六月が過ぎ去った。部屋の中で閉じ籠っていても蝉の声が耳に届く。背中をベッドに預け、蝉の煩わしい声を適当に聞き流す。
―――もう、一ヶ月になるのか。
『彼』と遊園地に行った日、……『彼』が死んだ日は六月の最初の日曜日だった。
「――翔……。今、どうしてるのかな」
菊岡の怪しい話に乗ったのに。未だ菊岡からも、――当然、翔からも連絡はない。騙されたのかとすら思えてくる。疑いたくはないが、治療にどれだけの時間がかかるかも分からないのでは、何を信じることもできない。
「そろそろ私も、前を見なくちゃ、いけないのかな」
いつまでも部屋で蹲っているべきではないのだろう。そんなことは分かっている。ずっと前から、分かっていた。翔だって、私が立ち直れずにいることなんて望まない。
『どんなに辛い現実だろうが、真実だろうが受け止めて歩き続けなきゃいけない。それが人間の定めなんだから。たとえ曲がっていても、後ろ向きでも、進まなくちゃいけない』
いつかの言葉が思い出される。
―――馬鹿な、私。
何も成長していない。過去の罪に怯えていた日々から、何も変わっていない。自分が犯した罪を乗り越えることも、忘れることもできずに、結論を出さないまま足を止め、未来から顔を背けている。
「……そう。きっと、前を見ろって、貴方なら言うわよね」
情けない私は、たとえ自分が勝手に思い描いた存在だとしても、翔に背中を押してもらわなければ立つことすら儘ならない。
のそりと立ち上がった。揺らいだ部屋の空気に顔を顰める。生温かい空気を振り払うようにカーテンを開き、窓を開けた。空気が流れる。風が、頬を撫でた。
夕日の橙色に染まった部屋を見回して、目を留めたのは円環状の機械だった。
「ふっ……。まったく、最初に思い出すのがVRだなんて本当にヘビーユーザーね、私」
でも、ごめんね。と口の中で言葉を解く。
私は机の上にあった、薄型パソコンの電源を点けた。久し振りにメーラーを起動すれば、大量の未読メールが私に目を通されるのを待っていた。
古い順に並べ直し、一つ一つ開封していく。
一番古いのは明日奈を始めとした仲間達からのメールだった。私が一方的に送りつけた『翔はアメリカに行った』というメールへの返信だ。『翔の
それから私が中々ログインしないことへの心配のメールが来て、それの返信もないことを更に心配されていた。文面を見るだけで皆の心配そうな顔が思い浮かぶ。心配をかけたことを申し訳なく思うと同時に、胸が温まる。
大量にある企業からのメールやゲームの告知メールを一つずつ処理していく。
―――あら、こんなことするのね。
第四回BoBの開催通知に、私が未エントリーであるために再度の招待メールが届いていた。きっと第三回の優勝者だからなのだろう。このような優遇措置があるとは初めて知った。
―――貴方にも届いているのよね。
第三回同時優勝者である翔のところにも同様のメールが届いていることは確実だ。……彼の部屋にある埃を被ったアミュスフィアを思うと、胸が痛くなった。
スクロールし段々と最近に近づく。皆からのメールは、私が返信しないことを理解してか頻度が落ちていた――それでも完全になくならないのは流石だが――。取りあえず前を向き出した印として生存メールは必ず送ろうと胸に刻んだ。
―――ん?
私を心配するメール群の中で、異色を放つメールが存在した。差出人は、明日奈。
『和人くんの行方が分からなくなりました』
という件名で送られたそのメール。激しくなった鼓動を感じつつ、そのメールを開く。黒い文字が広がる。逸る心を抑えて、少しずつ文面を辿った。
焦りながらも冷静であろうとする文章からは、明日奈の動転した心が伝わってきた。
「嘘……。《
半年以上前の事件の、残してしまった不安の芽が成長してしまったという報告。あのとき逮捕することが叶わなかった最後の死銃事件の実行犯である金本敦が現れ、その死銃がキリトを捉えたという。
私のスクロールする手が止まる。唾を呑んで、画面を動かす。
キリトは救急搬送され一命を取り留めた。その文章で私がどれほど安心したか。しかしその安心は一瞬だった。五分以上の心停止により、キリトの脳機能には障害が残ったのだ。
だがそれよりも。何よりも、私の心を掻き乱したのは。
『和人くんを唯一治療できると言われ、菊岡さんの勧めに乗りました。それから和人くんの消息が掴めていません』
息が、止まった。心臓まで止まるかと思った。だが逆に、心臓は大きな音を立てて走り出していた。
脳機能の障害。唯一治療できる。菊岡。所在が分からない。これだけ揃えば十分過ぎた。菊岡は翔と同じように、キリトにもSTLを用いた治療を施しているのだ。翔のときと違って詳細を説明しなかったのは時間がなかったのか、必要がなかったからか、しない方が良いと踏んだのか。その理由は分からない。
そこで、そのメールは終わっていた。残り数件のメールを急いで確認する。それらは全て明日奈からのものだった。
一つは、より詳細な行方不明の状況が――菊岡の所在も掴めないという――。
一つは、もしかすれば新型フルダイブ機関連かもしれないということが。
一つは、そのフルダイブ機を持つ《ラース》の不気味な点が。
一つは、キリトがヘリコプターでどこかに運ばれたことが、それぞれ伝えられていた。
最後の一つを震える指で開いた。
『STLは茅場晶彦の思想の延長線上にある、と以前和人くんは言っていました。また、医療用フルダイブ機であるメディキュボイドがその設計に関わっているとも。そこで、私はメディキュボイドの開発者であり、茅場晶彦と同じ研究室出身の神代凛子さんに連絡を取ることにしました。結果は、また後日連絡します』
―――近づいてる。
明日奈は確実にSTLのもとへ、真実へと近づいている。それが私は恐ろしくて堪らなかった。もし彼女がこのまま行方を晦ました菊岡に辿り着いてしまえば、菊岡はどう思うだろうか。私達が何を言おうと、きっと菊岡は私が情報を漏らしたと考えるだろう。実際にはそんなことなくとも明日奈は、明日奈達は真実を導き出したのに、だ。
―――どうしよう。
他言無用と言われた。禁を破った際の代償は何も言われていない。しかし『何もしない』とも言われていない。何をされてもおかしくないのだ。
嫌だった。翔の安全が少しでも脅かされるのは。今でさえ不安定な場所に翔の身はあるのだ。あの怪しく胡散臭い菊岡に全てを託している。菊岡の考えはまるで分からない。そもそも、本当に翔の治療で向こう側にメリットがあるかも分からない。私にとって、今の翔の安全は蜃気楼のように存在すら不確かなものだった。
臍を噛む私の目の前で、新しいメールが受信ボックスに追加される。
『神代博士と連絡がつきました』という件名のメールを開けば、私の絶望の色は濃くなる。カリフォルニアにいる神代にメールを送り、その返信があった。そして神代は菊岡から極秘プロジェクト参加の招致を散々受けているらしい。……神代はキリトには恩があると。だから明日奈の協力をすると。そう、返したらしい。
チッ
無意識のまま舌打ちが漏れる。STLの元になったフルダイブ機の製作者が呼ばれる極秘プロジェクト。菊岡のところまで明日奈が辿り着くのも時間の問題だ。
更に菊岡は神代のプロジェクト参加を熱望していたようで、神代が参加の意思を見せた途端に彼女を
私の指は自然と、キーボードの上を踊っていた。
『久し振り。突然で悪いんだけど、少し会えないかな。できれば、VRでもダイシーカフェでもない場所で。時間と場所は任せる』
迷う間もなく、そのメールは送信される。
喉の渇きを覚えて立ち上がると、私は背中を汗が伝うのを感じた。水を飲めば走り続けていた心臓も多少は落ち着いた。
パソコンの前に座れば、明日奈からの返信が早速届いていた。
「……流石、行動が早いわね」
一度、鏡に自分の顔を映す。見せられないほど無様でないことだけ確認して、私は玄関へと向かった。
******
「明日奈」
待ち合わせ場所に指定されたのは代々木公園の一角だった。もうすっかり陽は落ちたというのに、湿った空気はまだ熱気を多分に蓄えていた。
私の声に反応して振り返った明日奈は、最後に見たときよりも少し元気がないようだった。
―――当たり前、か。
今の私には明日奈を笑う資格も、心配する資格もない。
「しののん、久し振り。――大丈夫?」
「……ええ。ごめんなさいね、一ヶ月も連絡しなくて」
「翔君は……?」
「まだ、あっちにいるみたい。それで、メールは読んだんだけどもう少し説明してくれるかしら」
大丈夫。きっと、誤魔化せてる。
胸の裡で自分を励ます。今の私に翔の話は地雷に等しい。それに明日奈は鋭い。下手な嘘では吐いた瞬間にバレてもおかしくない。
私と明日奈は闇の中でボンヤリと灯る街灯の下で、並んでベンチに腰を下ろした。
明日奈は、少し視線を彷徨わせてからゆっくりと言葉を紡ぎ出した。私はそれを聞きながらメールの内容を復習する。新規情報はほとんどなかったが、その間に私は心を落ち着かせることができた。
「――というわけで、明日神代博士と会うの。それで細かい話を詰めて、今週末に《オーシャンタートル》に乗り込む!」
明日奈の横顔に、思わず見惚れてしまった。意志の強さはキッと引き絞られた柳眉に現れている。遠くを見つめる瞳は、きっともうキリトに繋がる道しか映してはいないのだろう。
ツキンと胸が痛んだ。
「オーシャン、タートル……」
「そう。ラースの本拠地だと思う。神代博士が招待された、太平洋に浮かぶ実験施設。和人君がいる場所」
太平洋に浮かぶ、ラースの本拠地たる極秘の実験施設。間違いない。キリトだけでなく、翔もそこにいる。そこで、見知らぬフルダイブ機に繋がれている翔が思い浮かんだ。
乗り込みたい。本音を言えば、明日奈について行きたい。だけれども、それもやはり菊岡に禁止事項として挙げられたことだ。その禁を破れない。翔が、私の脚を一歩も進ませない人質になっていた。
「……ねえ、明日奈」
「――何、しののん?」
―――ああ、やっぱり。
明日奈は鋭い。私が勇気を振り絞って出した一言。その勇気を違うことなく探り当てた。声には私を警戒した硬さがあった。いや、元から警戒はしていたのだろう。いきなり返信したことと、直接会いたいと言い出したことを思えば、私が警戒対象なのは当たり前だ。
「本当に《オーシャンタートル》に行く気なの?」
「……何が言いたいの?」
「まず、私は明日奈を否定したいわけじゃないの、それだけは間違えないで。ただね。ただ、……菊岡さんを疑い過ぎじゃないか、って言いたいの」
「ッ、疑わないなんて無理! だって、いくら特殊な設備だからって何の説明もなく連れていくなんて、信用させる気が感じられない。相手が何も言わないなら、こっちから言うしかないと思うの。……菊岡さんに今直接言葉を伝えるには、オーシャンタートルに行くしか方法がない。だから私は神代博士にまで頼んだの」
奥歯を強く噛む。明日奈の語調は強い。
―――本当に、強い。
彼女は私の話を聞いても自分を曲げないだろう。それだけの強さがある。それでも、私は言葉を続けなければならない。
「でも、菊岡さんは『治療する』って言ったのよね? あの人、胡散臭いし信頼はできないけど、本当にその言葉も信用できないものなの? あの人は役人なんでしょう? なら、屁理屈染みた言葉遣いをしたとしても嘘はつかないと思うのよ。だから『治療する』って言葉は信じてもいいんじゃないかしら」
「……確かに、菊岡さんは嘘はついてないかもしれない。『世界で唯一の設備がある場所に移送する』って、あの人は言ってたから。それでも、家族にも何も言わずに和人君を連れていったのは事実。私はそれでもしものことがあったら、――絶対に、あの人を許さない」
背筋がゾクリとした。それは紛うことなき殺気だった。普段は決して見せないその狂暴な側面は、彼女があのSAOを駆け抜けたフロントランナーだったということを私に知らしめる。
心の中の氷の狙撃手に力を借りる。
「そう。それで良いと思うわ。でもね、明日奈。貴女がオーシャンタートルに行って、それで何ができるの? キリトが脳に障害を持ったのは事実。それを菊岡さんに頼ることでしか治せないのも事実。だとしたら、今はたとえ信じられなくても菊岡さんに任せるのが正しいとは思わない?」
「……それでも、それでも私は和人君の傍にいたい。確かに私にできることなんて何もないのかもしれない。けどね、私は和人君が戦っているときは隣にいたい。私の居場所はそこだから」
「ッ……」
「――ねえ、しののん」
強く、鋭く見えない何かを見据えていた明日奈が、瞳に浮かべるものを一転させてこちらを見た。
「これから私が言うことはただの独り言だから聞き流してもいいよ。――私と和人君はね、先月の始めにテーマパークにデートに行ったんだ」
「え……?」
「その日、そこでは拳銃を持った人が暴れる事件が起きてね。私達も色々と聞かれたし、聞いたんだ」
その言葉で、私の顔は色を失くす。ずっと黙っていれば隠し通せると思っていた。菊岡が手を回したからか、翌日以降もあの事件に関して報道はされず、またSNSでもあれだけの事件が話題になることはなかった。そのため、わざわざ裏工作をしたのだから仲間達にも情報は届いていないと思っていたのに。
―――じゃあ、全部知ってたってこと?
「ユイちゃんも心配して少しだけ色々なところを探したんだって。それで、どうやら翔君が生きていることは分かった。……同時に、記憶を失くしているだろうってことも」
―――ああ、だから。
連絡が断絶した相手を一ヶ月の間何度も思い遣るような人達が、どうして挨拶もないままに遠くへ行った翔のことを話題にしないのか。薄っすらと胸に積もっていた疑念が晴らされる。彼らは翔のことを理解した上で、私を思い遣ってくれていたのだ、と。
「しののん」
「…………」
「今の話で分かったよ。翔君も、和人君と同じように菊岡さんのところにいるんだね。……それで、きっとしののんはそれに関して菊岡さんから口止めをされてる。違う?」
「…………」
「――だから、だからしののんは私を止めたいんだね。翔君に何をされるか分からないから」
「……違う、違うの。私はッ! 私は、明日奈とは違う! 貴女みたいな人とは違うのッ!!」
言葉が、止まらない。もう何を言っているのか、自分で分からなかった。
「私は一人じゃ前も見れない、真っすぐ歩けない! 私にはあの人が必要なの! ……でも、あの人は違う。翔は、翔は! 私なんかいなくてもあの人は『強い』からッ。私は邪魔にしかならないの! 私がどれだけ、どれだけ隣にいたいと思ってもっ、どれだけ一緒に戦いたいと願ってもっ! 私にできることなんて何もない……ッ。なんにも、ない、のよ……」
瞼から零れる涙を掬うように手を当て、私は夜空から顔を背けた。街灯の灯りを背に受けながら眺める地面は乾いたままだった。
ちょこっと裏話ですが、主人公の場合は既に警察&救急が到着しかけている状態(&有名テーマパーク)での被弾だったため、菊岡が手とかを回す云々の前に治療及び検査が完了してしまい、菊岡としては不本意ながら家族への説明を余儀なくされました。また後遺症が残るキリトとは違って記憶喪失のみで容態が安定していて急を要さず、じきに本人が目を覚ますだろうことも計算に含まれています。
結果としてシノンには辛い状況になってしまいました。もし主人公がキリト同様に拉致されていたら、明日奈さんレベルの有能さを見せたかもしれないのに……。