アルゴは私が添えておいた麦茶で口を潤し、言葉を続けた。
「そうする内にキー坊とも連絡が取れなくなった」
麦茶のグラスを座卓に置く音が、嫌に響いた。
「翔が消息を絶ってから一応他の知り合いにも気を回してたんだが、これが功を奏したってわけダ。キー坊がいなくなったなら、アーちゃんが必ず何かしらの反応を示すはず。だから次はアーちゃんを見張っタ」
アルゴが赤いファイルのページを捲る。
「アーちゃんが大きく行動を見せたのが昨日ダ。アメリカより帰国した神代凛子と接触して、そのまま同じヘリに乗ってどこかへと飛び立っタ」
そこに示されていたのは隠し撮りされたと思わしき、人気のない海辺の倉庫街でホバリングするヘリコプターとその前に立つ二人――神代博士と変装した明日奈――が映った写真だ。
「これを見て、いよいよ答え合わせが必要だと思ったんダ。腐っても情報屋。波に乗り遅れたくはないからナ」
アルゴがこちらを見た。
「で、模範解答を教えてくれないカ、シノちゃん?」
「……私からは言えないわ」
アルゴはぱちくりと目を瞬かせる。その様子が余りに間抜けで、思わず噴き出してしまった。
「でも、そうね。私はちょっと片づけしてくるわ」
私とアルゴの前にある空き皿を持って私は立ち上がった。ついでに、机の上に明日奈からのメールを表示したままのスマホを置いていく。
シンク台に食器を置いて居間に戻れば、アルゴは満面の笑みでこちらを待っていた。
「ありがとうね、シノちゃん」
その雰囲気は先程までのものとは打って変わっており、いつぞやのゆるふわ系ほどではないが、一般的な女子高生のようなものになっていた。
「オムレツのお礼に、このファイル読んでもいいよ」
アルゴが差し出してきた赤いファイルを言われるがまま開く。そこには彼女が集めた情報と、それらから更に積み上げられた推測が余さず記載されており、私はその量と正確性に目を剝くことになった。
まずはヘリコプターの考察から始まる。翔を移送したものと明日奈が乗り込んだものの同一性と画像・動画から推定される目的地の検証だ。飛び立ったときの方角や往復での航続距離を考慮に入れ、菊岡の秘密基地、すなわち防衛省の特殊施設の場所は日本近海の太平洋上、特に東海沖と推測されている。
―――何が『Where』は分からないよ。大体掴んでるじゃない。
次の議題は神代博士の来訪の理由だ。菊岡にヘリコプターで迎えられている、すなわち賓客として扱われているということに水を向けている。彼女は確かに優秀だが、代わりがいないほどの、茅場晶彦ほどの天才ではないとアルゴは記す。そして最大の疑問点として他の二人の研究者を挙げていた。
一人目は比嘉健。顔写真と詳細な情報が箇条書きで並ぶ。重村ラボの卒業生。茅場の後輩。天才。彼は大学の研究室を抜けた後、ラースの研究職に就職したという。
二人目はラボの主である重村徹大。貼られたユナの顔写真から吹き出しで『新しい研究に没頭している』と書かれている。こちらも監視カメラの切り抜きだろうが、六本木の建物――ラースの支部だろう――に出入りする姿も撮られていた。
次のページは殴り書きのメモのようなもので、『神代は二人に劣る』『なぜ?』『特殊性』『過去の実績カ?』という言葉が並ぶ。そして見開きで隣のページに示されたのは、無機質な部屋にポツン――と言うには少し大きいが――とその頭部付近にMRIのような巨大な機械が接続されたベッドが一つある写真だ。下に補足がある。『神代凛子が開発した医療用VRハードのメディキュボイド。根幹思想は茅場晶彦。つまり茅場が目指していたVRハードの実現の一端』。そして目を引くのは赤文字で書かれたのが、『ラースの目的は究極のVRデバイス』という言葉だ。
しかしその言葉が目を引くのは赤字だからではない。それが横線で消され、上書きするように『菊岡と防衛省の利は?』と書かれているからだ。
私は何の目的もなく手繰っていた指が速さを伴ってきていることを自覚した。明日奈からの報告で全てを知っている身ではあれど、自力でこれだけ真実に迫っている情報屋の足取りをなぞることが楽しくて仕方ないのだ。
そこからしばらく、ファイルはメモ書きで埋められていた。ブレインストーミングの形で様々な単語が並べられ、それぞれに調査結果と思える短いパラグラフがつけられ、しかしある程度で見きりをつけたのかほとんどのパラグラフは丸ごと大きなバツで消されている。その中で一つだけ残された単語は、非常に目に鮮やかだった。
『AI――人工知能』
そのメモ書きはそれで終わっていた。心の高揚を感じつつページを手繰れば、メモ書きでないページが始まっていた。
『茅場晶彦がナーブギアを開発したことで、人間の脳と電気信号の関係に大きくメスが入れられた。電気的な面から人間の脳を完全に解明できる手立てが出来たのだ。それで今まで行き詰まっていた電気生理学のある分野が大きく喝采を挙げた。それがボトムアップ型のAI開発分野である』。かつてMトゥデでライターをしているとは言っていたが、普段の口調を知る分、熱を感じないギャップのある文章に驚いた。しかしそれ以上に、アルゴが独力で《A.L.I.C.E》に片手をかけていたことが驚愕の的だ。これは、もう諸手を挙げて降参するしかないのではないだろうか。私も、菊岡も。
また、神代凛子に対してのように重村徹大が引き入れられた理由も考察されている。それもまた彼女と同様に過去の実績、すなわち『ユナ』だ。トップダウン型であろうと現時点で最高峰のAI開発者は重村教授であると結論づけられている。
そのファイルの最後には、ボトムアップ型AIが開発されたときの菊岡――防衛省――にとっての利点、すなわちAIの軍事転用について書かれていた。
それ以降に何も書かれていないことを確認して、私はファイルを閉じる。口からは思わず驚嘆とも呆れともとれる溜め息が流れ出る。
「貴女、本当に答え合わせが必要だった?」
「必要だったよ。だってこれがどれだけ合っているか、自信なんて全くなかったんだから。自分でも驚いてるし、嬉しいよ」
アルゴの笑みはまだ深い。彼女の上機嫌はこれが理由か。確かに、自らの予測がこれだけ正鵠を射ていれば喜びも一入だろう。
「それに私だって色々と心配したんだよ? 翔とキー坊が無事かどうかなんて考察のしようがないからね。本当に、良かった」
「それは、そうね……。でもその心配も杞憂。あと数日もすれば翔は帰ってくるわ」
私が言えば、アルゴはくしゃりと相好を崩した。彼女がここまで明確に感情を示すことは珍しく、どこか気恥ずかしいような気分になる。
しばらくして、アルゴは表情を引き締め直して一つ咳払いした。
「さて、と。とりあえず私の用事は終わったわけだけど、シノちゃんは何かある? この後の予定は?」
「えっと、特にないけど……?」
何かあるかはまだしも予定を尋ねられるとは思わず、疑問が言葉の色に出る。それに対し、アルゴは今度は悪戯っぽく笑った。
「じゃ、この二ヵ月くらいの旧交を温めようじゃないカ!」
アルゴがバッグから
******
~side:明日奈~
諸々の検査を終え、私はようやく入院着のようなラフな服装へと着替えてSTLの前に立っていた。昨日、窓の反対側から眺めた和人君の身体を間近で眺める。
翔君は立ち上がるどころかサブコントロールルームまで歩いてみせたが、その体は以前の彼とは比べ物にならないくらいに弱々しかった。和人君なんて元の筋肉量で劣るのだから、SAOから帰ってきた頃のようになってしまうだろう。しばらくはまたリハビリ漬けだと思うと、彼らの学校生活などが途端に不安に思えてくる。生命の心配をしていたときに比べると悩みの内容が平和に過ぎて微笑ましいが。
「じゃあ明日奈さん、横になって」
神代博士が何やら操作をして、翔君が使用していたSTLの寝台を示した。私はそこに腰を下ろす。系列機であるため当然とも言えるが、この寝台はメディキュボイドと木綿季を思い出させる。
感傷を振りきって横になろうとしたとき、部屋の天井の片隅のスピーカーからビーという警告音が響いた。その警告音はこのSTL室で流れたものではない。あのスピーカーは現在サブコントロールルームと繋げられ、こちらの様子を監視カメラで確認しているあちらからの指示を伝えるものになっている。
つまり、今の警告音はサブコンで流れたということで。
「博士ッ!」
「あちらで何かあったよう――シ!」
スピーカーはより正確に言えばサブコンのマイクと繋がっているため直近の音しか拾わない――つまり警告音はマイクの付近で鳴ったのだ――のだが、当然小さな音も小さな音として出力はされている。私達は息を殺して耳を澄ませた。やがていくつかの短い単語が聞き取れる。
「おい」「不正アクセス」「どこ」「部屋」「上層」「なぜ」「馬鹿」「何」「加速」「耐えきれない」
しかしそれだけでは到底事態の全容は掴めない。私は神代博士と顔を見合わせ、寝台から立ち上がった。
「一度サブコンに戻りましょう」
「……ええ、そうね。安全性を第一に」
半ば走るような速さで私達はサブコンへと急いだ。神代博士が首に提げたカードキーを使ってサブコンへと入ると、丁度そこを出ようとしていた菊岡さんと鉢合わせする。
「っ、菊岡さん、一体――」
「今はそれどころじゃない! 失礼します!」
菊岡さんが血相を変えて私達の間を通り抜けていく。彼のそんなところを見て一瞬面食らうが、後を追う柳井さんの姿にすぐにその後に続いた。
菊岡さんも、一応私達を認識して慮っているのだろう。駆け足ではあるが、追いつけないほどの速さではない。しかし声をかけ会話するだけの余裕はなく、菊岡さんが足を止めたときにはすっかり上気してしまっていた。神代博士と柳井さんも肩で息をしている。
私達が少し呼吸を落ち着けている間に、菊岡さんは目の前の扉を開け放った。その中にいたのは――ベッドに横たわった翔君。
「翔君ッ!?」
「チッ。しかし、これは……」
菊岡さんが舌打ちを零した。その横をすり抜けてベッドに近づく。ガラス越しにSTLを眺めたときよりも、私の心は冷えきっていた。それは彼の頭に
彼の頭はすっかりヘルメット型のその機械に覆われ、機械の背部からは複数のコードが部屋の壁に伸び、無理矢理こじ開けられた壁のタイルの先の何らかのコードに結びつけられて繋がっていた。そこからはまた別に机の上のパソコンへもコードが伸びている。明らかに異常な光景で、これが『不正アクセス』なのだろうとは推測がついた。
「こ、これ……そんな、菊岡さん! これ、茅場君のナーブギアじゃない!?」
―――団長の?
神代博士の叫びのような声は、パソコンに手を伸ばす菊岡さんの背中に刺さった。
「……茅場さんのナーブギアは一般に流通した物とは別物と言って良いほどの代物です。研究対象としてこのオーシャンタートルに持ち込んでいました。しかしそれは秘匿されていたはず。まさか、こんな使われ方をするとは」
「っ、安全性は! あの人は自分のナーブギアにも殺害プログラムを組み込んでいたのよ!?」
それに答えたのは菊岡さんではなく、黙りこくっていた柳井さんだった。
「か、茅場さんのナーブギアはSAO事件のときから変わってないはずです。手を入れてしまえば観察研究できないので……」
その言葉に愕然とする。つまり、翔君はあのときのままの悪魔の機械に脳を預けているのだ。顔から血の気が引くのを自覚した。これが、取り残された者の心か。情動と乖離した思考が、勝手にそんな感慨を零す。
「そんな……」
「比嘉君。そっちからの干渉は?」
『駄目っすね、菊さん。こっちからログアウトさせることはできないっす』
「……FLA倍率を下げてくれ。ナーヴギアでも対応できるレベルに」
『そうすると――――五倍くらいっすかね』
「ああ、頼むよ。ナーヴギアがオーバーヒートし始めている」
菊岡さんは袖から取り出したトランシーバー越しに比嘉さんと会話する。ナーヴギアは菊岡さんの言葉通り、激しい熱を持ってファンがうねりを上げており、それを着けた翔君の額は汗ばんでいた。背後から近づいていた神代博士が取り出したハンカチでそれを拭う。見上げた神代博士の顔の表情は天井のライトの逆光で見通せない。しかし、ハンカチを持つ手は震えていた。
机上のパソコンを見ていた菊岡さんがこちらを振り返った。
「……見事だ。見事にしてやられています。この部屋なら確かに有線で走るケーブルに干渉できますし、このナーブギアならアンダーワールドへのダイブも――ダイブだけなら、可能です。この端末で遅延処理をすることでこちらに気づかれる時間を稼いで、明日奈さんのダイブに注目する我々の目を掻い潜ったというわけです。しかし問題は、これを誰がやったかということ」
「翔君じゃ、ないんですね」
「ああ、そうだと願っているよ。そうでないと我々は覚醒したばかりの彼に秘匿していた研究事項を奪取されたばかりか、高校生の技術に中枢を翻弄されたことになってしまう。それは、流石に彼を高く見積もり過ぎだろう?」
「……」
「はは、そこは肯定してほしかったな」
菊岡さんは顔を俯かせつつ後頭部を掻いた。最後に見た彼の不服そうな表情を思い返すと、これだけのことを仕出かす可能性もゼロではないように思える。
―――でも、きっと裏で糸を引いた人間がいる。
意識がないのに固く握り締められた翔君の拳に自分の手を重ねた。
******
私達はサブコンに戻ってきていた。一度問題を整理しようということだ。
「……大蓮君って、本当に人間っすか? 高次電気情報思念体だったりしない? しないっすか……」
「比嘉君、それはどういうこと?」
椅子を回転させてこちらを向いた比嘉さんの瞳は死んだ魚のようだった。
「いや、彼の生存という点ではとてもありがたいんすけどね、彼、ナーヴギアを使ってこっちの中央システムに疑似的なハッキングを仕かけてるんす。しかも成功させてるっす」
「は……、それは、どういうこと?」
神代博士は思わずといった風に同じ言葉を漏らす。それに対する比嘉さんの回答は私達を仰天させるのに足りるものだった。
「彼が今まで使っていた整合騎士にまでなったアカウントは、彼が言っていたようにあちらで殺害されているっす。当然、アカウント情報は削除されていた。それが、さっき例のナーヴギアからアンダーワールドの中央制御システムのカーディナルにアクセスがあって、そのロストデータが引き出されているんすよ。つまり、今の彼は自分のロストデータを利用してアンダーワールドにログインしているってことっす」
「ナーブギアを使っている以上、彼はアンダーワールドでHP、天命を全損すれば現実でも死んでしまう。不正アクセスでは使えても一般民のアカウントだったろうから、良かったと言えばそうなんだが……」
菊岡さんは難しい顔をして首を振った。
「流石は驚異のVR適正Sだ。こちらの予測できないことをやってくれる。それで、現在の彼を捕捉できるかい?」
「ええ、それは何とか。特殊な経緯のおかげで逆にマーキングすることはできたっす。でもそれによれば、案の定大蓮君は《東の大門》でバッチリ《最終負荷実験》を待機してるっす。動き回って探してない以上は、本人の言葉を信じるなら桐ケ谷君に『アリス』ともう一人の……えっと、『ユージオ』の所在は確認できているんでしょうけど」
「それだけ分かれば十分だ。《最終負荷実験》に巻き込まれてしまえば死ぬ確率は上がってしまうが、《ワールドエンド・オールター》に辿り着くには何にせよ人界の外に出なければならない。大蓮君の実力を思えば無事にミッションをクリアしてくれる可能性は高い」
その言葉に私は我慢できずに、口を開く。
「ちょっと待ってください、菊岡さん。翔君は今、向こうでの死が許されないナーヴギアでダイブしているんですよね? なら、すぐに彼だけでもログアウトさせるべきでしょう!? 貴方は人死にを出したくないんじゃないんですか!?」
「……明日奈さん。その言い分は僕達だって理解できるっす。でも、厳然たる事実として、茅場さんのあのナーブギアは当時のままなんすよ。つまり、外部からのアクセスは逆に彼の命を奪いかねない。今までだって解析はしてきたっすけど、まさかもう一度使われることなんて想定外っすから殺害プログラムの方には手をつけてなかったんす。アレはそうでなくても他の情報量が多いっすから」
比嘉さんは沈痛そうに視線を逸らした。思わず私は拳をクシャリと握り込む。菊岡さんが私を見つめた。
「というわけで、明日奈君。君の任務が一つ増えたわけだ。『大蓮翔の護衛』。――まあ、必要かどうかはさておき、ね」
私はその言葉に大きく首を縦に振った。
「はい!」
アルゴさんはほぼ正解ですね。彼女をどこまで有能にするかがこの難産の最大の原因です。初期案ではグロージェン・ディフェンズの動きまで掴んでいましたが、最終的に一応国内だけに活動を抑えました。え? まだやりすぎ? うるせぇ! アルゴさんが超優秀な情報屋で何が悪いんじゃ!!