アンダードッグは彼女の横で   作:島流しの民

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可愛いわんこの動画見てたらいつの間にか一か月経ってました。


Scene9 : 世界で一輪の薔薇

 

 静かな部屋の中に、頁をめくる音が幽かに響く。

 暖かな日差しを遮るカーテンの傍で、私は椅子に浅く腰掛けてなるべく背筋を曲げぬように読書を楽しんでいた。

 図書室で借りた本は二冊。『星の王子様』と『初恋』。

 今私が読んでいるのは星の王子様。初恋から読んでもよかったのだが、少し難しそうだったので簡単な方から読むことにしたのだ。

 星の王子様は簡単で、なおかつ深みのある作品だ。読んでいくうちに、様々な思想や価値観が心の中に入ってきて、沈殿していく。それらは澱のように心の底に溜まり、やがて私たちに馴染んで、血肉となって、生き方へと影響していくのだろう。

 

 星の王子様の粗筋を簡単に説明すると、砂漠の真ん中に不時着した主人公が、そこで出会った異なる星から来た小さな王子様と仲良くなり、彼から様々な星の話を聞く、といったものである。

 この作品の中で重要なポイントは、子供の時の気持ちである。

 作品の最初に、一つの挿絵がある。主人公曰く、それはゾウを飲み込んだボア(蛇らしい)なのだが、大人たちはそれを見るたびに帽子と言う。主人公は嘆き、大人と子供の違いに気づくのだった。

 実際挿絵に描かれているものは完全に麦わら帽子だし、どこから見てもボアとやらには思えなかった。多分、私も作中に出てくる「大人」と一緒なのだろう。

 それを読んでいた時ふと、私には幼い頃、自分が滑稽な夢を抱いていたことを思い出した。自分でも忘れてしまっていたほどに朧げで、恥ずかしい夢。

 本をテーブルの上に置き、手を開く。親指の付け根あたりに黒子が見えた。

 

「掌の黒子で雷を捕まえる」

 

 それが幼い頃の私の夢だった。今考えると馬鹿馬鹿しいが、当時の私は真剣だった。

 だが、大人にそれを言うと優しい笑みを浮かべられるだけだった。頑張れと、心のこもっていない応援にうんざりした私は、大人にその夢を語ることをしなくなったのだった。

 

「そういえば、ちょこも本気だったな」

 

 他人は私のこの夢を散々馬鹿にしたが、百城千世子だけは絶対に馬鹿にしなかったことを覚えている。いつか捕まえようねと、一緒に指切りをした。多分、彼女は覚えていないだろうけど。

 

 兎にも角にも、星の王子様の中にははっとさせられるようなストーリーが幾つもある。

 

 作中でとても大切なシーンは、王子様が狐と出会うシーンだ。

 自分が住んでいた小さな星の住人である薔薇にうんざりして星から出た王子様。様々な場所を放浪しながら地球にたどり着いた彼は、そこで彼の星にいた薔薇と同じ花の群れを見つけ、ショックを受ける。何故なら、彼の星に生えていた薔薇は、自分はこの世に一輪しかない花だと、自分で豪語していたからだ。ところが蓋を開けてみれば、同じ花々がそこかしこに生えているのだ。世界でたった一つの財宝を持っていると思っていた王子様だ。それはショックも受けるだろう。

 

 そんな時に、彼は狐と出会った。

 狐は王子様に話しかけるが、決してちかよろうとはしない。何故なら、彼は王子様に『懐いて』いないから。

 王子様は尋ねる。「なつくってどういうこと?」。

 狐は答える。「絆を結ぶということだよ」。

 

 王子様に懐いていない狐にとって、王子様はそこらへんにいる少年となんらかわりない、ただの少年だ。王子様にとってもそれは同じことだろう。

 だが、もし狐が王子様に懐いたのなら、その関係はガラリと変わる。

 

 狐は王子様にとってなくてはならない存在になるし、その逆も同じようになる。お互い、世界でたった一つだけの存在になるのだ。

 

 狐を懐かせた王子様は、別れの際に狐に大切なことを告げられる。

 彼の薔薇が本当に、世界でたった一輪のものであるという証拠だ。

 再び薔薇の庭園に行った王子様は、驚愕する。何故なら、それらの薔薇は、王子様の星にいるものと全く似ていなかったからだ。

 庭園に生えている薔薇は、王子様にとってどうでもいいもの。あってもなくても同じ存在。

 だが、彼の星にいる薔薇は違う。

 彼が育て、彼が愛情を注ぎ、虫から守ってやった、世界で唯一の花なのだから。

 

 その後、狐は王子様に秘密を教える。

 

「一番大切なことは、目に見えない。君の薔薇をかけがえのないものにしたのは、君が、薔薇のために費やした時間だったんだ」

 

 この箇所を読んだ時、ふと、夜凪さんの言葉が頭の中をよぎった。

 

「あなたにとって、千世子ちゃんの存在は何?」

「何故犬山さんは、そんなに千世子ちゃんに執着するの?」

 

 あの時は答えられなかった。自分の中で、確固たる答えがなかったからだ。

 だが今なら、それらしきことなら言えるはずだ。

 

「百城千世子は、わたしにとって、なくてはならない存在だ」

 

 はっきりと、一文字ずつ区切るように自分に言い聞かせる。

 作中に出てくる狐のように、私は千世子に懐いていたのだ。愛しているのだ。

 私にとって、彼女は世界でたった一人の役者であり、私の幼馴染であるのだ。

 

「彼女がどう思っているのかは、わかんないけど」

 

 まだ子供だった私は、作中の王子様と同じく、煌びやかな薔薇にうんざりして、その前から姿を消してしまった。幼かった私は、その裏にある、彼女の愛情に気づくことができなかったのだ。

 

 本を閉じると、緩やかな倦怠感が体を包む。知らぬ間に読書に没頭していたようだ。

 大きく息を吐き出す。もう今日は読書の気分じゃない。何をしよう。何もやることがない。

 

 百城千世子と夜凪さんが映画『デスアイランド』の撮影地へ行って、すでに数週間が経った。その間葦のようにぼんやりと過ごしていた私だったが、本の返却期限が過ぎていることに昨晩気づき、今日一気に読んでいるのだった。ちなみに今日は土曜日なので、『初恋』は明日読めばいいだろう。月曜に返せば、図書委員の彼女もあまり怒ることはないと思う。そう信じたい。

 撮影で忙しいのか、最近は百城千世子からの連絡はない。夜凪さんは携帯自体を持っていないらしく、この間連絡先を交換しようと言った際は、その端正な顔を哀愁色に染め上げて「私、携帯持ってないの……」と返された。あの時の気まずい空気を私は一生忘れまい。

 というわけで、暇だ。

 もちろん時々私に連絡を入れてくる学友もいるが、それも彼女らが暇だからという理由に過ぎない。

 ベッドに倒れ込み、静かに息を吐く。唇の右下に出来た小さな面皰が少し痛んだ。

 

「役者だったなら、今頃一緒にいれたのかなぁ……」

 

 呟いて、ゾッとする。私は今何と言った? 

 背筋が寒くなり起き上がる。茫然とベッドの上で胡座をかきながら、私は力なく笑った。

 

 まだ、そんな夢を見ているのか、私は。

 もう無理だと気づいたはずだ。だから辞めたんだ。

 初めて引退をしようと決意した夜、一人で布団の中に潜った時のあの惨めさを忘れたというのか。

 

 自分にそう何度も言い聞かせるが、心の高まりはそれを聞いてくれやしない。熱く大きく心臓を叩き続け、おぼろげに浮かぶ妄想を煌びやかに飾り立てていく。

 頭の中に浮かぶのは、夜凪さんと一緒に演技をしている私。百城千世子からオーディションを勝ち取った私の姿。彼女の悔しそうな表情、瞳、涙声。

 

 ああ、私は何て醜い女なんだろうか。百城千世子の幼馴染面をしているくせに、考えていることはこんなことばかりだ。いつも、頭の中で百城千世子を見下そうとしているのだ。

 実際は、そんなことありえないのに。私が彼女に勝つだなんて、不可能に決まっているのに。

 私がベッドの上で燻っている間にも、彼女はどんどんと遠ざかっている。

 

 手に持っていた本を机にそっと投げ、ベッドに倒れこむ。静かな耳鳴りがした。

 

「ちょこの、存在」

 

 私は百城千世子を愛している。それは間違いない。彼女は私にとって大事な存在だし、私も彼女にとって大切な存在だと思っている。

 だがそれでも、劣等感は消えない。嫉妬はなくならない。人間という生物は卑しく、浅ましいのだ。

 今なおテレビで活躍している百城千世子を、私は憎んでいる。私に出来なかったことを平然とやってのける彼女が憎い。

 愛している。愛している。けど、憎んでる。

 

 わけわかんない。

 

 

 目を閉じる。浮かび上がってくるのは百城千世子と、その正面に立っている夜凪さん。今頃誰もが息を呑むような演技をしながら、周りを驚かせているんだろうななんて考える。

 

 ホント、全く……

 

「天才はいいよな……」

 

 そんなこと言っている自分が一番情けない。そんなことわかってる。けど、だったらどうすればいい? 全身を刺す劣等感は何がぬぐい取ってくれる? 

 

 大好きなはずなのに。一緒にいたいはずなのに。

 彼女の喜ばしいニュースに喜ぶことが出来ない。彼女に降りかかる不幸をいつも願っている。

 

 いっそ消えてしまえばいいのに、こんな人間。

 

 頭がだんだんと冷えていく。先ほどまで胸中で燃え上がっていた炎がなくなった。私は演者にはなれない。

 

 才能がないから。

 人気がないから。

 コネがないから。

 技量が足りないから。

 馬鹿だから。

 醜いから。

 何もできないから。

 何もしようとしないから。

 

 

 ……何よりも、勇気がないから。

 

 

「寝よ」

 

 

 呟いた声は情けないくらいに惨めで、閑散とした部屋に大きく響いた。

 そんな私を引き留めるかのように、携帯が震える。手を伸ばし床に落ちていた携帯を拾うと、画面には大きく『百城千世子』という文字が浮かんでいた。眉を顰める。今一番見たくない名前だった。

 

 電話のようだが、今は彼女の声を聞きたくない。通話ボタンへと伸びていた指を止め、再び携帯を床に置いた。

 暫くの間震えていた携帯だったが、やがて部屋には静寂が戻る。すると、鼬の最後っ屁のように、携帯が一度だけ小さく震えた。多分、私が電話に出れないと思った百城千世子が、用件だけを簡潔にメッセージで書き込んだのだろう。

 

 私は既読をつけないように携帯を機内モードにしてメッセージを読んだ。どうやら百城千世子は誰かの連絡先を私に送っていたようだ。

『夜凪景』。連絡先にはその名前が書かれていた。

 

「夜凪さん、携帯買ったんだ」

 

 ぼんやりと呟いて、電源を消す。あとで友達追加でもしておこう。今はもう眠い。

 私は汚い自分から逃げ出すかのように、ベッドの上で丸まって意識を放り出した。

 




暗い話です。

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