「フリーオ、フリーオ……」
口の中で懐かしい響きを転がす。ほんの少しの間の付き合いでしかなかったが、その名前を思い出すだけで胸が温かくなる。
ゴブリンに襲われたあのときから五十年以上が経っている。僕が知っている彼とはまるで違う同名の人物かもしれない。だがもしも本人だったら。そんな考えが消えない。今ではもう七十を過ぎているだろうに、それでダーク・テリトリーまで旅したのだとしたら相当に健康な老人なのだろう。ふと、笑みが零れた。
《陽纏》も僕の喜びに共鳴したのか、高く鳴いた。飛竜はセントラル・カセドラルで一定の自由を与えられているが、整合騎士の騎乗なしに遠くに行くことは禁じられている。また他の騎士の飛竜に乗ろうとする騎士もいないため、物好きな騎士が騎手のいなくなった飛竜をパートナーに定めない限り、あの塔で飼い殺しのような状況になる。
「すまないな、お前を置いていなくなってしまって。半年間寂しかったろう」
ポンポンと首の根本を叩けば、お道化たように喉を鳴らして《陽纏》はスピードを上げた。
《東の大門》に着いたらベルクーリやファナティオに《陽纏》の今後のことを頼まなくてはならない。きっと、もうこの人懐こい飛竜の背に乗ることはないのだから。
この世界での目的を終えれば、当然僕はログアウトしなくてはならない。この世界に再びダイブできるとも思えない――本来は国家機密だ――。心残りを全て清算していくのだ。
風を切って飛ぶ感覚。翅を使って飛ぶ方がただ乗っているだけよりも好きなのは事実だが、これにも独特の趣がある。何より、妖精の翅という長距離飛行にはおおよそ向かない代物よりも飛竜の翼の方が余程速いし安定している。
ああ、しかし。叶うことなら大地を疾走する《陽纏》の隣を自らの翅で飛びたかったものだ。アドミニストレータとの戦いで《心意》への理解が深まった今なら、きっと翅も再現できただろうに。
流石に飛竜は速い。眼下の景色が飛ぶように――実際に飛んでいるのだが――変わっていき、街道は段々細く粗くなり舗装がなくなる。人家は消え、畑や牧場が広がる。たまに人家の集まった集落が見えるが、それらもその規模を小さくしていく。ついに大きな樹が伐採もされず残っているような未開拓地域の上空に侵入する。折り重なる枝々が葉を広げ、伸び伸びと日光を浴びている。
その豊かな濃い緑もすぐさま薄れていく。《東の大門》の近くに木々は少ない。高くなる標高のために気候は冷涼になり、草の優先度が上がるのだ。
その鮮やかな緑の中に人界軍は布陣していた。数えきれないほどのテントに、軍需品を満載した荷車の数々。統一規格の鎧を身に着けた数多の兵士が訓練用の木剣を互いに振るっている様子も窺える。ただちに開戦というわけではないが、開戦を間近に控えているという独特の緊張感が漂っていた。
「《陽纏》、頼む」
少数ではあるが、兵士が上空の僕に気づき始めた。彼らでは飛竜の区別はつかないであろうしすぐに整合騎士が呼ばれるだろうが、その前に軽く挨拶をすべきだろう。
「ゥクキィィァァァアアア!」
飛竜の普段の声とも違う、独特な笛のような鳴き声。喉を狭めさせて固有の音を発することで様々な意味を伝える技法だ。これを使わねばならない緊急時は滅多にないどころか、今までこれを使っている整合騎士に出会ったことはないが、僕も一度くらいは使ってみたかったのだ。
陣のあちこちから応じる飛竜の声が上がる。それを聞き分け、この場にいる整合騎士を粗方推定する。使ってみれば意外と便利かもしれない。
最初に空に上がってきたのは赤い鎧の整合騎士だった。乗騎とともに一般兵の訓練を見ていたからだろう。
「レント殿! ……久方振りであるな。何があったかは知らぬが、無事のようで何よりだ」
「デュソルバート殿も後遺症も残らなかったようで安心しています」
「ふっ、中々味のある表情になったな。カーディナル様やアリス殿の言葉は真であったようだ」
最後に見た悩み曇った表情とは打って変わったさっぱりとした様子でデュソルバートは笑う。何を笑われているのか分からずむず痒いが、悪い感じはしなかった。
「――旧交を温めるのはそこまでにしてもらえますか。レント、貴方には聞きたいことが山ほどあるのですから」
硬さと柔らかさを兼ね備えた声がした。以前は永劫不朽の神器らしい硬さだけであったのが、散り落ちる花弁の柔らかさが増していた。
「アリスちゃん、ただいま」
******
「――ま、大体こういうわけです」
陣の中央に位置する一際大きなテント。それは会議所となっていて、現在はそこに十
僕は彼らの前に立ち、ここまでの経緯を説明する。カーディナルが話したという現実世界との関係のことも踏まえ、彼らにはできるだけ包み隠さずに全てを話した。僕が『外』の人間であること、一度こちらの世界で死んだこと、不正手段で死亡した体を使っていることも全て。彼らも難しそうな顔はしたが、半年前に一度受け止めたことに追加情報が出てきただけだ、一定の理解は得られていた。
「なるほど、そういうことだったか。だから右目の封印がなかったんだな」
ベルクーリが膝を打つ。この人物は剣力に優れているだけでなく、カリスマ性や理解力、頭の柔軟性も人並み以上だ。常に誰よりも切り替えが早い。
「『外』の人間は誰しも貴方やあの坊やのように剣に優れているのかしら? 凄い戦力ね」
化粧をしたファナティオが首を傾げる。僕らが例外であるのは間違いないが、それを説明するのはまた別の機会でいいだろう。
坊や――間違いなくキリトのことだが、彼は相変わらずの人誑しで英雄だったようだ。ファナティオの心をたった一度の剣戟で開いたのだろう。彼女は僕が見たことのない女性的な表情を示した。
「それじゃ、キリトは、『外』の力でも……」
その声は小さく震えていたが、会議所を水を打ったように静まらせた。
俯いた
「そうなるね。彼の心を十分に動かせる出来事がこちらで起これば、『奇跡』があるかもしれない。その程度の話さ」
「ッ、どうして、そんなに落ち着いているんですか。貴方とキリトは親しかったんじゃないんですか」
ユージオが怒りを孕ませた言葉をこちらに向ける。彼の瞳は氷のような色をしているが、その内面は大分熱いようだ。
「うん、親しかったよ。それこそ、自分の命の保証も何もかもをかなぐり捨ててここに戻ってくるくらいには。――君には、僕が落ち着いているように見えるんだね、ユージオ・
ユージオはビクリと体を震わせた。カーディナルには聞いていた。彼の身を守るためにも整合騎士に叙勲し立場を与えた、と――シンセサイズの儀を過去のものとするために整合騎士は全員『シンセシス』のミドルネームを捨てたそうだ――。実力はやや物足りなくもあるが十分。罪人を騎士としていた過去も踏まえれば別に何も言うことはないが、人生経験の浅さはどうにもならないものだ。
「レント、それはどういうことですか」
僕の視線をユージオから逸らすようにアリスが声を上げた。彼女の眼光は鋭い。
「おお、怖い怖い。そんなに睨まないでよ、アリスちゃん。別に何か悪意があったわけじゃないさ。ただ新入りという存在に慣れないだけだよ」
事実、僕が叙勲された後に整合騎士になったのはアリスを含めてほんの数人だ。
「そうではありません。貴方の命の保証がないという点についてです。分かっているでしょう」
「どういうことも何も、その言葉通りだよ。……以前は、こちらで命を落としてもただ痛いだけだった。今は違う。こちらとあちらの命は完全に繋がっている。それに、あちらからも今の僕は簡単に殺せてしまう。ただそれだけだよ」
「なぜ、そんな簡単に済ませてしまうのですか!」
アリスが牙を見せるように返してくる。その剣幕に僕は思わず目を瞬かせてしまった。
「どうしても何も、命が一つだけなんて当たり前の話じゃないか。今までがおかしかったんだよ。……キリト君を助けるためなら死んでも致し方なし。その覚悟は済んでる」
僕が言いきれば、彼女は言葉を詰まらせる。ナーヴギアを、数多の命を摘み取ったあの機械を被るときから覚悟はできている。今更それで怯むようなことはない。
「あー、なんだ、レント」
「はい?」
「お前さんの覚悟はよくわかった。だが、一つだけ言いたいことがあるんだが、いいか?」
「……なんでしょう」
ベルクーリが頭を掻きながら言いづらそうに口を開いた。竹を割ったような彼が口を濁すとは。僕は身構えた。
「その『僕』ってのが元々だったのかもしんねぇが、どうにも違和感が激しいんだよなぁ」
ガクッ
予想とはまるで別方向の言葉に、力が抜けて体勢が崩れた。
「っ。え、あー、はい、確かにそうですね。まぁ、色々あってですね」
SAOでのことから話し始めてはそれこそ時間がまるで足りない。適当にお茶を濁せば、ベルクーリは一人頷いた。
「俺らもほとんどが自分の記憶を取り戻している。だからお前さんのその変わりようも一応納得できるさ。ま、本質は変わってはいねぇだろうが、な」
語尾を上げ、ベルクーリは冗談めかして言った。周りを見れば、他の騎士も皆頷いている。僕の知らない半年で整合騎士団の団結力は一層上がっているようだ。
一転、真剣な顔つきでベルクーリは口を開いた。
「……これからの戦いでは犠牲は免れ得ないだろう。だが、それをいかに少なくするかが俺達の戦いの本義だ。人界を守るのは当然。それ以上を目指してこその整合騎士だ。そして自分自身もその減らすべき犠牲だという認識を忘れるな。死ぬ覚悟は当然としても、死を前提に動くのはなしだ。――これは俺が最初の軍議で皆に言ったことだ。レント、お前もこのことしっかり頭に叩き込んどけ」
「……はい!」
背筋が伸びる。確かに、少し焦り過ぎていたかもしれない。ベルクーリに諭されるまでもなく、SAOから僕はその方針を大事にしていたというのに。
それから、大門が破れた後の作戦を説明された。物量で負けた人界軍は大門前の細い地形を利用して縦深陣を築き、暗黒界軍を削りきることを目標としている。補給面でも負けているだろうに持久戦に持ち込まなければいけない状況は――犠牲を減らすという目標との齟齬も含めて――、十分に人界側の劣勢を感じさせた。
この戦いで僕に与えられた役目は遊軍だ。元々期待されていた戦力でない僕は戦列に加えるのではなく自由に動いてもらった方が良いとのことだ。
ファナティオには「私達が信用できないのかしら。貴方がいなくても十分に敵を撃退できる計算だったのだけれど。貴方は閣下の仰る『犠牲を減らす戦い』に専念してもらって大丈夫よ」と言われてしまった。そう言われてしまえば反論できる余地はない。
実際、訓練も何も携わっていない人界軍の指揮を今から取ったところで――そもそも僕は指揮官の器ではないし――凡庸な将にすらなれないに違いない。
軍議を終えテントの外に出る頃には日は落ち、その残滓で薄っすら地平が赤く見えた。グッと背伸びをするとおずおずとユージオが声をかけてきた。
「あの、レント、さん。先程はすみませんでした」
「別に気にしていないから大丈夫だよ、ユージオ君。あと、僕には別に敬語を使わなくていいよ。……君、キリト君の
「は、はい。じゃなくて、うん」
『親しくないのか』などと言われてつい威嚇するような素振りをしてしまったが、こうも怯えさせてしまったとは申し訳なく感じてきた。
「さっきは僕の方も悪かったよ。少し言い過ぎてしまった。そんなに怖がられるとはね」
「あ、いやあ、……カセドラルで会ったとき、その、凄かったから」
気まずそうにユージオは返す。胸に手を当てる気分で思い返すと、確かに《雲上庭園》と九十九階、最上階での戦闘程度しかユージオとは関わっていない。順にアドミニストレータへの諫言を決める前、再シンセサイズされた直後、シンセサイズから解放された直後の戦闘だ。ただでさえ戦いでは気が高ぶるタイプだが、それが一層強く出ていたときである。
思い出して苦笑する。怯えさせても致し方ないとしか思えなかった。
「はは、確かに。……それで、まさか謝罪のためだけに来たわけじゃないだろう?」
期待と希望を込めた質問は、首肯で迎えられた。
「うん。――キリトのところに案内するよ」
「よろしく頼むね」
キリトはこの陣にいる。軍議のときにそう知らされたのだ。彼から声をかけられなければ自ら声をかけに行くところだった。
ユージオは慣れた足取りで天幕の間を縫って歩いていく。一般兵達の宿舎代わりのテント群を歩くと、すれ違う兵士達は僕らを――もっと正確に言えば僕らの鎧を――認識すると軽く会釈してくる。
―――軽い会釈、か。
不満なわけではなく、純粋に感心していた。僕が知る整合騎士は滅多に人目に触れない分、一般人からは文字通り雲の上の人だと思われていたのだ。それが軽い会釈程度で挨拶を済ませられるような関係性になったのである。アドミニストレータのような絶対的支配のためにはこれでは駄目であろうが、僕には余程心地が良い。
しばらく歩き、補給部隊――兵士達の更に後方に位置している――の中の一つの荷車の前でユージオは立ち止った。
「キリトはこの中だよ。でも……」
柔らかい布を押し開く。夜になりゆく外は暗かったが、分厚い布で囲われた荷車の中はより暗かった。結局最後まで見せてもらえなかったが、ボーグル行商団の荷車もこんな風になっていたのだろうか。
外から差し込む仄かな光が、荷車の中の車椅子を示していた。そこに腰かける人影。ゆっくりと近づけば、彼の黒髪が光を跳ね返して照った。
「キリト君」
「ぁ……」
半開きの口から、応答のような呻きが漏れる。思わず後ろについてきたユージオを振り返るが、彼は首を横に振った。この程度の反応は見せるのだろう。
―――まあ、そう、だよね。
きっと、彼の心を最も動かし得るのは明日奈だ。それは間違いない。僕がただ近づいた程度で回復するとは最初から思っていない。
キリトの正面まで回り、膝をつく。下から覗き込めば、焦点の合わない黒々とした瞳が見えた。常の生気に溢れた瞳との違いに思わず臍を嚙む。
「キリト君。僕だよ。レントだ。君に救われたレントだ。僕は死んではいない。こうして、また君に会いに戻ってきた。君が気に病むことなんて何一つないんだよ。君のお蔭で、僕は大切な記憶を取り戻せたんだから」
膝の上の彼の手に自分の手を重ねる。ピク、と指先が震え、一瞬瞳孔が揺れた。
「帰ってきてほしい、キリト君。みんなが君を待ってる。僕も、当然アスナちゃんも。君はもう許されていいんだ。君は何も悪くないんだよ」
彼の肩に力が入った――ように見えた。見えただけだった。実際には彼の肩は微動だにしていない。
無力感が、僕を包んだ。
この心喪失の原因が僕なら、今だけは僕が彼を救えるかと期待したのだが。僕は眠り姫を起こす王子でもなければ、大切な人を救える英雄でもない。ただそれだけの話だ。
「――やっぱり、駄目だね」
「……」
「でもユージオ君、まだ希望は残っているよ」
「え……?」
「向こうの世界にいるキリト君の恋人が、もう少しでこっちに来るはずなんだ。キリト君は女の子に優しいからね、彼女の言葉なら反応するかもしれない」
ユージオがパチクリと瞼を何度か開閉する。
「キリト、彼女いたの、あんな性格なのに……?」
「おっとぉ?」
思わず声が漏れる。ファナティオを見る限りではキリトの悪癖は変わっていなかったようだが、それに気づいていないとは、このユージオという男も同類か、もしくはあのキリト以上に鈍い男なのかもしれない。
会議所からこっそり後を追ってきていて、今も荷車の外で様子を窺っている三十番目の整合騎士にそっと心の中で手を合わせた。
主人公君の口調がちょっと不安定なのは、人格の主導権を握っている『僕』――キリトの言っていた通りレントがSAOで獲得した真に『自分』と呼ぶに相応しい人格――とアンダーワールドで約六十年間、つまり老齢になるほどに活動していた『俺』の二つがまだ融合しきっていないからですね。他の整合騎士も記憶は封印されていましたが、人格は一続きですからほとんど問題はありませんでしたし、半年間もあったので馴染んでいます。レントには『僕』に至る段階で――周りから見ると――人格の断絶に近い変革があったのが原因です。整合騎士でも唯一、アリスは『大切な人の記憶』が人格形成に大きく関わっており、また人格が定まりきる前に記憶を封印されたこともあってギャップを感じています。徐々に埋められてきていますが。
と捏造設定をつけ加えることによって、動かすことが久し振り過ぎて主人公君がキャラぶれを起こしていることを正当化する作戦です。