結局、百城千世子と同じベッドで寝た。
一人で寝るには大きすぎるベッドに並んで見上げた天井は、──やはり高級マンションだからだろうか──とても清潔感のあるものだった。
「もう寝た?」
不意に、隣から小さな声が聞こえて来た。ちらりと横を見ると、百城千世子が目を細めてこちらを見ていた。
「寝てない」
「だと思った。ワンちゃんがこんな高価なベッドで寝れるわけないもんね」
「どういう意味、それ」
「なんでもない」
楽しそうに彼女は笑う。彼女の髪が少しだけ揺れ、こめかみに乗っていたひと房の前髪が滑り落ちた。ベッドのスプリングが小さく軋んだ。
静寂が私たちの間に横たわる。部屋の隅に置かれている鏡台の黒さが不気味だった。
「ねえ、千景ちゃん。もう一回役者しようよ」
「え?」
ぼんやりと、揺蕩う眠気を見つめていると、突然百城千世子がそんなことを言った。
私はその言葉の意味がわからずに、思わず間抜けな声を出した。
「もう一回、役者。やっぱり千景ちゃんがいないと楽しくないからさ」
「もう一回やろうって言われても、私もう引退したし……」
「大丈夫、私がアリサさんに話してあげるし」
「めちゃくちゃコネじゃん。なんかやだなぁ」
「スターは作り出すものなんだよ」
楽しそうな声が静かな部屋に響く。私もつられて少し笑った。穏やかな空気が流れていた。
「まあ、考えとく」
「おっけー」
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暫くすると、隣から寝息が聞こえてくる。
横目で見ると、ぼんやりとした灰色の中に、彼女の凹凸が見える。
目を瞑るが、眠れない。瞼の裏に鮮明に描き出されるのは、先ほど見た夜凪さんの演技と、学校での彼女の表情。
……そして、百城千世子のあの表情。
未だに燻る思いが、私の眠気をかき消していた。
寝返りをうつ。私の愛おしい幼馴染が視界いっぱいに入る。
少しだけ開いたカーテンから差す月光が一直線にこちらに向かって伸びている。細長い月光は百城千世子の胸元を真横に横断しており、彼女の穏やかな寝息に合わせて上下する薄手のパジャマが薄らと見えた。月光は私の目の前で微かに揺れるカーテンと連動して、細くなったり太くなったりを繰り返していた。
彼女のクリーム色のパジャマが月光に照らされ灰色に見える。青白い光がしみ込んだパジャマはつんと冷えているような気がして、確かめてみようとつい彼女のパジャマの胸元に手を伸ばしそうになったが、何とか理性を働かせ手を戻す。
トイレに行こう。
百城千世子を起こさないように、ゆっくりとベッドから滑り降りる。冷えたフローリングに足の裏が悲鳴を上げた。
寂寞としたリビングは、まるで世界に私一人しかいないのではないかと疑ってしまうほどに悲し気だった。
ぞくぞくと背筋を刺激する恐怖のため、素早く用を足し部屋に戻ろうとする。
しかし、部屋に戻る途中で、私はふと一つの部屋の前で立ち止まった。
立ち止まってしまった。
それは、彼女のペットの部屋。気持ちの悪い虫たちが縦横無尽に飛び回る、未開地。
流石に虫かごぐらいはあるかと思いながら──何を考えていたのか──私はその部屋のドアを開けた。
暗闇が満ちている。それが、その部屋に対する第一印象だった。
何も見えない。しかし迂闊に足を踏み出すわけにもいかない。私は棒立ちになったまま、ぼうっと暗闇の部屋の中を眺めていた。
耳を澄ますと、何やら音が聞こえてくる。
何かが這いずる音。
何かが翅をこすり合わせる音。
そして何かの鳴き声。
絶えず、ひっきりなしに、何かしらの音が部屋から溢れ出している。
電気を点けてみてやろうか。そんな考えが私の頭に浮かび上がる。
……やめておこう。それは流石に可哀そうだ。
私は一歩後ろに下がると、静かにドアを閉める。閉めきる前のドアの隙間から、虫特有の、情けない鳴き声が聞こえて来た。
ふと、リビングで足を止める。
頭に思い浮かんだのは、先ほどの百城千世子の言葉。
「私がいないと楽しくない……か」
果たしてそれは、彼女の本心なのだろうか。彼女にとっての私は、彼女の仮面を壊してくれる人間の候補のうちの一人というだけの存在なのではないだろうか。
第一、 本当に彼女は私がいないと楽しくないと思っているのか?
先ほどの、夜凪さんについて語っていた彼女の顔は、これ以上ないくらいに楽しそうだった。
役者を再び始めたからといって、果たして私が百城千世子に同じ表情を浮かばせられるだろうか?
もしかすると、彼女は自分よりも格下の存在を手元に置いておきたいだけなのかもしれない。夜凪さんに負けても、自分よりも下がいるのだと保険をかけ、安心したいだけなのかもしれない。
ため息を吐く。それに応えるかのように、虫の鳴き声が再び響いた。
「……情けないな」
虫か私。どちらの方が情けないのだろうか。
わかりたくもない。
幼馴染と一緒に寝る百城千世子いいよね。
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