照りつける太陽の光が、敷き詰められた石畳を硝子片を散らしたようにきらめかせている。
まばゆい日差しにヘイゼルの瞳を細め、開いたばかりの窓から吹き込んだ空気を彼女は胸いっぱいに吸い込んだ。
一晩の間に籠もった熱を逃がすため、壁沿いに歩きながら次々と窓を開け放っていく。
風に揺れる金褐色の髪。
女好きで知られたかつての同僚が見れば、きっと惜しみない賛辞を彼女に贈るだろう。
夏の太陽を背負って駆ける少年の姿を見つけたのは、ちょうど最後の窓の鍵に手をかけた時だった。
彼女が運営する「図書館」の開館時刻までは、まだ10分ほど時間がある。
そんなことはお構いなしという様子の早足の少年は、さも待ちきれないという顔をして石詰めの道をまっすぐにやって来た。
「おはよう、早いのね。」
「おはようございます、フレデリカさん。」
艶やかな黒髪が、朝の光を受けて輝いている。
少し息を弾ませて窓の奥を覗こうと爪先立ちになる仕草は、いかにも「早く中に入れて」と言っているようだった。
この辺りの学校に通う子どもたちにとって今日が夏休みの始まりの日だということは、ごく当たり前のように街の誰もが知っている、そんな暮らしがある土地なのだ。
石造りの塀に石畳を敷き詰めた道、街を流れる小川には同じく石で出来た橋が掛かっている。
バーラト自治領、惑星ハイネセン。
かつて慣れ親しんだ首都からは遠く離れた小さな街に、フレデリカの図書館はあった。
イゼルローンを銀河帝国軍に返上した後すぐに、移り住んだ街だった。
ほんの仮住まいのつもりだったのだが、気がつけば十年以上の月日を過している。
自治政府の仕事に就かないかとか亡き夫の功績を書籍にまとめてはどうかとか、そんな誘いもいつしか途絶え、ただ静かな暮らしだけがそこにある。
夫の所有物だった書籍を保管するために借りた一軒を地域の人々に開放し、図書館としたのも、もう随分と前のことだった。
「まだ開館には早いけど、特別よ。」
玄関は開いているからと微笑めば、「ありがとう」と礼儀正しく頭を下げた後で少年は入り口の扉を目指して駆け出した。
この小さな客人が熱心に図書館に通うようになったのは、ちょうど一年前のことだった。
離婚した両親の父親のほうに連れられて、祖父母の暮らす隣町に越して来たのだと聞いた。
「大変だったわね」と言おうとして、「家を追い出されるような甲斐性なしだったわけだから、まあ仕方ないんじゃないかな」と訳知り顔で言う少年に面食らってしまったことを今でもよく覚えている。
彼曰く「甲斐性なし」の父親は、今は近隣の高校で教鞭を執っているという。
教師という職業の堅実さと「甲斐性なし」という少年の言い分にはいくらか差を感じなくはないが、ともかくも彼が両親の離婚をさほど深刻に捉えていないことは確かなようだった。
「奥の机を使ってもいいですか。」
「ええ、構わないわよ。あなたが一番乗りだもの。」
古い一軒屋の壁を外して、書棚を並べている。
いくつもある書棚の先の一番奥、壁沿いに並べた一人用の机が彼のお気に入りなのだ。
背の高い椅子は少年が座ると足が浮いてしまうのだが、彼が気にする様子はない。
一人きりで机に向かう時間が至福と言うように、フレデリカが声を掛けなければ、休みの日は一日中そこに座っていることもあるほどだ。
遊びたい盛りの年頃なのに、まるで本の虫。
喋る言葉までどこか大人びていて、図書館に通う他の子どもたちとはどこか違っている。
実際、彼が好む本も子ども向けではなかった。
鮮やかな絵がふんだんに描かれた図鑑にも、空想小説の冒険譚もあまり興味がないらしい。
なんでも一通りは目を通しているらしいのだが、特に熱心なのは大人向けの歴史書のようだった。
その種の本は、この図書館には多くある。
文字ばかりの文献の何が少年を惹きつけるのかと不思議に思いながら、尋ねられれば言葉の意味を調べてやった。
「読みたい本、見つかった?」
「うん。地球の歴史……ずっと昔、まだ宇宙船がない時代のことが書いてあるんだって。」
「地球……。」
まぶしげに少年を見つめていたヘイゼルが曇る。
仄暗い痛みが胸の内によみがえり、フレデリカは顔を青ざめさせた。
「大丈夫?」
見上げる少年の瞳は純粋さそのもので、そのことにまた傷ついた気持ちになった。
「え、ええ……大丈夫よ。」
笑顔を作ることで、動揺を悟られまいとした。
黒髪で歴史好きの少年に亡き人の面影を重ねていた、自分自身の心を突きつけられる。
──あなたによく似た子に会ったのよ。
真面目そうに見えてそうじゃなくって、優しいけれど皮肉屋で、とても可愛らしい子なの。
ささやかな秘密を暴かれたような、それを否定されたような、複雑な気分だった。
そして、それをこの少年に知られたくないと思った。
「フレデリカさん。」
「なにかしら。」
「ねえ、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ」と繰り返して答えながら、冷えていく指先を感じていた。
寂しく、果てしない孤独、黒く口を開けた絶望の淵、それはもう遠い記憶の中にしかないと思っていたものだった。
けれど、思い知らされている。
逆境も困難も、先の見えない戦火の中でも──「大丈夫」と笑えたのは、支えたいと思う人がいたから。
その人は、もうここには居ないのだと。
行かないでと抱きしめたいような、逃げ出してしまいたいような複雑に揺れる心を鎮めることができたのは、「おはようございます」と元気な声が玄関から響いたおかげだった。
目の前の少年と同様、子どもたちは皆が今日から夏休みだ。
この日のために揃えた新しい児童書や暑い一日を部屋の中で過したがるであろう子どもたちのために用意したお菓子や飲み物について思い出したことが、この時は幸いした。
「賑やかになりそうね。」
「うん、夏休みだから。」
自然な笑みを形作ったフレデリカの口唇を見て、少年ははにかむように笑った。
少し照れくさそうな笑顔は、亡き夫よりも義理の息子に似ている。
今はもう大人の男の顔をしている息子の少年時代を思い出していると、足下に忍び寄っていた影はやがて消えていった。
「冷たいレモネードを用意してあるから、後で声をかけるわね。」
「お菓子も買ってあるのよ」ととっておきを披露するように言うと、子どもらしい笑みが返ってきた。
「フレデリカさんは紅茶でしょう。」
少年の記憶力の良さというよりも、これは図書館に通う誰しもがよく知っていることだった。
茶葉の量に温度、ポットで蒸らす時間まで、義理の息子からたっぷりと仕込まれているのだ。
若い頃はコーヒーも紅茶もどちらも好んでいたのだが、“本物”の味を覚えてしまってからは専ら紅茶党なのである。
「そうよ。」
蜂蜜を入れたりジャムを入れたり、時には大切な人に倣ってブランデーを入れて飲む。
茶葉の種類も飲み方も、街の誰よりも詳しい。
持ち前の記憶力が紅茶通の矜持にも存分に通用していることは、街中の皆がおおいに認めるところだった。
「ぼくも紅茶がいいな。」
「おばあさまはいいって言ったの?」
「うーん。」
ませた顔をして言う少年だが、肝心の紅茶の味を彼は知らない。
カフェインは早いと祖母から言いつかっていることをフレデリカに白状させられて以来、粘っては諦めるというやりとりが続いている。
抜け目のなさを身につけるには、どうやらまだ早いらしい。
「それじゃあ、まだ駄目よ。」
「でも、フレデリカさんがいつも美味しそうに飲んでるから。」
「それはまだ、いつかのお楽しみね。」
間延びした「はあい」という声を背中に聞きながら、フレデリカは来客の対応に向かった。
夏休みを迎えた子どもたちの賑やかな声に、大人の声が混じっている。
「おはよう、フレデリカさん。」
「おはようございます、皆さん。今日は暑くなりそうですわね。」
開け放っていた窓を閉じて、冷房のスイッチを入れた。
涼やかな風が古い紙の匂いを舞い上がらせて、どこか懐かしい気分にさせる。
さざめきのような人々の声が、静かだった本の谷間を満たしていく。
重ねた月日の分だけ増えた蔵書と見知った顔、些か偏りのあった本の種類も今は満遍なく揃えられている。
日常があり、暮らしがあり、人々の輪がある。
懐かしい思い出も胸に隠した古い傷も、やがて日々の中に融けていくのだと、思えるようになった。
──だけど、もしかしたら、そう思おうとしていただけなのかしら。
心を支えていたはずの何かがぐらついて、自分で自分の内心を制御できなくなる。
孤独という冷たい暗闇が、足下から迫り上がってくるように感じていた。