放課後になった。
私はぼうっと椅子に座ったまま、天井を見上げていた。
夜凪さんは既に帰ってしまっている。先ほど一緒に帰ろうと提案すると、「今から用事があるから」という一言で切り捨てられてしまった。なんとも悲しい話である。
「あ、そういえば、この後ちょこと会うんだった……」
若干の憂鬱に浸りながらぼそりと呟く。千世子ファンからすれば垂涎の的だろうが、先ほどまで彼女に対し黒い感情を抱いていた私にとっては、あまり楽しい時間とは思えない。
少し時間を潰そう。
鞄を取って立ち上がる。横顔を照らす陽光が眩しい。
放課後色に染まる廊下には、何人かの生徒が疎らに見えた。友人もいたので適当に挨拶をして通り過ぎる、元子役なので、敬遠されがちな私だったが、有難いことに友人はそれなりに存在している。
宛もなくぼんやりと彷徨っていると、図書室のプレートが見えた。
そういえば去年は入ったことがなかったなと思い、スライド式のドアを開ける。
図書室は寒気がするほどに誰もいなかった。埃と古い紙の匂いが充満していた。
電気は点いておらず、窓から差す光だけが唯一の光源だった。溶けるように山々の峰に落ちていく太陽にあわせて柔らかくなっていく光に照らされた埃が、古臭い図書室を幽玄な空間に変えていた。
ゆったりと歩き、本棚を見て回る。何やら小難しいことが書かれた書物がずらりと並んでいる。
「何を探してるの?」
不意に、そんな声が聞こえた。
振り向くと、ほんの貸し出しスペースであるカウンターの向こうに、一人の生徒が座っていた。図書委員のようだ。
何度か話したことはあるが、そこまで仲の良い友人といえるほどの間柄でもない、所謂知り合いの友達というやつだ。
図書委員の少女は何も応えない私を訝しんだのか、徐に首を傾げた。肩から前に垂らされた、鳩尾辺りまで伸びる三つ編みが美しい。
カウンターに積み上げられた書物越しに見える彼女は、その大きな黒縁眼鏡のせいか、ひどく知的に見える。
退廃的な美しさに酔う私に、図書委員は再度問いかける。
「何を探してるの?」
「……特に探してるものはないかな。何か面白いものがあれば読もうかなって」
その言葉に少女は手を顎に添え、少しだけ俯いた。どうやら私におすすめの本を脳内で見繕っているようだ。
暫くして、顔を上げる。
「海外の作品の方がいい?」
「日本の陰鬱な名作よりかは、海外の方がいい」
私の皮肉交じりの言葉が面白かったのか、図書委員の少女はくすくすと笑う。肩に乗った一房の髪が小さく揺れていた。
「じゃあ、ヴィクトル・ユーゴ―の『噫無情』とかは?」
「映画を見たことがあるけど、ファンティーヌの最期が切なすぎるからあまり好きじゃないわ」
美しいブロンドの髪を持つ美女、ファンティーヌ。愛娘コゼットの養育費を稼ぐために全てを失くした悲劇のヒロイン。
髪を切り、歯を抜き、自らの身体までも売り払った彼女の結末は、あまりにも惨いものだった。
信じた男、マドレーヌがジャン・バルジャンという犯罪者であると告げられ、ショックで命を落とした彼女は、果たして死を迎えるその瞼の裏で何を見たのだろうか。
愛娘コゼットの将来だろうか、それとも、自らを騙し裏切ったマドレーヌへの怒りだろうか。
初めて噫無情を見た時、そのあまりの理不尽さに憤慨した記憶がある。
全てを失い絶望の淵にその命を落とした一人の女性、ファンティーヌの死を見たというのに、すぐにシーンは切り替わる。まるで、それがただのワンシーンだと我々に言い聞かせるかのように、劇中のファンティーヌはすぐに忘れ去られていく。皆は皆の生活を送っていく。
確かに彼女は脇役だ。コゼットという少女を輝かせるための、一人の登場人物に過ぎない。
だが、だからといって彼女を蔑ろにしていいはずがない。彼女は生きているのだ。生きていたのだ。鮮やかに散っていったのだ。
それなのに、彼らはもう忘れている。
彼女が生きていたことすら忘れて、日常を送る。これが理不尽以外のなんであろうか。
私も──百城千世子を輝かせるためだけに存在していた役者犬山千景のことも──人々は忘れ去っているのだろう。
私に罵詈雑言を吐き捨てて、その精神を削り取った輩たちも、いなくなった途端に過去の人物として扱うのだろう。
なら、私はどうすればいい?
ファンティーヌの怒りは、どこにぶつければいい?
「犬山さん?」
黙り込んだ私を心配したのか、図書委員の少女は声をかける。その声で現へと引き戻された私は、大丈夫だという意を込めてにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。『噫無情』は遠慮しとくわ。他に何かある?」
「うーん……なら、サン=テグジュペリの『星の王子様』は?」
「あれ、児童書じゃないの?」
「大人でも楽しめるよ」
「へえ、じゃあ借りてみようかな。読んだことないし」
「ならよかった」
「ほかには何かある?」
カウンターから出て来た少女は、私の傍を通り過ぎる。どうやら星の王子様を探しに行くらしい。
後ろ姿のままの少女が私の言葉に応える。
「ツルゲーネフの『初恋』は? 読んだことある?」
「初恋……読んだことはないけど、甘酸っぱいラブロマンスはあんまり好きじゃないのよね」
「あれはラブロマンスなんかじゃないよ」
くすりと笑って、少女がこちらを見る。
蜜色の夕陽が、浅い角度から図書室の中を照らし、その温かみの残った光をリノリウム製の床に落とす。その濡羽色の瞳に生気が吸われているような気がした。
「……そうなの? てっきり作者の半自伝的な優しい恋の物語だと思ってたわ」
「確かに、タイトルからはそう思われがちだよ。けどね、あれはそんな美しいものじゃない。あれは──」
こちらをじっと見つめたまま、彼女は目を細める。逆光で少女の顔の凹凸すらも見分けにくいが、細められた瞳の光だけが、ナイフのように鋭く光っていた。
ぞっとした。
少女の艶めかしい唇から放たれる言葉に、ぞわりと鳥肌が立った。
「──あれは、歪みに歪んだ、エゴと愛欲が交差する、男と女の話だよ」