月の帰る海   作:坂下郁@リハビリ中

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32. 去り行く背中

 どおん、と空を震わせる轟音が響き、雷が徐々に、しかし確実な接近を声高に訴え始めたが、この場にいる四人は誰一人何も言わず動かない。涼月の、心を引き絞るような切なく悲しい言葉にも、男は何も言わず沈黙を守り続ける。寄り添う女もまた同様に。

 

 大理石の模様のように、葛藤も逡巡も愛惜も、何もかもを綯交ぜにした複雑な感情が涼月の中に渦巻いているだろう。それでも彼女は握り締めた俺の手を離さず、むしろ一層力を込めてくる。

 

 俺と共に在る意思表示なのか、あるいは誰かに縋りたい悲鳴なのか。ちらりと横目で涼月を盗み見る。俺の視線には気付いているはずだが、涼月は頑ななまでに無表情を貫いている。眼の縁は赤く彩られ、彼女の思いが涙として出口を探しているのだけは分かる。涼月は、意志の力で感情の奔流を許さないようだ。

 

 

 そんな俺も、二人を見ていると複雑な思いを抱いてしまう。

 

 

 組織も時世も、仲間も戦いも忘れ、全てに背を向けてただ生きてゆく――あのまま俺と涼月が元泊地の島で時を重ねていたら、そうなっていたかも知れない。

 

 二人で畑を耕して、その日に収穫した野菜で作った食事をとり、日暮れと共に灯す柔らかな蝋燭に照らされながら、他愛もないことで笑い合ったり、あるいは何も言わなくても満ち足りる、静かで、時が止まったような暮らし。

 

 俺も涼月も、心のどこかできっと一度は夢見て……そしてあの時は選ばなかった道。

 

 涼月はどれだけ辛くとも、決して逃げようとしなかった。敵の脅威からも自分の背負った過去からも。そんな彼女でも、孤独に圧し潰されかけていたのかも知れない、俺と出会ったのはそんな時だ。俺は、彼女が独りじゃないと、帰る場所があると、分かって欲しかった。戦うなら未来のために、そうも言った。

 

 グレイゴーストを討つためだけの命と自分を定めた涼月に、どれだけの決意が必要だったのか想像もできないが、それでも俺の言葉を受け入れてくれた。物語の完結ではなく、新たに描く航海のために、生きるための戦いへと命の舵を切ってくれた。

 

 俺が彼女にそうさせたとも、彼女が自分で選んだとも、どちらとも言えるが、生きる事は選択の連続で、都度その結果に向き合ってゆくしかない。俺達が選んだのは、お互いの手を取り前に進む事。涼月が戦場で命を賭けるなら、俺は物心両面で彼女が帰る場所であり続ける。

 

 心を閉ざし戦いから逃げた目の前の男を非難し蔑むのは容易いが、そんな権利も資格も誰にも無い。逃げるのもまた選択の一つで、生死の境を彷徨えば、生き方や価値観が変わる事もあるだろう。それでもーーーー。

 

 「若き少佐よ……なぜ戦う? 死ぬのが怖くないのか?」

 

 俺の思考を見透かしたように、唐突に口を開いた男。分かり切った事を聞く男に虚しさを覚えたが、俺の回答は決まっている。

 

 涼月の手を握り返す。真っ直ぐに、短い言葉で十分だ。

 

 

 「涼月と共にあるためだ」

 

 

 この先俺は数多くの艦娘と出会い、指揮官として向き合いながら共に戦ってゆく。それでも、彼女……涼月だけはどれだけ時が流れても俺の心の特別な場所にいるだろう。何をしても中途半端で目的意識の薄かった俺に、目指すべき生き方とそのために戦い続ける覚悟を選ばせてくれた唯一の存在。

 

 空が一瞬白く光り、やや遅れて轟いた雷鳴と地響き。遠くの方に落ちたようだ。稲光りに目を奪われたところで、携帯用通信機がザザッという雑音と共に受信、俺は通話モードに切り替える。

 

 「どこほっつき歩いとる、この鉄砲玉が。吾の方は準備進んどるんじゃろうな?」

 「牧島大将!」

 「牧島大将!?」

 

 飛び込んできたのは呉の本隊を率いる牧島大将の声。母艦あたごに連絡しても俺は不在なのでこっちに直接連絡した、という事か。このタイミングで連絡が入るというのは、呉本隊の進軍が予定より遥かに早いようだ。

 

 大将に反応した俺の声に、なぜか元司令官も激しく反応する。今までの虚無的な態度ではなく、驚愕の色がありありと窺える。

 

 「グレイゴースト(クサレマ●コ)に儂のお出ましじゃ、と教えてやらにゃな」

 「無茶だっ! いくら大将でも……ヤツは……」

 

 敢えて無線封鎖を解除し、大物の存在を知らせるーー陽動と誘引を兼ねる牧島大将の放胆な行動に、元司令官は悲鳴のような声を上げ取り乱した。

 

 「安曇、誰がおるんじゃ?」

 

 ちらりと男の視線を送ると、男は妙にサバサバした表情で一回深く頷いた。男の声が通信機越しに届いてしまった以上、誤魔化しようがない。相変わらず無表情を貫く涼月だが、僅かに唇を噛み締めている。

 

 簡潔に状況を説明し、牧島大将の判断と指示を仰ぐ。

 

 「……こんな所におったとはのぉ」

 「面目ありません。おめおめと生きております」

 

 どうやら牧島大将と元司令官の間柄は、単なる面識以上のものがありそうだな……。不思議なほどに抑制された、むしろ優しささえ感じられる大将の声音に俺は驚かされ、ただ黙って二人の会話を聞くしか出来ずにいた。

 

 「……怖いんか?」

 「…………は、はいっ! 死にたく……死にたく無いのです……」

 「なら……好きにすりゃええ」

 「はっ!? そ、それはどういう……」

 「戦えと無理強いはできん。吾が降りる言うなら是非も無い」

 

 話が飲み込めない、と言うように男と女は顔を見合わせていたが、遠くに灯りを見つけた闇夜の旅人のように、強張った表情が綻び始めた。

 

 「そ、それは私達を「そこの青二才はの」」

 

 俺の事か? 思わず自分で自分を指差すが、他にいないな。淡々としているが、それでいて口を挟ませない峻厳さを帯びた口調で牧島大将が話を続ける。

 

 「生身で深海のクソ共とやりおうて半死になっても、涼月(自分の女)のために戦地に舞い戻る奴じゃ。阿呆じゃが、その分肚ぁ座っとるで」

 

 二人の視線が俺と涼月に降り注ぐ。牧島大将の発言内容に間違いは無いが、言い方っ!

 

 「しかし……吾は『おめおめ』言うたの? 逃げても、命を惜しんでも構わん。じゃが逃げを恥じとるのを恥じんか! 吾が選んだことじゃろうが! 吾に付いて来てくれとる女にまで恥かかす気か? 逃げるなら肚括って逃げいっ!!」

 

 地面に両手を突きがくりと項垂れる男に、牧島大将は最後の言葉を掛ける。この大将の口の悪さは、こういう部分を隠すためなんじゃないかと思わせる、懐の深さ。

 

 「どこまで行っても自分からは逃げられんのじゃ。そんでも気が済むまで逃げるがええ。そん果てで立ち上がりとうなったら儂に知らせい。それまで吾らは行方不明じゃ、さっさと()ねい」

 

 

 俺からの連絡を受け、至急駆け付けてくれた特務艦隊の手隙の子達とともに、男と女はゆっくりと、何度もこちらを振り返りながら去って行った。本来なら俺と涼月が送り届けるべきだが、涼月の様子がどうもおかしい。まぁ……気持ちとしては分からなくもない……。

 

 取り敢えず二人は俺達がベースキャンプを設置している港近くの広場に行ってもらう。傷の手当だって必要だし、各人に配給している水やレーション、簡易救急キットなどをまとめた個人用携行セットもあって困らないはずだ。その後に二人がどういう選択をするのか、そこまでは分からない。できるなら一緒に避難船に乗って欲しいが、どうしても逃げると言うなら、せめて前向きに逃げてくれる事を願うだけ……。

 

 去り行く元司令官の背中を、目に焼き付けるように涼月は一言も発せずただじいっと見つめていた。その背中が小さな黒い点になった頃、俺は背中から涼月をそっと抱きしめて、耳元で呟いた。

 

 

 「泣きたかったら……もう泣いていいんだよ?」

 

 

 くるりと腕の中で体を回した涼月は、俺の胸に顔を埋めると大粒の涙を零し、声にならない声で叫び出した。それは限界を超えた雨雲から叩きつけるような雨と雷が降り注ぎ始めたのと、ほとんど同時だった。

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