アンダードッグは彼女の横で   作:島流しの民

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あ、あれ?いつの間にこんな時間が経ってたんだ…?


Scene16 : おしるこ

 

 

 気が付いたら話し合いは終わりかけていた。

 黒山さんと老人は一人の役者について話しているようだった。

 舞台役者、明神阿良也。この名前は、舞台に疎い私でも知っていた。なんでも、凄まじいほど役に入った演技をするのだとか。舞台役者という存在があまり有名ではない日本において、彼の名前は百城千世子ほどの知名度を誇っているわけではないが、それでもかなりの有名人である。どうやら、彼と夜凪さんが共演をするらしい。そんな有名人と共演する夜凪さんが羨ましくもあったが、もし私が夜凪さんだったら緊張しすぎて死にそうなのでどちらかというと安堵の感情の方が大きかった。それに、剣のように鋭い演技をする二人が織りなす劇を、私は聊か楽しみにもしていた。

 話によると、明神阿良也は現在役作りのため狩猟に出かけているようだった。

 意味がわからない。

 

「ほら、帰るぞ」

「え、あ、はい」

 

 気づけば、黒山さんがこちらを見ていた。どうやら話し合いは終わったようだ。黒山さんは舞台に座っている老人に挨拶もせずに歩いて行った。

 残された私は、失礼のないようにととりあえずお辞儀だけする。先ほどまでは黒山さんに向いていた瞳がこちらを向いた。美しい瞳だった。

 このままここに居たら話しかけられそうなので、私は急いで黒山さんの後を追った。

 

 劇場から出て、長い廊下を歩きながら、私は黒山さんに尋ねる。

 

「あの、さっきの人、誰なんですか?」

「お前、役者やってるくせに知らねえのかよ」

「芝居とかそういうのは、あんまり詳しくなくて」

「巌裕次郎。日本の演劇界の重鎮で、舞台演出家だ」

「舞台演出家……ですか」

「役者の演技指導とかやってるやつだよ」

「ああ、なるほど……」

 

 不意に、黒山さんの歩く速度が少し落ちた。私は彼の横に並び、その横顔を見る。相変わらず不機嫌そうな表情だった。

 

「それで、夜凪さんがその巌さんの劇に出るんですか?」

「ああ、その予定だ。だが、別に知名度を上げるためじゃない。あいつの演技を更によくするためだ」

「……そうなんですか」

「ああ。明神阿良也との共演はあいつにとって有益なはずだ」

「…………なるほど」

 

 俯いたまま、ボソリと応えた。特に言葉の意味を考えて発したわけではなかった。

 何故私と夜凪さんはこうも違うのだろうか。私は拒絶され、夜凪さんは皆から重宝され。一体どこで道を間違えてしまったんだろうか。

 惨めで惨めで仕方がない。気を抜けば、涙が落ちてしまいそうだった。いっそのこと消えてしまいたかった。

 贔屓されているとは思わない。第一私に誰かを責める権利なんてないし、夜凪さんも黒山さんも、責められる筋合いなんてない。

 ならこの身を裂くような怒りはどこにぶつければいいんだ。私はどうすれば彼女に追いつけるのか。

 いや、追いつけるはずなんてない。私はまだスタートラインにすら立てていないのだから。

 

 百城千世子に、オーディションに落ちたと言えば、彼女はどんな反応をするのだろうか。そう考えると、惨めさで死にそうだった。

 

 

 

 駐車場に出る。閑散とした駐車場にぽつんと存在しているバンはどこか滑稽でもあった。

 黒山さんがバンの鍵を取り出し私の前を歩きだしたので、私は静かにそれに付いていく。

 

 しかし、俯きながら歩いていた私は、不意に立ち止まった黒山さんの背中に思い切りぶつかってしまった。

 数秒の間立ち止まっていた黒山さんは、俄かにこちらを振り向き、私を見下ろしながら言った。

 

「おい雑用係」

「……私、雑用係じゃないんですけど」

「いいだろ別に。どうせ職に就いてねーんだし」

「未成年ですし」

「うるせえな。とりあえず、自販機でコーヒー買ってこい。ほら、小銭」

 

 そう言って、黒山さんが小銭を渡してくる。私はそれを握りしめ、ため息をつきながら応える。

 

「……なんで今なんですか。帰ってる途中でコンビニにでも寄ってったらいいじゃないですか」

「今飲みたいんだ。早く行け。そこら辺の喫煙所にあるだろうし」

「副流煙とかどうするんですか」

「誰もいねえよ。はよ行け。余った金でお前のも買ってこい」

「……はぁ」

 

 言いあっていても意味がない。まあ、少し歩くだけで飲み物代が浮くのだ、そこまで悪い話ではないだろう。私は受け取った小銭をポケットに入れて、劇場内へと足を向けた。

 後ろから投げかけられているであろう視線をあまり気にしないように劇場内に入る。暗いので少し怖い。早く買わなければ。

 

 劇場内をうろうろとしていると、二階に上がった階段のすぐそばにバルコニーに続くドアがあった。ガラス戸には丁寧に喫煙所のマークが貼られていた。

 コーヒーはあるだろうかと思いながらガラス戸を開ける。すると、私の目の前をゆったりとした煙が流れていった。次いできつい煙草の匂いが襲ってくる。私は思わず咳き込んだ。

 

 涙目になりながら顔をあげると、喫煙所の端っこのベンチに先ほどの老人が座っていた。

 思い切り人いるじゃないかあのヒゲ野郎と心の中で毒づいて、とりあえず挨拶をしておく。私の挨拶を受けた老人、巌裕次郎は、一度大きく煙を吐き出してから煙草の火を消した。

 

「ここは喫煙所だぞ」

「えっと、その……自動販売機を探してて」

「……そこにある」

 

 巌さんが顎で指した方向には二つ自動販売機が並んでいる。礼を言って、あまり煙草の煙を吸わないように息を止めながら自動販売機の前に立った。

 

 

 

 

 ──黒山さんはコーヒーが飲みたいと言っていたが、果たして彼はブラック派なのだろうか。

 

 

 

 

 そんな詮無い考えが浮かび上がり、自販機に小銭を入れていた私の手が止まる。

 いや、詮無いことなどではない。もしこれで黒山さんがブラックが飲めない甘党だったらどうする。また怒られてしまう。かといって適当に微糖を買う訳にもいかない。果たして私はなにを買えばいいのだ。長考しすぎたせいで、せっかく止めていた呼吸を再開してしまい、煙を大きく吸ってしまった。

 自販機の前でうんうんと唸っていると、後ろから足音が聞こえてくる。振り向くと、すぐ後ろに巌さんが立って、自販機を眺めていた。どうやら何かを買うようだ。いや、それなら別の自販機に行って欲しかった。

 小銭を入れボタンを押す気配がない私に呆れたのか、巌さんの視線は心做しか厳しい。

 

「おい、何やってんだ」

「え、あ、ごめんなさい。黒山さんが何飲みたいかよくわかんなくて……」

「あァ? 黒山の飲みもんなんてこれでじゅうぶんだろ」

「あ」

 

 そう言うが早いか、巌さんは自販機の左下にあった温かい『おしるこ』のボタンを押した。

 まさかこんな暑い日におしるこを飲むイカれた人間がいるとは思っていなかったのか、自販機はガタガタと戸惑いを隠せないような音を出し、しかしそれでも命令通りの缶を吐き出した。

 放っておく訳にもいかないので、しゃがみこみおしるこを取り出す。思わず声が出そうになるほどに熱い缶だった。

 

「怒られるのは私なんですけど……」

「怒り返せばいいだろ、そんなもん」

 

 なんとも理不尽な爺さんである。

 私はため息をついて、自販機の前を譲る。巌さんは少し迷い、カラフルなサイダーのボタンを押した。不健康そうな飲料水だ。私は自分用のお茶を買い(巌さんに邪魔されないよう少し注意して)、喫煙所から出ようとする──が、その前に巌さんが私を呼び止めた。

 

「お前、名前はなんて言う」

「……犬山です。犬山千景」

「そうか。で、お前」

 

 結局名前で呼ばないのかよと些か呆れながら、巌さんの顔を見る。おしるこの缶が熱く、思わず持ち直した。

 巌さんは、しばらくの間何も言うことなく、ただ静かに目を細めていた。まるで視線で私の心の内を穿とうとしているかのようだった。

 

「お前、俺になにか言いたいんじゃないのか?」

 

 彼の視線の中に私から何かを探ろうとしている色が見えてしまい、思わず身構えていた私に肩透かしを食らわすかのように、巌さんが言葉を放った。

 その言葉の意味がよくわからず、私は巌さんの目を見た。

 

「何かを言いたい……ですか? 」

「俺に、というか、俺たちに、だな。黒山と話している時、えらく怨嗟の籠った瞳でこちらを見ていたもんで、気になっちまったのさ」

「それは……」

 

 巌さんは先程の話し合いのことを言っているのだ。

 

「……別に、何もないです。ただちょっと体調が悪かっただけなんで」

「俺の仕事は演出家だ」

「それは知ってます」

「最善の方法を選ぶのが俺の仕事だ」

「知ってます」

「じゃあなんで、お前はそんなに恨めしそうな顔をする?」

「…………」

 

 巌さんが喫煙所のドアの前で立ち止まる私の前を通り、ベンチに座って煙草に火を付けた。

 ゆらりと紫煙が揺蕩う。巌さんの草臥れた溜め息が微かに聞こえる。

 彼は知っている。気づいている。私の心に住まう悪魔に。

 心を丸裸にされた私は、最後の抵抗として、俯き黙り込んだ。

 

 ──こうすれば、みんな許してくれる。

 ──こうすれば、私は私のままでいられる。

 

 

 本当に、吐き気がする。

 

「俺の職業柄、お前みたいな奴からよく同じような視線を貰うことがある」

「…………」

「いい加減面倒くさいんだ。一々説明すんのも」

「……別に……」

 

 説明してくれなんて、言ってない。

 その言葉が出て行かない。

 多分それは、わかっているから。彼が私のことを全て理解しているのを。

 

 一縷の望みなんてない、その現実に。

 

「お前にゃ無理だよ」

 

 知ってるよ。だから妬んでるんだ。だから僻んでるんだ。

 

「……夜凪さんは可能なんですか?」

「知らん。だが試してみる価値はある」

「…………」

 

 ほら、やっぱり。

 夜凪さんはなんでも出来る。

 彼女は特別だから。彼女は天才だから。

 

 巌さんの視線を感じる。穴があったら入りたい気分だ。

 

「努力もせずに主人公になろうとするやつに、努力して脇役になった役者を罵る権利なんてない」

「……わかってます」

「わかってないだろう」

「わかってますよ……!」

 

 心の内側で暴れる悪感情が抑えられず、怒りとなって露呈する。

 巌さんは再び疲れたように溜め息を吐き、煙草の火を消した。まだ半分以上残っていた煙草は灰皿に押し付けられ、奇っ怪なオブジェのような形になりながら喫煙所に咲き誇った。

 そしてそのまま、肺に残っていた最後の煙を吐き出して口を開いた。

 

「悪いな、別に説教するつもりはなかったんだが」

「……いえ、私こそ声を荒らげてしまって、すみません」

 

 お互い黙り込む。どこからか鳶の声が鋭く鳴り響いた。

 

「おい、犬山」

「はい」

「お前、役者か?」

「……違います」

「違ったのか。じゃあなんでこんな所まで黒山に着いてきたんだ」

 

 言いながら、胸ポケットから煙草をもう一本取り出す。私がじいっと見ていると渋々しまいこんだ。

 

「役者になりたかったんです。けど、落ちちゃいました」

「その割には随分と平気そうだが」

「もともと、自分自身に期待なんてしてなかったです」

「自分に期待してないやつなんかいねえよ。いるとしたらそいつは自分自身に期待してる自分を知られたくないだけの馬鹿だ」

「……巌さんは、自分に期待してるんですか」

「してるさ」

 

 何ともないように彼は言った。その愚直ともいえる純朴さが羨ましかった。

 

「俺はもっとできる。俺ならできるはず。俺だからできる。俺は俺が舞台演出家になってから、ずっと自分自身を信じてきた。周りのヤツらの評価なんて、気にしてなかったさ」

 

 サイダーのキャップを開け、眩しそうに目を細めながらそれを飲む。昔を思い出している表情にも見えた。

 蝉の声が潮騒のように震えていた。

 閑散とした駐車場の中で、入道雲の影が静かに泳いでいる。

 左手に持っていたペットボトルに浮き出た玉の雫が滑り落ちた。花火のような紋様を地面に作り出した。

 

「ただ」

 

 巌さんが続ける。

 

「アイツらには、もっと期待してる」

 

 力強い言葉だった。

 アイツらというのが誰なのか、私には聞くことが出来なかった。言葉の中に滲む愛の前では、そのような事を尋ねること事態が野暮のように思えた。

 

「羨ましいです……」

 

 消え入りそうな自分の声が鳴る。果たして何に羨ましがっているのか、私にも分からなかった。

 

「夜凪景がこれほどまで皆から支持されていることがか?」

 

 鋭い言葉が胸を抉る。だが、否定することは出来なかった。

 

「そうなのかも、しれません」

「羨むのは悪いことじゃない」

「けどそんな自分が嫌いなんです」

「そうか」

 

 巌さんは適当に話を切り上げた。顔を上げると、彼の鋭い瞳と目が合った。

 

「お前は、演技のために命を捨てる覚悟があるか?」

「……どういうことですか」

「演技に死ねと言われたら、お前は死ぬ事が出来るか」

 

 巌さんの言葉の意味がわからず、私は少しの間黙り込んだ。

 

「…………わかりません」

「出来ないだろう」

 

 ばっさりと切り捨てられる。だが、彼の言葉は正しい。私自身も、私が演技のために死ねるとは思っていなかった。

 

「それがお前と夜凪の違いだ」

 

 巌さんはハッキリとそう言った。その瞳に、私は吸い込まれているような気分になった。

 

 


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