準備
<✕>-1
夜の森に水音とくぐもった呻きが染み渡る。
グチャリ と神経を削った音が私の内の記憶を呼び覚ます。汚れた臓物に手を突っ込んだ時の温かさが私の活力であったあの頃が、はためく旗の様に角度を変えて私に押しかける。
狩りに生きた私の最もそれらしい姿が目の前の死体を通して私に重なる。しかしそれが現実に置き換わることは有り得ない。
根源的な夢が私の獣性を取り戻す。もしもそんな事が有り得るとするなら、私はとっくに自らの宇宙を潰していただろう。
片手に掴んだ異形の獣の首に舌を絡める。
「…薄いな」
人を超え、苛烈な獣性とは無縁の存在となった私に、最早血を糧とする必要は無い。しかし、私の血液の流れに生気を与えるこの神秘と苦痛の表出の激烈さと淫猥さは、私に生きる経験と価値、さらにより生命的なものを求める貪欲な餓鬼の如き渇望を生み出す。
ヤーナムの民は皆、あのクソッタレの医療教会が多大な犠牲を費やして作り出した特別製の輸血液を使用してそれを得ていた。勿論その使用者には狩人も含まれ、故に彼らは血に酔い、姿を消した。
そしてついに、私もその感覚を得ることが出来た。
既に絶えた生命から卑小な知恵の大輪花が咲く。その揺らぎとありふれた死血が気化の末に混ざり、生の残り香を仮初の刹那の内に撒き散らし、そして最後の思考が舞台となり遥かに霧散する。
「ググゥ…」
最後の一息が獰猛な双牙の隙間から漏れる。それとほぼ同時に、切断された頭部の断面を顔に押し付ける。途端に鼻腔からむせる程の熱が体内に入り込んでくる。
(気持…ち…い…)
人間の三大欲求を極限に排除してきた過去を鑑みれば、この感情がどれ程人間的で奇跡的かはっきりする。嬉しいのだ。かつて受けたどのような刺激も、この感覚を知ってしまえば、全てに飽きてしまう。それ程までにこの「死」というものは、私に精神そのものが溶けきるような甘美な幸福を与える。
求めていたものはこんなにも近くにあったのだ。その事実を慈しみながら愛で、余すところなく感じる為に噛みしめる。その度に無上の歓喜が空間をうち震わす。
虚無に亀裂が導かれる。乱舞する極光が私を低次元暗黒から更なる舞台へシフトさせる。
見つけた・・・いや、見えた。世界を隔てる天上の結界が。張り巡らされた螺旋は世界の血管。その風化を自分でもよくわからない何かで感じとりながら、堕ちる血晶を薄れた意識の上で踊らせる。
来た、その時が。
剥離していく内なる心臓が、ようやく熱を取り戻し、私を抜き取っていく...
<◎>??
「…生命の神秘」
いつの間にか口にしていたのは、先の景色の名残か。
誰もいない空虚なあばら家で眠りから目覚めると、少しばかり空気が湿っているのを感じた。いや、湿っているのは空気ではなく、私の人間の部分かもしれない。
先の夢、血に酔った私を見せた只の人の夢。
確かに、夢の中で見た物を取り出すことなど造作もないが、わざわざ醜い獣の汚れた血を啜るために自らの手で殺し、体液を浴びて身勝手にも絶頂症に至るなど、上位者達と共にある今の私にとってそれは彼らに対する裏切りに近い。この世界の私は人でありながら獣性を克服した上位者である。この体の全ては世界の智慧を我が物とせしめる為の物であり、我ら家族の拠り所であるべき場所なのだ。
人に生まれ落ちた我が身故の弊害に不快感を感じて体を起こす。
辺りを見渡すと、陰鬱に埃が積もり荒れた部屋にありふれた曙光が白刃の様に突き刺さっている。
この世界では見慣れた夜明けの瞬間。それに立ち会う度に、夢を内包する私は改めて自分が生きていることを実感する。
「むぅ…」
あくびを噛み殺して立ち上がり、夢の中から水桶と服を取り出す。体と顔を洗いながら、外にいる使者達に意識を繋げる。私の内の宇宙を辿り、彼らの座標を見つけ出す。
めくるめく宇宙の色が通り過ぎ去ると、目の前の空間が突如破ける。
使者達の瞳から送られてくる景色は、私に再びの感嘆の溜息をつかせた。宇宙から現実へと突出すると、眼下には夜露に濡れた黒い家々が日光を反射し眩く輝いている。遠方には石と木組みの建物が整然と建ち並んでおり、それに沿うように敷かれた通りでは、生に溢れる者、堕落しきった
者問わず多くの人が動き始めた街の血流となり、また新しい一日が幕を開ける。
「素晴らしいことだ」
自然と口をついて出たのはこの街の活気に昨晩から触れていたからか。
見られぬアメンドーズの手に揺られ、心地よい気分のまま眠りについたと思えば、いつの間にやら眼前にはヤーナムでは全くもって有り得ない、夜でも尚人の生気が暑苦しい程に漂っている、正しく世界の中心と言える光景が広がっていた。
迷宮都市オラリオ。
私がこの世界に来た目的。見知らぬ人々。神々。ダンジョン。
未知に塗れたこの街は、夜でさえ輝かしい灯りをもって疲れた旅人を迎え入れる宿場町の様に私の到来を歓迎していた。その証拠に、正面に拝める天を突く白亜色の尖塔から私の
全く、期待させてくれるじゃないか
昨晩の出来事を思い出し、自然と頬が緩んでしまう。母様から受け取った新しい服に着替えながら、これから起こるであろう数多の出会いに心が踊る。
神が降り立ったこの地のありふれた日常が、しかし
<◎>2
「う、ああぁ...」
その神、
「ぐうぅ、ちと飲みすぎたかぁ...」
それは少し大人の世界を知った者ならば慣れ親しんだ症状であり、故に誰しもが通る道で、ある意味戒めとも言える。
彼女も神といえども人と同じく生き物を食べ、世間話を楽しみ、己の責務を果たし、宴を催し、夜と共に眠る。そして二日酔いになる。そんなひどく人間的な生活リズムを日常的に送る故に起こる鈍痛と気持ち悪さにロキは朝起きてから何度目かの悪態を吐いた。ここ最近、身の回りのことでストレスが溜まりに溜まっているのだ。団員達を巻き込んで酒に頼りたくもなる。
ファミリアを管理する際にあれよあれよと出てくる雑務や問題をこなすのは別に嫌というわけでは無い。愛しい団員達のことを考えればその程度の仕事は主神として最低限の義務だと理解している。理解しているのだが、問題はそれに見合う報酬の質が最近著しく低下しているのだ。始めは酒作り集団ソーマ・ファミリアから定期的に送られてくる貴重な
「その尻尾触らせてぇなー!」
と抱きつこうとすれば、普段の彼女では考えられない程に素早い反応でかわされたり、酒場にて一人の
「せや!あの耳モフモフしたろ!」
と意気込んで飛びかかれば、嘔吐する際に使うバケツが何処からか飛んできたり、ならばとダンジョン帰りで疲れている所を慰労と評して狙い、体格の良いアマゾンの姉妹に
「その胸もろたでクドー!」
とシャワー室へ突入すれば、姉の方が今まさにシャワー室へと踏み込んだ足下に素晴らしいフォームで泡立った石鹸を投擲。油脂によって摩擦が消え去った床に対して体は走るという行為の重心移動に耐えることが出来ず、宙に浮く。無防備な状態になったところを妹のほうがボレーシュート宜しく、空いた脇腹に強烈な回し蹴りを放ち再び脱衣所へ返送、という抜群のコンビネーションコンボを繰り出してくれた。それっきりシャワー室へは近づかないようにしている。
こんな具合に、今まで日常的に行っていたことが突如として出来なくなるというのは心身共にそれなりのダメージを受ける。更にそれが楽しみにしていたことなら尚更である。
(流石に
(大体なんや!皆してどんだけ愛想悪ぅくなっとんねん!うち何かアカンことしたか!?)
しまくりである。主にセクハラで。本人の自覚がない様子から、まだしばらくこの様態は続くだろう。何せこのロキに対する嫌がらせを計画しているのは他でもない女性団員達なのだから。彼女らの気持ちを代弁すると
「いい加減にして欲しい」
「ストレスがマッハ」
「訴訟も辞さない」
「これが女神?」
「貧乳痴女」
等々、およそ彼らの主神とは思えぬ程の最大級の罵倒と侮蔑がロキを襲うだろう。それもこれも彼女に身の振る舞い方を改めてもらう為である。女性冒険者達はこの確固たる意思をもって、
(あーアカン。
肉体の諸器官を錆つかせたような動きでベッドから降りてふらふらと廊下に出る様子はさながら
「随分機嫌が悪そうだね。ロキ」
「あん?機嫌悪い?」
笑いながら、しかし陽気では居られない程度にはこちらに堅い圧を飛ばしているフィン。それには意識を払わず手持ちの分が切れた鎮痛剤を取りに行こうとしたが、彼の言葉で歩みが止まる。
機嫌が
ああ、そうだとも。今以上に苛つくことがあっただろうか。かつての戦争。オラリオ暗黒期における
この
「かっー!該博多識の団長はごっつ忙しいもんなぁ!そらうちへの気遣いがないのも納得やわ」
「親切でありたいのは山々なんだけど、生憎そんな声をかけられる程こっちも余裕は無くてね」
「余裕やと?」
ぬかせ。彼個人としてなど、そんな事は有り得もしない。つまり、それはファミリア全体の問題。
「ロキ、前回のダンジョン探索からステータスの更新をした団員は?」
「...そんなん詳しく覚えとるわけないやろ。時間もまちまちやったし」
「いや、いつもの君なら覚えているはずだ」
いつもの自分、何の変哲もない日常の中の自分が酷く懐かしい。
「嬉嬉として更新を承諾していたのはいつだったかな」
数秒間の空白地帯。
「...自分か、主導しとんのは。それとも他におるん?」
「ロキ、気付かないかな。今の君は、なんと言うか...濁っている。少し前まではここまで自堕落ではなかったはずだ。最初はいつもの君らしいと思っていたけど、最近の君の行動は目に余る。君に会うことを恐れる団員まで出てくる始末だ」
ファミリアとしてこれ以上の結束力の低迷は許容出来ない。そう締めくくるとフィンは顔を歪ませながら踵を返して自室へと戻っていった。
「...んなこと、うちが一番よう分かっとんねん」
苦々しく垂れた額の汗と自答。言われるまでもないはずの異常。己を客観視出来ない神とは笑えてくる。自分の心に吐いた嘘は見抜けないとは呆れてくる。
「うちをイラつかせる原因。その何かがおるんや。それもめっちゃ近くに」
爪を噛みながら思案するロキ。その脳裏にはいつか、何処かで響いた小さな小さな鐘の音が残っていた。
<●>1
白昼。
「...ですから、ファミリアに所属していない。勿論
「フムン」
ダンジョンの入口。バベルの麓。ギルドカウンター。数多くの冒険者達が行き交う場所で、一人の少女と二人のギルド職員が真新しい机を挟んで対峙していた。職員の一人は困惑した顔を浮かべながらどうにか理解してもらおうと言葉を繋いでいる。もう片方の上司と思われる職員はきつい目を少女と部下へ交互に向けて事の成り行きを見守っている。対する少女はというと、瞬きもせず適当に相槌をうっている。
「いいですか?仮に、仮にですよ?貴方の言うとても頼もしくてダンジョンのモンスターなんて目じゃない
「おい落ち着け。お前が取り乱してどうする」
半ば狂乱したように叫ぶ部下とそれをたしなめる上司。はたから見たら、子供一人に大人二人で拒絶の意を表している不思議な絵なのだが、これが小一時間続いているのだから彼らの心労も分かる。言ってしまえばあの少女に割くような時間は持ち合わせていないのだろう。こうしている間にも、時が経つにつれて今日一日の仕事の量は着々と増え続けているのだから。
「...ねぇ、あの子どういうつもりかな」
「さぁね。さる冒険者の妹とかじゃないの?兄か姉かに無知のまま憧れたとか」
「それにしては落ち着き過ぎてると思うんだけど...」
横目でそのやり取りを眺めていると、よく知った声が飛んできた。偵察を担う弓術士の彼は少し不安げだ。
「アンタの身内だったりして」
「やめてよ、心臓に悪い。僕の妹がここにいる筈がないだろう」
「どうかな?アンタの思い出話を聞く限り、一人で村から飛び出してアンタを追いかけ続ける、なんてことは有り得ない話じゃないと思うんだが」
「流石にそれはないでしょ...多分」
頬をかいて言うがその声に力はない。彼が酔いの際に立つと決まって愚痴をこぼす妹については、彼女が重度の
...まさかとは思うが、彼は家出に近い形で飛び出して来たのだろうか。彼は優しい性格だ。置き手紙くらいは家族に残して来たと思いたいが。
私が彼と初めて出会った頃は、それこそ郊外で農作業でもしていそうな細い体つきであった。既に冒険者であった私は、今は亡き弟に似ている気がした、という理由で何となく彼に話しかけた。それからと言うもの、毎日の様にあれこれ質問を浴びせ、ついには
「ダンジョンに行きたい」
と真剣な顔で言われた日は幾ら酒を飲んでも素直に酔えなかった。
「成程、人の内ではそのような戒律があるか。しかし、人とは歩んだのだな。それは喜ばしいことだろう」
しばし回想に入り込んでいると、件の話し合いが終わる兆しが聞こえた。顔を向けると少女が席を立ち天井を向きながらここからは聞きとれないが何事かを呟いている。
「ではお前達に世話を焼かせるようなことはないようにしよう」
「...ご理解頂けましたか?ていうか理解してくださいお願いします」
「ああ、私はそのボウケンシャーとやらにはならない。恐らくここに来ることももう無いだろう」
「そうか。ならば疾く退出願おうか。我々はこれ以上貴様の様な世間知らずの狂人と話し合う時間は持ち合わせていない」
上司の職員が嫌悪と敵意を隠そうともせずに言い放つと、少女はさほど気にした様子を見せずにギルドカウンターから去って行った。残された職員二人は見るからにぐったりとしている。ご愁傷さま。たまにはこういう事もあるさ。
「...諦めたのかな」
「何が?」
「いや、あの子の事。ダンジョンに行く方法を聞いてたから」
「流石にあそこまで強く言われて行くことはないだろう。それでも行くってんならそいつは正真正銘の馬鹿だ。厄介な事態になる前にコボルトにでも食われてほしいもんだが」
「ちょっと、言い過ぎだよ。あの子が死んでもいい人だって言うの」
少し怒気を含んでこちらに非難の目を向ける彼。ああ、相変わらずこいつは優しい性格をしている。
「あのな、言葉ってのは届かないと意味がないんだ。相手に聞こえてなければそれは存在しなかったのと同義なんだよ。つまりは今私が言ったのは只の独り言ってこと」
「また訳の分からないことを...もしかして酔ってる?」
「いや別に?それとも何だ、やっぱりあいつが妹に見えてきたか?」
「もう!だからその話はやめてってば!」
可愛い奴め。鈴でも付けてやろうか。よく鳴るだろう。
<◎>??
「人の思いが命を繋ぎ、世を創り出す...か」
■□▪■□▫■□▪▫■□▫▪■□▪▫
「寄りすぎか?何、この世界では神は人に似たのだ」
naixmchrucufhrendskad!!!???
「そうだな。私達は彼らとは違う。無垢な人の子から見れば、神という存在は彼らに超常の力を与えた異種の隣人。その程度の認識だ」
―=―
「そう拗ねるな。言っただろう。私達に取って代わる者など、この世界には存在しない。お前は私の愛しい子だ」
ー
「どうした。口付けでもして欲しいか?ならば喜んで...何、いらない?それは残念だ」
ギルドカウンターを後にし、上位者達と駄弁りながら歩く。もちろんあの職員の言いなりになるつもりは毛頭ない。私達の目的を達成する上でダンジョンに向かうことは既に確定された事項なのだから。その為にはまず人目につかない場所に行かなくては。具体的には今朝目覚めたあばら家へと戻る必要がある。
人の活気で賑わう通りを避けて歩きながらつい先程の出来事について考える。人は人の内で作られた戒律を尊び準じることで秩序を得る。なるほど、実に群れる人らしい。それはかつてのヤーナムでも有り得たことだろうか。唯一狩人が英雄たり得た時代、聖剣で知られたかつての我が師、ルドウイークが生きた街にここオラリオのような人の命の輝きはあっただろうか。人がより人らしいのはこちらの世界か、それともヤーナムか。最早回顧をする意味も資格もありはしないがなんとなしに浮かんだ問いをすぐさま掻き消す。答えはとうに明かされている。人が生き物である以上、生きる為に他と手を取り合うことは極々自然のことである。そんな、種として当然のことが果たせず各々の内に潜む獣性に屈したヤーナムの民と、暗黒時代を迎えて尚復興を果たした多様性に富んだオラリオの民。比較すればどちらが人として優れているかは明らかだ。
「魅了されているな、この世界には。お前達もそうだろう?」
◆◇◆===---♪
虚空に問いかければすぐ様上位者達から返答が帰ってくる。彼らも血と獣の臭いに塗れたヤーナムには飽きていたようだ。全く、そうさせたのは彼ら自身だというのに。
まあいい
何にせよ今の私達の興味はこのオラリオにある。古都ヤーナムに心残りはない。今私達がすべきは、この世界を跳梁し未知を探し自らを昇華させることだ。早々に戻らねば。何処かで私達の帰還を待つ母様の為にも時間を無駄には出来ない。
さあ、探求を始めよう。
あばら家の中で一人の微笑んだ私は、自らの身体を夢と現実の端境に滑り込ませる。常人には見えぬ存在となった私は意気揚々とダンジョンに向かって歩き出した。
ダンジョン「異物を検知」