ぶぅんぶぅん、という苦しそうな駆動音が狭い旧化学準備室で鳴っていた。駆動音の発生源は備え付けの古びたエアコンだ。元は白であっただろうそれは経年のためか、黄色だか茶色だかよく分からない色になっている。色と良い、苦しそうな駆動音と良い、今にも壊れそうな古びたエアコンは、それでも必死に小さな部屋に冷風を送りこんでいた。
旧化学準備室を訪れたオティヌスは左頬をくっつけるように長机へと突っ伏す。
布地が引っ張られることによって、汗ばんだ白いシャツが肌に張り付く。小麦色の肌と水色の紐状のシルエットがうっすらと浮かび上がるが、彼女は気にすら止めていない様子。
「ふひぃ~、す~ず~しい~」
などと、だらしない声を上げながらだらしない顔で至福の時を味わっている。
仕方がないといえば仕方がないだろう。今日は2019年8月20日。8月の終わりがけとはいえ、暑さは健在だ。うだるような暑さの中を、延々と歩いて来た彼女にとってエアコンの効いた旧化学準備室は天国というほかない。
そもそも8月の暑さの中を歩いて、わざわざ旧化学準備室になど来なければ良いのでは、という疑問が浮かぶだろうが、しかし、これには彼女の家庭事情があった。
オティヌスの家では、昼にはエアコンが使えないのである。これは時代遅れな母親のポリシーであった。巻き込まれた最先端の女子高生からすれば、たまったものではない。実にくだらないルールである。
勿論、破ったことはあった。しかし、それがバレた時にはお小遣い一ヶ月抜きと散々な目にあったので、以降彼女は律儀にそのルールを守っていた。一ヶ月お小遣い抜きは華のJKにとっては死活問題である。
「お母さんも、さっさとそんな時代遅れなポリシー棄てて、文明の利器に頼っちゃえば良いのに」
そう思わず愚痴る。愚痴った所で意味はない。とはいえ、同時に母親にそう言った所で同じく意味はないのだ。母親とはとかく頑固な人々で、人の意見を聞き入れるような柔軟さは持ち合わせてはいない。
「いやー、
しみじみ、とそうぼやくオティヌスの声。その声に返事があった。
「うん、それで、どうして
さて。
何事にも理由があるように、旧化学準備室にエアコンがついているのにも理由がある。
旧化学準備室は現在とある部活の活動場所として提供されていた。
その部活の名前は化学部。他部活より大人の事情で優遇されている理科系部活である。
だから、そこには当然部員がいるわけだ。
「ただでさえ、狭っ苦しい部屋なんだ。少なくとも唯一の作業場である机を占有するのはやめてくれないか?」
白衣を羽織った低身長の少女が机に倒れふす七花に苦言を呈す。
彼女の名はパラケルスス。現化学部部長である。
「旧化学準備室は化学部に割り当てられた部屋だ。部活の目的以外で用いられる理由はない」
「でも、あたしだって一応化学部部員だからね」
「ぐっ」
「部活存続のために名前を貸したのは、誰だったかな~」
「………机の半分なら使っても良い」
「やたっ」
とりあえずの避難所を確保。オティヌス、思わずガッツポーズ。
オティヌスは許可を貰った領域へと体を動かす。具体的にはうつ伏せになった体をそのまま転がして、腹を机に垂直になるように起き上がった形だ。
「ふひぃ~」
ひんやりとしたプラスチックの机が七花の体を冷やしていく。
「体を冷やし過ぎることには気を付けるように」
「分かってるって」
だいたいプラスチックの机はあんまり冷たさは持続しない。直ぐに温くなってしまうから、冷やしすぎるということはないのだ。
パラケルススは試薬を試験管に注ぎながら、オティヌスに疑問する。
「暇なのか?」
「暇だよ」
「運動できるんだから、運動部入れば良いじゃないか」
「あんまり性に合わないだよね。あの勝利のためにひたむきに頑張るっていうのがさ」
「確か基準となるのは、自分が楽しめるかどうか、だったか」
「そうそう。やるんだったらバンド、みたいな感じかな」
「バンド」
「そう、バンド。こうじゃじゃじゃーんって」
七花は立ち上がってギターをかき鳴らす真似をした。そして、ドヤ顔で問う。
「どう?」
「びみょー」
「えぇー」
かっこよく見えてる自信があっただけに、ちょっと傷つく。
「ちゃんと練習したら、良くなるんじゃないか?」
「そうかな?」
「バンドのことはよくわからないから、私の意見など参考にはならないだろうけれど」
それを言ってはおしまいである。
オティヌスは力なく、ぐでー、と割り当てられた机の半分を無視して机一杯にうつ伏せになる。
「ちょっと」
「こっちもう温くて」
「だとしてもルール違反をして良い理由にはならない」
「けちんぼめ」
「………。はぁ、まったく」
パラケルススは溜息を一つ。オティヌスと言い合ってても無駄だと判断したらしい。それでもオティヌスを旧化学準備室から追い出さない辺り、優しいというか甘いというか。
「んふふ」
「な、なんだい、突然笑いだして」
「べっつにー」
普段はクール系で冷たく見えるけど、時折戸惑うところが可愛らしい幼馴染であった。こんな表情を見せるのは、数少ない親友とも呼べるオティヌスの前くらいだけなので、ちょっと優越感。
「むふー」
「だから、気持ち悪い笑いを止めて」
窘められるが仕方ない。自然と湧き上がるものを抑えるのは難しいのだ。これは呼吸と同じ、抗えない生理反応という奴である。ちと違うか。まぁ、いいじゃん、別にさ。
パラケルススはオティヌスを見て、もう一つ溜息。持っていた試験管と試薬をおいた。反応待ちの時間か何かだろう。
「さて、それで?」
「うん?」
「学校の宿題は?」
聞きたくもない言葉が出てきた。
「うぅ、頭が痛い…」
「早くやってしまったらどうなんだ?毎年、最後の一週間になると私に泣きついてくるのは誰だった?」
「あたしです。うぅ、パラケルススぅ」
「今泣きつけとは言ってない。まずは自分でやることが優先だ」
「そんなぁ」
「泣きそうな顔にならなくても良い。手伝いくらいはしよう」
「ありがとう!」
オティヌスは思いっきり体を上げる。嬉しそうな顔をしている彼女に思わず、パラケルススも頬を緩めた。
「まったく、世話の焼ける…」
「でも、頼られて嬉しいパラケルススだった」
「調子に乗らない」
「あいたぁっ」