俺とキリトの武装完全支配術を受けたカセドラルの壁は、そこを中心にたちまちのうちにその辺り一帯に亀裂を走らせ、外側に崩落を始めた。
この《雲上庭園》はその名の通り地上遥か高い地に存在する。カセドラルの内部では神聖術によりカセドラル地上部と同等の状態に保たれているが、壁一枚挟んだ外側は地上よりも大気の薄い空が広がっている。
壁の内部に充満していた空気は壁という制約が外れた今、猛烈な勢いを伴って壁の外へ、高い高い空へと流れ出した。その気流に引き込まれて、俺の体もカセドラルの外に投げ出されかける。
慌てて自分の剣を床に突き刺した。これで一旦は自分の身体を支えることが叶う。すぐ側にいたキリトも俺と同様にしてその場に蹲った。この高さから落ちたのでは、整合騎士だろうが教会への反逆者だろうが到底助からない。可能ならば生け捕りにしたいと思っているので彼が落ちなかったことは幸いだった。
しかし全員がその場に留まることはできなかった。
「アリスちゃんッ!」
アリスはユージオに攻め立てられ、壁を背にして応戦していた。武装完全支配術により氷漬けにされた足元を剣で斬り払ったときに、その背後の壁が崩壊したのだ。
不安定な足元、すぐ後ろの壁の喪失、猛烈な気流、崩れていた体勢、それらの影響でアリスの体は簡単に宙に浮いた。彼女本人も何が起こったか分かっていないのだろう、目を見開き、突如として後方に傾いた自分の身体に驚愕の表情を示した。
「アリス!」
それに焦ったのは俺だけではない。何しろユージオは彼女を連れ戻すためにこのカセドラルまで来たのだ、彼女がここで死ぬことなど到底望まないだろう。
ユージオはアリスに手を伸ばした。一瞬掴みかけ、しかし掴めない。思わず身体を限界まで伸ばした。そうすれば当たり前だが、逆の手で持っていた剣の先は床から浮く。床と氷で繋がり、この中の誰よりも安定していたユージオの体勢はその一瞬で崩れ去った。アリスの後を追うようにして壁の外へと落ちていく。
「ユージオッ!」
キリトが咆哮する。俺は何かできないかと視線を彷徨わせる。
俺の視界に、白い金属質な鎖がちらついた。
それは俺が自らの鎧から作りユージオに絡めた鎖。俺は何とか壁の外に引き摺り込まれないようにしながら、その鎖の先を握った。
カセドラルの壁は、徐々に自動で修復されていく。俺がしばらくこの鎖を保持していれば、壁が勝手にこの鎖を固定してくれるだろう。
しかし、このままでは壁が直るよりも前にこの鎖の長さ分ユージオが落ちたときに、俺までも巻き添えにされてしまう。またユージオが片足だけでこの鎖に繋がっていた場合、股裂きにも似た結果が彼に訪れることになる。
となれば、俺がしなければならないことは簡単だった。この鎖を、できるだけ長く、可能な限り長く、壁が修復するまで、ユージオがこの鎖の存在に気づくまで伸び続けさせる。
「エクステンド・オブジェクト! ストレッチ・チェイン!」
いくつか思いついた神聖術を叫ぶ。その内のどれかが正解を当て、手の中の鎖がどんどんと細くなり、同時に厚みを失っていく。そして壁が修復されて鎖が完全に固定されると同時に、手元の鎖も変化を止めた。
神聖術は無から有を生み出す術ではなく、あるものを利用する術だ。鎖を伸ばそうと思っても、そもそもの最初に存在する物質量で伸ばせる限界は決まってくる。できるだけ細く、薄くすることで鎖を引き延ばしたのだが、足りたであろうか。俺はそれだけが不安だった。この鎖も元々は整合騎士の鎧であり、これだけの細さになったとしても壊れるほど脆くはない。
俺は苦い顔でカセドラルの壁を睨んだ。今度、最高司祭様に会ったときに進言することが一つ増えたようだ。
「……なあ、レント」
その俺に後ろからキリトが声をかける。今なら背後から斬りつけ放題であっただろうに、やはり先程の言葉通り教会への反逆が主目的ではないからだろうか。
「何か」
「一つ、俺の話を聞いてくれないか」
振り返れば、キリトの強い意志の籠った深い黒の瞳と目が合った。そこに偽りは存在せず、彼が彼なりの真実を舌に乗せようとしていることを理解する。
「……構わない。お前と俺では実力勝負ではこちらに分がある。先程は初見で驚いたが、二度は武装完全支配術が通じると思うなよ」
俺は剣を鞘に収める。図らずもカセドラルの壁と真っ向勝負して打ち勝ったのだから、きっと少なからずその天命は減少している。鞘で休ませる必要があった。
キリトも黒い剣を鞘に仕舞い、俺の瞳をしかと見つめながら口を開いた。
「まず、最初になるけど、俺がお前を知っていることはきっと間違いない」
「だから、さっきも言っただろう。それはあり得ないと」
「……俺がレントと会ったのは、この世界じゃない」
「――つまり、天界と?」
俺はジロリとキリトを見た。天界から零れ落ちた者が人の子どもとして育つ。どこぞの民話にでもありそうな筋書きだ。
「ある意味ではそうとも言えるけど、俺が言っているのはレントが考えている意味での天界じゃない。このアンダーワールドの、『外』の世界だ」
「続けて」
「……この世界は、俺が元々いた世界、『リアルワールド』の人間に作られた世界なんだ」
『リアルワールド』。そう言ったキリトの顔は苦々しそうなものであった。何か言いにくいことがあるのか。だとすれば何だ。いや、簡単な話か。彼は
それはアンダーワールドに住む人にとっては信じがたいことであり、疑いたいことだ。それは自信の存在すら不安定にするのだから。
しかし『リアルワールド』が本当に創造主の世界であるなら、確かにある意味では天界と言っても差し支えないのかもしれない。
「ふうん、なるほど。つまり、この世界を作った創造主たる人間が『リアルワールド』にいて、お前はその『リアルワールド』から一時的にこちらの『アンダーワールド』に降りてきている。それで俺も本来はお前と同じく『リアルワールド』の人間で、お前とはあちらの世界で知り合い、俺が先にこの世界に降りてきたが記憶を失っている。そういうことを言いたいんだな? お前がこの世界に来てからは数年しか経っていないが、数十年前に降りてきた俺、それもこの若い姿を知っているということは、そちらの世界とこちらの世界では時間の流れが違うのか?」
「……流石はレントだな。今のでそこまで推測するか。それで、その内容は大体合っている。俺が知っている限りになるけれど、大体向こうよりもこっちは千倍の速さ……だったはずだ」
「こっちの五十六年は、――大体二十日程度か。なるほど、お前が俺を知っていても問題はないわけだ、その言葉を信じるならな」
相変わらず、キリトの眼差しは変わらない。嘘偽りだと全く自分で思っていない目。それにその応対はただの狂人とも思えない。
「で、俺にお前の記憶がないことはどうやって説明する?」
「……実は、だな。レントがこの世界に来た原因がそれなんだ」
「…………」
「お前は『リアルワールド』である事件に巻き込まれ、負傷した。その際に記憶を失ってしまったから、治療を目的にこのアンダーワールドにダイブ……あー、降ろしたんだな」
ツキン
頭の奥が鈍く痛んだ。
「……その負傷は、どこのものだ?」
「……頭部。額辺りから、後頭部の中央を貫かれた」
―――なるほど、ね。
この痛みは、そういうことだったのか。
「良いだろう。その言葉、信じよう」
「ッ本当か!?」
「ああ。――たまに、頭の奥が痛むことがある。この整合騎士という身であっても、だ。おかしい、おかしいとは思っていたが、ここに来る前よりの傷だったわけだ」
一度も教えていない痛みに理由をつけたキリトを、俺は一旦は信じることに決める。今は不信よりも信の材料の方が多い。
驚いてこちらを見るキリトの黒い瞳を真っすぐと見つめた。自らの潔白を示し、相手に欺瞞を許さない、そんな意志を籠めて。俺とキリトの関係の他に一つ、俺にはキリトに聞いておきたいことがあった。
「それで、キリト。聞きたいことがある」
「何だ?」
「お前が言う、最高司祭様が我々整合騎士の記憶を操作しているというのはどういうことか説明しろ」
俺は鞘に入ったままの剣先をキリトに向けた。これは警告だ。ただの虚偽も許せないが、虚言を弄して最高司祭様を貶めるようであれば容赦はしないという警告。キリトはごくりと唾を呑んだ。
「最高司祭、アドミニストレータは整合騎士を整合騎士にする際に一つの操作を行っている」
「待て。整合騎士を整合騎士にする、というのは人界の人間を攫ってきて整合騎士として認識を操作するということか?」
「あ、ああ。……さっきも言った通り、この世界は『リアルワールド』の人間に作られたものだ。整合騎士が信じる、彼らの故郷である天界なんてものは存在しない」
つまり整合騎士が自らの故郷を天界と認識している時点で、そこには何らかの記憶を操作する術が使われているということになる。キリトはそう言いたいのだろう。『リアルワールド』の存在を認めた俺もそれには反論できない。
「人間の中でも禁忌を犯した者や、武勇に優れた者を連れてきてその一番大事な記憶を抜くんだ。それから、その記憶の空いた場所に
「それで我々整合騎士はかつての記憶を思い出せず、最も大事な記憶、つまりは最も大切にしたいという感情の向かう先を最高司祭様に挿げ替えられる。そういうことだな?」
「あ、ああ……」
キリトが小声で「説明が要らないにもほどがあるだろ」と溢しているのが聞こえたが、頭を柔軟にして主張したいことを基に考えればこのくらいの推測はつく。
「……否定する材料は、残念ながら見つからないな」
「えっ?」
「最高司祭様のご性格を踏まえれば、そのくらいのことならやってもおかしくはない。いや、むしろその
「……本当に崇拝してるのか、それ。モジュール外れてたりしてないか?」
「俺は別に最高司祭様を清廉潔白、誰に見せても挙って正しいと言う行いしかしない聖人君子とは思っていない。あの方は、あの方なりにこの人界を守るために動いていらっしゃる。最高司祭様の視点は我々のような存在では及びつかない高い位置にあるのだから、理解できなくとも仕方ないものだ」
そう言えば、キリトは苦虫を嚙み潰したような顔をした。この問答で俺の最高司祭様への忠誠心が揺らぐことを期待していたのだろう。だが、俺の忠誠心の在り方は他の整合騎士のものとは少々異なる――実際に確認したわけではないが、間違いなくそうだろう――。
「さて」
「ッ!?」
「ははっ、そう慌てるなって。今、俺にお前を斬り捨てる気はないよ、キリト」
俺が剣を腰に戻しながら口を開けば、俺の説得に失敗したと思ったのだろう、キリトは派手に警戒を見せた。それに思わず笑いが漏れる。確かに、俺の考えを説明しなければこの動きは居合の前段階にしか見えないだろう。
「俺はこれから最高司祭様に直談判に行く。あの方のやり方は少し独善的に過ぎる傾向があるからね。それを嗜めてこその臣下だと俺は思ってる」
「……嗜めて、どうするつもりだ」
「どうするも何も、俺は提言するだけであの方の意思決定に反するつもりはないよ。ただキリトの言葉に心を左右された整合騎士がいること、それからこんな真似をせずとも最高司祭様に従う者は多いだろうということも伝えておこうかな」
俺はキリトに笑みを向けた。
「どうする? ついて来るかい、キリト?」
「――ああ」
キリトは呆気に取られた顔をした後に、俺に右手を差し出した。
「きっとユージオもどうにかして上を目指していると思うから、俺も上に行く。よろしく、レント」
「ああ、そうだね。彼らと合流したら、アリスちゃんの説得は手伝ってあげよう」
「ああ、頼む!」
にかっとキリトが見せた笑顔に、また頭の奥がツキンと痛んだ。
******
「しっ、止まって」
俺が片手で制すれば、キリトは素直に俺の後ろに隠れた。
ここはカセドラルの九十階。そこに存在する大浴場だ。……大浴場があるのは良いのだが、俺は常々この造りは直すべきだと主張している。
大浴場は階層全てを大きな浴場としている。いくつかの浴槽に分かれてはいるものの、そこに男女の別はない。風紀の乱れを気にしているわけではないが、単純に異性に肌を晒したくない者も多いだろうに。
そして階層全てを浴場にしたせいで、上下階の移動には必ず浴場を突っ切らねばならないのだ。誰かが使用するときだけ湯が張られるため通る度に濡れるという事態は避けられているが、誰かが入っているときにここを通らねばならなくなると中々に気まずいときがある。
―――でも、今はその構造が実に恨めしい。
まさか自分が反逆者側につくことになるとは思っていなかったが、こうなってみるとやはり改築を強硬にでも主張してやっておくべきだった。
俺は後ろ手でキリトにその場に待機するように指示し、大浴場の中へと足を踏み入れた。
「ベルクーリ騎士長」
「お? レントか。……ははーん。そういうことか」
「ええ、そういうことになりました」
「――ファナティオはどうした」
「副騎士長には応急処置を施し、後は四旋剣に任せています。問題なく復帰できるでしょう」
「そうか」
俺が浴場にも関わらず剣を携えたままでいること――臨戦態勢であることを示す――、俺の身に返り血がついていないこと――ファナティオを破る相手を無傷のまま生け捕りにしたとは考えにくい――、俺の他にもう一人の気配が薄っすらとすること――アリスでないことくらいはこの人ならすぐに分かる――、それらを組み合わせれば、俺が反逆者の側に与したことは直感的に理解できる。
「嬢ちゃんは? まさか、いくらお前さんでもあの嬢ちゃんに無傷でいられるとは思えないが、鎧でもくれてやったのか?」
「……うーん、何とも返答に困る質問ですね。鎧をくれてやったかと聞かれれば、強いて言うならばはい、でしょうね。ああ、ありがとうございます。一つ、最高司祭様をお諫めしなければならないことがあったのを忘れていました」
「……何だ?」
ベルクーリが胡乱気な目をこちらに向けた。彼はもう風呂から上がり、衣服を身に着け始めている。
「カセドラルの壁、騎士長は斬ったことがありますか? 意外と脆いんですよ、あれ。まさか崩れるとは思ってもいませんでした」
「……それは、驚いたな」
「ええ、それは本当に。アリスちゃんと侵入者の一名はそこから下に落ちました。ただ鎧を形状変化した鎖を何とか投げ込めたので、あれに捕まってさえいれば何とか生きているとは思います」
ベルクーリは着流しの帯を締めた。その愛剣を手に取る。
「冷たいな。お前さん、嬢ちゃんのこと気に入ってたように見えたんだがな」
「気に入っていたからこそ、この窮地を切り抜けてくれると信じているんですよ」
ベルクーリは剣を腰に沿え、キュッと目を細めた。
「じゃあ、やり合う前に一つ聞いていいか? お前さん、右目の封印はどうした」
「右目の封印……?」
―――何だ、それは。
俺が今までに聞いたことのない言葉だ。何か、右目に封印されているということだろうか。それとも右目が封印なのか。今までのことを思うとパイエティモジュールのことかとも思うが、きっとそのパイエティモジュールに不具合が生じたのであろうエルドリエの右目に何かがあった記憶はない。全くの別系統なのか。
俺がそうして考えを巡らしているのを見て、ベルクーリは呆けたように何度か眼を瞬かせた。
「こいつは驚いた。――レント・シンセシス・トゥエンティ、お前はこの俺に刃を向ける意味を理解しているか?」
「教会への反逆、でしょう。構いません。最終的に最高司祭様に俺の意見を伝えられれば」
「……く、くっははは。ああ、何だ、お前さんもうとっくに封印を解いてたのか!」
なおも俺には理解できない言葉をベルクーリは紡ぐ。だが、その笑っていた騎士長が一瞬で目を据わらせた。
「じゃあ、やろうか、レント」
「ええ、始めましょうか、騎士長」
俺が湿った床を踏み切るのと同時に、ベルクーリは柄を強く握った。
主人公VSベルクーリ、開幕!
とうとう明確に主人公が教会に反旗を翻しましたね。……敬神モジュール入ってるし、そもそも何の記憶も取り戻してないのに。もしかして今まで育んだ人間性が反体制的なんでしょうか……。
それと、今回は描写しないので簡単に言ってしまいますが、ユージオ君とアリスちゃんは原作キリト君とアリスちゃんみたいに協力して九十五階まで頑張って上ってます。やったね、フラグはユージオ君のものだ!