流星は丘を越えて   作:さんかく日記

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夏の日の少年【2】

フレデリカの図書館には二階がある。

小さなキッチンに冷蔵庫、大きな楠木のテーブル。

ティーカップやポットにケトル、色や形の様々なグラスは、街の人々からの寄贈品だ。

 

「談話室」と名付けた部屋の利用者は大人から子どもまで色々だった。

隣町の大きな図書館よりもずっと居心地がいいと評判の一軒には、この「談話室」目当ての人も訪れる。

大騒ぎさえしなければ、本を借りずにお茶を飲むだけでも咎められはしない。

その気楽さが評判になっている。

 

軋む木の階段を上って、彼女はまだひと気のない二階へとやってきた。

書架のある一階と同じように、二階の窓を開け放つ。

熱の籠もる室内は、じっとりと汗が滲むほどだった。

光の注ぐ窓辺に立って、そっと息を吐いた。

 

「あなたは今、どこにいるの……。」

人は死んだら星になるとか、いつも傍で見守っているとか、あるいは輪廻を超えて魂は巡るとか──そのどれもを「あり得ないことだ」と否定するであろう人を胸に思う。

夢見る少女に幸福と強さを与えて、その人はやがて去っていった。

残されたものは孤独だけだと、そうは思いたくない。

けれど、ふと立ち止まる時、あたたかな思い出を蝕むようにして忍び寄る悲しみを否定できなかった。

 

カタリと背後で音がして、彼女は振り返った。

照りつける太陽に焼かれた頬が赤い。

 

「あら、どうしたの。」

厚い本を胸に抱えて、少年が立っている。

ひょろりとした子どもの腕で抱えると、その本はとても大きく見えた。

 

「……勉強するから机を貸してって、追い出されちゃったんだ。」

四角く切り取られた陽光に背を向ける年上の女性を、少年は見上げた。

バツが悪そうな顔をして眉を下げ、ピントの定まらないカメラのようにうろうろと視線をさまよわせている。

 

「まあ、困ったわね。」

一番乗りの少年が座っていた机は一階の書棚の奥にあり、人の声が届きにくく落ち着いている。

朝早くやってくる老人がその席を占めていることが多いのだが、夏休みとなると熱心な学生が一日中座っていることもある。

困り顔の少年を助けてやらねばと、フレデリカは窓辺を離れて歩き出した。

 

「少し待っていて、私から話してあげる。」

早い者勝ちのルールがあるわけではないが、先にいた子どもを追い出すなど大人げないことだ。

しかし、話をつけてやろうと階段へ向かう手前、「待って」と強く手を引かれた。

 

「待って、フレデリカさん……!」

子どもらしい柔らかい手のひらが彼女の手をぎゅうと握って、力一杯引っ張った。

 

「僕、ここでいいよ。」

黒目の大きな少年の瞳が、必死そうな表情を浮かべてフレデリカを見つめている。

 

「冷房を入れてよ。それからレモネードも!作ってくれるって言ったでしょう。」

早口でまくしたてる様子に、今度はフレデリカが眉を下げる番だった。

「あら」と言ったきり沈黙し、行き先を探している。

 

「この本、わからない言葉がたくさん出てくるんだ。」

大人びていると感じていた少年だが、こうして改めて見るとやはり幼い。

汗の滲む手でフレデリカの手を掴んだまま、それを離すまいと懸命に足を踏ん張っている。

 

「だから、ええと……辞書の引き方を教えて。あっ、でもやっぱりそれは後でいいよ。僕が図書館から取ってくるから、フレデリカさんはここで待ってて。」

夢中で取り繕う言い訳には、嘘をつくことへの後ろめたさがわかりやすく滲んでいて、いかにも子どもらしい言い方だ。

けれど、可愛らしいと言い切ってしまうには、その嘘はフレデリカにとって優しすぎるものだった。

 

「ッ、」

誰かに傍にいて欲しくて、けれどその「誰か」はきっとこの世にはいない人で。

だからこそ、声に出せずにいた。

助けてと呼ぶことができずにいた。

 

「ありがとう。」

ようやく発した声は、震えていた。

 

「ありがとう、優しいのね。本当は少し寂しかったの。昔のことを思い出して、寂しかったけど……言えなかったのよ。」

「意気地なしよね」といびつな笑顔をつくる年上の女性を見つめ、少年は少し不思議そうに瞬きをした。

 

「フレデリカさん、寂しかったの?」

 

「ふふ、そうよ。」

一生懸命に引っ張っていた手を離し、「僕が怒らせちゃったのかと思った」と頭を掻いた少年を見て、フレデリカは笑った。

 

「ちょっと早いけど、レモネードを作ってあげる。だから、もうちょっと傍にいてくれる?」

背を屈めて少年の頭を撫でると「いいよ」と、今度こそ大人びた視線が返ってくる。

夏の太陽の光を閉じ込めた、きらきらと光る眼差し。

孤独の影が、薄らいでいく。

きらめく少年の瞳に照らされて、未来と希望とが戻って来たようだった。

 

窓を閉め、冷房をつけて、広いテーブルに二人並んだ。

氷を浮かべたレモネードにストローをさして手渡すと、熱心に本を眺めていた少年の顔がもちあがる。

 

「地球にはね5000年も前から人間が住んでいて、その頃は太陽や惑星を神様だって信じていたんだって。」

分厚い本のページを捲って、小さな学者が目を輝かせている。

 

「だけど、その前は人間じゃない動物たちの世界だったんだ。」

少年が読んでいるのは、とうに廃れた惑星でどうやって生命が誕生し、ヒトが生まれ、進化してきたのかが記されている書籍らしい。

 

「人間の進化についてはよくわかっているけど、滅んだ動物たちのことは今もわかってないんだって。ほら、恐竜。フレデリカさんも知ってるでしょう。」

熱心に眺めていた本を横に押しやってから、薄く色づく液体に少年が手を伸ばす。

カラリと氷のぶつかる音をさせて、彼はストローを吸った。

 

「恐竜のことは知ってるわ。気候変動の影響で滅んだって言われているのよね。」

好んで飲んでいるシロン産の紅茶ではなく少年と同じレモネードを自分の分も用意して、フレデリカは頬杖をついた。

少年が見つめているのは、古い惑星への憧憬をねじ曲げた古くさい宗教ではなく、長い長い生命の旅路のようだった。

 

「そうだね。だって、恐竜は戦争はしないから。」

 

「……そうね。」

 

「ごめんなさい。」

少年の利発さが導いた答えに曇りかけたヘイゼルだったが、今度は自らの力でその明るさを取り戻して言った。

 

「いいのよ、本当のことだわ。あなたの言う通り、恐竜は戦争をしないわね。」

争いの果て、自らを育んだ惑星を捨てて宇宙へと旅立った人類は、その後も変わらずに権利やら主義やらを振りかざして戦いを続けている。

フレデリカ自身もよく知る通り、ほんの十年前にも一つの大戦が終わったばかりだ。

 

「あなたは、どんな大人になるのかしらね。」

 

「えっ。」

 

「生物学者かしら、それとも歴史学者?エンジニアになって、何かびっくりするものを作るのかしら。それともお父様と同じ先生かもしれないわね……とても楽しみだわ。」

愛する人と仲間たちが守ろうとした共和制の灯火。

たった一つの主義のために多くの人命を損ねたという点では、自分たちも同じだとフレデリカは考えている。

それでも、諦められない戦いだったと思うし、無益だったと悔いるつもりもない。

 

多くの犠牲を払ってなお自由の旗のために戦い続けた彼女が、イゼルローン共和政府の解散と同時に、すべての職を退き、政治や行政の中心から距離を置いた理由。

最初のきっかけは、ただ疲弊した心と身体を休めたい思いだった。

けれど今は、新しい目標を見つけている。

 

「うーん、どうかなあ。」

首を捻って考え込む少年の聡明な瞳を覗き込んで、美しい口唇が微笑んだ。

 

「ふふ、わからなくていいのよ。だって、未来はわからないほうが楽しみも多いでしょう。」

この小さな図書館から、いつか巣立っていく若々しい精神。

大人たちに安らぎを、そして子どもたちに未来への希望を与える場所を作りたい。

それが、彼女が抱きしめる願いだ。

 

歴史書ばかりの書棚に、児童書を加え、図鑑を加え、たくさんの小説も買い揃えた。

冒険譚、ファンタジー、それにラブストーリー、埋もれるほどの本に囲まれると、気分はいつも懐かしかった。

百戦錬磨の恋の達人、遊び人のパイロット、生きた航路図と呼ばれた老獪な軍人、冷めたパンを美味しく食べる方法を知っている人もいたし、美味しい紅茶の淹れ方やクレープの上手な焼き方を教えてくれる人もいた。

そして、まるで歴史学者のように理屈っぽい、誰よりも戦場が似合わない歴戦の英雄も。

小さな街の小さな図書館は、まるであの頃の艦隊のようだと彼女は思う。

 

「あ、レモネードだ!いいなあ。」

ピアノの高音のような、女の子の声がした。

テーブルに並んだ二つのグラスを見つけ、目を丸くして駆け寄ってくる。

 

「あらあら、見つかっちゃったわね。」

微笑みは、夏の朝の輝きを取り戻していた。

 

「もう寂しくない?」

そわそわと椅子の上で背中を揺する上目遣いの少年に、フレデリカはつい吹き出しそうになった。

彼女を気遣って隣に並んでいてくれたらしい少年の目がチラチラと本の表紙を見ており、まるで「早く本の世界に戻りたい」と言っているように見えたのだ。

 

「そうね。そろそろ賑やかになる頃だものね。」

彼女は笑った。

心からの笑みだった。

 

胸の奥には今なお埋めきれぬ空洞があり、吹き抜ける風の冷たさに背を丸めることもある。

けれど、その孤独は、寂しさは、きっと幸福の証なのだと思えた。

心の内側いっぱいに充ち満ちていた、理想、勇気、そして愛しさ。

数が欠けて穴があいてしまったそこに、新しい希望と夢とを詰め込んで、また満たしていけばいい。

 

「さあ。グラスをもってきて、お手伝いしてちょうだい。」

待ちきれないと肩を弾ませる少女に手招きして、フレデリカは椅子から立ち上がった。

すぐ横の少年を見れば、もう本に齧り付いており、こちらの様子を気にする気配もない。

 

俯いた黒髪を見つめていたヘイゼルがやがて逸らされ、それから小さく微笑んだ。

 

 

[了]


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