窓の外から水が地面を叩く音が聞こえてくる。激しい音。見なくても大雨が降っているとわかる。
でかいベッドに座りながら、俺はその音をぼんやりと聞いていた。何かをする気が起きない。
がちゃりと扉を開く音がして、シャワールームから少女が出てきた。松原花音が出てきてしまった。
「お、お待たせしました……」
次第に松原さんの声が小さくなる。顔を見ると頬が赤くなっていた。シャワーを浴びたせいだろう。
俺はすぐさま顔を逸らす。彼女を直視できない。松原さんはバスローブを着ていた。
……なんとも悩ましい格好だ。バスローブからちらつく肌色が煩悩を刺激する。多分、あの下は……。なんて考えれば考えるほどドツボに嵌まっていく。
「……大丈夫?」
気付けば、松原さんが近づいてきていた。赤い顔で俺を覗き込む。
声をかけられるまで彼女が近づいて来ていたことに気がつかなかった。松原さんのバスローブ姿に気を取られすぎた。魅入られていた。
「大丈夫」
脳内で煩悩退散と唱えながら、なるべく平常心で松原さんにそう言う。声が上擦りそうなのを堪える。
「ぼうっとしてたから心配で」
「ちょっと考え事してた」
心の底から心配そうな彼女に安心させるようになんでもないように言う。
「そっか」
「心配させてゴメン」
「ううん、大丈夫ならいいの。体調悪くなったのかなって心配したよ」
松原さんは先ほどと変わらず赤くしたまま安堵した表情を見せた。それを見て俺も少しほっとした。……なんとか誤魔化せたみたいだ。
「隣、いい?」
「え……あ、ああ。どうぞ」
「……失礼、しますっ」
彼女は俺の隣に腰を下ろした。拳一つ分ぐらいの距離。
ふわりと良い香りがした。シャンプーの匂いだろうか。俺はさらに落ち着かなくなる。
どうしてこんなにぴったりとくっついて座るのか。座るスペースならいくらでもあるのに。
ここはラのつくホテルの一室。一体どうしてこうなった。俺は数時間前のことを振り返ることにした。
☆★☆
きっかけはなんてことない。昼から入っていたバイトが夜になって終わってからのことだ。バイト中見ていなかったスマホに一通のメッセージが入っていたことに気付いた。同僚の松原さんからだ。
『たすけて~』という簡素でわかりやすい、SOS。届いたのは一時間ぐらい前。
俺はすぐさま電話をかけた。
『ふぇぇ……』
まず聞こえたのが鳴き声……もとい泣き声だった。助けて、迷った、などとなんとなくどんな状況なのか想像できるワードが飛び出してきた。
俺は正確に状況を把握しようと、松原さんをなんとか宥め落ち着かせ、話を聞こうとした。俺が深呼吸するように言うと彼女は素直に従ってくれ、ようやく落ち着いた。
松原さんは今ここから少し離れた町にいるらしい。目的は新しく出来た喫茶店。友達は皆予定があったとかで松原さん一人で行ったと言っていた。行きはなんとか(本人談)お店まで行けたが、帰りは道に迷い、どうにもならなくなり、それで俺に電話したらしい。
俺は迎えにいくと伝え、気になっていたことを聞いてみることにした。
「……なんで俺に電話したんだ?」
松原さんの話を全部聞いて、まず思ったのがこれだった。他に助けてくれる友達だっているだろうに。
『みんな用事があるって言ってたし悪いかなって』
松原さんらしい答えで俺はすぐに納得する。
『それに』
彼女が付け加えるように言う。まだ理由があるようだ。
『迷子になったら電話してって言われたから』
誰に言われたんだ? という疑問が浮かぶ。いや、まさか。
「…………俺が?」
『うん』
全然覚えていない。俺は一体いつそんなことを言ったのだろうか。
「言ったっけ」
『ちゃんと言ったよぉ~。ちょっと前に私が迷子になったときに』
拗ねた声で松原さんは言った。思い出せない。
「ゴメン、思い出せない」
『そっか、忘れちゃったかぁ~。私、嬉しかったのになぁ』
シミジミと語る彼女になんとなく罪悪感が。
「すぐに迎えに行きます」
耐え切れなくなった俺はそう言って、話を無理矢理変えた。
その後、近くの目立つ建物だったり喫茶店の名前だったり、松原さんに手がかりになりそうなことをいくつか聞いた。
『気をつけてね』
「おう。松原さんはじっとして待っててくれ」
『うんっ』
彼女の嬉しそうな肯きを聞き、電話を切った。
お店を出て、空を見上げた。雨雲は空を覆っていて、今にも降りそうだった。天気予報は雨じゃなかったのに。俺は急いで松原さんのもとへ行こうと走り出した。
予想通り、雨が降り出した。小降り。松原さんが行ったという喫茶店にたどり着いた頃だった。
こんなことなら傘を持ってこればよかった。そう思うと同時に、松原さんは大丈夫だろうかと思った。もし傘を持っていないならずぶ濡れになってしまう。……急がないと。本降りになる前に。
手がかりを元に虱潰しに探す。走り続けて20分、ようやく彼女を見つけた。一人寂しそうに佇んでいた。遠くからでもわかった。
「松原さんっ」
俺は松原さんのもとへ走った。近づく俺を見るや、すぐさま涙目の彼女もこちらに駆け寄ってきて抱きついてきた。松原さんの行動に驚きつつ、俺はそのまま彼女を抱きしめた。
「ふぇぇ……っ」
「ゴメン、待たせた」
恋人でもないのに抱きしめたのは松原さんが今にも泣きそうだったからだ。見知らぬ町でたった一人で不安だったんだろう。その感情を少しでも和らげたかった。……彼女に向けるこの感情がどういうものか、わからないが。
「ありがとね」
少しして、松原さんが落ち着いてきて、そう言った。
「迎えに来てくれて」
何のことだと首を捻ってると、松原さんはそう付け足した。
「どういたしまして」
俺はゆっくりと松原さんから離れた。松原さんの目が一瞬だけ大きく見開かれる。名残惜しそうに見えた。気のせいか。
俺たちがそんなやり取りをしていると、急に雨足が強くなった。土砂降り。雨は気まぐれ、とはまさににこのことか。
このままでは不味い。俺には傘がない。そしてこの雨の中、傘を差していなかった松原さんも恐らく持っていないだろう。小雨だったから傘がなくてもよかったが、この土砂降りだとすぐさまびしょ濡れだろう。
「俺は持ってないんだけど……松原さん、傘持ってる?」
「ううん、持ってないよ」
一応聞いてみたがやはり持っていないみたいだ。
「急いで帰ろう」
「うんっ」
歩き出そうとすると松原さんが服の裾を掴んで俺の動きを止めた。
「手、繋いでいい?」
はぐれないためだよ、なんて彼女は言う。
「いいよ」
なんだか照れ臭くて、ぶっきらぼうになってしまう。
手に触れる感触。松原さんの手だ。想像よりも強く握られて少し驚いた。
俺たちは歩き出す。目指すのは最寄駅だ。
松原さんも俺もこの町には土地勘がない。スマホの地図と睨めっこするが、雨が画面に当たってよく見えない。
焦る。すでに服はかなり濡れていた。帰るよりも一先ず雨宿りした方がいい、とも思い始めていた。
「ねぇ」
松原さんのその声が俺を引き止めた。酷く激しい雨音が支配する世界で彼女の弱々しい声がやけに届く。
「あそこで雨宿りしない……?」
ある建物を指差して松原さんは言う。俺はその先を見る。『HOTEL』と書かれた、ホテルにしては少し奇妙な建物がそこにはあった。おそらくラのつくホテルだ。
躊躇ってしまう。俺と松原さんは恋人ではない。なのにあそこに入るのはさすがにどうなんだろうか。
俺が考えていることなんてお見通しだったんだろう。
「雨が止むまでだよ」
何も問題ないよと微笑んで語る松原さんに俺は何も言えなくなった。その時の彼女は雨に濡れているせいか、妙に艶やかで、思わず息を呑んでしまった。雨に濡れたその肌が、その髪が、その瞳がどうしようもなく色っぽくて、逆らうことなんてできなかった。反対なんてできるわけなかった。
それに倫理的にはアレかもしれないが、合理的だ。そこでなら服を乾かすことができるし、身体を温めることだってできる(エロい意味ではない)。何より、迷子になって疲れているであろう彼女を休ませることができる。そう、合理的なんだ。
「行こ?」
松原さんは再び俺に催促する。
「…………ああ」
俺は覚悟を決めて頷いた。そしてラのつくホテルに俺たちは向かった。
●○●
回想終了。俺の意思が弱いせいか、それともこの雨のせいか。いや両方だな。
なんて原因を探っても言い訳をしても現状は変わらない。俺の隣にはお風呂上りの松原さんがいる。夢でも幻でもない現実だ。
そして俺は半裸だ。上半身裸状態。服がびしょ濡れになったからやむを得なかった。ズボンも濡れているがそれを脱ぐのはさすがに不味いので脱いでいない。エアコンがついているとはいえ、少し寒い。
触れてしまいそうな距離。温まった松原さんの体温まで俺に伝わってくる。
外は相変わらず雨が降っている。バケツをひっくり返したようなそんな雨。止む気配はない。
「………………」
「………………」
沈黙。俺も彼女も黙り込んでしまう。お陰さまで窓を叩く雨音がうっとおしいぐらいよく聞こえる。
何をどう話せばいいのかわからなくなってしまった。この場所が、松原さんの格好が、俺の心を掻き乱す。
彼女は何を考えているんだろうか。こっそりと盗み見る。俯いていて頬が変わらず赤いことぐらいしかわからない。
「あー……」
ただこのまま黙っているのも気まずいので、何か喋ろうと口を開く。話す内容なんて考えていない。何も思いつかない。行き当たりばったり。
「…………テレビでも見る?」
なんとかかんとか考えてその結果思いついたのがこれ。というのも視界にホテル備え付けのテレビが入ったから、という単純な理由。
「……うん」
松原さんは静かに肯いた。
俺はテレビのリモコンを取りに行くためベッドから立ち上がる。リモコンを取ったらそのまままたベッドに戻る。今度は松原さんから少し距離を取って座る。
すると彼女はすすっと近づいて距離を縮めてくる。さっきよりも近い。お互いの肩がくっつくぐらい。
離れて座った意味がなくなった。
「……どうして近づくんだ?」
「くっつきたいから……ダメかな?」
松原さんは上目遣いで懇願してくる。瞳は潤んでいて、唇は濡れて光って見えた。要するに色っぽい。
「…………ダメ」
グラつく心をなんとか正常に戻した。
「でもくっついたら温かいよ?」
俺の格好を指差して松原さんはそう言った。
上半身裸、下半身濡れズボンは確かに寒い。がそれは不味い。この場所で、恋人でもない男女がくっついたらなんだかそのまま一線を越えてしまいそうな気がする。
「ダメ?」
松原さんは俺の顔を覗き込み首を可愛らしく傾げて、正しくダメ押ししてきた。
「…………テレビつけるぞ」
ダメとはもう言えなかった。俺は意思の弱い男だ。
「うんっ」
松原さんは嬉しそうにするに頷いた。
テレビの電源をつけた。絡み合う裸の男女が映し出される。女性の喘ぎ声が部屋に響く。
俺は慌ててテレビを消した。失敗した。
「…………」
「…………」
再びの沈黙。俺はもう松原さんのほうを見れない。余計に気まずくなった。自分の呼吸と松原さんの呼吸と外から聞こえる雨音だけがよく聞こえた。
「すぅ……はぁ……」
すぐ隣の松原さんが深呼吸をした。彼女も気まずいのだろうか、と一瞬だけ頭を過ぎった。
「…………えいっ」
その掛け声とともに松原さんは俺に向かって飛び込んできて身体を密着させた。抱きついてきた。
松原さんを受け止める。重さと、女性特有の柔らかさを感じる。彼女の香りがいっそう強くなった気がして、俺をくらくらさせた。
「……抱きつくなよ」
極めて冷静に、冷静になって彼女に言う。内心じゃ心臓バクバクだ。顔も赤くなっているだろう。
「このほうが温かいよね」
「……確かに温かいけどさ。その格好で異性に抱きつくのはさすがにちょっと」
松原さんの格好はバスローブだ。あの下にあるのは恐らく裸か下着だ。そんな軽装備で抱きつかれて耐えられるわけがない。俺は上半身ノーガードなんだから。
「……我慢できなくなっちゃう?」
普段大人しい松原さんにしては珍しい挑発的な瞳と俺の心を見透かしたような言葉。彼女はその言葉に合わせて俺の背中に回した手でさすりと背中を撫で回す。まるで俺を刺激して暴走させようとしているよう。普段おどおどしてる松原さんに押されている。
「我慢、しなくていいんだよ?」
松原さんは口を俺の耳元に近づけて、囁く。震えてしまう。
彼女の声に溺れていく。底に引きずり込まれてどうしようもなくなっていく。
「……えいっ」
松原さんは背中に回していた手を正面に戻し、俺の肩辺りを思いっきり力強く押した。押し倒された。ベッドの軋む音がした。ベッドのおかげで倒れこんだ時の衝撃は少ない。
見上げると彼女がいた。俺の身体に乗って、妖艶な笑みを浮かべていた。俺は息を呑んだ。俺の知らない松原さんがそこにいた。
「ごめんね。私のほうが我慢できなくなっちゃった」
キミだって限界でしょう、と彼女は俺のことを見透かして言う。俺は何も言えなかった。
バレてた。身体の密着してる部分的に仕方がないことなのか。
「わかってるよ。押し倒したいって思ってるの」
その言葉で思わず俺は顔を横に逸らす。彼女を直視できない。
松原さんの言葉は正しかった。今押し倒されているのは俺のほうだが、この状況を力ずくで引っ繰り返して彼女を押し倒し返したいと、そんな欲望が俺の心の底には存在していた。松原さんをめちゃくちゃにしてやりたい、征服したい、気持ちよくなりたい、最低な願望が湧き出るように浮かんでくる。そしてそれはきっと松原さんじゃなくてもよかった。
「俺は……」
それでも俺はなんとか踏み留まっていた。留まることができた。
ある少女の顔が浮かんだ。輝く笑顔。決して俺の手の届くことない。叶わぬ恋。
「知ってるよ。好きな人がいるんだよね」
「……ああ。だから」
「――私、キミのこと好きだよ」
続きの言葉を言わせないように被せられた彼女の言葉は思わず呼吸の方法を忘れるくらい衝撃的だった。考えもしなかった。
「知らなかった?」
ずっと前から好きだったんだよ、と冷静になれていない俺の耳元に彼女はそう囁く。追い討ちをかけられて、余計に冷静になれない。
「ねぇ、今だけでいいの」
縋りつくような、媚びるような、泣き出しそうな声が耳元で響く。
「抱いてほしいなぁ」
言葉が出ない。松原さんの懇願を受け入れるか、否か、そんな単純な二択ですら選べない。
拒絶できないのは叶わぬ恋に懸想しているとわかっているからか。あるいは目の前にぶら下がっている松原花音という魅力的な餌に思うがまま食べてしまいたいからなのか。
改めて松原さんの顔を見た。紅潮した頬に潤んだ瞳。恋する少女の顔。目を奪われてしまう。
「キミは悪くないから――」
それ以上は言わせなかった。唇で塞いだ。松原さんは驚きつつも受け入れた。
秒数にして30秒ぐらい。唇と唇を合わせるだけのキス。瑞々しい唇の感触に自分の中の肉欲が高まるのがわかった。
唇が離れて、彼女はなんで? と言いたげな顔で俺を見つめる。それに対する明確な答えを俺は持ち合わせていなかった。わからない。きっとこの雨みたいな気まぐれだ。彼女の表情に、彼女の声にそれとなく何か感じたから。だからこうした。
「あっ」
バスローブの紐を解く。重力に従ってバスローブははだけて、隠されていた二つの膨らみが露わになる。頬を赤く染めた彼女は恥ずかしそうに、だけど嬉しそうに声を上げる。
「好きだよ」
それはひどく甘く、俺の心を蕩けさせた。そうしてゆっくりと堕ちていく。底を抜けてさらに深みへと。
雨はまだ降っている。最低な俺は言い訳をする。この雨のせいだ。気まぐれみたいに降ったこの雨のせいでこうなったんだ。
彼女を抱いている間は、この雨が止むまでは、何もかも忘れることができた。あの子のことも。
今はただこの雨がずっと続いてほしいとなんとなく思った。
凸凸凸
目を開ける。目の前にはキミがいる。私はキミの腕を枕にして眠ってしまったみたい。
キミは気持ちよさそうに寝ている。穏やかな寝顔だから安心してしまう。
だって今日のことはキミが望んだことじゃないから。だから悔いていると思ったの。キミにそうさせた私がそんなこと思う資格はないかもしれないけど、それでもキミにはできるだけ辛い顔をしてほしくない。
ああ、酷く酷く醜い。そして卑しい。自分でも思う。……それでもキミが欲しかったの。キミの近くに居たかった。離れたくなかった。
「好き……」
想いが溢れて思わず呟いてしまう。ちょっと恥ずかしい。さっきいっぱい言ったのになんでだろうね?
当然返事はない。でも返事が聞きたくって頬っぺたを人差し指でつんつんって突く。返ってくるのはくぅくぅという寝息だけ。返事が返ってこないのは残念だけど、これはこれで可愛いなぁ。
ざーざーと雨はまだ降ってる。この雨には感謝してる。おかげでこうなれた。偶々近くにあったこのホテルにも。
キミと身体の関係にはなれた。でもキミはまだ私のことを本気で好きじゃない。お友達としては好きだと思うけど。欲しいのは異性としての好き。
……ここから。きっとキミに私のことを好きになってもらうんだ。愛してもらうんだ。あの娘のことを忘れさせるの。私だけを見つめてもらうの。
でも今はこの雨音を聞きながら、キミの近くでまどろんでいたい。慣れない運動したからちょっと疲れちゃった。今度はキミの夢が見たいな。見れるかなぁ、見れるといいなぁ。