人の足音、地上車の騒音、ざわめく木々のように重なり合う話し声。
オフィス街の喧噪を懐かしく思い出しながら、アン・ラッフェルは店前のシャッターを上げた。
目の前には視界のすべてを覆ってしまうような高層ビルが建っていて、周囲を見渡してもどこもかしこも背の高い建物ばかりだ。
そんなハイネセンのビル群の中に、まるで埋め込まれたように一軒のパン屋が店を構えている。
パン屋といっても焼きたてのパンを並べて売るベーカリーではない。
扱っているパンは小麦粉か全粒粉、ライ麦のティンブレッド三種類だけで、薄く切って焼いたそれに客が選んだ具を挟んで売る。
具の種類は様々で、卵やツナ、レタスにピクルス、ハム、サラミ、チーズ、オリジナルのソースで和えたアボカド、あるいはその時々で限定の味も並ぶ。
具材を選んで組み合わせるサンドウィッチと飲み物を売るのが、パン屋「コゼット」のスタイルだ。
ハイネセンの中心街にあるこの店は、ほんの少し前までは近隣のオフィスで働くビジネスマンたちで賑わっていた。
朝食を買いに来る人々に合わせて店を開け、夕方の早い時間には店じまいをする、それが長く続く習慣だった。
様子が変わったのは、周囲のオフィスビルが銀河帝国軍によって接収されたことに起因する。
近隣に事務所を構えていた企業の大半は場所を移してしまい、代わりに見慣れない軍服の男たちが闊歩するようになった。
一つ角を行った先にあるホテル・ユーフォニアが銀河帝国の総督府として使われるようになってからは、民間人の姿は一層減ってしまっていた。
一方で、商売というのは不思議なもので、商いの相手が変わったというだけで店の売上にさほど影響はない。
店の所有者である男とアンとで交替に店番に立っているのだが、オーナー曰く「君が表にいる時の売上げはむしろ順調」という。
黒地に銀の装飾をつけた軍服を着た男たちはハイネセンのビジネスマンよりもずっと控えめで、連絡先を書いたメモ用紙を押しつけられるようなことは滅多にないのだが、一応は看板娘の職責は果たせているらしかった。
気ぜわしい朝が過ぎてひと息をついた後、一番賑やかな時間がやってくる。
早めの昼食を買い求める者たちがやってくるのが十一時半過ぎ、それが正午をまわる頃になると目の回るような忙しさになる。
「すみません、ハムとチーズのサンドウィッチを一つとアイスコーヒー」
「パンの種類はいかがしますか」
「うーん、どうしようかな……じゃあ、ブラウンブレッド」
「かしこまりました」
焼いて、挟んで、包んで、売る。
それにコーヒーを添える。
店のカウンターを行ったり来たりして、次々とやってくる注文を捌いていく。
食事のためのスペースはなく、客は商品を受け取るとすぐに店を出る。
注文を告げる言葉は、帝国訛りであったり帝国公用語そのものであったり様々だが、サンドウィッチのやりとりに困るものではない。
「いつもありがとうございます。また来てくださいね」
「飲み物はいつもの通り紅茶にしますか」
熱心な視線を送ってくる若い兵士を商売用の笑顔であしらいながら、アンは目の前の注文をこなしていった。
夏の盛りの店内で着ているノースリーブのシャツが軍人たちの視線を戸惑わせているとオーナーに言われたことがあるのだが、改めるつもりはアンにはない。
主権を返せと声高に叫ぶような気概はないが、せめて身の回りの小さな自由ばかりは守りたいと思っているのだ。
昼の時間を過ぎると人通りはまばらになり、ほっと息をつく時間がやってくる。
客のいなくなった店内を見渡してから、散らばっていた手元を片付けた。
昼のピークを過ぎたら休憩をとって良いと店の主からは言われているのだが、この頃はカウンター前で過すことが増えている。
「ッ、いらっしゃいませ!」
溶けた水銀のように輝く店前の路地。
夏の日差しを受けて光る地面に濃い影が現れて、そして入り口の硝子戸が開いた。
昼時をとうに過ぎて、若い兵士たちは職場に戻っているであろう時間に「彼」はやってくる。
「ご注文はお決まりですか」
アンチョビで香り付けしたツナのサンドウィッチ、アボカドのタルタル、あるいは気に入りらしいパストラミビーフだろうか。
健康に気を遣っているつもりなのか、何度かに一度はレタスとトマトのサンドウィッチを頼むことも知っている。
「……パストラミビーフのサンドウィッチを一つ、ブラウンブレッドで頼みたい」
「かしこまりました。レタスとマヨネーズはいかがしますか」
「両方つけてくれ。あとは、コーヒーを大きいサイズで一緒に……よろしく頼む」
少し悩んだ様子の後で告げられた注文が自分の予想通りだったことで、なんとなく満足した気分になる。
「少々お待ちください」と相手の目を見て言った後で、くるりとカウンターに背を向けた。
パストラミビーフは人気のサンドウィッチで、昼の早い時間に売り切れてしまうこともままある。
それを少し取り置いているのは、いつだったか「品切れ」を告げた時の相手の顔があまりに悲しそうだったからだ。
いかにも厳めしい軍人という顔をした男がサンドウィッチ一つで落胆する様子がおかしくて、以来こっそりと彼のために取り置きをしている。
もっとも、ショックを隠しきれていないことについて本人は自覚がないらしく、売り切れを告げられた後でも相変わらず堂々とした軍人ぶりで店に通っていた。
全粒粉のパンを決まった時間だけ焼いて、そこにバターを塗る。
レタスを少し多めに入れて、マヨネーズは定量、そこに取っておいたパストラミビーフを並べた。
ただそれだけで、浮足立ったような愉快な気持ちになるから不思議だった。
「ホットとアイス、コーヒーはどちらになさいますか」
「ああ。そうだな、冷たいほうで……ええと、お願いします」
紙のカップにコーヒーを注ぎながら、カウンターの向こうを覗き見る。
ふと目が合って、すぐに逸らされた。
口許だけで、つい笑った。
黒い布地の上からでもわかる、鍛え上げられた逞しい二の腕。
鋭角的に引き締まった頬を覆う髭は、それだけで軍人という職業を体現しているようにも思える。
店によく来る兵士たちよりも上の身分なのだろうということが、華やかな軍服から見てとれた。
たくさんの戦果を上げて、その地位を得たのだろうか。
たくさんの勝利を、たくさんの兵士の死の上に積み上げて。
不慣れな異国の言葉で「お願いします」と丁寧に告げる名前も知らない男を微笑ましく見ながら、同時にそんなことを考えている。
自分のことだというのに自分でもよくわからないとアンは思った。
「あっ」
冷たいコーヒーをカウンターに置いて、待つ彼に声をかけようとした時だった。
突然、大粒の雨が降ってきた。
地面は一瞬にして黒く染まり、雨粒が硝子を叩く。
小さな店の中が、雨の匂いでいっぱいになった。
立ち往生を強いられた男が眉を動かして、アンのいるカウンターに視線をやった。
不意の出来事に顰めっ面をしているようなのだが、その瞳に困惑が見える。
男の瞳が緑色をしていることを、この時に知った。
勇壮な戦士のような髭面には不釣り合いな、優しい色をしていた。
「きっと通り雨です。すぐに止みますよ」
「そうだろうか」
汗をかいてしまったカップをカウンター越しに手渡しながら、アンは言った。
サンドウィッチの売り切れに落ち込んで夏の通り雨に戸惑う厳めしい軍人を、どうしてか励ましてやりたくなったのだ。
「ええ、空が晴れていますから」
二人して、窓の外の空を見上げた。
青い空から流れ落ちる雨は、すぐに通り過ぎてしまうだろう。
けれど、もう少しこうしていたいと思った。
コーヒーに入れた氷が溶けてしまったら、また淹れ直せばいい。
「I'm singing in the rain……」
「なんだって?」
零れ落ちた音が、二つの視線を再び向き合わせた。
「歌を歌う仕事をしていたんです、私。今はそれどころじゃなくて、劇場も閉じてしまったけど」
男の瞳が揺らめいて、「そうか」と呟くように言った。
「それは……何と言ったらいいか……いや、申し訳ないと言うべきなのだろうな」
判で押したようにいつも気難しげな顔をしているくせに、視線の奥は雄弁なようだった。
その壮麗な軍服が彼の誇りなのだろうということは、理解している。
しかし、その誇りの裏側にあるものは、信条の違う国に生まれた者であってもそう自分と遠くないのではないかと思い始めていた。
「お店の仕事も楽しいですよ」
「………」
異国の人間と政治論を戦わせ合えるほど、アンは時勢に明るくない。
それでも、目の前にいる軍服の男は侵略者で、自分は侵略された国の人間なのだということは痛いほどわかっている。
それでも、彼という人を知りたいと思った。
固く引き結んだ口唇やいかにも融通か利かなそうな堅物めいた髭面、それが彼という人間の外側を形作っている。
けれど、無骨な軍人という見た目とは違う部分もこの人にはあるのかもしれない。
「パストラミサンド、気に入ってもらえて良かったです」
俯き加減の視線を弾かれたように持ち上げた男の率直さにアンは微笑んで、言葉を重ねた。
「いつか劇場が再開したら、私の歌を聴きに来てもらえますか」
「おれが?!君の歌を……?」
「はい。サンドウィッチだけじゃなくて、歌やお芝居も気に入ってもらえたら嬉しいな」
きっと行こうとは、彼は言わなかった。
代わりに、「また店に来てもいいだろうか」と生真面目な顔で尋ねた。
「もちろんです。連絡をくだされば、お好みの具材を取っておきますよ」
やがて雨は上がり、夏の日差しが空に戻ってきた。
突然やってきた雨は、去る時もまた同じようにあっという間にどこかへ行ってしまう。
硝子窓についた雫が、雨上がりの光を受けて宝石のように光っていた。
当たり前の日々が消えた街にも、朝と夜は等しくやってくる。
コーヒーを作り直しましょうという申し出を丁重に辞退して店を出ていった人の背中を見送った。
ハイネセンという街が今日一日を穏やかに過ごせるようにとアンは願い、気難しげな軍人の男にとっても同様であれと思った。
すぐ届く場所で、交わらない距離を思って、それでも良き日であれと祈る。
きっとお互いにそうだと、信じたかった。
表通りを見れば、雨は気配さえも幻のように消えてしまっていて、黄熟した夏の日差しがじりじりと地面を焼いている。
ようやく休憩を取ることにして、待ち人の去ったカウンターにアンは背を向けた。