四分の一だけ電灯の灯る食堂には、まったりとしたコーヒーの香りが似合います。
挽きたてのコーヒー豆。オリジナルブレンドのそれを、香りを確かめながらフィルターに敷き詰めて。そうして、ゆっくりゆっくりと、お湯を回しかけていきます。その度に、艶やかな黒の液体が、湯気を立ててマグカップへ溜まっていきました。
「うん……上出来、ね」
三人分を注いだところで、私――ヒューストンは、満足して頷きました。今夜も、コーヒーはとても良い出来です。たなびく湯気からは、得も言われぬ芳醇な香りが。鼻孔をくすぐる香気には、きっとドーナツなんて似合うのでしょうけれど。さすがに、夜には御法度ですね。
こうして、夜にコーヒーを淹れるのは、どこか私の習慣とでも呼ぶべきものです。もちろん、毎日ではありません。鎮守府で待ち人を迎えるために、私はコーヒーを淹れるのです。
その待ち人は、まもなくここへ、現れるはずです。
フィルターと豆を片付けていると、廊下を歩いてくる足音が聞こえてきました。それから、二人分の話し声も、一緒に。明るく透き通った声と、落ち着いて可愛らしい声。聞き間違えるはずのない待ち人の声に胸を弾ませ、私は食堂から顔を出します。
「お疲れ様。パース、ロイテル」
工廠から続く廊下を、二人の艦娘が歩いてきます。
一人は、朝焼け色の髪をした、オランダ艦娘。セーラー服に、船鐘を止め具にしたスカーフ。スラリとした立ち姿が印象的な彼女は、デ・ロイテルという軽巡艦娘です。
もう一人は、光芒を宿した髪の、オーストラリア艦娘。ベストにホワイト・シャツ、それに短いマント。やや小柄でキリッとした顔立ちの彼女は、パースという軽巡艦娘です。
かつての記憶――軍艦〔ヒューストン〕が連合国合同艦隊にいた頃、同じ艦隊で行動した仲間たち。不思議な縁があって、私たちは艦娘になってからも、同じ鎮守府に所属することになりました。
私の呼びかけに、二人が手を振ります。
「ありがとー、ヒューストン!」
駆け寄って来たロイテルが、私を強く抱きしめます。出撃終わりの、これが彼女の習慣です。ほとんど背丈の変わらない彼女を抱き留め、私もその背中に手を回します。お風呂上がりのロイテルからは、太陽に混じって原っぱの香りが漂っていました。
「やっぱり、あなたが迎えてくれると、安心するわね」
パースはといえば、ロイテルほど情熱的な感じではありません。けれど私の顔を見て、ふっと安心したように表情を緩めるのです。浮かんだ笑顔は、差し込む薄明のように、暖かで柔らかい雰囲気を纏っています。
……うん、今夜も二人は、無事に帰って来た。それを改めて確かめて、私は二人を食堂へ招きます。
「コーヒー、淹れてあるわよ」
「わー!飲む飲む!」
「遠慮なくもらうわ」
私の淹れるコーヒーは、作戦から帰投した二人を、迎えるものです。大規模作戦の発令に伴い、深海棲艦への反復攻撃に参加している二人は、きっと見た目以上に疲れて帰ってきます。そんな二人に、暖かいコーヒーを出したい。疲れた心を一度落ち着けて、素敵な夢を見て欲しい。願わくば……と、そんな私の、小さな自己満足です。二人よりもやや遅れて着任し、練度の足りない私は、今回の作戦に参加できませんから。
食堂に並んだテーブルの、一番端に腰掛けて。私の淹れたコーヒーを、二人の前に差し出します。それから、私の分も。
「んー、いい香り」
ひとしきり香りを楽しんで、ロイテルがカップに口づけます。パースはといえば、スプーン一杯、お砂糖を入れてから。
二人分、ほっと息が漏れるのを見て、私も自分の分のコーヒーに手を伸ばしました。まだまだ冷え込む夜に、ほっと一息、ホットコーヒー。こうして、二人を迎えて飲むコーヒーが、堪らなく嬉しいです。
コーヒー一杯が無くなる時間なんて、あっという間。十分もしない時間で、他愛ないことを少し話す。私よりもずっと外洋へ出ている二人は、見たこともない景色のことを、たくさん聞かせてくれます。飛び跳ねるイルカや、水平線に沈む夕日、頭上を覆う星々。その一つ一つが、今の私には想像もつかない、世界の一ページなのです。
「私もいつか、見れるかしら」
「もちろん。その時は一緒よ」
呟いただけの私に、パースが力強い返事をしてくれます。うんうんと、何度も大げさに頷くロイテル。この二人がそう言ってくれるのなら……ええ、きっと、必ず私も見れるはず。
「あー、おいしかった。ヒューストンのコーヒーは、本当においしいね」
最後の一口を名残惜しく飲み終えて、今夜のお茶会はお開きです。お揃いのマグカップを並んで洗って、そうしてお互いの部屋まで。
「おやすみなさい」
三人で手を振り、私たちは眠りにつくのです。
「……ほんとにいた」
今夜もいつも通り、二人を迎えるコーヒーを用意していた私の元へ、珍しいお客さんが現れました。
ややくせっけ気味のツインテール。どこか気だるげな表情と声。突然、食堂へ顔を覗かせたのは、アトランタです。私と同じくアメリカ艦娘で、着任時期もほとんど同じ。基礎訓練も一緒でした。
夜が苦手な彼女が、こんな時間まで起きているなんて、珍しいですね。
「どうしたの、アトランタ?」
「大したことじゃないよ。提督さんから伝言」
「提督から、私に?」
珍しい来客の理由は、やっぱり珍しいこと、でした。
「出撃中の艦隊から連絡があったって。戦闘による損傷と、海象の悪状況により、到着が遅れる、って」
胸の辺りがざわつくのを、とてもはっきりと感じました。出撃艦隊には、ロイテルとパースがいます。
「出撃した艦娘は?皆、無事なの?」
「そこは心配ないみたい。――デ・ロイテルとパースは、特に損傷もなく、元気らしいよ」
アトランタの言葉に、深い安堵の息が漏れました。ほっと吐き出す息とともに、全身から力が抜けていきます。
何もなくて、本当に、よかった。
「到着がいつになるかわからないから。今日は寝た方がいいよ」
「ええ、ありがとう。……でも、どうしようかしら」
「何が?」
首を傾げるアトランタに、私は今手元にある物を目線で示します。そこには、挽きかけのコーヒー豆。三人分を用意しようと思っていたので、すでに二人分ほど、挽いてしまいました。
このままだと、悪くなってしまいますね。こんもりと積もったコーヒーの粉を、どうしたものかと見つめます。
それを察してくれたのか、アトランタが私とコーヒー豆を交互に見て、言いました。
「あたしでよかったら、コーヒー、もらっていい?」
「……!ええ、もちろん」
ありがたく頷いて、私はマグカップを二つ、用意します。それから、サーバーにドリッパーとフィルターをセット。沸かしておいたお湯を、回しかけていきます。蒸らしながら、ゆっくりゆっくり、二人分のコーヒーをドリップしていきます。
できたてのコーヒーをマグカップに注いで、アトランタへ。「ありがと」と呟いてマグカップを受け取ったアトランタは、そのままコーヒーをすすります。
「……何これ、おいしい」
目を見開くアトランタからの感想は、とても新鮮な気がしました。
「ヒューストン、あんたすごい才能ね。提督さんのと、比べ物にならないくらい、おいしい」
「もう、大げさね。提督もコーヒーを淹れてくださるの?」
「ん。でも、ヒューストンに比べたら、あれは泥水だ」
あんまりな言い草に、つい、口元が綻びます。当の提督が聞いたら、さすがに泣いてしまうかも。
でも、そこまで褒められて、悪い気はしませんね。
マグカップ一杯をすぐに飲み干してしまいそうな勢いで、コーヒーをすするアトランタ。そんな彼女に釣られたのか、私もいつもよりハイペースで、ほんのり苦い液体を口にします。
ロイテルやパースとは、また違ったコーヒーの時間。言葉少なに過ぎる、夜の一息。
だから、でしょうか。いいえ、多分、理由は何だってよかったんです。強いて挙げるなら、彼女が一番、私と着任が近かったから、でしょうか。
「アトランタは……外洋には、もう出たの?」
「ううん、まだだけど」
何を聞くのかと、不思議そうな顔でこちらを見るアトランタ。
「私もね、まだなの」
「それはそうでしょ。着任時期、ほとんど同じだし」
「そう……そう、ね。――でもね、私は早く、出てみたい」
ロイテルとパースが語って聞かせてくれた景色を、早くこの目で見てみたい。
輝く海を、走る風を、唸る波を、命の息吹を――灼熱の戦火すら、見てみたい。
ここで――この鎮守府で伝え聞くしかない、二人の景色に、早く私も立ち会いたい。
そんな、子供みたいなわがままを。私は、どういうわけか、アトランタに零していました。
「……ふーん、そっか」
黙って聞いてくれたアトランタは、それだけ返事をして、最後の一口をあおります。空になった、彼女のマグカップ。コーヒーの粉が残る底へ目を落とすアトランタに、席を立つ気配はありませんでした。
やがてアトランタは――どういうわけか、若干拗ねたような素振りでそっぽを向き、口を開きます。
「これは、さ。提督さんの受け売りなんだけど」
不本意、とでも言いますか。何とも言えない表情を浮かべて、アトランタさんは提督さんのお話を語り始めます。
「意外と、近いんだって。あたしたちの距離」
「……意外と、近い?」
言葉の真意が掴めず、私は首を傾げる他ありません。それに対し、あー、っと頭を掻き毟るアトランタ。
「だから、その……こういうことっ」
やや投げやりに言った後、アトランタさんの手が、私の方へと伸びてきます。獲物へ襲いかかる大蛇の如く、その手は真っ直ぐ、私の手を掴みました。
しなやかな指と、柔らかな手のひら。私よりやや小さい手が、けれどしっかりと、私の手を掴んでいました。
「手が届くんだって。『どんな闇の中でも、手の先端までは見えている。そしてその手に、誰かの手を掴める』。……だから、意外と、近いんだって」
やや低い声は、提督の真似でしょうか。あまり似ていない声真似を披露した後、アトランタさんの手が離れます。
掴まれた痕が、まだほんのりと暖かい。
「大丈夫なんじゃない。あんたがそれだけ大切にしてるなら、向こうもちゃんとわかってるよ。だから、手を伸ばせば、向こうも手を伸ばしてくれる」
言い切ってから、「こんなん柄じゃないっ」と天を振り仰ぐアトランタ。彼女の照れを示すように、その耳たぶまで真っ赤です。それ以上追及されたくないのか、話はこれで終わりと、アトランタが柏手を打ちます。
「――ねえ、ヒューストン。コーヒーの淹れ方、教えてくれない?」
急な話の転換に頭をリセットして、私はアトランタの申し出に頷きます。
「ええ、もちろん。でも、どうして?」
「もちろん、泥水飲ませてくれた奴を、ぎゃふんと言わせるためよ」
ニヤリと挑戦的に笑うアトランタ。宣戦布告とも取られかねない物言いに、ええ、やはりどうしても、笑みが漏れてしまいます。
ふふ、その作戦、乗りますとも。
陽の光を、感じます。
目に眩しい光です。朝を告げる光です。
体を起こそうとして、いつものベッドではないことに気づきました。うつぶせに寝ている私は、自分の腕を枕にしています。やや痛い体の節々。
曖昧な記憶をたどると……どうやら、あのまま食堂で、眠ってしまったようです。
痛む体に鞭を打って、上半身を起こします。白いカーテンから差し込む光の中、思いっきり腕を伸ばすと、背中の方から嫌な音がしました。
「あ、起きた起きた」
と、よく聞きなれた声がしました。
痛む首を声の方へ向けます。そこには、射し込む朝日と対照的な、夕焼けの色。厨房のカウンターから身を乗り出して、ロイテルが私を見ていました。
「おはよう、ヒューストン」
その横から、パースも顔を覗かせます。カーテンを透過する陽光に似た髪が揺れています。
「おはよう。帰って来てたのね」
「ええ、ついさっきね。――ヒューストンの寝顔なんて、珍しいものを見せてもらったわ」
微笑みとともにからかうパース。もしかして、相当ひどい現状なのではと、私は頬を覆いました。
「もう、ちゃんと寝ないとダメだよ?」
こちらはやや苦笑気味のロイテル。そんな彼女は、先程から厨房の中で、何かをやっています。
なんだろう。疑問に思って窺った厨房には、もう一人、人影がありました。
「……ん、大丈夫そう」
アトランタです。どうやらロイテルは、アトランタの手伝いをしていたようでした。
そんなアトランタの手元には、見覚えのあるマグカップ。
私の目線に気づいたのか、アトランタが言います。
「教わった淹れ方で、やってみた。豆は提督さんのを拝借したけど」
差し出されたのは、アトランタが淹れてくれたという、コーヒー。淹れたて特有の、包み込むような香り。鼻腔をくすぐる芳醇さ。寝ぼけた頭の、靄を払ってくれる香りです。
「朝の一杯に、どう?」
差し出されたマグカップを受け取ります。手のひらが、カップからの熱でじんわりと温まっていく。漂う湯気も、寝起きで水分を欲する体には、堪らない見た目です。
カップに口づけ、淹れたてのコーヒーをすすります。途端、醒めるような香りが、口一杯に広がりました。覚醒していく意識の中で、もう一口、コーヒーを。
冷える朝にも、ハッとする、ホットコーヒーを。
「ねえ、ヒューストン」
覚醒していく体にコーヒーを流し込んでいると、ロイテルがズズイとこちらへ顔を寄せてきました。その表情はいつになく真剣です。
「アトランタさんにコーヒーの淹れ方教えたの?」
「ええ、そうよ」
「ずるい!ね、ね、それじゃあ、私にもコーヒーの淹れ方教えてよ。私もヒューストンみたいに、おいしいコーヒー淹れてみたい」
至って真面目な表情のロイテル。その奥で、アトランタが口角を吊り上げています。
「なら、あたしが姉弟子だね」
「一日違いで姉も妹もないよー!」
「わ、私は、紅茶の淹れ方とか、教えるわよ」
朝とは思えないほど、賑やかな会話が始まります。やれ、どっちが姉弟子か。紅茶もいいわよとか。お菓子も作りたいとか。本当に他愛もなくて、笑ってしまうような内容を、ただただ騒がしく、四人で話しています。
――「意外と、近いんだって」
ええ、本当に。存外に、近いものなのですね。
手を伸ばせば届く距離。それは、例えば握手を交わせる距離。同じ景色を共有できる距離。それぞれの温もりを交換できる距離。
例えば、淹れたてのコーヒーを、手渡せる距離。
ABDA艦隊のお話のはずが、秋イベの海外艦のお話になっておった…