物に相似を見つけるのは恋に落ちた証拠らしいよ?』
自分の独り言にツッコんだ自分に、さらに被せられたツッコミ。声の主は、開けていたドアに凭れ掛かる
『どうしたのさ、急に? 今までそんな事してなかったよね?』
「……自分の言葉には責任を持とうと思ってね」
司令官になる、任地を得る、それは改めて具体的で鮮明な俺の目標になった。そしてこの泊地を率いていた元司令官は、まさに超えるべき壁であり、同時に得難い教材だ。手元に残る資料や報告書、泊地施設の配置を見れば見るほど、優秀な手腕が分かる。
そんな男を胸に宿す涼月に、一緒に行こう、帰る海があると口に出した以上、果たさねばならない。レンは俺が何を考えているのか、きっと分かっているのだろう、それ以上何も言わずとてとてと近づいてきた。
『……
「よせよ……礼を言うなら、むしろ俺の方だ」
深々と頭を下げているレンに、慌てて顔を上げるよう手を振って見せる。俺の方こそ……中途半端で努力の意味を分かっていなかった俺の目を覚ましてくれたんだ。礼なんてどれだけしても足りない。けど……なんで謝るのさ?
『いやぁ……邪魔しちゃったからねぇ。あとちょっとでキス――』
「だぁぁぁぁーーーーっ! 何言ってんだお前は!! あれは……」
机を両手でだぁん!と突いて思わず立ち上がり、その拍子に机は大きく傾いて机上の書類が舞い上がる。勢い込んだもののそれ以上言葉が続かず、俺は力なく肩を落とす。あれは……決して
近づいてきたレンが、短い手に持った円筒状の物体を差し出してきた。何だよこれ? 書類の整理に梃子摺ってるってのに。後でな、とややぞんざいに対応すると、ずいっと更に差し出してきた。
「何だよ一体? 今日はどこに行ってたんだ?」
『通信筒。港に浮いてた。中、見て』
ぶっきら棒な口調のレンを見ると、砲塔に顔色があるなら確かに青褪めているように思える。
ん? 通信筒……?
今度は俺が顔色を変える番だった。航空機から所定の場所に投下し情報を伝達するのに用いられる機材だが、と言う事は……? 慌てて金属製の筒の中ほどを上下反対に捻り、内側にある書類を引っ張り出し読み進める。読み終えて俺とレンは顔を見合わせるしかできずにいた。
『安曇……意味、分かるよね』
レンが緊張感を漂わせ、俺に念を押す。こくりと頷いた俺は、からからに乾いた喉から声を絞り出す。俺と涼月の重ねてきた、頼りなく曖昧で、それでいて優しかった時間は、終わりを告げようとしている。
「ああ。この島は……戦場になる」