ピコンと視界の端に見慣れたホロウィンドウが浮かんだ。
私は一旦それを思考の外に追いやって、スコープの向こう側で仲間を悉く失って狼狽えている最後の獲物を仕留めた。
銃でも良い。弓でも良い。何なら素手でも良いかもしれない。敵に集中している間は嫌なことも忘れていられる。しかし、嫌なことが向こうから主張してくればそういうわけにもいかない。
ホロウィンドウが示すのは、同期してあるパソコンにメールが届いたという知らせだ。半日以上もVRワールドから出ないようなことは普段はない――水分補給やトイレなどの適切な休憩は取る――ため、この機能をいつもは使っていない。今は、
必然これは明日奈から、一人でオーシャンタートルに向かった明日奈からのメールが来たという通知に他ならない。
思わず喉が鳴る。
バクバクと響く心臓を落ち着ける。大丈夫だ。狙撃のときと同じ。ゆっくり呼吸して心拍数を落とす。バレットサークルがあるかのように想定すれば、頭の芯と一緒に体が冷えていく。
平静を取り戻してから、狩り場を後にした。安全圏の街のホームへと帰ってログアウトする。
硝煙の臭いが染みついた仮想の体を脱ぎ捨て、現実の少し重い――実体重の問題というよりも
―――開く、わよ。
大きく息を吸って、件名をタップする。パッと広がる文面に素早く目を通していく。
大きく、息を吐く。
「良かった……のかしら」
彼の身体的生命だけは保証された。居場所も、大まかだが分かった。だがそれだけだ。『彼』の精神が、記憶が無事かはまだ分からない。
翔の情報の下に続くこの事態の全容説明を読みながらも、私の意識は翔から離れなかった。『彼』はもう取り戻せないのだろうか。そのとき、私はどうすればいいのだろうか。
暗い考えばかりが浮かぶ。少なくとも、『彼』を取り戻せないのであればこの数ヵ月の翔の時間を無駄にした事実だけが残ることになる。私は帰ってきた、私のことを知らない彼の顔を真っすぐ見られるだろうか。
いや、見なくてはいけない。たとえ見知らぬ他人と一蹴されようと、それが私の責任だ。
―――でも……、
思わず浮かびかけた、今度は私が、なんていう烏滸がましい思考に唾を吐く。私はいつも『彼』に救われてばかりだった。大袈裟でも何でもなく、過去から立ち直らせてくれ、直接的にも命を救われた。もっと小さなことでも、私は『彼』から数えきれないことを教わった。
もし『彼』の記憶が失われてしまったなら。話に聞いただけの、過去から立ち直る前の翔がそこには残る。それを、今度は私が助け返してあげられたなら。きっと翔の中の私は、私の中の『彼』と同じだけの位置を占められる。そんな浅ましい考えが頭に浮かんでは消えてくれない。
「煩悩ばっか、嫌になる。……大人しく、身を引くべきね」
烏滸がましい、浅ましい。それ以上になんて醜い。自分のことしか考えていない自己中心的な考えだ。翔の身の安全を確かめられた途端に思うのがそんなことばかりで、きっと私は彼にはふさわしくない。あの英雄のような彼の隣に並べるだけの器ではないのだ。
「あ゛ぁー」
自問自答の中で強まるネガティブに髪を掻き乱す。彼にふさわしいかふさわしくないかを私が勝手に決めること。それすらも自己満足の領域だ。全てを戻ってきた彼に話した上で、彼の言葉を聞く。それが私にできる唯一のことだ。
頭を冷やすためにシャワーを浴び、さっぱりと余計な考えも洗い流してベッドに戻る。
月曜日の明日からはまた学校に行かなくてはならない。ついでに言えば近々に迫ったテスト――木曜日から期末試験が始まる――の勉強もしなければならない。普段から真面目にやっていれば定期試験にはさほど意識を払う必要はない、というのは翔の言葉だ。私もそれには同意するし、だからこそ今日も狩りに赴いていたわけだが、決して勉強を一切しなくても良いということではない。私がどれだけ沈んでいようが明日は来るし、テストも迫る。頭の痛む話だ。
ゴソゴソと毛布を被った。
******
七月六日の午後三時半。下校のそのままの足で私は学校近くの図書館に詰めていた。理由は無論、テスト勉強に他ならない。オーシャンタートルに行った明日奈と違って、私にできることは何もないのだ。せめて懸命に日々を過ごすしかないだろう。
七月にもなればこの時間の空はまだまだ青々しい。窓際の席で背にまだ高い日を浴びれば、弱い冷房の入った室内で眠気が襲ってくる。
それに必死に抗っていると、机の上に置いてあったスマホのLEDが光っているのが目に留まった。思わず背筋が伸びる。昨日の今日だ。何かあるとは余り思えないが、しかし何があるかは分からない。それが良いことでも――悪いことでも。
『詩乃ちゃんへ』。それが、今日の簡潔な件名だった。震える指でそれをタップし、目を滑らせる。
『まず最初に、翔くんが目を覚ましました。遊園地の事件までの記憶も整っているみたいです。詳しくは検査をしなければわかりませんが、見たところでは体力が落ちていること以外は全部私が知っている翔くんでした』
「っ……!」
小刻みに揺れる液晶に雫が、ぽたり、ぽたりと垂れて無機質な点でできている直線的な黒い文字が歪む。
目元をハンカチで拭い、ついでに零れた涙も拭き取って続きを読み進める。机の遠くに座っていた図書館の利用者がこちらを見てぎょっとしたような気がしたが、今はどうでもよかった。
『これから、私はキリトくんを助けるためにアンダーワールドにダイブします。絶対にキリトくんと翔くんと三人一緒に帰るので待っていてください。P.S.応援してくれると嬉しいな』
「そんなの、応援するに決まってるじゃない……」
―――でも、アンダーワールドにダイブ?
理由が分からない。まさか治療に明日奈が必要なわけではあるまい。そうだとしたら最初の段階で彼女も連れていっている。あの菊岡がそのような手抜かりをするはずがない。
考えられることとしては、今になってようやく明日奈が必要――高VR適正者としてか、和人の恋人としてかは分からないが――になったか、今までとは全く違った種類のトラブルに巻き込まれたか、だろうか。普通なら前者だろうが、あのトラブル体質では後者のようにしか思えない。
「……でも、結局私にできることはないんだけどね」
あの場にいないから。唯一アンダーワールドにアクセスできるSTLの存在するオーシャンタートルにいないのだから、ここでどれだけ隔靴搔痒の思いに駆られてもできることはない。それに、きっと彼女達なら無事に帰ってくるに違いないのだから。私は思わず上がってしまう口角を抑えながらそう思った。
どうしても口角を抑えられないものだから、とても集中できずそれから十分も経たずに私は図書館を後にした。喜び勇んで、スマホがまた光ったことには一切気づかないままに。
******
私の跳ねるような心地は家に帰ってしばらくしても一切落ち着かなかった。図書館からの帰り道ですらスキップをしないようにするのに必死だった。玄関に入って靴を脱ぎ捨て、鞄を放り投げながらベッドに飛び込む。枕に顔を埋めて喉の奥から歓喜の声を漏らした。
「翔が、『翔』が、帰ってくる!」
肺の空気を絞り出すようにすれば、全身から力が抜けていく。心の底から感じる安堵感に包まれ、久し振りに身も心も完全に弛緩していた。
そうしていれば、いつの間にやら眠りに落ちていたようで、ハッと目を覚ましたときには口元で涎が乾いていた。
「やだ……」
心と共に緩みきった口に自分で驚きながら、洗面所に向かう。鏡の向こう側の自分はここ二ヵ月で一番状態の良い顔を見せた。不眠に悩まされていたこともあってこびりついていたクマも、まさか今の午睡で睡眠不足が解消されたわけでもないだろうに、綺麗になくなっていた。精神状態由来のものだったのだろう。
顔を洗って、今更だが制服を着替える。皺になっていないことを確認して時計を見れば、もう七時近くになっていた。時期の関係で未だに外は仄明るいが、腹の虫がしばらく振りに存在を主張した。
その情けない音に苦笑して、キッチンの冷蔵庫を開ける。大量に余った卵が目につき、庫内の他の食材と合わせて脳内で錬成する。私は別段料理が得意なわけではない。よって、結局は簡単な結論しか導き出せない。日本ではスペイン風オムレツと呼ばれることの多いトルティージャ、すなわち具沢山オムレツに変えてしまうことに決めた。
鼻歌を鳴らしながら調理を始め、とりあえずの空腹を満たすために手順を可能な限り省いて形を完成させる。大量に卵を使ったため、一人では到底食べきれないサイズのオムレツがフライパンに鎮座することになる。それを一部切り取って皿に移し、残りはまた別の大皿に移してラップをかけて冷蔵庫で保存する。オムレツは多少冷えても美味しく食べられるから便利だ。
部屋の座卓に座って手を合わせる。そのまま「いただきます」と言おうとしたところで、玄関ベルがけたたましく鳴り響いた。完全に油断しきっていた私はその音に身を竦ませる。通販の類は頼んでいなかったはずだが。
のそのそと起き上がっている間にも二回目のベルが鳴る。危険人物である可能性も失念して、私はそのうるささに思わず声を上げる。
「今行きます!」
それで外の人物は落ち着いたようで、三度目のベルは鳴らなかった。ドアスコープを通して外を確認すれば、そこには思いもしない人物が立っていた。
思わずドアチェーンも外さないままにドアを開けてしまい、自分でその抵抗に驚いてしまった。
「おっと、こんばんは、シノちゃん。それにしても凄い勢いだナ。そんなにオネーサンに会いたかったカ?」
「あ、アルゴ……。いえ、ちょっとびっくりして。……まず、なんで私の家を知っているか聞いてもいいかしら」
アルゴはニパっと笑っていた。その顔に流されそうになるが、それを聞かない限りにはこのドアチェーンに頼ることになる。あれほど浮かれて帰ってきてもチェーンロックをかける辺り、去年の反省が身に染みていたことを感じる。実にありがたいことだ。
「ま~そこは色々と、ナ? 都内は監視カメラの配備数が相応に多い。何とでもなるってことサ」
「……相変わらずのお手前で」
「そう褒めるなっテ」
「で、今日は何の用事?」
「あちゃ~、やっぱシノちゃんメール読んでないナ?」
「え?」
その言葉に慌ててポケットに手を突っ込むが、そこにスマホはない。ベッドに放り捨てられているだろう。
「ま、端的に言えば翔のことだヨ」
そう言われてしまうと、明らかに隠し事のある私は強く出られない。言葉に詰まったところでアルゴが扉の隙間に片足を挟み込んだ。
「大体調べはついてるから、シノちゃんは答え合わせにつき合ってくれればいいのサ。ほら、開けてクレ」
「……了解」
真顔で告げるアルゴの視線に押し負け、チェーンロックを外す。アルゴは笑みを浮かべて玄関に入って靴を脱いだ。
他人の家とも思っていないようなその堂々とした態度に私は苦笑しつつ部屋に先導する。
「おっと、食事中だったカ。これは悪いことをしたナ」
「いいのよ、食べ始めてもいなかったし。まだ余っているんだけど、アルゴも食べる?」
「ンーじゃあお言葉に甘えようカ」
冷蔵庫で冷やしてあった余りのオムレツを切り分けて、電子レンジで温める。その間にもう一人分の食器を用意し、オムレツと合わせて座卓に並べる。アルゴは元気よく手を合わせて「いただきます!」と声を出した。それに合わせて私もアルゴに中断された言葉を改めて口にした。
「むむ。これは卵の濃厚な味がして中々……」
「食レポはどうでもいいから、それで具体的な話をしてちょうだい」
「まあまあそう焦るなっテ」
そう言いつつも、アルゴの目は真剣なものへと色を変えた。
「ここ二ヵ月、翔と連絡がつかない。そんな密に連絡を取る仲じゃないけれど、二週間に一回程度はやり取りのあった間柄ダ。一ヵ月返信が来なければ流石に気にする。……情報屋として集めている情報の中に翔に関連したものが一つもなかったから気づくのには遅れたけどナ」
「それで?」
「マ、関係各所を当たろうとして、初っ端からアーちゃんに回答が貰えタ。『家庭の事情で海外に行っていて、私達も連絡が取れていない。詳細はシノンなら知っているかもしれない』。そう、ナ」
「……」
「この時点できな臭さがプンプンしてタ。もしそれが事実だったとして、シノちゃんがアーちゃん達に詳細を教えないで維持しているとは考えにくい。アーちゃん達だって聞くだろうしナ。それに、もし聞いた上で断られたんならアーちゃんはこういう言い方はしない。つまり、何かしらの事情があってそれを二人とも隠しているってことダ」
当時は私も頭が回っていなかった。確かにアルゴの言う通り、明日奈達が詳細を聞きにこない時点で向こう側も何かを理解している可能性が高い。それに考えが及ばずに幸運だと思っていたのだ。
「アーちゃんは言わずもがなだが、シノちゃんも強情なとこがあるからナ~。正面から行っても答えは得られないと思っタ。つまり、ここからが情報屋の腕の見せ所ダ。翔と連絡が取れなくなった頃に何かなかったかってのを探っタ。そしたらあったんだナ。これダ」
アルゴが抱えていた布製のトートバッグから透明なファイルを取り出した。その開かれたページには例の遊園地の事件がまとめられていた。
「有名テーマパークでの銃撃事件。しかし、発生からしばらくして綺麗に揉み消されていル。これは政府関係者のやり口ダ。……これだけじゃ無関係の可能性の方が高い。でも、削除された中にこんな動画があっタ」
アルゴが取り出したタブレットの画面で示したのは、拳銃を持った犯人とその足元で蹲る翔の姿。動画だろうに、そのサムネイルだけを示してアルゴはタブレットの画面を落とした。
「これで原因は大体理解できタ。あとは演繹的に流れを追うだけだナ。このテーマパーク近くの病院に翔を乗せた救急車が到着した履歴は見つけタ。だが、その後翔が別の病院に移送された履歴も、翔がその病院を退院した履歴も見つけられなかっタ。代わりに見つけたのは病院の屋上から短い間に離発着するヘリコプターだけダ」
ファイルの次のページは監視カメラの映像や病院の名簿等に不正アクセスして手に入れた情報群が記載されており、その最下部に都内のテレビ局の生放送映像の抜粋の拡大画面が示されていた。そこにはバッチリ翔を搬送したヘリコプターの姿が――ゴマ粒のようだが――映されている。
「こんなもの、よく見つけたわね……」
「うン。だからこんなに時間がかかっタ。もう二ヵ月ダ」
アルゴはファイルをしまうと、別のファイルを取り出した。こちらは真っ赤な表紙で中が見えないようになっている。
「足取りを追えたのはここまデ。流石に空飛ぶヘリコプターを映した画像は多くなくてナ。だから『Where』は諦めタ。『When』と『How』は分かったから、後は『Why』と『Who』ダ。『Why』は一緒にいただろうシノちゃんが何の行動も起こしてないから、恐らくは翔にとってプラスのこと、マ、治療だろうとは分かる。じゃあ『Who』。これも簡単ダ。政府関係者で翔にここまでするようなヤツは菊岡誠二郎、アイツだけダ」
赤いファイルは菊岡についてがまとめられているもののようだった。それを開き、中身を示しながらアルゴは語る。
「菊岡のことは前から調べてタ。誰の目から見ても怪しかったからナ。キー坊が昔尾行したらしく防衛省関係者だってことは聞いていて、そこから手を伸ばしていっタ。詳しい話はシノちゃんが情報屋になりたいって言うなら教えてあげるけド、そうじゃないダロ? だからそこは割愛。結論だけ言えば、菊岡の現在の活動の本拠地は六本木にある『ラース』だが、菊岡はもうしばらくそこには来ていない。それどころか都内で確認できていない。さて、ここまでは理解できたカ?」
すっかりオムレツを食べ終わったアルゴの瞳は未だ爛々と輝いていた。私はその光から目を離せないまま喉を鳴らした。
アルゴさんがひたすら有能さを見せつける回でした。有能な人に何回も突き上げ食らうしののん可哀想……。監視カメラのセキュリティガバ過ぎますが、ユイちゃんもアクセスできるので許してください。多分この世界の監視カメラはそのくらいガバいんです。