桜が散っている。
風に吹かれその身を減らす校庭の桜を見ながら、私はぼんやりと歩いていた。
肩にぶら下げた鞄の中には、先ほど図書委員の子にもらった二冊の本が入っている。
『初恋』は借りるつもりはなかったのだが、彼女の熱いまなざしに負けて、結局借りることになった。期限は二週間。それまでに読み終わるかどうか、桜の樹を見るともなく見ながら私はそんなことを考えていた。
桜を見ると、この世界の縮図を見た気になる。
私がそう言うと、たいていの人間は訝し気な表情で私を見る。
そして知ったような口調で「栄枯盛衰のことを言っているのかい?」なんて宣ってくる。
そうではない。咲いて、散る。確かに人間のように見えなくもないが、そんなことはどうでもよいのだ。
私が言いたいのは、桜の花弁のことである。
見上げれば、満開の桜が目の前にある。
見下げれば、散った桜の花弁が落ちている。
簡単な事実。惨憺な事実。
成功の裏には、失敗が隠れている。
一つの笑顔のボートは、何千もの涙の湖で浮かんでいる。
薄紅色の海となって人々を感動の渦へと誘う花弁もあれば、桜の一部になることなく、地べたに落ちて踏みつけられる花弁もあるのだ。
歩くたびに、校庭の砂に塗れ汚くなった花弁が目に入る。
この花弁も、つい先ほどまでは枝について、その美しさを誇っていたのだ。
それが、風に吹かれただけでこのざまである。
ああ、なんて残酷。人々の目に映る美しさはたった一握りだけなのだ。
有象無象の存在は散り堕ちて、人々の頭の中からその存在さえも忘れ去られてしまう。
大きくため息を吐く。いけない、今から「彼女」の家に行くのだ。幼馴染の家に行くというのに、あまり暗い顔しているわけにもいかないだろう。
何も考えないように大きく深呼吸をして、歩き始めた。
▼
都内にある高層マンション。本来なら高校生が一人暮らしするような場所ではないその一室に、私の幼馴染である百城千世子は一人で住んでいる。
凄まじい勢いで移動するエレベーターの中で、私はちかちかと点滅しながら移動する階数を見ていた。
相変わらずすごいところに住んでいる。一体、私が何年何十年働けばこんな場所に住めるのだろうか。
詮無いことを考えているうちに、百城千世子が住む階に到着した。
軽い音を立てて開くエレベーターのドア。フロアは驚くほどの静かだった。やはり、金持ちたちは日々の暮らしも優雅なのだろうか。
百城千世子の部屋の前まで行き、合い鍵を取り出す。中学生くらいの時に、彼女があっても意味がないからと私に押し付けて来た代物である。
鍵を開きドアを開けると、何やら高級そうなカーペットが玄関に置かれているのが見えた。やはり金持ちは身辺のファッションやらにもうるさいらしい。
玄関を通りリビングに入る。ソファの上に、彼女がいた。
「あ、来たんだ。久しぶり」
「久しぶりって、三日前に会ってるじゃん」
「三日も会ってないんだよ。久しぶりでしょ。ね、ワンちゃん」
「ワンちゃんはやめてってば……ちょこ」
ぐるんとこちらを振り向く幼馴染、百城千世子。琥珀色の瞳が私を捉える。
ワンちゃんというのは、百城千世子が私を揶揄う時に使うあだ名。犬山の犬をとって、ワンちゃん。あまりセンスがあるとはいえない。まあ、私のちょこも大概だが。
こっちにおいでよと手招きする百城千世子。
ソファに座る。高いだけあって、柔らかいソファである。
改めて、膝丈までの机を挟んで座る百城千世子に話しかける。
「それで、何の用?」
「用なんてないよ。ただ私が千景ちゃんに会いたかっただけ」
「あ、そう……」
百城千世子は楽しそうに……それはそれは愉しそうに笑う。無垢に、無邪気に、まるで幼子のように。
だが、幼馴染である私には、その瞳の中に明確な怒りの色があることに気が付いた。理由はわからないが、彼女の仮面の裏に、怒りが見え隠れしている。
けらけらと笑う百城千世子の瞳をじっと見つめ、再び尋ねる。
「なんか聞いてほしそうな顔してるから、なんかあると思ったんだけど」
「聞いてほしい話ならあるよ。最近暖かくなってきたからいっぱい羽化してさ。すっごい綺麗なんだよ。見る? 見たい?」
「それは遠慮しとく」
彼女のペット……というか、もはや友人の域に存在している個性的なメンバーとは出来れば顔を合わせたくないというのが私の本心である。ていうか、先ほどから隣の部屋ががさがさとうるさい。一体何の音だろうか。いや、無駄な詮索はよそう。
百城千世子はあくまでも話したくはないようだ。
暫くの間、百城千世子と見つめ合う。先に視線を外したのは向こうだった。
「……オーディションでさ、面白い子がいたんだ」
「なんのオーディション?」
「映画の。デスアイランドっていう、漫画が原作の映画」
その題名は聞いたことがある。なんでも今人気急上昇中の漫画だそうだ。友人がおすすめしていた気がする。
内容としては、とても単純なデスゲームもので、無人島に漂流した二十四人の生徒達が最後の一人になるまで殺し合うといった、少しグロテスクな内容を含んだ漫画である。
しかし私は、そんな漫画より、楽しそうな表情をする百城千世子のことが気になった。
「ふーん……どんな子だったの?」
「不自然なくらいに自然な演技をする子だったな。見てるこっちが不安になるくらい」
「不自然なくらい、自然な演技を……ね」
「自分と役をシンクロさせてる、とでも言えばいいのかな。キャラクターが自殺をする役だったら迷うことなく自殺しちゃいそうな演技だった」
「メソッド演技、ってやつ?」
「極められたメソッド演技、だね。役に憑りつかれてるみたいで、びっくりしちゃった」
メソッド演技法とは、キャラクターと自分を重ねて、本当に感情を動かしながら演技をする方法のこと。
百城千世子が言っている面白い子は、そのメソッド演技法を極めている、という。
役に憑りつかれていると、彼女はそう言った。
役者というのは、フィクションをノンフィクションへと変える仕事だと、私はそう思っている。
誰かの妄想、想像を、自身を犠牲にし形にして、一般の大衆にわかりやすく伝える仕事、それが役者。
自分とは違う、見たこともない誰かを演じるには、当たり前だが役に入り込むことが重要である。
自分とそのキャラクターを重ね合わせる。それが役者にとっては必要なことなのだ。稀に、役に入り込むことなく演技をする役者もいるが。
兎に角、演じるうえで役に入り込むという行為はある程度必要な事なのだ。
しかし、もしその行為が行き過ぎると、それは危険なものになる。
自分ではない誰かを背負い、自分を殺す。
役に入り込むせいで、自分が誰だかわからなくなってしまう。
そのせいで壊れていった役者を、私は何人も知っている。
それを知ってか、百城千世子は更に楽しそうな表情で笑う。
「映像で見て、面白いなーって思って、今日会いに行っちゃった」
「あれ、今日は撮影じゃなかったっけ?」
「撮影を巻いて行ったんだよ」
「ふーん……それで、どうだった?」
私が尋ねると、百城千世子は少しの間黙り込んで、不意にこういった。
「ねえ、ワンちゃん。私って、幽体離脱出来るように見える?」
「……どゆこと?」
「なんでもない。忘れて。……面白い子だったよ、そりゃあもう」
急に放たれた頓珍漢な質問に、私は思わず間抜けな声で聞き返してしまった。
しかし百城千世子は答えをはぐらかし、にっこりと笑った。
「……どんな風に面白かったの?」
再び尋ねる。
しかし百城千世子はその質問に答えることなく、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取りテレビの電源を入れた。
そこに映っていたのは、一人の少女だった。
思わず声を上げてしまったのは、私がその少女のことを知っていたからだ。
テレビの中、見慣れた制服に身を包み、エプロンをしてキッチンに立っていたのは、何を隠そう夜凪さんだった。
夜凪さんは、おっかなびっくりといった調子で野菜を切っている。
──まるで、初めて包丁を握っているかのような……。
どうやらこれはシチューのCMのようだ。父の日に、いつもの感謝の気持ちを表そうといった内容らしい。
慣れない包丁を使っているからか、夜凪さんは指を切ってしまう。見ているこちらが痛くなってしまうほどに鮮やかな切れ目だった。赤い線から、思い出したかのように血液がぷっくりと浮かび上がる。
痛みに数舜顔を顰める夜凪さん。しかし、次の瞬間、彼女は微笑んだ。
まるで、こんなのはなんてことないことなんだよと、誰かに言い聞かせているような。
ああ、嫌だ。
思い出してしまう。
百城千世子に完敗して、彼女が描く劇の世界に引き込まれた、あの日を。
私にできないことを、コイツらは容易くこなしてしまう。
脇役なんかには目が行かないほどの、名演技。
なら、主役以外の人々はどうなる?
人々に忘れ去られた私たちには、一体何が残るというんだ?
テレビの中で微笑む夜凪さんが憎かった。それと同時に、羨ましかった。
どうすれば、そんな愛情の溢れる表情が出来るのか、私にはわからなかった。
学校ではあんなに無表情なのに。これがメソッド演技法を極めた者の演じる世界なのだと、無理やり叩きつけられたような気分だった。
彼女が作ったシチューは、美味しそうなものだった。暖かい湯気が食欲をそそる。彼女の愛が、優しさが、清らかさが、画面からにじみ出ていた。
「すごいでしょ」
「……」
何も応えなかった。否、応えられなかった。
今応えたら、私が何かを失ってしまいそうで。何かが決壊してしまいそうで。
「芝居とはいえないクオリティだよ、これは」
「……まるで、録画したビデオを見返しているような感じ」
「そう、そんな感じ。ね、知ってる? この人、実際にこのシチュー、初めて料理した時と同じく焦がしちゃったんだって。そんなところまで似せる必要あるのかな」
「……必要があるんじゃない。そうすることしか出来ない演技法なんだよ。夜凪さんはそういう演技をしてるんだ」
「あれ、私この人の名前言ったっけ?」
「同じ高校」
「へー、すごいや。いつもはどんな感じなの?」
「…………」
「ワンちゃん?」
何も考えられない。
胸を焦がす激しい怒りだけが渦巻いている。
何故かはわからない。だが、百城千世子が夜凪さんのことを話すその楽しそうな横顔が、許せなかった。
果たして、私はどちらに怒りを抱いているのだろうか。
私を打ち負かし、間接的にとはいえその役者生命を終わらせた百城千世子にだろうか。
それとも、その百城千世子が興味を持っている、私のことを一部の背景と同等に見た夜凪さんにだろうか。
わからない。
だが、悔しかった。
「あとね、時代劇でエキストラもしてたみたいだし、オーディションの時の映像もあるんだよ。それがまた面白くてさ。これ見てよ、ほら、この演技が──」
彼女のことについて話すときの、百城千世子の横顔。
悔しい、悔しい。
あなたにその顔をさせるのは、私のはずだったのに。
「自然すぎるよね。まるでありのままの自分を曝け出してるような感じ。あんま好きじゃないな、私は。そういう演技」
結局私は、彼女の仮面に罅を入れることが出来なかった、有象無象の役者や監督たちと一緒の存在なのだ。
彼女を独りぼっちにして、そのまま消えてしまった。
大衆のための仮面を被り、他人に好かれる役を作る彼女を、助けられなかった。
その横顔を変えることは、叶わなかった。
幼馴染だから傍にいる。それだけの存在。もし私がただの知り合いだったら、彼女は私のことなんて歯牙にもかけないのだろう。
まるで、助演。
その役がなかったのなら、見向きもされないような、適当なキャラクター。
その事実が憎く、痛かった。
▼
気が付けばテレビの電源は消されていた。見ると、百城千世子が出前を取っていた。当たり前のように二人前である。私もここで食べていかなければいけないらしい。
「今日、泊まっていくの?」
「どうしよう。まだ決めてない」
「泊まるんだったら、あっちの部屋貸してあげるよ」
「あっちの部屋、さっきすごい物音聞こえて来たんだけど、大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫、ちょっと夜行性の子たちがはしゃいでるだけだから」
「それが一番心配なんだよなぁ」
何故かはわからないが、彼女は気持ちの悪い虫ばかりを好んでいる。むろん、彼女は本気で可愛いと思っているらしく、以前気持ち悪いといってしまった際には珍しく拗ねていた。
いや、けどロイコクロリディウムは気持ち悪い。
「けど、他の部屋にはベッドないよ?」
「なんでよりにもよってあの部屋にベッド置いたのさ……」
「ちょっと疲れた時はあの子たちがいる部屋で寝るの。そしたら朝には元気いっぱい」
「こわっ」
「失礼だなぁ」
百城千世子は好きな子に合い鍵をあげてそうという他愛もない妄想。
お気に入り、感想、評価よろしく。